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浅井長政という人は、戦国武将の中では比較的知名度の高い人物でしょう。 しかし、長政の知名度というのは、織田信長の妹・お市の方の夫としてのそれであり、長政その人の実像について語られることはあまりにも少ないように思われます。 戦国大名浅井氏の歴史は、長政の祖父・亮政(すけまさ)から始まります。 浅井氏は、元々北近江の守護大名を務める京極氏の譜代の家臣でしたが、主家と対立した亮政は、京極氏の御家騒動に乗じ、国人一揆によって京極氏の家政を執ることになります。その後、京極氏を傀儡化した上、その有力家臣たちをも従えて戦国大名へと成長します。勢力拡大を図る過程で南近江の六角定頼と対立した亮政は、越前の朝倉氏と同盟と結び、その支援のもとに六角氏の攻勢を押し返して北近江の勢力を固めます。この時の「同盟関係」が、それから2代後の長政の運命を左右する結果となります。 亮政の後、久政の代になると、周辺の京極・六角、それに美濃の斎藤氏から度々侵攻を受け、特に六角義賢(よしかた、定頼の子)に圧され、雌伏を強いられます。この時幼少期にあった久政の嫡男・新九郎は、元服に際して六角義賢から一字を与えられて「賢政」(かたまさ)という名を名乗らされ、更に六角氏の重臣の娘を正室として娶らされます。しかし、このような状況に不満を持った家臣達は、久政を強制的に隠退させて賢政に家督を継承させることを画策。永禄2年(1559年)、15歳の賢政は浅井家の実権を握った上、正室を六角氏に返上。名を「長政」と改めます。翌永禄3年(1560年)8月には、六角義賢を近江野良田表で破った長政は、北近江の戦国大名としての地盤を確立します。これより少し遡る同じ年の5月19日、上洛途上にあった駿河の今川義元が、田楽狭間で織田信長に討たれています。 永禄6年(1563年)、六角氏に内紛が起こると、長政は叛乱勢力を支援して軍勢を出し、同年、美濃遠征の留守中に六角氏が兵を動かすと、一斉に帰還させて六角軍を撃破します。永禄11年(1568年)頃には勢力圏を近江のほぼ全域に拡大。家臣団編成や商業政策など、領国支配を堅固なものとする政策を打ち出し、「湖北の驍将(ぎょうしょう)」と呼ばれるまでになります。 尾張・美濃を平定したばかりの織田信長と同盟を結んだのは、ちょうど近江のほぼ全域を勢力圏とした頃でした。同盟を結ぶにあたって最大の問題となったのは、織田氏と、これも同盟関係にある越前朝倉氏との対立で、「同盟がある限り、織田は朝倉に進軍しない。また、どのような事態でも朝倉に進軍する時は必ず一報を入れる」との条件が付けられました。この時、信長の妹・お市を正室として迎えます。これは当時の典型的な「政略結婚」でしたが、2人の仲は睦まじく2男3女を設けるほどでした。長政にとって、思えばこの時が人生で最も幸せな時期だったのかもしれません。しかし、元亀元年(1570年)、信長が朝倉義景を攻めたことで長政の運命は一変。自ら決断した信長との同盟と、父祖以来続く朝倉との同盟という2つの同盟関係が長政に重くのしかかります。結局、朝倉との同盟関係を重んじた長政は信長に背き、織田・徳川連合軍を背後から急襲。この時は信長を苦しめますが、同年6月の姉川合戦では織田・徳川連合軍に敗れます。その後、朝倉義景や摂津石山本願寺、それに甲斐の武田信玄らと「信長包囲網」を形成し、約3年間に渡って信長との戦いを繰り広げられますが、天正元年(1573年)8月28日、居城の小谷城を攻められた長政は、お市の方と3人の娘を信長に渡して城と運命を共にし、ここに3代続いた近江浅井氏は滅んだのでした。浅井長政、この時29歳。 長政の死の翌年、正月の祝いの席で、信長が長政と父の久政、それに朝倉義景の3人の髑髏を金箔の盃にして家臣たちに酒を飲ませたという逸話は、自らに背いた者を死後も虐げる信長の冷酷残忍な一面を伝えると同時に、長政の哀れさや無念さも際立たせていると言えます。
しかし、長政の「遺産」はその後の歴史に脈々と生き続けます。3人の娘のうち、長女・茶々は豊臣秀吉の側室・淀殿に、二女・初は京極高次の妻に、そして三女・お江(小督)は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の妻となり、その娘・和子(まさこ)は後水尾天皇に入内して明正天皇を生み、その血脈は天皇家にまで受け継がれて行きました。 浅井長政に、従二位・権中納言が孫にあたる江戸幕府3代将軍・徳川家光から追贈されたのは、その死から約60年後の寛永9年(1632年)のことでした。 |
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浅井長政が織田信長を裏切ったのは、朝倉との同盟を重んじたというのもあるんでしょうが、まさにあのタイミングなら信長を討てると考えたからではないでしょうか? 信長との同盟を続けてその天下とりを助けるよりも、自らが天下とりに名乗りを上げようとしたのではないか、ということをチラっと思ったんですが……浅い考えでしょうかね^^;
2007/3/14(水) 午前 1:45
長政自身は、天下取りに名乗りを上げるという望みは持っていなかったと思います。しかし、自らの力で領国を勝ち取り勢力を拡大して行ったという自負心があり、それが信長を裏切る遠因になったのではないかと思っています。
2007/3/14(水) 午後 10:09 [ mannennetaro2005 ]
本人自身は悲劇の死でしょうが残した「遺産」は凄いですね。
2007/3/15(木) 午前 9:37
天下統一へ向かう過程の中で滅ぼされた長政の「血」が、泰平の時代を迎えてからも様々な形で受け継がれて行ったことは皮肉であり、またそれも歴史の面白さであると思います。
2007/3/15(木) 午後 9:12 [ mannennetaro2005 ]
お久しぶりです、寝太郎さん♪ 浅井家ですが、多分、父親である久政を代表とする旧勢力を駆逐してさえいれば、あのまま安泰だったかも知れませんね。信玄のように国外に放逐するとか、宗麟のように暗殺するとか(二階崩れはやっぱり宗麟が黙認したように感じます)いった具合に、上手く処理してればあんな悲惨な末路は辿らなかったのでは?
2007/3/20(火) 午後 5:56 [ kagome ]
カゴメさん、こちらこそお久しぶりです。信玄や宗麟のような「非情さ」がなかったことに、長政の「限界」があったのは確かでしょう。仮に信長と手を組んで「天下布武」に力を貸したとしても、やはり悲惨な末路を辿っていたのではないかとも思います。
2007/3/20(火) 午後 9:26 [ mannennetaro2005 ]