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一言で言うならば、「決定の作法」とでも言おうか。。。 確かに多様な価値が存在し、その中での優劣がつけられない状況の中で、ある一つの決定をしなければならないということでは、葛藤が生じる。 著者の言うように、価値そのものの比較というのは単一の尺度に乗せるなどしない限り困難である。 功利主義は単一の尺度としてある程度は機能しようが、それにも限界はある。 しかしだからといって何らかの「決定をしない」という事もまた問題である。 「決定しない」事による、特定の立場・価値へ寄っているという事が考えられるからである(何もしないことによる、ある立場への関与) 単純に決められないものの中に敢えて決めなければならない困難さ、そこに決定についての葛藤が生じる。 著者は法廷システムを模倣し現実適用を模索することでその葛藤に向き合っていこうとしている。 自分としては取りあえず、判断や決定に際して悩み、悩んだ中から取り敢えず括弧付きで(保留付きで)決定するということが大事なのではないかと考える。(検証可能性や柔軟性) というのもその時その時でどのような決定が適切かというのは、後にならないとわからないことも多い。 人によってもかなり分かれるところであるからである。 そのような中で、強固に一つの決定を絶対化し守り続けるのもよいが、 それは誤った際に極端から極端にぶれることになるし、リスクがあまりにも大きすぎると思われる。 だから決めるにしてもはじめから献身的価値「これまでやってきたんだから、今までのが無駄になるから」や或いは功利主義的価値「」のように決めつけてしまうことが問題なのだと思われる。 最初からそのように振る舞うべき事を決められてしまえば、それに反するものは当然排除、或いは「敵」として認定される。 最初から特定の価値を重要視する立場はこのように個人の内面においても抑圧的であることが要求されるのである。 決めるにしても取り敢えず括弧付きで認めることで、逆の立場の反論にも応えていると考えられるし、判断力・決定力を鍛えていくことにつながるのではないかと思われる。 個人の中に価値の優劣があるのは仕方がないとして、それを他者との関わり合いでどう主張していけるか。(社会性の中での価値の調整?) 取り敢ず「決定」しないと、その一番高いと自分では思っている価値すらも失ってしまうため そのために内面的には他の価値への抑圧も仕方ない面があるのではないか。 その「内面での他の価値への配慮」は、括弧付きでの価値判断で幾分かは緩和出来るように考える。 取りあえず、こうしたことから葛藤を緩和していくんじゃないかな、と。 |
読書日記
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高校サッカー直前でわくわくの村上です(挨拶) さてヴェネツィア共和国への情熱が少し思い出されてきたので、近所の小さな図書館で「ヴェネツィア」と名の付く唯一の本を借りてきてしまった。 本書は、ヴェネツィア『帝国』期の解説を、その支配領域の紀行と共に、現代と中世期を行き来しながら、解説していくというスタイルだ。 時期としては、 1202年11月8日の第四次十字軍が始まった時より、ヴェネツィアは『海の帝国』としての道を歩み始めた。 それからナポレオンの進行により、国として息の根を止められるまで、現代の話を持ち出しつつ、帝国期を語るという感じだ。 と、 読了感としては、このような紀行歴史解説物?はあまり読んだことなかったこともあるせいか、話が古代・現代・中世を行き来しているので、その辺の基礎知識がないと辛いかもしれない。 幸いなことに、ヴェネツィア関連の知識を多少は持っていることもあって、そんなに苦労はしなかったが、話が良く「飛ぶ」のでなんの話をしているのか、時間がかかったこともある。 パッチワークみたいな印象を抱いた。 ただそうすると、基本的に知っていることを、並べ直したような作品のようにも見えてくるため、そんなに新しい知見は得られなかった。 思い出す程度には、参考になる。 これは以前『共和政ローマ』について書かれた作品とも共通する感想かもしれない。 なんだろうか。 欧州人が書いた「わかりやすい歴史物」と絶賛されている作品って、少なからずそんな内容なのかもしれない。 