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ハードとソフト

早大OB集団が株価操縦
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=903642&media_id=10

ハードがいくら優秀でも、それを使う人たちのソフトが悪ければ、悪用されるという証明のような犯罪です。

資本主義の優劣社会が浸透し、

おかしな事件が増えた。


中国の人との会話で、日本人のおかしいところはどこですか。

と聞くと、

間違っても、子が親を、親が子を殺す犯罪は考えられない。

確かに強盗などの犯罪は多くあるが、その大半が、生きるために行う犯罪であることが多い。

核の問題もそうだが、優秀なハードというものは、危険性が付きまとう。

それは、料理人の包丁と同じように、

いくら、包丁というハードが優秀であろうと、

料理人の使う包丁と、殺人者の使う包丁では、大きな違いがあるが、

持っている道具は同じなのである。

また、逆にハードの優秀さに頼っている現代はさらに危険な状態へと向かっているということになる。

ハードというものは、使う人間の使い方一つでよくも悪くもなるということである。

それは、そのハードを使うときに、そのものを使う怖さを知っているかどうかということである。

そのハードが生み出す、危険性をないとする論調は、
先のこんにゃくゼリーなどでもわかるように、ハードが悪いからということでハードを悪とする論調である。

であるならば、車や包丁、薬などもすべて悪となる。

これらで、なくなった人だけでいえば、こんにゃくゼリーの比ではない。

この問題が大きくなった原因は文明社会の自己都合的解釈でしかない。

今回の事件もそのひとつである。


(アントニ・ガウディの直筆の本の中に、ハードだけでは付加価値はつかないとかかれている。)


人は怖さをわすれたとき、理性を失い欲望の赴くまま行動する。
怖さを知り、理性を働かせ知性を身につけていかなくては、人は動物にも劣る下等な生き物へとなるのではないだろうか。

現代社会は、恐怖というものがかんじられなくなってきている。

それは、臓器移植法案にも現れている。

生きるということは生存権として当然の権利であるが、
提供者にたいして、拒否権という言葉を使うあたり、提供者側への生存権が侵されているという認識が欠如していると言わざるを得ない。

医療の発達は、今や万能であるかように感じられているが、
人はそれによって死というものから逃れるという解釈はしてはいけないのではないだろうか。

安心・安全というものは人を堕落させるために使われてはならないのである。

動物には扁桃体というものがある。

これが恐怖を感じるところである。

猫の扁桃体というものを働かなくさせた雄、雌それぞれ二匹を同じ檻に入れたところ、完全にそれらの猫は欲望をむき出し、目も当てられない状態になったという。

恐怖を消すということは理性が働かなくなるのである。


ハードとソフトのなかで、本当の必要なことは、ハードの危険性を知るべきではないだろうか。

また、その危険性を悪用することに対し、罪を重くしなければ、いけないのではないだろうか。

なかなか、難しい問いではありますが、


個性とは、個人主義とは違うように思います。




ん?




