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なんでこの時期に丸山真男なのかは内緒(…っていってもわかる人にはわかるだろうけど笑)

よく考えたらこの人自身も1996年の「8月15日」に亡くなっているんだよな。


丸山真男については、不明な方はwikiもご参照

実は私、この集会にまいる前に多磨墓地に行ってまいりました。はなはだ個人的なことを申し上げて恐縮でございますが、八月十五日というのは、私の母の命日でありまして、しかも私の母は昭和二十年の八月十五日、敗戦の日に亡くなったのであります。私は当時兵隊で広島市の宇品におりまして母の死に目に会えませんでした。ですから私にとって毎年八月十五日という日ははなはだ複雑な気持ちを覚えます。正直のところこの日はなにかひっそりと過ごしたいという気持ちです。大体個人的な体験とか実感とかということを公の場で話しますのは、実は私の個人的な趣味に合わないのでありますが、八月十五日についてなにかしゃべれといわれますと、そういう個人的な体験を抜きにしては私としては語れない感じがいたすのであります。
 
私は戦後、なにかの折に「ああ、俺は生きているんだなあ」とふっと思うことがあります。というのは、なにか私は間一髪の偶然によって、戦後まで生きのびているという感じがするのです。それはあの苛烈な戦争をくぐった国民の方々でおそらく同じような感じ方をなされる人も少なくないと思います。私もその一人であります。私の場合とくにその実感を支えておりますのでは、なんといっても敗戦の直前の原爆であります。私がおりました広島市宇品町は原爆投下の真下から約四キロのところにありました。その時の状況をおはなしすればきりがありませんし、またその直後に私がこの目で見た光景をここでお話しする気にもなれません。ただ私は非常に多くの「もしも」――もしもこうであったら私の命はなかった、したがって私の戦後はなかったであろうという感じ、いわば無数の「もしも」のあいだをぬって今日生きのびているという感じを禁じ得ないのであります。
 
宇品町は広島市の南端にあります。そこで、たとえば海上から侵入してきたB29の原爆搭載機に乗っていたアメリカの兵士が、もう一分、早くボタンを押していたら、その瞬間に私の体は蒸発していたかも知れません。また、あれはちょうど毎朝の点呼の時間で、私たちの部隊は戸外で参謀のはなはだ退屈な講話を聞いていた時です。私どもの集合していたすぐ前に、船舶司令部の非常に高い塔があって、キノコ雲はまるでその塔のすぐ背後からたちのぼっているように見えました。私たちはあの高塔が熱の直射や猛烈な爆風をかなりさえぎってくれたように思います。さらにもし室内にいたらどうだったか。私どもの部屋はすぐに後に入ってみましたところ惨憺たる光景でした。窓ガラスはすべて破片となって飛び散り、入り口のドアは蝶番が外れて室内に倒れておりました。テーブルはひっくりかえり、書類は床に散乱している。当番でただひとり室内にのこっていた将校は重傷を負いました。翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷者が多いのに驚きました。しかも私は放射能などということに無知なものですから、その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。その他、その他の「もしも」を考えますと、私は今日まで生きているというのは、まったく偶然の結果としか思えない。ですから虚妄という言葉をこのごろよくききますが、実は私の自然的生命自身が、なにか虚妄のような気がしてならないのです。けれども私は現に生きています。ああ俺は生きているんだなとフト思うにつけて、紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦友に対して、一体何をしたらいいのかということを考えないではいられません。
 
戦前と戦後のちがいとかいうことがあちこちでいわれますが、ここでも私は自分の身辺的な話しをすることをお許し願いたいと思います。私は先ほど申しましたように、結局母の死に目に会えなかったわけですが、死ぬ直前に私の母が病床でいくつか歌を作りました。娘の時にやったきり何十年、歌など作らなかったのですけれども、死の直前にどういうものかそういう気になったようです。その歌のなかに、出生していった私を呼んだ歌が一、二あります。非常に恐縮ですけれども、その一つをちょっとここで読ませていただきます。
 
