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幕末から明治にかけて落語界の第一人者として君臨し、今日も演じられている多くの噺を世に送り出した三遊亭圓朝は、また、優秀な弟子たちに恵まれた人でもありました。 そして、その弟子たちから更に後の世代へ圓朝の「遺産」が継承されたことも忘れてはなりません。 圓朝は、直弟子だけでも20人を超えていたと伝えられています。 明治維新後、素噺に転向した圓朝が、それまで用いていた「道具入り芝居噺」の道具一式を譲った三代目三遊亭圓生は、通称「のしんの圓生」と呼ばれ、役者から落語家に転向したと伝えられています。この「のしん」については、本名の「野本新兵衛」に因んだものと言われる一方で、元々天狗連(所謂セミプロの落語家の集まり)の真打格であったことから、「○○連の真打(しん)」と言われ、その「の真打」が「のしん」に転じたという説もあります。三代目圓生を襲名した時期も、明治5年(1872年)とする説とそれより少し早い明治2〜3年(1869〜70)頃とする説があって明確ではありませんが、明治初期の芝居噺の第一人者であったことは確かです。養母の死後神経を病み、明治14年(1881年)、43歳で亡くなっています。 四代目三遊亭圓生は、背負いの小間物屋から圓朝の弟子となり、一時廃業して芝居茶屋の主人となるも上手く行かず落語界へ復帰。明治15年(1882年)、四代目圓生を襲名します。師匠圓朝の私信に「圓生は生来名人なり」とあり、落とし噺では圓生に適わないと言わしめた程だったといい、廓噺を得意とした他、人情噺にも優れ、更には自らも噺を創作して、明治中期を代表する名人の一人として活躍しました。 この二代の圓生と並んで、晩年の住まいから「駒止の圓馬」と呼ばれた初代三遊亭圓馬、律義な人柄で一門に重きをなした二代目三遊亭圓橘が、「圓朝門下四天王」と謳われたといいます。 多士済々の圓朝の弟子たちの中でも一際異彩を放ち、また、落語の近代化と大衆化に絶大な功績を残したのが、本来は「三代目」でありながら、後年あまりにも有名になったことで俗に「初代」とされる三遊亭圓遊。23歳頃に圓朝門下となった圓遊は、「ステテコ踊り」という珍妙な踊りで人気を博す一方、本格芸では当時の名人たちに適わないと悟るや、当時は比較的軽視されがちだった滑稽噺に斬新なギャグや時代・風俗描写を巧みに盛り込んで、新作・改作を連発。「滑稽落語」というジャンルを確立した点で、圓朝に勝るとも劣らぬ落語界の一大功労者と言えます。「ステテコ踊り」から「ステテコの圓遊」、また鼻の大きさを売りにしたことから「鼻の圓遊」の異名を取りました。 名人の呼び声が高く、「圓朝に最もよく似ていた」と言われた四代目橘家圓喬。師匠譲りの長編人情噺から四代目圓生系の落とし噺、三題噺に上方の噺に至るまで幅広い芸域を持ち、その芸は後世に多大な影響を与えました。明治30年代から既に「二代目圓朝」に推す声があり、本人もその気持ちがあったといいますが、一方で「生意気」「高慢」など仲間内の評判が悪く、人望の点でいま一つだったことがあって、圓朝襲名は実現しないまま、大正元年(1912年)11月22日、肺病がもとで48歳で亡くなりました。 圓朝の弟子には、この他に明治から大正にかけて東西の落語界で重きをなした二代目三遊亭圓馬、その実弟の初代橘ノ圓、明治の末に「落語研究会」を起こした初代三遊亭圓左と二代目三遊亭小圓朝、それに、圓朝譲りの怪談噺や芝居噺を後世に伝え、「一朝老人」と敬われた三遊亭一朝などの人たちがいます。 圓朝は、昭和の落語家たちにも大きな影響を与えました。 例えば、五代目古今亭志ん生は、落語家として絶頂期を迎えた昭和30年代、主にラジオで圓朝作の長編人情噺を好んで演じ、晩年高座を退いてからも、常に「圓朝全集」を手放すことなく読み耽っていたといいます。八代目林家正蔵(彦六)と「お婆さん落語」で一世を風靡した五代目古今亭今輔は、前記の三遊亭一朝の晩年を交代で世話しながら、怪談噺や道具入り芝居噺を一朝から継承しました。 圓朝が明治33年8月11日に亡くなって1ヶ月足らずの同年9月3日に生まれたのが、六代目三遊亭圓生。義太夫語りから落語家に転向して内輪となった四代目橘家圓蔵は圓朝の孫弟子、圓生自身は義父である五代目三遊亭圓生と同様、圓朝の曾孫弟子に当たります。圓生は生前、「自分が聞いた噺家の中ではっきり名人と言えるのは橘家圓喬ただ一人」と言い、自らも圓喬を理想と考えていたそうです。圓喬は圓朝の弟子であり、圓生の究極の目標はやはり圓朝だったのかも知れません。持ちネタの豊富さでも知られた圓生は、無論圓朝作の長編人情噺なども多く演じており、生涯最後に「ネタおろし」した噺も、圓朝が明治19年(1886年)に発表した『福禄寿』という噺でした。 演芸評論家・安藤鶴夫は、自らのエッセイの中で、「一瞬にして消えてゆく話芸だけでは、どんなに名人であろうともう忘れられているはずなのに、円朝の名は今日ラジオやテレビに出ている落語家(はなしか)とおなじように今もなお健在である。作家・三遊亭円朝としての生命である」と書いています。
19世紀最後の年、明治33年、西暦1900年8月11日にこの世を去って、今年で111年。 三遊亭圓朝は、21世紀の今日も生きています。 |
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