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かつて、落語がお寺に葬られた時代がありました。 日中戦争が始まって4年。太平洋戦争開戦も目前に迫っていた昭和16年(1941年)、軍国一色に塗り潰され我が国では、あらゆる分野で戦争への協力が求められ、芸能の世界も例外ではなく、落語界・演芸界も演目の自粛を強いられます。 落語の演目は「甲乙丙丁」に分類され、このうち廓噺や花柳界、妾、それに「間男」に関わる題材など53演目が、時局に合わない「丁」と見なされ、この年の10月20日、落語界の先輩たちの霊と共に東京・浅草にある日蓮宗の寺・本法寺(ほんぽうじ)に建立された「はなし塚」に葬られます。 これが所謂「禁演落語」です。 やがて終戦を迎え、それから約1年が過ぎた昭和21年9月30日、「はなし塚」に集まった噺家たちによって「禁演落語復活祭」が行なわれ、禁演落語はめでたく「解禁」。「はなし塚」には今まで納められていた53席の噺に替わって、戦時中の落語の台本が納められます。 長い戦争が終わり、落語界にも漸く自由で平和な時代が戻って来た…と思ったら、これがとんだ大間違い。 「禁演落語」解禁からまだ半年余りしか経っていない昭和22年5月30日、今度はこの月の3日に施行されたばかりの日本国憲法の線に沿い、連合国軍最高司令官総司令部民間情報部、即ちGHQの検閲機関の指示に応じる形で、落語協会と日本芸術協会(現在の落語芸術協会)によって、新たに20演目が「禁演落語」に指定され、前回と同じく浅草・本法寺の「はなし塚」に葬られたのです。 この背景にあったのは、当時GHQが推し進めていた日本の民主化と非軍事化。 小島貞二編著『禁演落語』(ちくま文庫)によれば、これに先立つ昭和20年12月の日付で、「上演不可能歌舞伎之部」72演目と「上演不可能新時代劇之部」260演目がリストアップされ、これらを含めた約500本に上る脚本のうち、上演が許されたのは約3分の1の174演目だったそうです。また、映画界では「戦闘心を煽る」との理由から、チャンバラ映画が禁止されるという事態が起こります。「禁演落語」もこれらの事情と決して無関係ではなかったと考えられます。 さて、「禁演落語」となった20演目は以下のものです。 お七 景清 巌流島(岸柳島) 胆つぶし くしゃみ講釈 袈裟御前 後生鰻 写真の仇討 宗論 将棋の殿様 城木屋 高尾 ちきり伊勢屋 寝床 花見の仇討 毛氈芝居 桃太郎 宿屋の仇討 山岡角兵衛 四段目 戦時中の「禁演落語」が、廓噺などのいわば「柔らかい」噺が中心だったのに対して、ここでは「仇討ちもの」「婦女子虐待もの」など軍国主義的、暴力的、荒唐無稽に過ぎると見なされたものが選ばれ、中には「後生鰻」「城木屋」「高尾」のように、前回に続いて「2度目のお勤め」となったものもありました。 しかし、「宿屋の仇討」「花見の仇討」「写真の仇討」のように、題名に「仇討」と付いているだけで「禁演」となったものや、見当違いの理由で選ばれたと思われるものが殆どで、新しい政策や体制に過剰に反応した結果、そうなってしまったことは否定出来ません。 実際、この2度目の「禁演落語」が登場してから半年足らずの昭和22年11月には、それまで上演禁止となっていた歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の上演が許可されており、「禁演落語」の存在自体が全く無意味なものであったことは明らかなようです。 結局、新体制の「御機嫌を伺う」という意味で生まれたであろう戦後の「禁演落語」は、昭和27年の占領体制終了に伴い自動的に解除されますが、実際にはそれよりずっと以前の昭和24年4月頃に「禁演落語復活祭」が本法寺で行なわれたそうで、更に言えば、今も書いたように存在自体が「有名無実」であったと言えます。 長くて暗い戦争の時代が終わり、日本が平和への道を進んで行く中で、落語の世界にも「紆余曲折」があったことを証明するものが、このもう一つの「禁演落語」であったということでしょう。
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万年さん、お久しぶり。
都合によりYAHOOから離れ「http:/ /aibou.cs.land.to」 ←でサイトしております。
またよろしくお願いします(^^)。
2010/4/22(木) 午後 6:29 [ 花形右京 ]