それは“召されゆきし吾子(あこ)をしのびて病床に泣くはうとまし不忠の母ぞ”というのです。私はこの歌が巧みであるとは思いません。しかし最後の病床にあって、天皇陛下のお召しを受けて戦争に行くのは名誉なことと思わねばならぬという、そういう明治に育った母の規範意識というものと、にもかかわらず出征の日の朝の別れと思い出しては泣く自分――自分は不忠の母だ、これではいけない、という気持ちと、やはり自分は不忠でもこの切ない気持ちを押さえようがないという、その二つの感情の間に引き裂かれたまま死んでいった母を思い出しますと……ほんとうに痛ましくなります。これは明治の時代に育って、わが子を戦地に送った数多くの母に共通した感情であったと思います。
 
昭和の初期に小青年時代をおくった私の天皇制というものへの気持ちはもはやそういうものではありませんでした。私は学生時代から、かつて思想的にマルクス主義者になったこともなく、いわんや、当時の実践運動に関係するというようなことは大体性にも合わないし、臆病な私にはとてもできませんので、やったことはありません。にもかかわらず1933年の春ごろに「唯物論研究会」という団体のある集会に出たということで、つかまりました。そのときちょうど高等学校の学生が二人しか主席しておらず、あとはだいたい大学生や社会人だったので、私はよほど運動の大物と見られたらしいのであります。これが実は後々まで特高や憲兵隊とのあいだにご縁が続く、そもそもの最初になったわけであります。
 
そのときに特高が私から押収した日記を前にして取り調べを受けました。日記には至るところ赤い紙切れがはさまれていて、そこをあけては突っ込まれるのですが、その中の一ページにはこういうことが書いてあった。「ドストエフスキーは自分の信仰は懐疑のるつぼの中で鍛えられたと言っている。日本の国体は――国体というのは若い皆さんのために一言申し上げておきますが、体育の方の国体ではなくて、今日の言葉で言えば天皇制はということでありますが――日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているのであろうか」。私はただ疑問形で書いているのです。私は事実を申し上げて敗戦まで、あるいは敗戦の少しあとまで、天皇制を完全に否認する気持ちにはなっていませんでした。ところが私を峻烈に取り調べた特高は、その箇所を指して、お前は天皇制を――いや天皇制とは言いません、君主制と言いました――君主制を否定しているのではないかというわけです。私はあわてて、私は否定してはおりませんと言おうとしたのですが、それより早く猛烈な罵声と鉄拳が私を見舞いました。これは非常にささいなエピソードにすぎません。たとえば先ほど話された古在(由重)先生などがあわれたようなすさまじい体験に比べれば、私のその時の体験などは実にとるに足らぬ事です。しかし私はこの小さなエピソードのなかに、戦前の日本の体制を特徴づける一つの思想的意味を汲みとることができるように思います。特高が、懐疑と否認との区別が付かなかったことは必ずしも彼の無智といいきれないものがある。よく、なんのかんのいっても国民の圧倒的多数は明治憲法の天皇制を支持していたんだ、というようなことがいわれます。しかしその「支持」とは一体何でしょうか。およそ疑うこと自体を許さない前提の下での「支持」であり、否定と肯定との選択の機会がそもそも存在しないし、存在することを許されないような、そういう性質の「支持」であります。およそ否定をくぐらない肯定でありますそれは決して戦争中の軍国主義時代だけのことではありません。明治憲法の天皇制が本来そういう性質のものだったわけです。ですから、今日、国民の多数が戦後の天皇制の存続を支持したとしても、その「支持」の思想的意味はまったく違います。それは国民の自由な選択によっていつでも否定する権利が保証された上での、一定の政治形態の「支持」です。これが、ポツダム宣言から日本国憲法にいたる国民主権原則の採用にいたる巨大な歴史的転回の思想的意味であります。その二つの「支持」の間に横たわる論理的な断絶とその内包する意味を理解しない人は、およそ戦前も戦後も語ることはできないと思います。
 