と思われる人は多いのではないでしょうか。




確かに、好き、嫌いというものはその人の主観によって判断されるものであるので、


他人がとやかく言えるものではない。




しかしながら、最近特に気になるのは、




無関心によって、社会が崩壊し始めているように思える。




なぜか、




人は一人で判断し、行動し、生きているような感覚に陥っているが、




実は




そうではないのだということを知らないだけではないと思える。




日本には、”人間”という言葉がありますが、


この言葉は本来、人が二人以上初めて”人間”といえるのです。


人は人間にあらず、人間は人と人の間に生まれる社会を表す言葉である。




また、地球上の無数に存在する生命というものの、人は一つに過ぎないのだという事実を忘れてはいないだろうか。


無数の生命の誕生と、絶滅の中に人が存在しているだけだということを忘れてはいないだろうか。




人には、三大欲が存在するといわれる。


睡眠欲、食欲、性欲、




人は記憶力を持ち、言葉を開発し、目を進化させ、


人は大きく進化し、文化を創り、文明を進化させ、歴史を持つに至った。


しかし、これらが大きくなるにつれて、人の欲望も大きくなり続けているのです。




これは、私の個人見解ですが、


人は欲望を満たす行為に至る際にほとんど思考を必要としない。


欲望を支配するために人は思考を必要とするのである。




そのためには、人を理解することに教育が必要なのではないでしょうか。


先人の人たちは、絶えず、自然の驚異にさいなまれ、魅了されてきた。


自然を知るための努力というものを怠ることなく、自然の前に謙虚であったように思える。




しかし、産業革命以降は人の自己都合によって、世の中は大きく変わってきたのでは無いだろうか。




その中で支配していく一つの価値観。




   優劣  という価値観




文明社会の、”優劣”という価値観




しかし、文化という自然の摂理に従順な自体は、その土地の気候風土によって


   差異  という価値観


文化社会の、”差異”という価値観




文化は自然に従順であるが、


文明は何に従順であるのだろうか。






従順なものを持たなければ、実は文明社会とはならない。


それは、野蛮社会になってしまうのです。




個性という言葉は大変難しい質問であります。


しかし、個性とは個性を認めることができる人が個性があるといえるのではないでしょうか。




これぞれの”個”という存在を愛おしく思い、認める力を持つことこそが


真の個性ではないでしょうか。


これは理想なのかも知れませんが、それに近づくことで、心豊かに過ごせるのではないでしょうか。

人間の目は100万画素

人間の目はすばらしい。

こんなに高精細で、しかもリニアに処理されている。

と考えると、

実は人間は脳にそういう風に感じさせられていることに気づく。

デジカメは1000万画素、2000万画素と高精細に技術進歩しているが、

実は人の目は100万画素しかないという。

しかし、人間の目はなんといつもきれいな画像を脳に提供してくれているのだろうかと

思っていると、、、、

デジカメなどの取り込み時間が無いことに気づかされる。

どうしているのだろうかと考えていると、

実は、100万画素のデータのほとんどは捨てられ、15%をメインに処理しているという話を聞いた。

その上で、15%のフレッシュな情報と、85%は記憶と照合し、脳に感じさせられているのだというのだ。

確かに、それならば自分の感覚にも説明がつく。

人間の目、脳すばらしい機能を持ちながら、

文明に囲まれ、自然という情報量の豊富な世界から、文明という情報の乏しい世界へ移ることで、

人類の視覚機能は退化していったのかも知れない。

これには、もう一つ面白い話がある。

それは北斎の荒々しい波の絵ですが、実はあれはデザインと思われていたが、

5000分の1秒のハイスピードカメラで、波のくづれる瞬間をとると

同じような波の形になることが最近わかった。

ということは、あれは創造ではなく、その一瞬を見ていた可能性が考えられるのである。

人類のポテンシャルはまだまだ、奥が深いようです、、、、、

ガリレオ・ガリレイ

言葉や属性こそ、物事の本質に一致すべきであり、逆に本質を言葉に従わせるべきではない。
というのは、最初に事物が存在し、言葉はその後に従うものだからである
ガリレオ・ガリレイ

上の言葉を読めば、読むほど最近の日本は上とは逆のように思える。

それ以上に言葉の意味すら薄れてているのではないだろうか。

イメージ 1

優秀な人材とは、知識、経験、知恵の優秀な人のことを一般的にはさしているのだろう。

しかし、本来それらは、道具であり、それ自体が優秀であるかどうかの問題よりも、それらを扱う人間性の問題のほうが大きいのである。

要するに、料理人の持つ包丁、と殺人鬼が持つ包丁、どちらも切れ味鋭く優秀な道具であるが、持つ人間によって、極端にいいものも単なる凶器へと買えてしまうのである。

給料が高くないと優秀な人材が集まらないというが、
それこそ、ペテンではないか。

今の現状がそうなのであれば、もっと国は良くなっていていいはずである。

しかし、そうなっていないのは、なぜだろうか。

それは、効率的な運営ではなく。
事なかれ主義、資本論による国家運営の最たる結果ではないのか。

国の仕事は、景気に敏感で、消費を刺激することになるのではない。
所得再配分、教育、医療、外交を中心に、
国の将来を担う若者の可能性を最大限広げること
心豊かな生活を送れる社会
など、このあたりはもう少しあまりうまくはいえないが、

少なくとも、今の姿が国のあるべき姿ではない。

日本の高度経済成長のピークは75年には終わっていたのです。

85年のプラザ合意の転換点で、大蔵省などは、金勘定だけでなく、もっと現実と未来を見た上で、政策決定すべきであった。

戦後の住宅政策は、足りない中での緊急性を要していた中で、建築基準法などが作られ、進められてきたが、それも、85年の住宅バブル期にはその緊急性は失われたのである。

住宅需要を維持するために減税政策などを推し進め、世帯分離によって、本来無いはずの需要を維持してきたわけですが、これが結果的にコミュニティーの破壊につながり、地域の崩壊へと発展してきたわけです。

そのツケは、バブル崩壊として払うわけですが、そのときに景気刺激の名の下に地方債の乱用などから、地方財政の悪化につながったのです。
そういうことからすれば、バブルのツケは国民に背負わせただけの話です。

いま、世界恐慌的な不況になっていますが、これは、ただ単にお金の信用が崩壊しただけの話です。

88兆からの一般財源による国家予算は、借金によってまかなわれます。

収入が伸びない中で、拡大していく予算。

こんな予算を組む人たちが優秀といえるのでしょうか。

理性とは考え行動する力の事である。

勉強とは、世の中のマヤカシを見抜くためにするのである。

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