「美術による学び研究会2013 in別府」大会公式ブログ

「美術による学び研究会2013 in別府(大分)(第8回鑑賞教育フォーラム)」のブログです
記事の順番は大会内容と前後しますが、オークションのワークショップが行われた後に、由布市由布川小学校教諭の首藤政秀先生より、音楽と図画工作を併せた鑑賞授業の実践発表が行われました。
 
今回は、発表者の首藤先生に発表の要点をまとめていただきました。
 
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1.絵からオノマトペへ
 (1)アートカードを選ぶ
     班で、アートカードを1セット準備、班内でダブらないように絵を選択
イメージ 2
 (画像は大会会場に展示されたアートカード。大分県美術鑑賞授業力向上事業で作成したものです。)
  ↓
 (2)どこから、音がきこえてくるかな? 
  ・パーツ
  ・全体
  ↓
 (3)何が聞こえてくるかな              
  ・具体的な音
  ・抽象的な音
 
 *オノマトペで表現するときの注意事項
    ・同じことばの繰り返しはなるべく避ける
    ・これまでに聞いたことのない、オリジナリティーのあるものを
 
ここでの作業は、大会会場の壁面にワークシートを掲示いたしました。
イメージ 3
(撮影者:加藤浩司)


2.オノマトペから音(音楽)
 (0)日常生活、学習での音楽体験 (※日頃から音楽体験を多くさせているようです)
  ・多くの楽器に触れさせる
  ・リズム遊び、和音遊びなどの音楽遊びを多く体験させる
  ・いい音楽をたくさん聴かせる(鑑賞の会など)
  ↓ 
 (1)音選び〜絵に会う音はどんな音かな
  ①きんきんとした音→鉄の音→鉄琴などの金属的な楽器
  ②やわらかい音→木の暖かさ→木琴、弦楽器など木の素材
  ③激しい感じ→打楽器のイメージ
  ④今まで聞いたことがないような音→キーボードの音色を変化させて
  ↓ 
 (2)音作り
  絵の部分毎に、イメージの音を考える。複数いるところはそれを組み合わせる
   ↓
 (3)作曲
  ①形→音  ⑰佐藤亜土<Institut Hotel-Violet> (プーシャカシャカ)
       ⑯脇正人<97 風景>            (ドッカンゴロゴロ)雷
  ②色→音 ⑬菊畑茂久馬<海道(十三)>  (ザブーンザブザブザブーン)海
  ③色+形 ⑱古長康典<呟き(赤R-1)>  (ブニョブニョ)くちびる
  ④全体→リズム ⑦宇治山哲平<煌>      (くるくるくるコロ)
         ⑮佐藤敬<人間の壁(白)>  (キラキラ)
  ⑤全体的印象  ②糸園和三郎<春夏秋冬(冬)> パソコンの中みたい
  ⑥メロディー  ⑧宇治山哲平<歓>(ピーシャラピシャラパパンテクテン)
         ⑨宇治山哲平<天華> (クッポンカッポン)
  ↓ 
 (4)変化学校にある楽器を使って、会期中会場で流す映像を録画したバージョンから、
   ギャラリートークの演奏をするために、持ち運べない楽器は外し、メンバーの
   組み合わせをして曲を再構成
 
  *人との関わり合いで…
   ・曲を足し算的に変化させたもの
   ・別の楽器に持ち替えたもの
   ・新たな解釈を見つけたもの
 
  *繰り返し演奏する中で…
   ・ぎこちなかったものがスムーズに
   ・リズムがより鮮明に打てるようになった
   ・曲の長さが伸びた
   ・終わり方が上手になった
 
  *本物の絵を鑑賞したことで…
   ・音楽表現が大きくなった
   ・より気持ちが入った演奏になった
   ・なにより、絵の大きさ、質感に感動した
   ↓
 (5)ふりかえり(児童たちから出てきた感想)
          ・絵から音楽をつくるのは大変だったけど楽しかった
          ・本物の絵があんなに大きいのでびっくりした
          ・こんな図工の時間は楽しいと思った
          ・美術館で演奏できたのでうれしかった
          ・インターネットでも紹介されているのですごいことをしたと思った
          ・もっと色んな絵を見てみたいし、もっと色んな楽器にもさわってみたい
 
イメージ 1
(撮影者:佐々木紅音)
 
 
3.「共」感覚の可能性
   絵(視覚)→音(聴覚)
            →におい(嗅覚)
          視覚  大きい・太い     小さい・細い 
          聴覚  低い音        高い音 
          嗅覚  あまい        からい
 
 
 
4.二項対立(C.レヴィストロス)による人の認識
   人は物事を認識するとき、大きく2つの相対するものに分類する
    A or B その中間的なものは①神聖化されるか、②忌み嫌われる
   Ex:キツネの嫁入り  天気    晴れ    雨
                        きつね   人里    山間
                       嫁入り   A家    B    どちらにも所属しない
    Ex:動物のアルビノ  白い蛇、白い生き物=神の使い
   2つの相対するものを比べてはっきりするもの、はっきりしないものの存在
   →はっきりしないもの→混沌としたもの(カオス)
 
 
5.人間がその中心世界から疎外されてきた歴史 
  (1)ベニスの商人・・・ものの価値はその土地や文化で異なる 
  (2)地動説・・・天動説から  当時のキリスト教社会 神がいる場所 
  (3)進化論・・・人間は猿や、チンパンジーと似ている 進化のルーツ 
  (4)無意識・・・フロイトの発見 人間には自分でコントロールできない無意識の領域がある
    そしてこれに次ぐ、第5の疎外として、二項対立による認識ではないカオスとしての認識が存在するのではという提起 
  (5)二項対立による認識→二項対立の外にあるもの、又は融合されたもの(カオス)
 
 
6.まとめ
   分析することが「粋」「野暮」なのか?
言葉にできない要素を表現したものが音楽や美術といった芸術では
それを言葉によって分析するのは、論理付けとしては「粋」だが、言葉に帰納させるという点では「野暮」ではないか?
 
