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「日本史の宝石箱」オリエントの都アスカへの道 列島古代史学
真冬の我が居間から見る景色、想像できないほど美しい朝がある。

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仮説B 新羅史の眦雲(びどん・ピダム)の乱を「大化」改新として創作した。
新羅国は、自国の年号「太和=タイ・クァ?」を廃止し、唐の年号(栄徴?)を用いるといういわゆる、売国的行為をおこなった。
大化の改新は、645年「日本書紀」と、眦雲の乱は643年「三国史・新羅本紀」。この経緯は以下のようだ。
新羅は643年に善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。『これは「皇極女帝を亡き者にするから入鹿を殺す」という理由に対応する。
このことが契機となって、新羅国内では、親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の眦雲が女王の廃位を求めて反乱を起こした。:*1しかし、眦雲もろとも数十名が誅殺された。『(蘇我氏の滅亡と対応)。
 乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庾信とは、真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。
金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始めた。*1ウィキぺディアから

『日本書紀では、大化の改新後、孝徳・斉明天皇のもとで、中大兄皇子(金春秋)と中臣鎌足(金庾信)によって、律令制度を整えていった。そして、日本初紀初登場の年号「大化=タイ・クワ?」を制定した。?」仮説C 新羅国自国の最後の年号「太和=タイ・クァ?」≒日本初紀初登場の年号「大化=タイ・クワ?」
[『8世紀〜9世紀、古代日本では、中国から直接渡来してきた古代中国音を「漢音」という。
それ以前は半島経由のすでに朝鮮化した中国音を「呉音」という。]

『湯沢質幸 『古代日本人と外国語』勉誠出版 平成13年シリーズ1 p132〜から
古代中国音を「漢音」という。漢音のルーツははっきりしている。
[7世紀の半ば以降遣唐使などが始まったが、そのときもたらされ、首都長安の音だ。
朝鮮半島の百済音は、呉音だったようだが、新羅国ではどうだったのか?わからない・
呉音とは、呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは、朝鮮半島経由で伝えられたといわれる。2つの説がある。
 。機腺鏡さ、上海や南京経由であるということ。南方経路
◆…鮮半島から、仏教伝来に象徴されるように、中国文化は、当時、百済、新羅、高句麗経由で日本に渡来したことから、北方経由。現在△遼綿説の確率が高い。]*参考文献忘れた!残念!  
『日本書紀』が編纂され始めたのが681年、完成が720年だから、漢音で読む支配層のグループのほうが多かったかもしれない。
新羅は北魏とのつながりも多く、元々半島は中国人の移民が住み着いて国ができた地域だから漢語の人々が多かった(推理)。
漢音では、「太和=タイ・クァ」だから、日本初紀初登場の年号「大化=タイ・クワ?」
ここで誰が書いたかを問題にすれば、『日本書紀』は、森博達氏によれば、中国帰化人が書いたと思われるα群と、日本人が書いた漢文としての誤りが多いβ群に分けられるという。
β群を書いたのは百済帰化人(推測)、α群を書いたのは、660年に百済から献上された唐人俘虜の薩弘恪・続守言だということであり、問題は彼らが中国のどこの方言を話していたかだ。
唐から百済に攻め込むなら、一番近い山東・遼東から兵を徴発したはずで、山東方言を話していた可能性が一番濃厚だが、それは、他に資料がない以上確実なことは言えない。
大化の改新のかかれている巻24は、唐人によって直接中国音でかかれたので漢音だったはずだ。呉音の話し手は、唐・新羅側にはいなかった。
よって、「太化」は、漢音で「タイ・クァ」と発音したという推理が可能だ。
しかし、日本書紀改ざんがあったとされる8世紀の日本では、「タイ・クァ」≒タイ・クワ=「大化」となったのではないか
なお、現在の日本語と極めて近い発音は古代の百済音であるという。私は、復元したその音を聞いて確かめました。

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