個人的には、変に現代っぽい表現の解説を入れたりするんで、その時代の世界に入り込もうとしている身としては、肩すかしを食らったような感じもした。 そんな所かな。う〜図書館めぇ(苦笑)。。。 【内容情報】(「BOOK」データベースより) 中世から6世紀間にわたって栄華を誇った海洋帝国ヴェネツィア。西欧一の贅を尽くし、洗練された政治機構を備えた交易帝国の栄枯盛衰、十字軍やオスマン帝国との抗争など歴史の表舞台で活躍した人間模様を、奇跡の都コンスタンティノープル、キプロス島・クレタ島などエーゲ海の島々、ギリシャ本土のペロポネソス半島、アドリア海北岸の海岸都市などを巡りつつ、「海の旅人」「歴史の旅人」として情緒豊かに綴る紀行文学の傑作。 【目次】(「BOOK」データベースより) 第1章 帝国以前/第2章 ああ、都よ、都/第3章 エーゲ海考/第4章 大きい島/第5章 せつない島/第6章 ギリシャの海辺/第7章 イオニアの白と金/第8章 アドリア海/第9章 帝国以降 【著者情報】(「BOOK」データベースより)
モリス,ジャン(Morris,Jan) ジャン・モリスは、かつてジェームズ・モリスの名前での著作も残す。著書に、一世を風靡した『The World of Venice』(ヴェネツィアの世界)、『Fifty Years of Europe』(ヨーロッパの50年)、自伝的な『Connundrum』(コナンドラム)、大英帝国の歴史を研究した三部作『Heaven’s Command』(天の指令)、『Pax Britannica』(英国の平和)、『Farewell the Trumpets』(喇叭に別れを)などがある。英国、王立文学会会員 椋田直子(ムクダナオコ) 1941年東京生まれ。1971年東京大学文学部大学院修了。1985年よりフリーの翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php |
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Soccer critique kick off! 本書の目的は、巻頭言にすべて集約されている 以下引用? Jリーグがスタートして15年が過ぎた。 開幕当初のJリーグバブル、ドーハの悲劇、マイアミの奇跡、ジョホールバルの歓喜、フリューゲルスの合併、初のW杯出場と自国開催、ドイツでの蹉跌・・・・・・。 非常に濃厚で、サッカー先進国が何十年もかけて歩む道を まるで駆け足で走り抜いたかのような15年だった。 では、これからはどうだろう? 急激な上昇気流はスデに止まっている。 そして、どことなく閉塞感が漂っている。 プロ化してからの年月を「もう15年」と捉えるか、 「まだ15年」と考えるかで評価は変わると思うが、 少なくとも15年を免罪符にしてはいけない時代に差し掛かっているのは間違いない。 この15年の経験は、血となり、肉となっているのか。 サッカーは、スポーツはなくてはならないものになっているのか。 この国は本当に強く、豊かになっているのか。 それらはきっと、現状を直視することでしか見えてこない。 今回はあくまでJリーグ開幕からの15年をキーワードに、 前半は主に強化の観点から、 後半は主に普及の観点から日本サッカー界の「成熟度」を徹底検証した。 表紙のうなだれる中村俊輔(ドイツでの蹉跌?)と、 ページをめくって1ページ目に飛び込んでくるラモス(ドーハの悲劇?)の写真が、いい感じにオーバーラップする。 これは既視感だったのか、 いや、この15年での違いはなんだったのか。 オシムのインタビューはいいとして、 加部究の日本は本当に強くなっているか?は原博美、信藤勝仁、都並敏史への取材により構成されていて、興味深い。 まず日韓W杯での大健闘が、日本は世界レベルまで到達したとの誤解を世間に与えることになったのではないかとの仮説。 そして、Jリーグでも高い意識や技術を持った選手から学び下の世代へと伝えていく人材が途絶えてしまった。 勿論、全体的な的ニック、フィジカルなどはバランスよく向上し、相対的にレベルは引き上がってはいるものの、結果としてもう1ランク上と戦う際には、当たり前にかなわないような選手ばかりになってしまった(型破り選手の不在)。 