 *ただ今後、他教科、ジャンル、表現方法とのコラボレーションは大いに実験していく価値がある
 
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首藤先生からの報告は以上です。首藤先生、ありがとうございました。
 
なお、こちらの実践は、大分県立芸術会館での平成24年度おおいた夢展覧会プロジェクト「みんなでつくる展覧会」に採用され、平成25年3月19日〜3月31日の期間中に展覧会が催されました。
 
こちらの展覧会のパンフレットは以下のリンク先からダウンロードできます。
 
映像もあります。大分県教育委員会 教育庁チャンネル「この絵、どんな音?」
由布川小学校の映像は2:22くらいからです。児童による会場での演奏の様子もあります。
 

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第8回鑑賞教育フォーラムの最後、「美術を鑑賞するとはどういうことか」と題した鼎談の続きです。
司会は一條彰子さん(東京国立近代美術館)、メンバーは中田基昭先生(岡崎女子大学教授)、上野行一先生(帝京科学大学教授)、大澤隆先生(都立三田高等学校教諭)のお三方です。
なお、発言者については、敬称略にて掲載しています。あらかじめご了承下さいませ。
 
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(一條)
(大澤先生は)中田先生のご著書と共に、上野行一先生の「私の中の自由な美術」の方もスタートにして紹介されていましたが、上野先生、美術の視点と倫理・社会でのところから見る鑑賞と、どういう共通性とか違いとかがあるでしょうか?
 
(上野)
大澤先生、これからも学び研の会に来て下さいね。(笑)
 
いやあ、美術の先生はうかうかしてられないですね。最後の方でおっしゃっていた「思い込みからの解放」というのが大事ですね。美術という事に対して、鑑賞という事に対して、思い込みを持って引きずって高校3年生まで来ているということは、そもそも大きな間違いではないかと思うんですよね。これは、美術の時間、小学校の図画工作の時間からちゃんと積み上げていって、もう高校3年になったら堂々と自信を持って美術鑑賞ができるような、そういう生徒に育てていかなきゃいけないんじゃないんですか?
それはまさに、美術の先生方の仕事じゃないんですかね? そういう事を深く感じました。
その前に(先ほど黒木先生とも話してたんだけども)、生徒の意識改革の前に、先生の意識を、思い込みを変えなければいけないと。「鑑賞」という言葉は知識を習得することだ、覚え込むということだ…という様な方向に偏ってる先生はまだまだいるのではないかな? そういう部分を変えていかないことには、当然生徒も変わらないし、この教科の先行きも暗いな…と思いました。
 
大澤先生の発表はいろいろと学ばせていただくことが多くて、発表の言葉の中にも、とても心に残る言葉がありました。生徒の言葉の中にも勉強になることがたくさんあったんですけれども、「芸術的感性の深化」というところで
「一枚の絵からこんなに様々なことを感じられるとは思わなかった。作品というものには作者の技とそして作者の強い思いが込められており、それは見る側の人間にとっても大きなメッセージとして伝わり、それは時代が変わっても色あせないものであると、この絵を見て思った」
という言葉があって、「え、これ、学習指導要領じゃないのかな?!」と思うような、似たような文言が学習指導要領にありまして、これはある意味、その部分は高校美術の目標を達成しちゃってるんですよね。生徒の言葉で、学習指導要領の言葉を書いちゃっているんですよね。
もちろん美術の場合はそういった部分だけではなくて、鑑賞は大きく3つの目標がありますよね。自分の価値意識・感性で鑑賞できるということが1番にあって、2番目は生活の中での美術の働きについて理解を深めるということがあって、3番目に美術や文化伝統についての理解を深めるところ、この3つが達成されないと鑑賞の目標は達成されない訳で、そういう意味では根本的に違う部分はある訳です。
ただ、その1番目の目標(自分の価値意識・感性で鑑賞できる)のところはやはり共通する部分があって、大澤先生の前に一條先生がアメリカの美術館教育の報告をされましたけれども、その中のまとめのところで、1つ目がinquiry-basedとかcritical thinkingということでまとめられていましたね。これも、学習指導要領の鑑賞の中でこう書いてあります。「自分の価値意識を持って美術を捉え、主体的積極的に鑑賞する」というのは、まさにその2つに近い言葉だと思います。
そして、一條さんのまとめの2つ目で、公民の学習指導要領の中にこういう下りがあるんです。「人間としての自覚」という項目がありまして、「人生における哲学・宗教・芸術の意義などについて理解していって、人間としての在り方、生き方について考えを深めさせる」 その解説の最後の方に、「芸術作品や芸術家の生涯を取り上げ、人生における芸術の意義について、自らの生き方と関わらせて考えさせる。その際指導にあたっては芸術科との関連をはかる」と書いてあります。だから、上野高校でされている事は、大澤先生がこれを読まれているという事ではないんだけれども、まさにこの事を具体化された訳なんですよね。それと、一條先生がまとめられたように、美術以外で結びついて統合的に展開されているというアメリカのニューヨークの美術館の事例と、これが妙に重なるんです。つまり、美術原理主義的な考え方ではない訳ですよ。美術は他のいろいろな教科と結びついているんだ、それを統合的に捉えて学習していくことが大事で、そういう視点でやっていこうということが大事なんですよね。
学習指導要領的に言うと、今は国語の中でも美術作品とか写真とかの鑑賞があります。小学校とか中学校で。これは、学び研の秋田大会で国語の鑑賞と美術の鑑賞とを「どこが違うんだ」「どこが一緒なんだ」とやりました。僕はそこだけしか見ていなかったんだけれども、今回大澤先生の授業実践を知るに至って、初めて公民科の中で「芸術と人生の関わり」を学ばせるような項目があるという事を知って、これは是非協力的にやっていかなければいけないな…と。こういう関連を持ってやっていくことが、やはり美術という教科だけをポツンと考えるのではなくて、他の教科…学校教育全体の中での美術の在り方というのを捉え直していく一つの原動力になるのではという気がしたんですね。ですから、今回のご発表は、今後の美術の先生方の学習活動を考えていく上での非常に大きな示唆に富んだものではないかな…という気がいたしました。どうもありがとうございました。
イメージ 1
(撮影者:首藤政秀)
 
(一條)
今日はこのテーマに対してたっぷりの時間はないので、できれば早めに皆さんの方から感想ですとか、こちらの先生方に聞いてみたい事とかありましたら、是非このタイミングでご発言いただけたらなと思いますが…
 
(会場)
福岡教育大学の中島と申します。
今日はとても素晴らしい報告をありがとうございました。質問なのですが、「他者からの意見を通して、一体的に解釈できる」とおっしゃっていたので、僕は「複眼的思考」と同じ事なのかな?、「自分は正しい」という固定概念をはずすという事なのかなと思いましたが、如何でしょうか?
 
