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今年印象に残ったニュースの1つに、作曲家・阿久悠さんが8月1日に70歳で亡くなったことがあります。 多くのヒット曲を手がけ、「戦後最大のヒットメーカー」とまで謳われた阿久さんですが、一方で小説「瀬戸内少年野球団」を発表したり、夏の高校野球の取材エッセイを毎年掲載するなど、野球とも縁の深い方でもありました。 阿久悠さんが作詞した作品には野球をテーマにしたものもいくつかあり、その中でも最もヒットした曲がピンク・レディーの『サウスポー』(作曲・都倉俊一)です。 「背番号『1』の凄い奴が相手 フラミンゴみたい ひょいと一本足で……私ピンクのサウスポー きりきり舞いよ きりきり舞いよ 魔球は 魔球はハリケーン」…。 この曲が発売されたのは昭和53年3月25日。当時ではまだ珍しかった「オリコン初登場1位」を達成し、この年の「第9回日本歌謡大賞」で大賞を受賞するなど大ヒット曲となりました。 しかし、この曲については昔から疑問に思っていたことがありました。「背番号『1』の凄い奴」とは、前年9月3日、ホームラン世界記録を達成した巨人・王貞治であることは当然として、「ピンクのサウスポー」とは一体誰をイメージしたのか。阿久さんの訃報に接して、改めてこの「サウスポー」が誰かを知りたいと思いました。 『サウスポー』がヒットした当時活躍していた「サウスポー」には、先ず、当時広島東洋カープに移籍した直後だった江夏豊、阪神タイガース・山本和行、近鉄バファローズの「草魂」・鈴木啓示、昭和49年、巨人の「V10」を阻止して中日ドラゴンズ20年ぶりのリーグ優勝に貢献した松本幸行(ゆきつら)、「ペンギン投法」の異名を取り、いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん』のキャラクターにもなったヤクルトスワローズ・安田猛などといった人たちがいました。この中で、阿久さんが阪神ファンだったこともあって、恐らく、阪神時代に王と数々の名勝負を繰り広げた江夏をモデルに『サウスポー』を作詞したのではないかと思っていましたが、色々と調べたところ、意外な選手の名前が浮かび上がってきました。 その選手とは、当時クラウンライターライオンズに在籍していた永射(ながい)保という投手。 鹿児島県出身の永射は、指宿商業高校卒業後、昭和47年に広島に入団しますが、ここでは鳴かず飛ばずでわずか2年で当時の太平洋クラブライオンズへ移籍。移籍後、阪急ブレーブス・山田久志のフォームを研究して生み出した左のサイドスローという特異なフォームで「左殺し」として活躍します。昭和52年、永射はオールスターゲームに出場しますが、この時、得意の大きく曲がるカーブで王を三振に討ち取るのをテレビで観ていた阿久さんが、それから後楽園球場などで観戦したライオンズの試合で永射のピッチングを観察した結果、『サウスポー』の詞が生まれたのだそうです。 このエピソードについては、当の永射保さん御本人も今年9月に発売された『ベースボール・マガジン』でも語っているので、先ず間違いないでしょう。因みに、ピンク・レディーからは日本武道館でのコンサートで「一緒に踊って下さい」と頼まれたこともあったそうです。『サウスポー』という歌は「世界のホームラン王」がいなければ世に出なかったのは当然ですが、永射保という投手がいなくても生まれることはなかったのかもしれません。 話の中心を「背番号『1』の凄い奴」王貞治に移すと、王が生涯に打った868本のホームランの中で、世界新記録となった通算756号こそ、当時のヤクルトの右投手だった鈴木康二朗からでしたが、ベーブ=ルースを抜く715号は阪神・山本和行(昭和51年10月11日)、ハンク=アーロンに並ぶ755号は大洋ホエールズ・三浦道男(昭和52年8月31日)、800号は横浜大洋・大川浩(昭和53年8月29日)、そして、生涯最後のホームランとなった通算868号はヤクルト・神部年男(昭和55年10月12日)と、全て「サウスポー」から打ったものでした。そして、王自身もプロ入りするまでは「サウスポー」でした。 最後に、改めて阿久悠さんの御冥福を心よりお祈り申し上げます。
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これは、かなり興味深い内容ですね。
モデルがいたとは知りませんでした。
加えて山本和の名前が出たのも嬉しいですね。
今年一年、楽しくてほほっ〜と唸る記事をありがとうございました。
来年も楽しい記事をお願いします。
それではよいお年をお迎えください。
2007/12/31(月) 午後 1:36
永射は、平和台時代に何度も生で見てるんですが、当時はそれ程
凄い投手だと言うイメージはなく、あの変則投法が印象に
残っていた程度でした。
彼が「左殺し」として全国に名を馳せたのは、所沢に行って
しまった後のように僕は記憶しています。
でも、王さんを球宴で三振に獲った事は覚えています。
「ライオンズにも、凄い投手がいるんだ!」と周囲の友達に
自慢して回ったものでした。
2007/12/31(月) 午後 1:54 [ - ]
小日向さん。
僕も「サウスポー」のモデルが誰なのかについて以前から興味があったとはいえ、永射投手だったとは意外に思いました。
来年も小日向さんの御期待やお好みに副える記事を書くことが出来ればと思っています。来年も何卒宜しくお願い致します。
2007/12/31(月) 午後 10:37 [ mannennetaro2005 ]
ハム太郎さん。
永射投手がライオンズに移籍した頃は、まだ福岡のチームでしかも「どん底」時代。そんな中でオールスターゲームで「世界のホームラン王」を三振に討ち取ったのだから、確かに「凄いピッチャー」であったと思います。
今で言うセットアッパーとしての印象が強いですが、それや「左殺し」のイメージが定着したのは、仰る通りチームが所沢に移ってからでしたね。
2007/12/31(月) 午後 10:41 [ mannennetaro2005 ]
野球狂の歌の水原勇気もこの頃でしたかね。永射投手は左殺しに特化した後のほうが印象が強いですね。今年もよろしくお願いします。
2008/1/2(水) 午後 0:11
水原勇気のモデルも永射投手なんだそうです。
その意味では、この人が音楽やマンガの世界に与えた影響力は大きかったんですね。
2008/1/4(金) 午後 9:37 [ mannennetaro2005 ]
永射さん。まさか、まさか・・・です。ビックリです。。
永射さんを初めて知ったのは、クラウンライターの時代でした。
といっても「プレー中のこと」ではなくて、何かの雑誌に掲載された、若菜捕手との「若きバッテリー」という見出しによる、カラー写真。
「格好いいユニフォームだな」という印象で、今でも強烈に憶えています。
球場で直接観戦した、「西武ライオンズ・初勝利」(13試合目)。
最後を締めた投手は、永射さんでした。「ああ、あのヒトだ!」と思ったことも、忘れられません。
今でも、コアな友人と話をするとき、「メジャーに行かせてみたかった選手」という話題になると、村田さん・山口さんと並んで、このヒトの名前が出てきます。
2008/2/17(日) 午後 8:16
僕もこの記事を書くまでは、「サウスポー」のモデルが永射投手だとは思ってもいませんでした。
平和台末期の「どん底」時代から、所沢に移り「常勝」チームとなるまでのライオンズを支えた選手の1人として、忘れてはならない選手だと思います。
2008/2/22(金) 午後 10:44 [ mannennetaro2005 ]