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ところが慶応四年一月三日、高松藩に最大の危機が突如として起きます。
それは大坂在府の高松藩兵が、将軍に従って上京の途中、鳥羽、伏見において誤って官軍に発砲したため、朝敵の汚名をこうむってしまったのです。
藩主頼聡(よりとし)は国許にいて事情は全く知らなかったのですが、一月十日、朝敵として討伐のご沙汰が下ったと知らせが届き、頼該は事の重大さに驚き、急ぎ京にいた盟友の公卿に、朝敵お許し下さるようにとの懇願の使者を遣わしました。
しかし一公卿の力で収まるような事態ではなく、八方手を尽くしますが、時すでに遅く、土佐藩兵が追討軍として高松に向かったという知らせが届きます。
そこで頼該は最後の望みを讃岐に三万の門徒を有する京都 興正寺ご門跡、華園沢称に賭け、二百の末寺にそれぞれ懇願の密使を興正寺に送るよう頼みました。
元々松平家と興正寺門跡家は代々姻戚の間柄であり、三万の門徒の命に関わる重大事ゆえ華園沢称は、藩主頼聡の嘆願書を携え参内し、「高松藩の朝敵の儀、お許し下されますよう」と願い出ました。
興正寺ご門跡は第百十九代、光格天皇のご落胤といわれ、皇位についたばかりの明治天皇とはことのほか親しいので、このような異例の参内が許されたのです。
始末は難航しましたが、最後は明治天皇のご英断で、夜明けと共に朝敵お許しのご沙汰が下りましたが、責任者の首級を持参しての謝罪、十二万石の領地を朝廷へ返上、藩主の蟄居という厳しい条件の上でのものでした。
しかし徳川譜代の親藩である高松藩は、徳川三百年の恩顧に応えるためにも、全員城を枕に討死すべきであるという抗戦派は、この条件を不服とし、土佐藩兵を迎え撃つと息巻いていました。
頼該は、連日連夜の心労から胃痛を訴え病床に伏せっていましたが、城内の話を聞くと急ぎ馬を飛ばし、大評定の間に入るやいなや、大音声で「追討軍に抗戦致す者は、まずこの左近が首を刎ねよ!」と叫ばれたのです。
血気に逸る若侍からは、「武門の意地のため死にとうござる」と徹底抗戦の大声も飛び交いましたが、「武門の意地のため、罪もない領民を戦に巻き込み讃岐を焦土と化してはなりませぬ。ここで降伏致さねば、英公以来二百六十年、讃岐に仁政を敷いてきた我が松平家は憾みを千載に残すことに相成りまする。上様何とぞご英断を」と藩主頼聡に訴えました。
頼該の頬を伝わる涙をご覧になると、頼聡はさっと席を立ち、「余は菩提寺に入って蟄居致す、抗戦は罷りならぬぞ!」と申されました。
その瞬間、降伏が決定したのです。
城に入った官軍総督、土佐藩家老 深尾丹後に藩主嘆願書を提出し受理され、讃岐は未曾有の困難から救われました。
土佐藩兵は空砲を撃ちながら入場したため、いきり立つものもいましたが、謹慎中の頼該が参謀板垣退助と面談し、威嚇の空砲中止をお願いたため、混乱は起きずに済んだのです。
「左近様が抗議なさったそうじゃ」
「さすがは左近様じゃ、追討軍相手に一歩も引かれず交渉なさったそうな」
高松藩士達は、しきりに頼該の勇気と判断力の適確さを讃え、「左近様が藩主であられたら、時代の波には遅れなかったものを」と口惜しがったそうです。
邸宅に帰り着くと、頼該は精根つき果てたかのように倒れ込んでしまいました。
弟、松平大膳と話していると板垣退助が見舞いに訪れ、平伏し、我が藩の中岡、坂本がお世話になりましたと礼を申し上げにきました。
板垣は最後まで平伏したままだったそうです。
その翌日丸亀藩の土肥大作が見舞いに訪れ、板垣の内意として、「二、三ヶ月すれば朝敵の儀お許しあって、城地人民一切を藩主にお返しする予定である」と申され、その後も板垣より度々連絡があり、「二月二十一日追討軍総督は帰藩致すゆえ、高松藩主におかれては武器を持たぬ随員を従えて上京され、朝廷にお詫び申上げるように、その節、軍費を献金なされば藩主の官位を復されるに役立ちまする」とのことで、頼該は老臣と相談の上、軍費として十二万両献金を言上し許されました。
四月十五日、藩主頼聡は官位を元の讃岐守左近衛権少将従四位上に復され、更に五月七日、朝廷は高松藩に京の警備を命ぜられました。
頼該は、それを聞くと安堵したかのように、同年八月六日、六十才でご永眠されたのです。
ご葬儀の日は折悪しく大雨でしたが、頼該を慕う領民が笠蓑姿で馳せ参じ、邸宅から遺言で埋葬を託された本尭寺までの道の沿道に土下座して柩を拝んだそうです。
その数は一万人と記録に残っています。
「幕末という動乱の中、不遇に負けず、信念と誇りを持って生き抜いた松平頼該。
幕末期の歴史の表舞台には、「勝てば官軍」といわんばかりに、維新の志士や新政府の官僚達が名を連ねますが、表舞台に出てこなくても、しっかりと歴史にその名を刻んだ偉人もいたのです。
この本を読みながら、少しづつ本の内容を記していこうと思います。」 |
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はじめまして。さぬきの仏生山に住む民惠と申します。ブログを今日初めて拝見しました。幕末に讃岐を守った松平頼該(金岳公子)のことが高松で殆ど知られていないことを常々とても残念に思っています。そしてその功績を何とか地元で広めたて行きたいとも思っています。唐突で大変に失礼ですが、こちらの書籍をお譲りいただくことをご検討いただけませんでしょうか?
2016/7/1(金) 午前 10:06 [ tmy*474* ]