(中田)
多分、中島さんのおっしゃってる「複眼的視点」と僕がしゃべっている事は、内容としては違わないと思うんです。ただし、「複眼的な視点」というのは、要するに一つの視点にこだわらない…という事ですよね? だから、今日の大澤先生の発表にあったように、自分の狭さから解放されて、その狭さを、1つの視点ではなくて『こういうような見方もあるんだ』という事は確かに必要だと思うんです。しかし、それが、下手をするとかみ合わなくなる可能性もあると思うんです。「Aさんはそう見るのか、だけど自分はこう見る」だと、二つの意見が融和しないですよね。これを統和させるにはどうすればいいかと言うと、2つの方法があると思います。
1つは、先ほども言ったように一体的に見えているということ、つまり複眼ではないということです。あるものは、今まで見えていない部分が見えることによって、見られているものそのものが変わってしまう。平面だったものが立体になるということです。そういう事が必要だと思うんです。もう1つは、自分の意見と違うことを言われて、自分の意見が深まる場合があると思うんです。この中にもあると思うんですけれど、○○さんの意見を聞いた為に自分の意見がさらに深まった…というのがあると思うんですよね。この2つと、「複眼的」という言葉に入れるのは、ちょっと言葉としては無理があるんじゃないかなという気がするんです。
多分、中島さんのお考えになっていることと僕らの考えていることは同じだと思うんですけれども…というようなところでどうでしょうか。
 
(会場)
ありがとうございました。
 
(会場)
大分県庁の池田です。今日はありがとうございました。
今日とてもびっくりしましたのは、私も高校で授業を何度かさせていただいた経験があるのですが、非常に核心的な言葉がたくさん出てきたんですけれども、あれはまず1つ目としては、生徒は作品を鑑賞する時に「対話による鑑賞」を、作品があって何名か居て、言葉として発しているのか…それを何故聞きたいかというと、高校生が素直に言葉を出しているのかどうかというのを、私自身非常に難しいのではないかと考えておりまして、中高では結構ワークシートを多用して、あまり意見交換というものができない…何故できないかというと、他者の意見をものすごく気にするので(特に小学校5年生くらいからの女子生徒)、それでワークシートを多用することをよくしていたのですが、そのあたりは大澤先生の学校はどうなのか、逆により良い対話ができる様に、先生として工夫をなさっている下準備があるのかどうか、その辺をお聞きしたいのですが。
 
(大澤)
3年の自由選択の倫理って、1年生の時に私の授業を全部聞いている子たちなのですが、私の授業スタイルは1/3くらいは大体生徒が話し合ってる時間です。私は黙ってぼーっとしていて、生徒たちは勝手にしゃべったり何か作品をかいてるか発表しているか、私の講義は2/3くらいで、1/3くらいはぼーっと座っていて、別の時間の生徒の作品を見たり採点したりしています。班で1年生の時から対話をさせるのを相当やっています。そういう雰囲気の中で、違った事を言ってもお互い笑って許し合える、恥ずかしがらない雰囲気ってのがまずあって、それを面白いと思う子たちが3年生になって授業を取ってくれているんですね。そういう意味では、基本的な部分ができている子たちなんだろうと思います。
それにプラスして、この「対話による芸術鑑賞」のやり方というのが、生徒に自由な開放感というのを与えるのだろうと思うんですよね。私の授業の中でそういう事ができない子もこの授業では自分を思いきり出してくれるし、また「こんな文章書けるかな」と思うような文章なんですよ。私自身が普段からそれくらい書けるとは全然思わない子たちで、正直言うと、「私の中の自由な美術」の若い女性の文章を事前に読ませようかと思ってた位なんです。でも、それをやっちゃったら、その文章を写すわけではないけれど「こういう風に書けよ」ということになるじゃないですか。だからそれは絶対にできないな…と思って、ただ紙を渡して、芸術だとか他の人の言葉を聞くこととか自由という事だとかは押さえて感想を書いて下さい、何書いてもいいですよ…という風にしたんです。
だから、1つには、生徒に対して「対話」というものを重んじるということは、1年生の頃から私なりにやってきたつもりです。それから、それを面白いと思ってくれた子たちが選抜されているという事と、この授業のスタイルそのものがとてもマッチングして、私としても本当に幸せな授業ができたなという風に思っています。
 
(会場)
ありがとうございました。大変参考になりました…というか、確かにいろいろな学校に行きますと、ものすごくよくできる学校であればある程画一的な答えが出てくる事が多くて、今までの長い積み重ねがあっての事というのがよくわかりました。ありがとうございました。
 
(会場)
ありがとうございました。三重大学院生の加藤と申します。
大澤先生にお尋ねしたいところがあって、何となく僕の中で「対話による鑑賞」というと「解説」というのはタブー的な位置づけにあるというところが少しひっかかっていたのですが、大澤先生のお話を聞いて、解説というのは生徒の考えを深める手立てになっているという事なんですけれど、大澤先生が解説を添えた後に生徒たちがそれをあくまでも一意見としてうまく取り込んでいるところにすごく興味を持っていまして、「やっぱりこれが正解でした」という風に捉えられたのではないか?と僕は思っていたところなのですが、それを一意見として捉えることができた時の先生の解説の切り出し方であったり、もしくは考えているところがあれば、その辺の要素の話を伺いたいなぁと思います。よろしくお願いいたします。
 
