万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

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今年も各界の著名人たちの訃報に多く接し、長年プロ野球を支えてきた人たちの中からも遠くへ旅立って行った人がいました。
その中で、「野武士軍団」として一世を風靡した西鉄ライオンズを支えた人たちの訃報が、特に目立ちました。

先ず6月9日、関口清治さんが81歳で亡くなりました。
大正14年生まれの関口さんがプロ野球の世界に入ったのは昭和23年。社会人野球を経て巨人に入団しますが、すぐに肩の故障に見舞われ、当時の監督・三原脩の助言で、翌年、社会人野球の別府星野組に入団。温泉での療養を配慮して入団したとされる別府星野組で、四番打者として都市対抗野球全国優勝に貢献します。プロ野球が「2リーグ」に分立した昭和25年、セ・リーグの西日本パイレーツに入団しプロ野球に復帰しますが、チームはわずか1年でパ・リーグの西鉄クリッパースと合併。昭和26年から新たに誕生した「西鉄ライオンズ」の一員となり、更に巨人時代に世話になった三原が監督に就任したことで、再び三原の下でプレーすることになります。ライオンズ黄金時代には主に5番打者として活躍し、昭和29年のリーグ初優勝、31年からのリーグ3連覇、3年連続日本一に貢献。日本シリーズでは、31年にはシリーズ史上初の4本塁打、33年には1勝3敗で迎えた第5戦の9回裏2アウトから「起死回生」となる同点タイムリーを放ち、「奇跡の大逆転」に繋げる活躍を見せました。西鉄ライオンズ黄金時代の「名脇役」だった関口さんは、阪急ブレーブスに移籍して昭和38年に引退してからは、阪急、そして近鉄バファローズで、かつて別府星野組で共にプレーした西本幸雄監督の下で長年コーチを務め、近鉄ではライオンズで僚友だった仰木彬と共に西本監督を支えた後、昭和57年から2年間、西本監督の後を受けて近鉄監督も務めました。コーチ・監督としては西本監督の側近としての印象が強い関口さんでしたが、昭和45年、かつてのエース・稲尾和久監督の就任に伴い、コーチとしてライオンズに復帰。チームが「太平洋クラブライオンズ」となった昭和48年までコーチを務めました。近鉄の監督を退いてからは第一線からも身を引いていたこともあって、その訃報もひっそりとした観がありました。

稲尾和久さんが70歳で世を去ったのは、11月13日のことでした。今年の10月2日、故郷の大分県別府市に完成した市民球場に「稲尾記念館」が開館し、その落成式に出席してわずか1ヶ月あまりの訃報だっただけに、その衝撃は大きなものでした。稲尾さんについてはこのブログでも既に書いたので改めて多くは触れませんが、現役時代の数々の「伝説」や「神話」は勿論、かつての「野武士軍団」の僚友たちが次々と福岡を去って行く中で最後までチームに残り、西鉄ライオンズの「終焉」を直に見届けたことや、ライオンズを去った後も一貫して「福岡のプロ野球人」であり続けたことは、決して忘れてはならないと思います。

12月14日には、花井悠さんが75歳で亡くなりました。花井悠さんと言えば、我々にとっては大阪・朝日放送の野球解説者として馴染みが深く、若いファンからは阪神タイガースのOBと間違われたこともあったと言いますが、この人も西鉄ライオンズ黄金時代を支えた1人でした。慶応大学から日本石油を経て昭和32年に西鉄に入団。大学、社会人を通じて後に巨人のエースとなり、監督も務めた藤田元司とチームメイトでした。左打ちのしぶとい打者だった花井さんの選手時代のエピソードとして、昭和33年の日本シリーズ第6戦、当時行なわれていた「予告先発メンバー」に入っていたある選手が第5戦で痛めた指が完治しなかったため、三原脩監督がその選手を花井さんに変更した所、巨人・水原茂監督がクレームをつけたことから試合開始が40分遅れ、シリーズの流れが西鉄に傾く遠因となったことが知られています。つまり、あの「奇跡の大逆転」には花井さんも「一役買った」と言える訳です。昭和39年に引退後、コーチも務めましたが、投手として在籍していた尾崎正司、後の尾崎将司にプロゴルファーへの転向を勧めたのがコーチ時代の花井さんだったそうです。

稲尾和久さんが亡くなった時にも書きましたが、「西鉄ライオンズの男たち」が次々と世を去ることでその「魂」までも1つずつ消えて行くことには寂しさを禁じ得ず、それはそのまま日本のプロ野球の「財産」が失われて行くことも意味していると言えます。
今年逝った「野武士」たちのことを書きながら、改めてこの「野武士軍団」が遺した「伝説」を後世まで語り継がなければならないと思いました。

閉じる コメント(6)

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「野武士」の皆さんというのは、僕にとっては、地元の伝説の
ヒーロー達です。稲尾さんは勿論、セキさんや花井さんの昔日の
栄光は知る由もありませんが、このような人たちがいたという
「事実」だけは、しっかりと語り継ぐのが地元民としての使命で
あると思っています。

ちなみに、花井さんのタイガース戦での、ユーモラスな中にも
どことなく哀愁を感じる解説には、現在の福本さんあたりに通じる
「帰る場所」を失った名選手の悲哀を感じていましたね。

2007/12/27(木) 午後 9:26 [ - ]

稲尾さんや関口さんは監督時代の温厚そうなイメージしか見たことありませんけど選手時代の偉業はずっと語り継がれべきでしょう。

2007/12/28(金) 午前 11:48 スリング

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ハム太郎さん。
我々にとって「赤ヘル戦士」が伝説のヒーローであるように、ハム太郎さんたち福岡の人々にとって、あの「野武士軍団」の人たちが永遠に「おらが町」の伝説のヒーローであると認めていることはよく分かります。その事実をしっかりと語り継いで下さい。

花井悠さんの解説は、人柄の良さや温かみを感じさせてくれるものでした。
タイガース戦の解説でお馴染みになった後も、常に西鉄ライオンズが「心の故郷」としてあったのではないでしょうか。

2007/12/28(金) 午後 10:17 [ mannennetaro2005 ]

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スリングさん。
私も稲尾さんや関口さんは、リアルタイムでは後年の監督・コーチ時代からしか知りませんが、現役時代の功績はそれ以上に長く語り継がれるべきだと思います。

2007/12/28(金) 午後 10:19 [ mannennetaro2005 ]

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花井悠さん。懐かしいお名前です。
東京では、ニッポン放送の野球中継(ラジオ)でお馴染みだった方で、毎々、おだやかでユーモラスなコメント、楽しみにしていました。そうです、タイガースをちょっと贔屓するようなコメントが多かったので、「OBなの?」と親父に聞くと、「知らんな。どこの選手やったかな・・」と言ったこと、よく憶えています。

関口さん・稲尾さん。よりによって「加藤さん」まで・・。
野武士の「語り部」が減っていくこと、残念でなりません。

2008/2/17(日) 午後 7:59 くさちゃん

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花井悠さんは僕も初めはタイガースのOBだとばかり思っていたので、西鉄ライオンズのメンバーだったことを知った時には意外に思いました。「慶応ボーイ」というイメージも失礼ながら合わない雰囲気の人でしたが、ユーモラスで忘れられない人でした。

こうして見ると、「野武士魂」を伝える人が年々少なくなって行くのは寂しいことです。
中西太さんや豊田泰光さんにはいつまでも長生きしてもらいたいと思います。

2008/2/22(金) 午後 10:34 [ mannennetaro2005 ]


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