戦後の民主主義は虚妄だとかそうでないとかいう議論がさきごろから盛んなようです。私はぬくぬくとした今日の環境の中で、戦後の民主主義などは空虚なイデオロギーだとか、平和憲法なんてたわごとだとかいう、いかにもわけしりの口調をマスコミでいう人を見ると、正直のところ、いい気なもんだなあと思いますが、それにしても、戦後民主主義や日本国憲法への疑問や懐疑が出されることそれ自体は大変結構なことだと思います。もしかりに、皆さんが、戦前に、大日本国憲法なんて虚妄だというようなことを公然と口にしたらどういうことになるでしょうか。皆さんはただちにつかまるだけではありません。恐らく一生涯、どこでなにをしていようと、国家権力によって、見えないところから皆さんの一挙手一投足をじっと監視される身になることを覚悟しなければならないでしょう。戦後民主主義が虚妄だとか、平和憲法なんてつまらんということを公然と主張できること、そのこと自体が、戦後民主主義がかつての大日本帝国に対して持っている道徳的優位性を示すものではないでしょうか。

 
歴史においてはよく逆説というか、パラドックスというものが起こります。これは恐らく歴史というものには、しばしば極限状況があらわれるからだと思います。極限状況においては、逆説的真理がしばしば出現します。ご承知のように論語とか、聖書とかいった古典のなかには、至るところパラドックスの形で、人生の教えが語られております。というのは、やはり人間が直面する極限状況における真理を表現しているからだと思います。「わが命を得んとする者は、これを失い、失う者はこれを得るべし」とか、「最後なるもの、最初になるべし」というような命題です。極限状況というものは、必ずしも戦争とか革命とか、そういう「異常」な状況をいうのではなく、われわれの日常生活のなかに、いくらでも転がっているものです。しがって聖書をまたずとも、たとえばイロハガルタのなかにも「急がばまわれ」とか、「うそから出たまこと」とか、「まけるが勝ち」というような、パラドキシカルな命題がいろいろあります。「急がばまわれ」というのは、二点間の最短距離は、二点間を結ぶ直線であるという幾何学の命題から見ると、明白に矛盾しています。しかし皆さんの日常生活を通じて、「急がばまわれ」という逆接の真理を承認する機会を経験されていると思います。「負けるが勝ち」というのもそうであります。これは普通の形式論理をもってすれば、勝ちはどこまでも勝ちであり、負けは負けであります。しかし歴史においては「負けるが勝ち」という結果になることが必ずしもめずらしくありません。
 
私は8・15というものの意味は、後世の歴史家をして、帝国主義の最後進国であった日本、つまりいちばんおくれて帝国主義に追随したという意味で、帝国主義の最後進国であった日本が、敗戦を契機として、平和主義の最先進国になった。これこそ二十世紀の最大のパラドックスである――そういわせることにあると思います。そういわせるように私たちは努力したいものであります。
(世界、1965年10月号、岩波書店)

・・・・まず連休はホント車が多くて、目的地まで予定より倍近くかかることもあるんで、仕事で使っちゃいけないと反省しております。。。(--;)


とりあえず残業続きの日から一段落をして、休暇に入りました!

でも休暇初日の今日は、ずっとごろ寝で起きたのは昼過ぎ…orz..


休みにやりたいことはいっぱいあったのに、結構疲れてたんだなぁ(苦笑)


2〜3日しかない休みだけど、この間は普段読めない本を読んだり、美術館などに出かけたり、都心まで自転車を走らせたり?

充実した内容で過ごしていきたいと思います。


ブログ更新ネタはあっても、全然更新してないしね。

まとめて付ける日誌みたいな感じでも、まぁ今から少し書くか。


おっと、洗濯物もたまっているので、それもなんとかしないと…笑


ってことで、充実するはずの休みですが早速「今日」が終わりそうなので(苦笑)、慌てて洗濯からでもやっていきまする。

夜に干すんだから、部屋干しタイプを使わないとね。なんか妙に生活感の溢れる更新になったなぁw

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