(大澤)
解説と言っても、私は美術専門家でも何でもないので、これが正しいとか客観的な意見があるとか思っていなくて、美術事典だとかいろいろ読みますけれども、昔と違ってインターネットなどでいろんなブログがあって、そこにいろんな感想が載っているじゃないですか。それがすごく役に立つんです。私は、美術事典から引っ張ってくるというよりはむしろ、安易と言われれば安易かもしれませんがインターネットでどういう感想を持つのか、それといわゆる美術事典的な事との関わりをまず整理しておいて、そうすると生徒とか私の周りの反応は良かったです。例えば「グランドジャット島の日曜日」で赤い色が多いと聞いて、勉強しなかったら「あ、そうかな?」と思うだけだけど、それは緑との補色関係で明るさを強調する為で…というのを何かのブログで読んでて、そういうことなんだな…と思ったらそれを解説に入れる訳です。
やっぱり、自分の方がどれだけ準備しているかというところがあったから、何か頭ごなしの解説じゃなくて、そのとおりこうなってるよね…ことができたんだなと思っています。
ただしうまくいかないこともあって、上野高校で取り組んでいた時に、三日目にNHKのハートネットでガタロという人が…清掃の方なんですが、自分で絵を描くんですね。その絵とガタロさんという清掃員の日常を捉えた番組があったんです。(※参照:http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2013-03/05.html)その方の画集があったんで、それを拡大コピーして生徒に見せたんです。感想を書いてもらったら、「何でこんな汚いもの描くの?」って、殆ど否定的な意見が出てくるんです。その後でどうしようかなぁ…と思ったんですが、NHKの映像を見せたんです。私は最初その映像を見た時に感動して涙が出たんです。何て美しい絵なんだろうって、すごく汚れたモップだったんだけど思ったんです。それを生徒に見せたら、大ショックなんですよ。自分たちの見た見方って何だったのかなぁ…って。今まで二日間とっても調子が良かったのに、最後にこれで終わるのか?って感じになっちゃって。(苦笑) 私は何を言ったらいいのかなぁ?と思って、結局「確かに君たちの見方は僕と違った。でも僕も、NHKの映像を見たから『美しい』って思っただけで、そうでなかったら「汚い」と思ったかもしれない。でも君たち、モップで掃除したことある? 僕はあるよ。どんなに掃除したって、綺麗にならないモップは綺麗にならないけど、それをどう思うか? そういう生活体験がそこに関わってくるのかなぁ。つまり、見方の問題じゃなくて、君たちの在り方が絵に対して何か関わってくるからね」という風にして、一応まとめました。生徒たちも、ガビーン…ってなっちゃったところがありましたが。(苦笑)
今の質問はこれでよろしいかと思うんですが、さっきちょっと気になってる事なんですが、皆さんのお手元にあったレジュメの一番最後のところをお開きいただきたいのですが、「対話による鑑賞法」のところで
「美術系大学の進学者にとっても作品鑑賞の入り口」「技法や美術史の学習を振り返る指針」「『美術』をとらえる1つの指標」という事が書いてありますね。これは、私と美術教諭とで、論争という訳ではないのですが、論文を書く時になかなかうまく整理ができなかった部分なんですね。私はコミュニケーションツールとしてどちらかというと(倫理の教師なので)捉えていて、ところが美術教諭はこれから美大へ進学していく子たちにも美術の技法だとか歴史的背景だとかを効率良く教えなければ…と、二人のスタンスの違いでどういう風に折り合いをつけていくかをいろいろ考えて、言葉による解決にしかなってなかったかもしれないが、こういう風に苦しい形でやった訳です。そこら辺はちょっとどうしたらいいかなぁ…と。
 
(上野)
ちょっとそれで、話が。鼎談なのでこういう形で…調子が出てきたかな。(笑)
「解説」というよりは僕は「情報」と言ったほうが正しいのかなと思うんですけれど。
基本的に授業ですから、学習の狙いがある訳です。それは、発達の特性と学習課題(どんな力をつけるのか)をクロスで考えるものですよね、学習の狙いは。だから、同じような絵を見ても、例えば相手が低学年の幼い子であって、学習課題が例えば「自分の目で見て考えて話す」というものであれば、 情報はそんなに要らない訳です。だけど、例えばそれが中学生であって、中学生の特性は物事を客観的に見れたり抽象的な事もわかる、比喩もわかる、そういう段階にあって、学習課題がただ自分で見るだけじゃなくて、その作品が例えば日本の美術作品であれば日本美術の特質については理解を深めることだって当然入ってくる訳ですよ。…となれば明確な話で、そこは到達点とか学習の狙いだから、最終的には日本美術の特質というところに持って行く。それは先生がどういう形で情報を提供するか、あるいは学び学習のように調べ学習のようにしてやるか、それは授業の方法論ですけれども、全然否定はしていない訳ですよ。よくいろいろな事で聞かれるのですけれど、僕はいつも、「学習の狙いにおいて、情報は提供して下さい」そうしか答えようがないんです。
「対話による鑑賞」というのはこうだという方法論ではないので、学習の狙いに沿っていろいろなアレンジができる。今、大澤先生がおっしゃったように映像で学習することもできるし、途中でワークシートが入ってくる事もあるだろうし、いろんな学習形態があります。それは、2年前に府中市と北九州市で作っていただいたカリキュラムの中にも反映されているはずです。あれをご覧になれば、いろいろな形で先生方が工夫して支えているのがわかると思います。(府中市と北九州市の資料は)今日の配布資料の中にありますので、ご覧になって生かしていただいたらと良いかなと思います。
 
(中田)
今回の「対話による美術鑑賞」法ですか? ○○法というのは、「××をしてはいけない」「△△をしなくてはいけない」という風になってしまったら、その方法のエキスは全部無くなると思います。これはどのような方法論でもそうなんですよ。
これは先ほど一條先生のお話にもありましたけれど、例えば1枚目のあの農村の絵で時代背景を解説しなければ、当たり前の事がスペシャルにはならないんですよ。ことほどさように、ある情報を与えなければ本質がつかめないという時はあると思うのです。今の上野先生がおっしゃった事とちょっと違った方向で、言ってる意味は同じだと思うんですけれども、「××をしちゃいけない」じゃなくて、一條先生が報告して下さったように、教師はファシリテーターで、いつ・どこで・どのタイミングで情報を出すか、あるいはこの情報を出しちゃいけないのかという事が、まさに良い授業の為の「コツ」なんですよ。
この「コツ」には、王道は絶対に無いんですよ。あれば、教師は苦労しないんです。感受性のある教師ほど、もしも良い授業法があったら、誰も教員ですから、それこそ何百万出してでも知りたいと言うけれど、授業に王道は絶対無くて、「これが良い方法だ」と思ったら、それでずっとダメになるんです。
 (会場は爆笑の渦)
本当にそうです。ですから、僕は「良い教師」とはどういう教師かと言うと、子どもの前でニコニコして笑顔を見せて、授業が終わったら悩む教師だと思っています。この教師は絶対に変な事はしないと思います。むしろ、授業に対して工夫していくと思うんです。良い教師の定義って、僕はそうですよ。授業の時は笑顔で、終わったら不安になって落ち込む。どうもすみません(笑)
 