また、3バックシステムの気楽さに陥り、極端な再度アタッカー不足の国になってしまっている(戦術的な低迷) そして勝敗ばかりにこだわり、オプションも作れないチームとなってしまった。 どの年代ではどんな強化をしていくのか、細部まで整理して全体的な育成を図っていく必要があったのでは、との意見も。 まとめとしては、 個性豊かな自立した選手を輩出していく。それには今見えない開花を、先を見越して忍耐できる指導が必要になる。同じように今日本サッカーに求められているのは「世界を驚かせる」と急ぐより、一度立ち止まってでもしっかりと足下を見つめ直すことなのかもしれない。としている。 他にも、日本代表の先述理解度を試合毎に解説・診断したり、 犬飼会長の将来構想、 また、Jリーグ100年構想の15年と残り85年構想を考える特集は非常に濃厚だった。 特に、行政側の視点としてのJチームを抱える意味っていうのは、あまり語られてこなかった視点なだけに、面白い。基本的に、ホームタウンとしての重要性をよく認識して、あくまで行政サービスの一環として支える立場となっているところが、「日本にもそういう文化が根付いてきたんだな」という感じで、少し嬉しかった。http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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塩野七生の新刊。 特に、タイトルからいっても『ローマ人の物語』が完結した後の続編的な内容であることを期待してしまう。 帯のアオリは 「パクス・ロマーナ」が崩れるとはどういうことか
秩序亡き地中海を支配したのは「イスラムの海賊」だった 衝撃的な、『ローマ人の物語』のその後 DE MARI NOSTRO POST DELETAM ROMAM I : とうことで内容は 西ローマ帝国が崩壊した後の地中海世界での覇権の移り変わりと、宗教対立上の正戦、逆に国境に縛られない団体の話の3種類。 ローマ亡き後のそれぞれの話が今までの塩野氏が手がけてきた作品テーマに結びついている。 例えば、地中海世界での覇権の移り変わりは、ヴェネツィアに関する著作にそのまま続くような内容だ。 ローマ帝国という押さえがなくなった地中海世界の主役に躍り出たのはイスラム教徒の海賊だった。 それも特にサラセンの海賊(アラブ人ではない北アフリカ出身のイスラム教徒) 地中海沿岸の都市を襲ったり拉致し、または護衛のない商船を奪い、容易に物や奴隷を手に入れ収入を得ていた。 後にそれに対して商船には護衛を付けるようにするなったり、海賊の本拠地を叩くなど、国家的な対策を講ずるようになるが、宗教的な対立や貴重な生活手段という事もあって、なくなりはしなかった。 そして、とうとうイスラムに落ちるヨーロッパも出始める。 まずはイベリア半島であり、イタリアもシチリア島がイスラムに陥落した。 ローマの城壁までも海賊が出没するようになり、大聖堂も荒らされた。 イタリアもいつイスラム化してもおかしくないような状況だった。 それを食い止めたのは・・・。と言うような内容だ。 ところでこの項目ではヴェネツィアに触れることが非常に多い。 フン族から逃れるための建国にはじまり、トルコとの死闘、新航路発見による新興海運国との争いを乗り切ってナポレオンの侵略によって滅亡するまで、ヴェネツィアは「千年王国」であり「地中海の女王」だった。 その興隆期においても、海賊との戦いやイスラム諸国との付き合い方はヴェネツィア史なくしては語れない。そしてそれは塩野氏の『海の都の物語』やダンドロ三部作に詳しい。 また、宗教上の対立、つまり十字軍の話などは特徴的なローマ法王を描いた『神の代理人』に詳しいし、「ダンドロ三部作」や「歴史絵巻三部作」にも多く記載されている。 国境に縛られない団体は、救出修道会と救出騎士団の話。 イスラムの海賊に拉致されたキリスト教徒は奴隷として北アフリカ沿岸で使われていたのだが、それをお金で買い取って救出するために努力した団体である。 両方とも「ロードス島攻防記」もあわせて読んで欲しい内容だ。 衝撃的だったのは、宗教者は十字軍など勇ましいものには熱中するものの、異教徒に捕まった同胞の救出にはほとんど目を向けてなかったという事だ。 設立が1218年で1222年から救出行を開始した「救出騎士団」は、実に557年間にわたって活動をしてきた。 