試訳Tocqueville,”volume2 part4 On the Influence of Democratic Ideas and Feelings on Political Society”
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2巻 第4部 政治社会における民主的な観念と感覚の影響について 私は、この本の目的を相応に果たすことは出来なかった。もし、平等に刺激された観念や感覚を示しながら、結論に、これらの観念や感覚が人間社会の統治の上に行使する影響力を示せないならば、である。 この目的のために、古い基礎に立ち返ることが必要とされるであろう。しかし、親しんだ道が新しい真実に至る時には、読者は私に付いてくるのを拒絶しないだろうと、私は信頼している。 第1章 平等は人に自由な制度への趣向を自然に与える 平等は、人を互いに独立させるものであるが、私的関心事において誰の意志でもなく自身の意志に従うという習慣や趣向を人々に与える。この完全な独立は、人々が私的生活の事柄において平等の中で常に享受しているが、人々にあらゆる権威を疑わしいものにするよう仕向け、すぐに政治的自由への観念と愛を示唆する。そのような時代を生きる人々は、自由な制度への自然な先入観を持っている。偶然にその人達の中から特定の人を選び、出来ることなら基本的な本能を見つけてみると、あなたは統治のあらゆるタイプの中からそれthatが判明する、それone(統治のタイプ)は、彼の頭に最初に浮かぶものであり最も価値をおくものであるが、彼が指導者を選ぶものであり、行動を制御出来るものである。 この独立への愛は、平等についての政治的結果の最初で且つ最も目立った特徴であり、臆病な精神を怖がらす特徴である。この事において、彼らは完全に間違っているとはいえない。というのも、無政府状態は、他のどこよりも民主的な国でより恐ろしい様相を持つからである。市民が互いに直接影響力を持たない場合、彼ら(市民)をその位置に保っておく中央権力が揺らぎ始めるやいなや、無秩序は頂点に達するであろうし、各々市民がバラバラに引っ張られているので、社会の基本構造が塵となるに違いないだろう。 それにもかかわらず、無政府状態は、民主的な時代において恐れられる病魔の最もすさまじいものではなく、最も大したこと無いものである、と私は確信している。 実際二つの流れは平等に由来する;一つが人々を直接独立に導き、突然無政府な状態へと押しやれる流れであり;もう一つが、より遠回りで秘密でもあり尚かつより確かな道によって、人々を隷従へと導く流れである。 国民nationsは容易に前者の方をみて、これに抗する。しかし、彼らthey=nationsは後者を見ることなく後者によって自身を運ばれていく。そいうわけで、後者を提示することが、最も重要である。 わたしの中では、平等が鼓舞する手に負えなさに対して平等を非難することからほど遠く、私はそのために、もっぱら平等を賞賛しがちである。平等は全ての人の心や考えに、ぼんやりとした観念や政治的自由への本能的な傾向を深く流し込み、それ故平等が生み出した病魔への解毒剤を用意している、という事を私は認める。 P668
それ故、私は平等に執着するのである。 2章 民主的な人々の政府への考え方は、何故に政治権力への集中を本来的に好むのか 主権者と臣民との間の二次的な権力の観念は、貴族政の人々の想像力にとって自然なものである。そのような権力は、生まれや教育、富によって区別された個人や一族に適合的であり、命令することが運命付けられているように思われるからである。反対の理由は、平等な時代において人々の心からそのような考えを自然に追放する;この考えは、それ故、人工的に導入され、困難を伴いつつ保持されるのみである;しかし全ての市民を指導する単一の中央権力の観念は、いわば物事に考えを与えることなしに、市民の意識に自然に滑り込む。 さらに、哲学や宗教においてと同様に政治において、民主的な人々は、単純で一般的な考えを歓迎する。人々は、複雑なシステムにより興味を失い、あらゆる市民が一組の型のようであり単一の権力によって統制されるような、偉大な国nationを描写するpictureようなものである。 次に単一の中央権力の観念の後に、画一的な立法の観念は、平等な時代に人々の考えの中でその(単一の中央権力の)位置に自発的につく。人々は、隣人とあまり違うように自身を見ないので、何故に一人の人間に適応出来るような規則が残りの全員に当てはめられないのか、理解出来ない。最も薄い特権は、それ故、理性にとって不愉快なものである。単一の人々の政治制度においてもっともかすかな違いは、人を傷つける、立法の画一性は、良き政府の最初の条件として人に訴える。 しかし、社会の全構成員に等しく課された画一的な規則のこの観念は、貴族政の時代の人の考えに対して奇妙である。この観念itが彼らの手中にあろうとそうでなかろうと、貴族政theyの人々はそれitを拒否する。 P669