(一條)
ありがとうございます。
本当に…あと30分話したいところですけれどね。そうはいかないですよね。
ではですね、進行のお時間の事もありますので、こんな時は19時からの懇親会にて…という事で。
 (会場、笑)
 
**********************************
時間の関係上、かなり盛り上がったところで、この鼎談は終了となりました。
この後の懇親会で話がさらに盛り上がったのは言うまでもありません。
 
一條先生、中田先生、上野先生、大澤先生、そして会場の皆さま、ありがとうございました。

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第8回鑑賞教育フォーラムの最後は、一條さんのリポート、大澤先生の発表を受けて、「美術を鑑賞するとはどういうことか」と題した鼎談が行われました。
司会は一條彰子さん(東京国立近代美術館)、メンバーは中田基昭先生(岡崎女子大学教授)、上野行一先生(帝京科学大学教授)、大澤隆先生(都立三田高等学校教諭)のお三方です。
 
こちらではその内容を文字起こしし、記事を2回に分けた上で、できるだけ詳細にお伝えしていきたいと思います。
なお、発言者については、敬称略にて掲載しています。あらかじめご了承下さいませ。
 
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(一條)
大澤先生、素晴らしいご講演をありがとうございました。
上野高校の3年生の選択のみなさんですが、2度にわたる対話による鑑賞をすることで、美術に対する思い込みから解放されて、素直な思いから作品の解釈に至り、またその至る過程には他者の言葉が有効に作用していくというのは、こどもたちをコメントを丁寧に見ていくということで非常に感銘を受けました。ご講演の中でも、中田先生の「授業の現象学」から考え方をベースにして…と述べられていらっしゃいます。
まずは、中田先生より、大澤先生の生徒たちの様子をお聞きになって、どのようにお感じになられたか、そこから始めていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 
(中田)
ただいまご紹介いただきました、岡崎女子大学の中田です。まず最初に、上野先生をはじめ、この会の運営をなさっている先生方にお礼申し上げます。
まず私のところに大澤先生の紀要を送っていただきました。それまでは大澤先生とは全く関係もなく、突然このような紀要が送られてきました。正直言って普通の高校の紀要ってそうなのかな?と思うのですが、他の先生方はせいぜい数枚の報告です。ところが大澤先生の部分は全部で20ページありまして、この形式から見て…僕は今は幼稚園教師や保育所の保母を養成する大学にいますが、前の大学では23年ほど授業研究をやっていました。 その大学は、いわゆる教員養成大学ではなく、教員養成大学の教員になる院生を育てる大学だったんです。ですから、割とアカデミックな学生がいましたけれども、大澤先生の紀要を見て驚いたのは、高校の先生がこれほどアカデミックで質の高い論文を書けるということに、まずびっくりしました。他の紀要と比べて突出しているんですね。その中でちょっと手紙が添えられておりまして、大澤先生の発表の時にも紹介していただきましたが、あの教科書(「授業の現象学」)は、大学院生用に書いた教科書なんです。しかも、大学院生でも、僕が解説しないと殆どわからないほど難しいと言われている本なんです。僕も23年間実践にかなり関わっていて、恐らく授業は1000回以上見ていると思います。週に何回も現場に行くし、あるクラスに入って2・3日関わって、それを6年間通して見るみたいな事もやってきました。ですから、現場の先生方がどれほど忙しいかは、大学の教員なんかは比較にならない程だと思っています。それが、僕と全く関係のない、こんなことを言っては失礼だとは思うんですけれども、実践に忙しいはずのそのような先生が、これだけのことを読んで、書けるって事にまず驚きました。
それで読ませてもらって、大澤先生の、僕の本に対する理解力がかなり深いということ、先ほど大澤先生が「解釈学」という言葉をお使いになりましたけど、哲学の「解釈学」は、読み手が筆者以上に深い読み方をするのか「解釈学」です。僕自身は、僕以上のことを捉えている大澤先生に対して、まさに「解釈学」に出会った例になっています。
 
読んでいてその次にさらに驚いたのは、高校生の感想文の深さです。今日の紹介もあって、先生方もおわかりだと思いますけれども、僕の立場からするとかなり深い…僕は正直言って芸術に関しては全くの素人です。哲学の立場から言ってすごいんです。哲学というのはどういうことであるのかというと、全ての哲学ではないでしょうけれど、僕が特に依拠している現象学というのは「事実から学べ」「事柄そのものへ」というのが標語になっています。どういうことかと言うと、現象学的な病理学というのがあるんですが(精神病理学というのは、今で言う統合失調症をはじめとする心の病にかなり苦しんでいる人たちのことを深く理解する病理学なんですが、)そこにおいては、患者の言ってる言葉がまさに現象学者・哲学者とほとんど同じで、言葉は違うけれども書いている事柄がほとんど同じだということがあります。ですから、教育学の領域に入る時には重度の障がいを持った子どもたちから入って、それから普通の小学校の授業に入って、今は乳幼児教育に関わっていますけれども、「こどもから学べ」「障がいを持った人から学べ」「実践に学べ」ということをしております。
そういうことからしても、大澤先生のクラスの高校生たちは、まさに「現象学」が言おうとしていることを物の見事に言い当てています。それは美術の鑑賞に関してはよくわかりませんが、哲学が述べていること、哲学者が述べているようなことを述べているのです。
 
例えば、厚めの本がここにあります。これを、正面から見ても皆さんは「立体」だとわかりますよね。立体だとわかる為には、ぐるっと回すか、自分自身が回って側面を見るかしないと、本当は立体だとはわからないはずです。これが「立体」だとわかるのは、僕がここに居ながらも皆さんの立場に潜在的に立っているんです。直接的には正面からしか見えないけれど、間接的には他の人と共に裏の面を見ている訳です。だから立体的に見える訳です。
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 (※上の画像は、話の内容に合わせて参考用に撮影したものです)
 
