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上方落語界にまた1つ、歴史のある大名跡が復活します。 「五代目桂米團治」。 桂米朝師の師匠であった先代米團治が、昭和26年に亡くなってから58年目にあたる来年10月、その米朝師の長男である桂小米朝さんがこの名跡を襲名することになりました。 先代である四代目桂米團治は、五代目笑福亭松鶴、二代目桂春團治らと共に戦前から戦後にかけての上方落語を支えた人で、その芸は、米朝師と同門だった桂米之助師(故人)の文を借りると、「地味で陰気な高座だったが堅実で格調の高い芸風」だったそうです。珍しい噺を多く持ちネタにしていた一方で、漫才の台頭によって危機的状況に瀕した上方落語を守るため、五代目松鶴が主宰する「楽語荘」に参加し、雑誌『上方はなし』の編集、執筆に携わり、また、副業として行政書士の資格を取って代書屋を営んだ経験を基にして作った落語「代書屋」は、現在では上方だけでなく東京でもポピュラーな噺として演じられています。 学生時代から、作家で演芸評論家の正岡容(まさおか・いるる)の下で落語研究家を目指していた中川清青年(本名)が、四代目米團治に入門して落語家になったのは昭和22年9月。米團治を師匠に選んだ理由は、五代目松鶴と二代目春團治がそれぞれ自分の息子を後継者に考えているのに対して、米團治は珍しいネタを沢山持っているのに弟子らしい弟子がいなかったからだそうで、先程登場した米之助師は年齢は米朝師より3つ年下ですが、入門は1ヶ月早かったそうです。余談ですが、この桂米之助という人は、大阪市交通局へ定年退職するまで勤務しながら落語家としての活動を続け、若手落語家の育成にも尽力し、本名の「矢倉悦夫」から「悦ちゃん師匠」と呼ばれ慕われた、上方落語界の「陰の功労者」と言うべき人でした。 米團治門下となった米朝師が、師匠から「桂米朝」という芸名を貰ったいきさつと逸話について、自叙伝の『桂米朝 私の履歴書』(日本経済新聞社)の中で面白いことが書かれています。入門して間もないある日、中川青年は師匠から「あんたには米朝の名前をあげよう」と言われます。いずれ時期を見てというつもりだったそうですが、米朝師自身はその場で頂いたものと思い込んでしまい、早速最初の師匠である正岡容に報告したところ、折り返し正岡から米團治へ「早速中川が結構な名前を頂戴したようで」と礼状が届き、そうなると「先の話」とは行かなくなり、米團治から正岡へ「中川は正岡先生のお弟子でもありますから、この際、特に三代目米朝とします」と返事を書いたことで、ここに「三代目桂米朝」が正式に誕生したのだそうです。 「桂米朝」をいう名跡は、四代目米團治の師匠であった三代目桂米團治の前名で、四代目は米之助から米朝を継ぐことなく米團治を襲名したそうです。そして、「三代目」となった米朝師は、師匠の名跡を継がなかった代わりに、「桂米朝」という名跡をより高めながら今日まで至ってきました。 「五代目桂米團治」に関しては、一時は米朝門下で知名度はやや低いものの、早くからその実力が認められてファンも多かった桂吉朝さんが襲名すると言われていました。しかし、落語家としてまさにこれからという時に病に倒れた吉朝さんは、平成17年11月8日、50歳の若さで亡くなってしまいます。最後の高座となった、この年10月27日に行なわれた国立文楽劇場での「米朝・吉朝の会」で、吉朝さんは「弱法師」という噺を演じましたが、この噺が大師匠にあたる四代目桂米團治の作であったということに、何とも皮肉なものを感じてしまいます。 このように「紆余曲折」もあった「五代目桂米團治」の名跡ですが、この度いよいよ復活という運びとなりました。
五代目を襲名する小米朝さんは、クラシック音楽に造詣が深く「モーツァルトの生まれ変わり」を自称したり、オペラと落語を融合した「オペらくご」を披露する一方で、役者としても活躍しています。因みに、「先代桂小米朝」が現在の月亭可朝であることは、上方落語ファンの間ではよく知られています。 ともあれ、「米朝」を飛び越える形で襲名する「五代目桂米團治」が、「三代目桂米朝」という偉大な父であり師匠を超えることが出来るのか、そして、「米團治」という名跡がより大きなものになるのか、大いに注目して行きたいと思います。 |
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本当に大きな名跡ですね。
小米朝の若旦那は様子が良い上、大層粋な方だと伺いました。
先代の米團治とは随分と趣の違う当代になるようですが、若旦那らしい名跡だと思いました。
吉朝さんの早逝や文枝師匠のことなどで、ここ数年哀しげなお顔しか拝見していない米朝師匠も、少しはほっとなさるかもしれませんね。
2007/7/20(金) 午前 10:45
当初「五代目」を襲名すると言われていた吉朝さんが亡くなった時、「米團治」という名跡も埋もれてしまうのかと思ったものですが、小米朝さんが継ぐことになったことを知り、驚き以上に正直ホッとしました。
大名跡を継ぐことに対するプレッシャーというものは多少たりともあると思われますが、これからも自分の個性というものを前面に出してくれることを期待しています。
2007/7/20(金) 午後 9:38 [ mannennetaro2005 ]
私も吉朝さんが亡くなられて米団治の名跡復活は立消えたと思ってました。
五代目の活躍、期待しましょう。
2007/7/24(火) 午後 2:45
吉朝さんの「五代目米團治」が幻に終わってしまったことは残念でしたが、今回、小米朝さんが五代目を継ぐと知って、「落ち着くところに落ち着いた」という印象を強く感じました。
2007/7/24(火) 午後 11:02 [ mannennetaro2005 ]
上方落語は詳しくないのですが、これだけ活躍していて「小」米朝はちょっとかわいそうと思っていたので、このニュースには納得です。ただ、いずれは吉朝>米団治、小米朝>米朝と思われていただけに、そうなれば「米朝」の名は…?
2007/7/25(水) 午後 5:37
「米朝」の名前はもしかすると「永久空席」になるような気がしています。しかし、今は当代の米朝師匠がいつまでもお元気で活躍されることを願ってやみません。
2007/7/25(水) 午後 10:43 [ mannennetaro2005 ]
万年さんは、上方落語にも、東京の落語にもお詳しいので、頭が下がります^^
私は、はっきり云って、東京の落語界しか知りません^^。私は、子供の頃から特に落語が好きだった訳ではなくて・・・私と同年代の団塊の世代の方ならお判りいただけると思いますが・・・テレビはまだ、一般家庭にはなくて、夜の家庭の娯楽は、真空管のラジオだったのです。
その時代は、ご承知のように、上方落語には、噺家さんが十数人しかいなかった時代です。だから、当時の子供は、ラジオから流れる東京の噺家しか聞けなかったのです。その頃のスーパースターは、先代の三代目 金馬さんです^^
2007/8/19(日) 午前 8:29
藪さんの子供の頃は、ちょうど戦後の東京落語黄金時代だったんですね。
同じ時代の上方落語界は、五代目松鶴や二代目春團治などの大御所が立て続けに亡くなってしまって、二代目春団治が亡くなった時には「これで上方落語は滅んだ」と新聞に書かれるほどだったそうです。
そこから上方落語を蘇えらせるために奔走し、現在の隆盛にまで導いて行った六代目松鶴師や米朝師などの苦労ぶりには、本当に頭が下がります。
そうした落語にかける思いが、米朝師の長男である小米朝さんなどの世代にもしっかりと受け継がれていることを嬉しく思います。
2007/8/19(日) 午後 10:41 [ mannennetaro2005 ]