万年寝太郎徒然日記

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『圓生百席』の時代

9月3日は、明治33年のこの日、昭和を代表する落語家の1人である六代目三遊亭圓生が生まれた日にあたります。
そして、同じく昭和54年のこの日、79年の生涯を終えた日でもあります。

芸歴の長さと噺のレパートリーが豊富なことにおいて、六代目圓生の右に出る人はいませんでした。
5歳の頃から「豊竹豆仮名太夫」という芸名の義太夫語りとして高座に上がり、明治40年頃に伊香保温泉の石段で転び心臓を強打したのが原因で落語家に転向した圓生は、邦楽全般から日本舞踊、それに歌舞伎など落語家として必要不可欠な素養を完璧なまでに身に付け、それが豊富なレパートリーへと繋がって行きました。子供の頃から培ってきた素養に裏打ちされた圓生の落語は演劇的要素が強く、持ちネタの多さでも群を抜き、そのジャンルも、滑稽噺、人情噺から怪談噺、音曲噺、芝居噺に至るまで幅広く、しかもその殆どが水準以上の出来で、本人曰く「1年365日、毎日ネタを変えることが出来る」と豪語していたと伝えられています。
その圓生の芸域の幅広さと膨大な数の持ちネタを今日まで伝えているのが、昭和48年から54年にかけて収録が行なわれ、発売されたレコード『圓生百席』(ソニー)です。

『圓生百席』は、寄席や落語会などのライブ録音ではなく、延べ100余りの演目全てを観客なしのスタジオで録音した落語全集です。つまり、圓生個人の芸を後世に残すことに主眼を置いて作られたといっても過言ではなく、それはそのまま六代目圓生という1人の落語家の芸の集大成ともなりました。
録音が始まった昭和48年、圓生は3月に昭和天皇・皇后はじめ皇族、皇室一家の前で「御前落語」を口演。9月21日には、既に引退状態にあったものの絶大な人気を保っていた五代目古今亭志ん生が83歳で亡くなり、名実共に圓生が落語界の第一人者となります。70歳を超え、落語家として最も充実した時期を迎えたこともあって、録音も順調に進み、多い時には1週間に3日も録音することもありました。しかし、録音に意欲満々でありながら、そこは「人力車のむかしに青春を送った人」だけあって、常に悠然と構えていたそうです。元・ソニーミュージックのプロデューサーで、『圓生百席』の収録と編集作業にも終始携わってきた京須偕充(きょうす・ともみつ)さんによれば、昭和50年頃、午後1時から録音がスタートする予定が、当時アイドルとして人気絶頂の郷ひろみの録音が午前中から押して一向に終わる気配を見せなかった際、当時75歳の圓生は、「あぁあぁ、郷さんでげすか」と言っていつも通り泰然としており、予定より30分余り遅れて始まったその日の録音も淡々とこなしたといいます。55歳も年上の大先輩を待たせてしまった郷ひろみは、録音終了後真っ先に圓生の元に駆けつけて、丁寧に詫びたそうです。

幼い頃から芸の世界に身を置いた圓生も若い頃は売れない時代が長く、彼の噺を楽屋で聴いていた八代目桂文楽が、「この人は何をやらしてもまずいものがない。だけど、これがいいというものがない」と言っていたという逸話が残されています。その文楽、そして古今亭志ん生と、戦後落語界の「2大巨頭」が相次いで世を去り、圓生がトップの座についた頃、彼と同世代の落語家では八代目林家正蔵(彦六)、五代目柳家小さんが健在で、評価を高めていた志ん生の長男・十代目金原亭馬生、相変らず爆笑を呼んでいた林家三平などがこれに続き、更に志ん生の次男・古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝、それに月の家圓鏡(現在の八代目橘家圓蔵)といった「戦後入門組」が台頭し、特に志ん朝と談志の人気、実力は大先輩に肩を並べる勢いでした。圓生もこの新しい世代に対して「脅威」を感じており、「正蔵、小さんは怖いとは思いません。怖いのは志ん朝、圓楽、談志」、(相撲に例えて)「志ん朝、圓楽、談志に負ければ、負かした方は金星でしょうがあたくしにとっては恥辱」などと発言していたそうです。
落語家としての意地とプライド、芸に対する厳しさや執念と、いずれも人一倍であった圓生。それらが思わぬ形で「爆発」したのが、『圓生百席』の録音も後半に差しかかった昭和53年。かねてから不満を抱いていた「真打ち昇進制度」を巡って当時の柳家小さん会長らと対立した末、自らも会長も務めた落語協会を一門を引き連れて脱退。「落語三遊協会」を設立します。所謂「落語協会分裂騒動」。この騒動によって寄席を運営する席亭の反感を買った圓生は、以後寄席への出演が閉ざされ、各地での落語会を行なうことで、超過密スケジュールを余儀なくされます。しかし、主に70代になって以降のこれらの言動も、圓生という人が心身共に「若さ」を維持し続けていたことの表われであり、『圓生百席』に取り組む意欲と根底では繋がっていたのではないかと見ています。

『圓生百席』の録音と編集が完結したのは、昭和54年8月のことでした。
それから間もない9月3日。圓生は体調不良をおして千葉県習志野市での後援会発足記念行事に出席し、「桜鯛」という小噺程度のものを一席演じた後、心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となります。因みにこの日は、上野動物園のジャイアントパンダ・ランランが亡くなった日でもありました。
六代目三遊亭圓生が、落語家としての集大成として『圓生百席』に取り組んだ時代は、彼が落語家として最も充実した時期であったと同時に、波瀾万丈の晩年でもあったのでした。

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圓生師匠は、だいたい、280席くらい持ち根多があったようです。
圓生師匠は、「圓生百席」の音源で、それぞれの演目の芸談を語っています。単に落語を聴いただけだと・・・その落語の時代背景とか、どのような経緯で、圓生師匠まで伝わったのかは判りませんが・・・それらの芸談は貴重な資料ですね。
スタジオ録音は、笑い声が入らないので詰らないと云う人もいますが・・・間違えた部分の取り直しが出来るので、資料としては優れてますね。

2007/9/7(金) 午後 4:17 藪井竹庵

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「圓生百席」は、演者と観客との一体感を味わうという落語本来の楽しみからは、確かに外れているのかもしれません。
しかし、三遊亭圓生という落語家の生き方や芸の蓄積を知る上では、まさに第一級の資料であると思います。

2007/9/8(土) 午後 5:09 [ mannennetaro2005 ]

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