今回の大澤先生の発表にはありませんでしたけれども、ある生徒の言葉に「他の人の発言を聞くと、立体的に見えてくる」というものがありました。これが、僕が今、哲学で言ったことが、子どもの中で言われている訳です。
もうひとつ大事なことは、大澤先生もおっしゃっていましたけれど、「主観的だから何でもいい」ではないんですよね。今言ったように、他の人の意見を通して、ある絵が立体的に見えてくる、立体的に解釈するから、一つの絵をいろんな方向から見てるんだと思うんです。一つの絵が平面だから、解釈でもってそれぞれの人が「私はこう見る」「私はこう見る」…であれば、多分バラバラだと思うんです。ところが、「あの人はこう見ている」「この人はこう見ている」というのは、比喩的に言えば「裏側から見ている」「側面から見ている」のです。そうした感覚を生徒たちが得たから、他の人の意見を聞いて、自分の見方が立体的になる…という事が起こったのです。だから、他の生徒と意見が違っていても受け入れられるのです。
それまでの自分の見方は正しくとも平面的だったのが、他の生徒の見方を聞くと立体的に見える。その時の立体的な見え方は、(大澤先生の発表にもありましたが)かなり美術が得意な人の解釈も、そうではない生徒の解釈も、みんな一つの絵を立体的に見るための解釈となり視点となっているのだと思います。これは、まさに僕がやっている哲学で難しい事が書かれているのと方向性が見事に一致しているんですよ。紀要の方では大澤先生が哲学の言葉にひきつけて解釈されていますが、これに接して、どなたが見ても大澤先生たちの授業はものすごく素晴らしい授業だと思います。
 
さっきの生徒のコメントはもっと綺麗な字を書く生徒だと会場の皆さんは思っていませんでしたか? 決してそうとは言えない、しかもプリントの脇にいろいろな事や自分の思いを書いてる、そういうような生徒を育てているという意味でも、もちろん素晴らしい授業です。
授業が素晴らしいのは、単にテクニックだとか先生のお人柄とかだけでなく、哲学者があたかもしゃべって伝えたいようなことを引き出したという、生徒と先生たちの合作かもしれませんが、それ程質の高い授業だったと思います。それくらい、この紀要を読ませてもらった時に感動しました。
そして今日、講演で裏話を聞かせてもらって、立体的だけでなく「奥行き」も出てきました。きたない字で書いている生徒もいれば、綺麗な字で書いている生徒もいる。だけど、みんな生徒たちが奥行きを持っている…という事も感じて、興奮した位に感動いたしました。
長くなってしまい、すみません。以上です。
 
(一條)
 中田先生、ありがとうございました。
 
************************************
この記事ではまず、大澤先生の「高校倫理でやってみた」の実践発表について、中田基昭先生によるコメントを中心に掲載いたしました。
内容はその2に続きます。
 

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大澤先生による発表「高校倫理でやってみた」、この記事で最後になります。
(※引き続き、今回の発表のポイントとなる、大澤先生の授業における生徒の言葉の部分にはアンダーラインを入れて、わかりやすいように区別しています。よろしくお願いいたします。)


そもそも高校倫理の目標、また倫理で芸術を扱う目的というのは、
 倫理→人間としての在り方・生き方を考えさせる科目
    →人生と芸術「芸術的感性を深める」「人生における芸術の意義」
というものでありますが、これが達成できたかどうかというのは、芸術的感性の深化に関してこういう生徒のコメントがあります。
「一枚の絵からこんなに様々なことを感じられるとは思わなかった。作品というものには作者の技とそして作者の強い思いが込められており、それは見る側の人間にとっても大きなメッセージとして伝わり、それは時代が変わっても色あせないものであると、この絵をみて思った」

この絵とは歌川広重の「阿波鳴門の風波」ですが、この班の鑑賞ではいろいろな意見がありました。その中で代表的なものを出していくと、
「渦がメインだが波が岩にぶつかるアグレッシブな絵」
「空が三色に塗り分けられ、夜明けの光景。鳥が飛んでいてそう感じさせる」
「手前に渦潮、奥に陸、現在を越えて課題を達成すべきようなメッセージを感じる」
「波の動きを細かく追求してる」
「浮世絵なのに人がいない」
「青色のグラデーションが空と海とを上手くかき分けてる」
このように生徒から出て来た後で、大澤先生が解説をしていきます。

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「『六十余州名所図会』は、風景を描いたものとしては珍しく全て縦長の図版だ。奥行きを描きたかったのだろう。名所は一種の観光ポスターで、人々を遙かに誘うような役割がある。斬新な構図とトリミングで動きを表現している。グラデーションで絵師の技を最大限に活用しているし、当時最先端の画風で、ドイツで開発されたベロ藍を使っているが、後にヨーロッパでヒロシゲブルーとして評判になる。鳴門海峡は世界三大潮流のひとつ、瀬戸内海と太平洋の水位差は1.5メートルあって、狭い海峡と複雑な地形が影響して渦を巻いているんだ。君たちはちゃんと広重が表現したかったことを読み取っているよね」
と解説をしたら、生徒から
「一枚の絵からこんなに様々なことを感じられるとは思わなかった。作品というものには作者の技とそして作者の強い思いが込められており、それは見る側の人間にとっても大きなメッセージとして伝わり、それは時代が変わっても色あせないものであると、この絵をみて思った」
と出て来た訳です。

もうひとつ、他者を通じて新しい自己を発見する話です。
「他の人の視点と自分の視点とではおもしろいほど着眼点が異なり、その刺激に驚かされることが多く、その刺激からまた新しい自分の考えにつながることも体験できたことの一つです」
「自分の考えを他人を気にせず発言して、他人の意見にしばられることなく素直な感覚で表現すること、この感覚が自分の本質だと気付かせてくれました」
「他人の考えに流されがちで、自分の本質について分からなくなっていた自分に自由というものを教えてくれました」
いずれも最初に「他人の意見によって自分が変わっていく」と書かれています。1番目の意見と2番目・3番目には矛盾するようにも見えますが、「自由」を他者の言葉に対応する柔軟性とか、しなやかさとかと捉えたものだとすれば、率直な感想で矛盾はしないと思います。