その間に、344回の救出行を実行している。 平均しても2年に1回以上。 最後が1779年。その10年後にフランス革命が起きる。 啓蒙主義の時代になっても救出されるべきキリスト教徒の奴隷はいたわけである。 そしてキリスト教徒の奴隷がなくなり解放されるのは、フランス「国民軍」による北アフリカ沿岸制圧・植民地化によってなのであった。 勿論それはイスラム諸国にとっては、欧州諸国による植民地化のはじまりであり、住民すべてが奴隷と化すようなものなのであるが。 軍事的なものであれパクス(平和)が、いかに必要であるか。。。 考えさせられる事象であろう。 【目次】
第1章 内海から境界の海へ(イスラムの台頭;サラセン人 ほか) 間奏曲 ある種の共生(「イスラムの寛容」;イスラム・シチリア ほか) 第2章 「聖戦」と「聖戦」の時代(海賊行つづく;イタリア、起つ ほか) 第3章 二つの、国境なき団体(「救出修道会」;「救出騎士団」) 巻末カラー「サラセンの塔」(リグーリア地方;トスカーナ地方 ほか) http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php |
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前回に引き続き、ビックコミックオリジナル増刊号を購入。 『まんが道』の続編である、「愛・・・しりそめし頃に」--夢の76テラさんの決断!--を読む。 今回のアオリは「キチンとした人には、キチンとした悩みがある!?」 【内容】 まず満賀道雄が、毎日きちんと金銭出納帳を付けている場面から始まる。 どの項目にお金を使っているのかがわかるため、無駄使いを省くことに、効果があるのだ。 と、いいつつも本人の趣味に使っているのであれば、無駄遣いはなかなか無くならない。 ついさっきまで、映画代を控えようと決心した満賀であるが、石森や赤塚の誘いについつい乗ってしまう。 そこにつのだじろうが大事な話を持ってきた。 なんとテラさんが漫画の現状を嘆いているだけでなく、とうとう行動に出たという。 つまり、テラさんがヒドイと感じる漫画と同じ雑誌に、自分の連載を載せたくないというのだ。 ヒドイと感じる漫画。それはいたずらに怖さを煽るために、気持ちの悪いストーリーと絵を強調し、子供たちに悪影響を与えているという。 そしてそんな作品は切るという事が、読者である子供たちに対して社会的責任を背負っている編集長の役割である、という。 しかしながら雑誌社側でも言い分がある。 まずそのヒドイ漫画とやらはベスト3に入るくらいの人気漫画で、おいそれと切れるものではない。 また、派手なアクション漫画や明るく健全な漫画までバライティに富ませるのが雑誌というものだ。 こういった説明でもテラさんは漫画を辞めるという事を決心する。 そしてそれを嘆くトキワ荘の同士達。。。 才野の妙案により、手塚先生ならばテラさんを止められるのではないかと、相談することになった。 快諾する手塚。 結果--------------- それでもテラさんが納得することはなかった。どうしても自分の信念は曲げることは出来ない、と。 週刊少年サンデーのみを残して、連載をすべて切ることとなった。 あまりにもケッペキなテラさんに、満賀は深い孤独な姿を感じた。。。 【感想】 とうとう、テラさんが絶筆する動きが出てきた。 トキワ荘時代の時系列としてはかなり最後の方なので、どのようにこのエピソードが、また愛しり自体がまとまっていくのか、興味深い。 テラさんも、自信の絶筆の方が、より明るく健全な漫画の供給を絶つことにつながりかねない可能性は、どこまで考えていたのだろうか。 本人的にも焦りもあったんだろうけれども、その後は何も文章らしきものを残していないため、とうとう本人の真意というか、思考の過程は想像の域を出ることがなかった。 そのため、何種類かの本に描かれたり、映画にまでなったりしたのだけれども。。。 次回はなんと、4月11日発売の5月増刊号になってしまう。近年の雑誌不況のあおりだろうか。ジョジョみたくコミックだけでも出してくれればよいのだけれども。。。
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