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『男はつらいよ』シリーズでは、お馴染みのレギュラー陣の他に、「準レギュラー」と言っても差し支えない常連の役者さんたちが、様々な役で登場してきました。 その中の1人に、寅さんのテキヤ仲間、通称「ポンシュウ」役を主に演じ、去る8月23日に78歳で亡くなった関敬六がいます。 昭和2年に栃木県に生まれた関敬六は、戦時中は陸軍特別幹部候補兵、すなわち特攻隊員として従軍し、インドネシアのジャワ島で終戦を迎えます。数年間の抑留生活を経て、昭和26年に法政大学専門部を卒業。「エノケン」こと喜劇界の重鎮・榎本健一率いる「エノケン劇団」を経て、ストリップ劇場の「浅草フランス座」所属の役者となり、ここで同年代で生涯の友となる渥美清と出会います。 昭和34年、渥美、そして同じく浅草の役者仲間であった谷幹一と共に「スリー・ポケッツ」というユニットを結成し、お茶の間でも人気を博しますが、間もなく解散。その理由は、「友情は不変だが頼むから俺を1人にして欲しい」という渥美清の意向があったからだそうです。その後、『オバケのQ太郎』(昭和40年)や『スーパースリー』(昭和42年)などのアニメの声優としても活躍し、また昭和50年には自らの劇団を結成し、浅草を中心に活動を展開しました。因みに、今ではダチョウ倶楽部の定番ギャグのイメージが強い「ムッシュムラムラ」というギャグの元祖は、実はこの人なんだそうです。 「スリー・ポケッツ」解散後、テレビ・映画で売れっ子となった渥美清が、昭和44年から始まった『男はつらいよ』シリーズに主演するようになると、親友である関敬六もシリーズの常連として出演するようになります。第1作では、さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚披露宴の司会者役で登場。博の父親(志村喬)を紹介する際に、「諏訪…、諏訪ン〜一郎様」(実際には「ひょういちろう」と読む)と読み上げるシーンと、披露宴の最中に寅さんに外へ連れ出されてドヤされるシーンが印象的でした。 第26作『寅次郎かもめ唄』(昭和55年)からは、寅さんのテキヤ仲間、草野球帰りのとらやの客、チンドン屋、タクシー運転手など様々な役で毎回登場するようになります。 関敬六=ポンシュウが完全に定着するようになったのは、第35作『寅次郎恋愛塾』(昭和60年)辺りからで、以後、最終作である『寅次郎紅の花』(平成7年)まで、ほぼ毎回、全国各地を旅しながら「バイ」に励む寅さんとポンシュウの姿が映画の中で描かれました。 年号が「昭和」から「平成」に代わり、シリーズも40作を超えた辺りから徐々に渥美さんの体調が悪くなっていくと、ロケでは常に渥美さんを気遣っていたのが関さんで、また限られた友人としか交際しなかった渥美さんが、一番心を許していたのも関さんだったそうです。山田洋次監督は、関さんと渥美さんが喋り、そして歩いているだけで独特の世界となり、そのままで絵になると語っていたといいます。 ここまで書いたように、関敬六さんと渥美さんとは若い頃からの文字通り親友であり、それは映画の中での寅さんとポンシュウの比ではありませんでした。渥美さんが平成8年8月4日に世を去った時にはショックで倒れて2ヶ月ほど入院し、その後も月命日に墓参りを欠かさなかったそうです。渥美さんが亡くなってちょうど10年、しかも同じ8月に亡くなったことにも因縁を感じてしまいます。
今頃は10年ぶりに再会を果たした「渥美ちゃん」と、天国で思い出話などに花を咲かせていることでしょう。 |

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う〜ん。関敬六さんは、私などがテレビで知っている、浅草芸人の最後の生き残りだったのかも知れませんね。・・・こんな事書くと、じゃあ、萩本欣一は?ビートたけしは?ってなっちゃうんですが・・・。上手い表現が思い付きませんが・・・欣ちゃんにしろ、たけしさんにしろ、メジャーになり過ぎちゃって、今も「くじら屋」で煮込みを食っている、浅草芸人の、売れないけれども、情け無いほどの喜劇へのこだわりってものが・・・本質的にはあるんだけれども、一般的には感じさせない。すいません。250字では、上手くまとめられない^^。
2006/10/9(月) 午後 2:21
実際、関さんという方は最後まで浅草の芸人さんたちの「まとめ役」を務めておられたそうで、文字通り「最後の浅草芸人」という呼ぶに相応しい方だったと思います。渥美さんも「寅さん」によってメジャーになり過ぎた観がありますが、数少ない親友であった関さんとの『男はつらいよ』シリーズでの共演は、どのシーンよりも楽しんでいたのではないでしょうか。
2006/10/9(月) 午後 4:06 [ mannennetaro2005 ]