「主体的に考えたりする力」というのは、他人を無視する訳でもないし他人の言いなりになる訳でもなくて、やはり柔軟に対応できる力であろうと思います。それは他者との交流の中で自己を発見することだし、自分の「内」と「外」とで自分を磨くことだろうと、冒頭に生徒に解決させたいと述べた事を、自分たちなりにちゃんと体験できてくれたかなと思っています。

対話による芸術鑑賞という時に「間違いということは無いから自由に発言して下さい」というのは必ず言われることですが、その言葉の中に大澤先生が体験させたいと思って実際に授業をやって生徒が体験できたエッセンスが詰まっているそうです。
「主観的だから何でもあり」の自由ではなく、「各人の引き受け方を通じながらも、互いにそれを越えた作品価値を探るしなやかさ」、それが「自由に発言して下さい、間違いということは無いから…」という呼びかけの答えだと思ったそうです。

倫理の教師としてやったことについて、冒頭(その1)に紹介しましたが、人間力を養うということに関して、生徒が次の様に述べてくれたのは大澤先生も嬉しく思い、今後もこの授業を続けていきたいし、倫理の研究協議会でも積極的に発信していきたいそうです。
「視野が広がって、物事をいろいろな視点から見られるようになると、人としての器も大きくなるように思う」
「この授業は、単なる芸術鑑賞という訳ではなく人間力も養われるのだと思う」

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(撮影者:首藤政秀)

最後に、高校美術の現場からという事で、共同研究者の美術の先生の代わりにお話ししてくれました。
学習指導要領解説には「自分の価値意識をもって美術をとらえ、主体的・積極的に鑑賞する態度を身につける」とありますが、「主体的に」と言ってもなかなか難しいです。生徒は多様(美術が好きな生徒、他に選ぶものがない生徒、美大進学も視野にいれて予備校に行く生徒、等)ですし、選択科目としての芸術の問題もあり、時間数も限られてきます。今回の授業は倫理ですから、さらに多様な生徒がいて、中にはそもそも絵が嫌い・興味もないと思い込んでいる生徒もいるような状況です。
ある生徒の述懐です。
「私は以前から絵にはたいして興味がありませんでした。幼い頃は、両親が絵が好きだったのでよく美術館には行っていました。その頃は美術館=疲れる場所だったので絵をじっくり見ることはなく、美術館の中をただ歩いて外のベンチで両親を待っていました」
ご両親は教養を持たせようと思って連れて行ったのかもしれませんが、本人はこういう風に思ったようです。ですが、この授業を2回ほど受けた後で、この生徒は「ナイト・ホークス」が一番好きだと言ってくれましたが、いろいろな発言を聞いて、最後にこう感想を持ってくれました。
「幼い頃は絵をじっくり見ることで何が楽しいのだろうかと疑問に思っていました。しかし、今回この授業を受けてその疑問はなくなりました」
ああ、授業をやってよかったなぁ…としみじみ思われたそうです。

今度は逆に、美術に深く興味を持つ美大志望の生徒で、恐らくワイエスも既に知っていたと思われますが、自分は最初このように無意識のうちに絵を鑑賞していた…と述懐しています。
「美術は自己表現である、それ故に美術作品には作者のメッセージが必ず潜んでいる。だから作品を鑑賞することは、作者の意図を正確に読み取り、正しい見方で作品を理解することである」
そして、生活歴とか自己体験とかではなく、自分の知識に基づいて絵を鑑賞しようとしてたというのです。
ところが、他の生徒が何の知識もなく好き勝手に思った事を口に出していきます。どんどんいろいろな発言が出てきて、作品に肉薄していきます。「クリスティーナの世界」で、「描いた人がクリスティーナじゃないの?」「現在と未来じゃないの?」とか、他の子からいろいろな意見が出て来ます。その子は大変驚きます。
「自分が感じたことを素直に口に出していた。美術作品を鑑賞するとはこのようなやりかたも存在するのだとその時初めて気がついた」
その子の中で新しい気づきが起こります。
「美術を学んでいくうちにいつのまにか出来上がってしまったがんじらめの自分の中の『ルール』に、この授業を受けて初めて気がついた」
「自分のように固まった思考を持たず、個人の自由な観点で作品を受け止めることのできるみんながうらやましかった」
この生徒は、一回目の授業の後で動揺して涙を流したそうです。感受性の強い子で、何らかの影響は与えるかな?と予想はしていたそうですが、大澤先生もここまで大きな影響を与えるとは思っていなかったそうです。美術の先生と一緒にどうしようかと考えたのですが、とりあえずそのままにするしかありません。
そうすると、翌週には気持ちを整理させて自分に自信をつけてきたのか、「先生、またやりましょう。絶対にやって下さい。」と何度も言って来たので、第二回目をやりました。やった後の感想はこうでした。
「しかしそんな経験を通して、そんな自分の思考のあり方に気付くことができた。作品の解釈は人の数だけあり、それもまた作品の一部である、そんな事態が起こってもよいのだと、自分の無意識の『ルール』から解放され、自分はより美術を楽しむことができるようになった」
この生徒にとっては、この授業体験が大きな財産となったようです。

このように対話による美術鑑賞は、美術が大嫌いという生徒にも、美術系大学への進学者にとっても、幅広い生徒に対してそれぞれの立場・それぞれの状態に合わせて、良い影響を与えることができると大澤先生は考えています。

大澤先生は今年都立三田高校に転勤されて、夏休みの講座で3年生向けにこの内容の講座を開講したそうです。センター対策の講座が並んでいる中で、この対話による美術鑑賞に希望者が10名程度集まってくれたそうです。今後も続けていきたいとのことでした。

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多様な生徒の、それぞれの反応を聞いて、対話による美術鑑賞の可能性を改めて感じた発表でした。他教科との連携という意味でも、新たな可能性を感じました。
大澤先生、本当にありがとうございました。

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大澤先生による発表「高校倫理でやってみた」の続きです。
(※前回の記事に引き続き、今回の発表のポイントとなる、大澤先生の授業における生徒の言葉の部分にはアンダーラインを入れて、わかりやすいように区別しています。よろしくお願いいたします。)

 
 他者の言葉を聞くという事について、生徒がどんな感想を持っているかというと、以下のようなものが出てきました。
 「他人の考えと自分の考えの違いを改めて実感しました。他者の視点は、自分の見えなかったものに気づかせてくれるものだと感じました。他者の意見を聞くことで見えてくるものがたくさんあり、また新たな発見をということもありました」
 