両方の場合で、これらの対立する精神的な態度は、ついには本能や習慣に変る。あまりに見えなく克服しがたいので、ほとんど例外なしに、これらは人の行動を支配する。中世の生活の多様性にもかかわらず、ある人々は、性格に同じような条件かで生活していた;しかしそのことは、立法者達が、中世の人々の各々に異なった権利や義務を与えるのを妨げるわけではない。それとは対照的に、現在の政府は、一様な慣習や法を共通性を持たない住民に課すことなく、自身を装っている。 人々の間で条件がより平等になればなるほど、個々人はますます重要でなくなり社会がますます重要になる;むしろ、各々の市民は、その他の人たちと同じようになり、群衆の中に我を失う、いちじるしく目立ったものは何もなく、人民それ自身の偉大でどうどうとしたイメージのみである。 これは、デモクラシー時代の人々に社会の大権についての非常に高度な意見を与え、個人の権利についての非常に卑屈な意見を自然に与える。その人々は、「前者の利益が全てで、後者の利益は何も無い」という事を容易に認めるだろう。その人々はまた「社会を代表する権力は、社会を構成しているあらゆる人々より多くの教養や英知を持っている」、「手を取って各々市民を導くことは、権利ではなく義務である」と、自由に同意する。 もしわれわれが熱心に同時代の人を観察し、彼らの政治的意見の起源をたどるならば、私がちょうど指摘した考えのいくつかを見いだすことになるだろうし、恐らく非常に頻繁に争っていた人々の間の合意の非常な多さに驚くことになるだろう。 アメリカ人は、それぞれの州で至高の権力が人々から直接出ていると信じている、しかし一旦そのような権力が構築されると、人々はそれに対するあらゆる制限を思いつくのは難しい。アメリカ人は、「そのような権力itはすべてをする権利を持っている」と認識している。 タウンや家族、個人に認められた特権に関する限りでは、アメリカ人はそのようなことの可能性を忘れている。「人は、同じ法を州の全ての地域に、州に住んでいる全ての人に、一律に適応出来ない」という考えは決して思いつかない。 同様の考えは徐々にヨーロッパに広がっている。その考えtheyは、人民主権のドグマを猛烈に拒絶する国々にさえ浸透している。そのような国家は、権力の起源についてアメリカと一致しない、しかし同じ見解から権力を見ている。そのような国家them全てにおいて、中間権力の概念は曖昧にされ覆い隠されている。ある個人に固有の権利の概念は、人々の心から急速に失われていった;広く一般at largeでの社会の全能で単一権威の概念が、その(個人に固有の権利概念の)位置を占めるようになる。これらの概念は、根付き、広がる、諸条件がより平等になり、人々がより同様になることで; 670
平等がそのような考えを生じさせ、その考えが今度は平等の進行を促進させる。 フランスでは、私がそれについて述べた革命が他のヨーロッパのどの国よりも進んだところであるが、こういった意見が公共精神として完全に抱かれている。もしわれわれがフランスにおける様々な党派の声を注意深く聞くならば、そのような意見が採用されていないものは存在しないという事に気付くだろう。党派themの大半の人は「政府は悪く行為している」と考える、しかし彼らはみな「政府は全てについて常に行動し干渉すべきである」と考える。お互いに戦っている人たちでさえ最も熱烈に、それにもかかわらず、その点では同意している。社会権力の単一性、偏在性、全能性やその規則の画一性は、政治社会が今日発明したもの全ての最も顕著な特徴を構成している。それらは最も現像的なユートピアに立ち戻る。人の心は、夢の中でまだこれらを追っている。 もしそのような考えが、私的個人privateindividualsの心に自発的に生じるならば、より強力に王族の想像力にうったえる。 ヨーロッパ社会の古代の基本構造が変化し消滅しつつある一方で、主権者は自身の行動や義務の範囲について新しい概念を獲得した。最初は、主権者は「主権者が代表する中央権力は、一様の計画に従って全ての事柄や全ての人間を管理出来るし、すべきである」という事を学ぶ。この意見は、われわれの時代以前には考えられたこともなかったヨーロッパの王であると確信しているが、今は王族の心に深く入り込み、より動揺した考えのアジテーションの中で確固として確立した。 われわれの同時代人はそれ故、一般に考えられているよりも分裂していない。同時代人は常に「誰が主権を持つべきか」について議論している、しかしそのような権力(主権)の義務や権利についてはたやすく同意している。同時代人はみな政府を単一で、単純で、神意になかった、創造的な力として考えている。 政治についてのあらゆる二次的な考えは揺らいでいる、しかしそれは依然として固定的であり、不変性であり、筋の通ったものである。政治評論家も政治家もこの考えを採用している;群衆は貪欲にその考えをかっさらい;治者と被治者の両方は、平等への熱意とともにその考えを追求する;その考えは始めてきたものである;その考えは生来的なように思える。 それは人間精神の奇行によるものではなく、人類の現実状態についての自然的な条件である。 |



