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今日は、「落語研究会」の歴史について書いて行こうと思います。 といっても、これから書くのは、所謂「オチケン」の歴史についてではなく、そうしたものが出現するずっと前からあった「落語研究会」の歴史についてです。 「落語研究会」が初めて誕生したのは、明治30年代の東京でのこと。当時の東京落語界は、三遊派の三遊亭圓朝、柳派の談洲楼(だんしゅうろう)燕枝など、主に本格的な人情噺を得意とした大真打が世を去り、「ステテコの圓遊」こと初代三遊亭圓遊に代表される、滑稽噺を得意とする人気者たちが主流を占めていました。今日でこそ初代圓遊は「落とし噺」の水準を高め、落語を大衆へより浸透させた功労者として評価されていますが、この時代はその亜流が続々と出現する一方で、「正統派」「本格派」と呼ばれる噺家たちは苦境に陥ります。これに危機感を抱いた初代三遊亭圓左(えんさ)は、落語・講談速記者の今村次郎と相談。明治38年、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、二代目三遊亭小圓朝、三代目柳家小さん、圓左の6人が会員、岡鬼太郎、森暁紅(ぎょうこう)、石谷華堤(いしがやかてい)らの文人たちが顧問となって、第一次「落語研究会」が発足。この年の3月11日に日本橋の常盤木倶楽部で第1回公演が開催されました。当初、このような地味な落語会には客は来ないだろうと思っていましたが、いざ当日になると会場は超満員。6人の噺家たちは大いに感激し、落語を熱演したのは勿論、客の履物を管理する下足番まで自分たちで務めたといいます。第一次「落語研究会」の成功によって正統派の話芸が再認識され、大正12年9月1日の関東大震災で中断を余儀なくされるまでの18年間、多くの名手を輩出し、明治末期から大正にかけて東京落語界は黄金時代を迎えます。 大正時代は、活動写真(映画)や蓄音機などの出現で新たな娯楽が発達したことで寄席興行はそれに押されて行きますが、落語自体は「落語研究会」の人々が中心となって継承されました。関東大震災で第一次「落語研究会」が中断され、元号が「昭和」となって間もなく、昭和3年3月11日に第二次「落語研究会」が発足。太平洋戦争の激化で昭和19年3月に閉会するまで、足掛け16年、全179回の公演が開催されました。第三次「落語研究会」は、終戦後の昭和21年2月3日に発足しますが、世相の混乱のためすぐに中止。昭和23年10月9日、第四次「落語研究会」が発足。こちらは昭和33年4月19日の第105回で休会(解散)となるまで約10年続きました。 第四次「落語研究会」が開催されていた昭和20年代から30年代は、ちょうど民間放送が続々と開局した時期と重なり、家庭でも気軽に聴けるようになったことも手伝って落語は再び黄金時代を迎えた上、広い次元に進出するようになります。そうした中、昭和43年3月14日、TBS主催で第五次「落語研究会」が発足。以後、毎月1回、東京・隼町の国立劇場小劇場で開催され、今日に至っています。東京では、ここでの高座が毎月1回、TBSテレビで「落語特選会」として長年放送され、現在ではTBS系のBS−iに放映が移り、毎月最終土曜日深夜0時に放送しています。 5度に渡る「落語研究会」の結成について、「ややもすれば漫談・漫才・放談化しそうな伝統話芸としての落語の変容を防ぎ、伝統継承の姿勢を堅持することが出来た」と評価される一方、今日の「古典落語」の概念を生み、落語が文化遺産として固定してしまったという見方もあります。いずれにしても、明治後半から現在に至るまで、落語という芸と伝統の継承、そして歴史の保持に寄与したという点で、「落語研究会」の存在は大きいと言えます。
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