他者の言葉が「自分の殻、狭い世界を打ち破るきっかけ」となり、自分からの自由を手に入れるきっかけとなっているのかなと、大澤先生は思っています。
冒頭で述べた「私の中の自由な美術」における女性の発言「自分の『内』だけでなく『外』でも自分の考えが研磨されていく様子が見られるのである」を借りて、生徒の言葉を紹介すると…
 
☆自分からの自由(『内』から研磨される)
「自分の言葉で作った型を他人の言葉が破壊し、新しい意見を、更には意見が合わさり次へ発展していくことにもなりました。他人の意見は自分にとっていわば盲点で見えなかった、見ようとしなかった部分なのかもしれません」
 
☆自分からの自由(『外』から研磨される)
「他者の意見には何度も新鮮な驚きを受けた。自分では思いもよらなかった意見が多く、中には共感しにくいものもあったが、むしろ自分の考えが刺激を受けてより明確になった」
 
生徒たちは自分たちで体験してこのように書けたのだな、と思ったそうです。
 
このように他者から刺激を受けて感想がどんどん深まっていく訳ですが、その為には必要な前提があるだろうと大澤先生は言います。
それはまず、「自分の感想は自分にとって真実である」という事です。他人からの借り物の言葉ではダメで、「他者の言葉」という触媒が化学反応を引き起こしてくれる為には、まず素材である自分の感想が偽りであったら困るという訳です。
素直な思いがあって、他者の言葉があって、作品の本質が見えてくる、それによってまた素直な思いが触発されて…という形で、作品の解釈が深まっていくのかなぁとお考えのようです。
 
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(資料提供:大澤隆)
 
 
生徒に「対話による芸術鑑賞」の授業の感想を書かせた時に、どの生徒からも冒頭にでてくる言葉は芸術論とか難しい話ではなくて、「思い込みから解放された」という喜びです。
「自分は専門家じゃないから飾られているような絵は全部素晴らしい絵で、私が細かく感想を言うことが許されないみたいな思い込みが取り払われたように感じました」
大澤先生は最初に「絵を見て、どんなこまかいことでもいいからね。画面の隅のことでもいいよ。部分がなければ全体がないからね」と言って生徒を励ます言葉をかけていました。そうすると、小学生みたいに「○○が見える」「○○が描かれている」というところから始まり、だんだん話が深まっていったところがありました。
「そもそも絵の知識がない私が有名な絵に対して「素晴らしい」「すごい」「きれい」以外の感情を持ってはいけないものだと思っていた」
こう書いていた生徒もいました。
 
逆に、自己肯定感につながっていった生徒もいます。
「自分の思った意見や感想が多少間違っていたとしても絵をみて自分が感じたことにうそをつく必要はないんだな、と思うとなぜか気持ちが楽になれました」
「前見たのと授業で見たのと感じることが全く違って『私って絵に対してこんなに感じることがあるのか』と思いました」
普段の授業では内職をしたり寝ちゃったりするような子が、この授業の時は生き生きとしているのです。
第一回目の授業の時はさぼっていたんですが、他の子たちが「おもしろい、おもしろい」と言うので、次の授業に参加したらこのような感想をもってくれた…という訳です。ありがたいなぁと思います。
 
素直な思いから作品の解釈が育っていく部分なのですが、「素直な思い」というのは決して何でもありの主観的な思い込みではなく、生徒の感想を読む限り、生徒一人一人の環境であるとか、生活歴とか、大げさですけれど思想・考え方の自然な結果としての産物だと大澤先生は考えています。
対話は、その思いを環境、生活歴、思想込みで競わせる場面(数学のように客観性を競わせるという意味とは全く逆の、見かけの中立を装わない)であるけれど、ただし全てが同じ価値で並列される(みんな平等で同じ)という訳ではないです。感想を聞いていると、人に共有される意見は育っていくし、人に触発されていく事もあれば、単発の意見はそこで終わっていく感じは持っています。みんなに共有される意見というのは、競争の中で勝ち残っていくという表現は誤解があるかもしれないが、そうやって共有されていくんだろうと思います。
 
最後に感想をまとめる段階で、誰の意見を基にするかはすごく意識していて、参加者全員が一様に満足を覚えるようです。そのように化学反応が育っていった感想は、みんなの財産という感じになるようです。
 「グランドジャット島の日曜日の午後」を見たある生徒は、最初こんな感想をもっていました。
「僕はこの絵を見た時にとても感動しました。なんだかよくわからないけど色が柔らかくて、水が透き通っていて、なんだか全体的にきれいでお伽話のようだと思いました。自分でもよく分からないけどぼんやりとした不思議な感覚を感じていました」
そこに、別の生徒が「この絵は死んでいる」と言ってきました。この感想を聞いて、生徒の中に化学反応が起きたと思うのです。「死んでいる」という、ある意味否定的な言葉なのだけど、
「誰かが『この絵の人は死んでいる』と言いました。その時、ああなるほど、確かにそう見えると思いました。後から解説を聞いて人の並びとかが完璧だけど人物に動きがないということも聞いて、自分が絵に感じていた不思議な感覚の正体が分かった気がして楽しいなと感じました」
「絵本のようだ」「時間が止まっているようだ」という意見も出てきました。
否定的な言葉なのだけれど、その言葉に触発されて、この絵の大きな特徴というものを、間に解説を入れて、ぼんやりとしていたところからしっかり理解できたという部分で、化学反応が起きていると感じました。
この生徒は「絵を見るのが苦手だ」と書いてあったのですが、それは時代背景を知らないと絵を楽しめないと思い込んでいたからだということなのですが、最後に
「何の知識がなくたって、ただ絵をボーっと見て、目に見えることを順番に確認していく。そこに他人の意見が混ざって、へぇーとかなるほどとかいろいろな視点で見る。前は退屈していた美術館も、いまならほんの少し楽しむことができそうです」
ということを語ってくれています。
 
******************************
非常に密度の濃い発表で、特に生徒たちの言葉には惹きつけられるものがあります。
大澤先生の発表、記事は「その3」に続けていきます。
「その3」でこの内容は完結予定です。

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