万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

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『男はつらいよ』全48作の中で、車寅次郎が故郷の葛飾柴又で新しい年を迎えたことはありませんでした。
そのため、映画の中で描かれる年末年始のシーンと言えば、元日から帝釈天の参拝客などで賑わう「とらや」の風景や、全国各地で「啖呵売」に精を出す寅さんの姿などがお馴染みだった反面、大晦日から新年にかけての様子が描かれることは殆どありませんでした。

その中で唯一、「ゆく年くる年」の柴又と「とらや」の人々が描かれた作品があります。シリーズ第3作にして異色作でもある『フーテンの寅』(昭和45年・森崎東監督)がそれです。
先ず、この『フーテンの寅』の粗筋ですが、寅さんが柴又に帰って来て早々、タコ社長(太宰久雄)が見合いを持ち込んできたものの、その相手は寅さんの昔の知り合い。夫が浮気をした腹いせに見合いをしたことを聞いた寅さんは2人のヨリを戻すために奔走しますが、「とらや」でドンチャン騒ぎをしたのが原因でおいちゃん(森川信)たちと大喧嘩になり、柴又を旅立ってしまいます。その後、三重県の湯の山温泉の旅館の女将で、未亡人の志津(新珠三千代)に一目惚れしてその番頭となった寅さんは、何も知らずに湯治にやって来たおいちゃん、おばちゃん(三崎千恵子)の相手をしたり、志津の弟と芸者の恋をまとめますが、肝心の志津には既に再婚相手が決まっており、失恋した上に旅館の人たちに無様な姿を見られた寅さんは、湯の山温泉を去って行くのでした。

こうした騒動が描かれた後、物語の終盤に大晦日から元日にかけての「とらや」が出てきます。
除夜の鐘を撞くために帝釈天の鐘楼に上がる御前様(笠智衆)。一方、正月の準備に追われる「とらや」では、テレビで「ゆく年くる年」を見ながら年越しそばを食べ、新しい年を迎えようとしていました。銀座・服部時計店の時計台が午前0時をさし、1969年(昭和44年)が終わり「輝かしい希望に満ちた」1970年(昭和45年)へ。おいちゃんの音頭取りで一同が新年の挨拶をしたのも束の間、話題は寅さんへ。
 博「今頃、どこかの吹きさらしの駅のホームかなんかで…」
 おいちゃん「そんな所だろうなあ。バカだねえ、あいつは本当にバカだよ…」

「とらや」で寅さんの噂が出ている間に、テレビの映像は九州・鹿児島の霧島神宮へ。アナウンサーが現地の様子をレポートしている時、その後ろを寅さんと思しき男が横切ります。驚くさくら。「あちらの方がどうしても何か喋らせて欲しいと仰っていますので、早速伺いましょう」と言った後に出てきたのは、案の定、寅さん。思わぬ事態に「とらや」の人々が驚くのを知ってか知らずか、「日本の国民の皆さん、新年あけましておめでとうございます」と挨拶した後、アナウンサーから家族のことを聴かれると、「子供…、2人、いや3人になるかな、俺に似て可愛いよ」と言う始末。しかも、「奥さんやお子さんにテレビを通じて新年の挨拶を」と言われると、「お志津よ、元気でやってるかい?」と、湯の山温泉で失恋した相手の名前を言ってしまうのでした。
「何が子供だい。そんなものがどこにいるんだい。バカだよ。あいつは本当にバカだよ…」と言って涙ぐむおいちゃん。隣で泣くおばちゃん。そして、さくらもハンカチを出して涙を拭くのでした。

『男はつらいよ』全48作の中で唯一「ゆく年」から「くる年」にかけての「とらや」が描かれたこのシーンは、テレビを通じて架空の家族へ語りかける寅さんを通して、そうすることでしか自分の家族を持つことが出来ない寅さんの悲哀をも描いた、シリーズでも屈指の「可笑しくも哀しい名シーン」である点でも貴重であると言えます。
今年印象に残ったニュースの1つに、作曲家・阿久悠さんが8月1日に70歳で亡くなったことがあります。
多くのヒット曲を手がけ、「戦後最大のヒットメーカー」とまで謳われた阿久さんですが、一方で小説「瀬戸内少年野球団」を発表したり、夏の高校野球の取材エッセイを毎年掲載するなど、野球とも縁の深い方でもありました。

阿久悠さんが作詞した作品には野球をテーマにしたものもいくつかあり、その中でも最もヒットした曲がピンク・レディーの『サウスポー』(作曲・都倉俊一)です。
「背番号『1』の凄い奴が相手 フラミンゴみたい ひょいと一本足で……私ピンクのサウスポー きりきり舞いよ きりきり舞いよ 魔球は 魔球はハリケーン」…。
この曲が発売されたのは昭和53年3月25日。当時ではまだ珍しかった「オリコン初登場1位」を達成し、この年の「第9回日本歌謡大賞」で大賞を受賞するなど大ヒット曲となりました。

しかし、この曲については昔から疑問に思っていたことがありました。「背番号『1』の凄い奴」とは、前年9月3日、ホームラン世界記録を達成した巨人・王貞治であることは当然として、「ピンクのサウスポー」とは一体誰をイメージしたのか。阿久さんの訃報に接して、改めてこの「サウスポー」が誰かを知りたいと思いました。
『サウスポー』がヒットした当時活躍していた「サウスポー」には、先ず、当時広島東洋カープに移籍した直後だった江夏豊、阪神タイガース・山本和行、近鉄バファローズの「草魂」・鈴木啓示、昭和49年、巨人の「V10」を阻止して中日ドラゴンズ20年ぶりのリーグ優勝に貢献した松本幸行(ゆきつら)、「ペンギン投法」の異名を取り、いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん』のキャラクターにもなったヤクルトスワローズ・安田猛などといった人たちがいました。この中で、阿久さんが阪神ファンだったこともあって、恐らく、阪神時代に王と数々の名勝負を繰り広げた江夏をモデルに『サウスポー』を作詞したのではないかと思っていましたが、色々と調べたところ、意外な選手の名前が浮かび上がってきました。

その選手とは、当時クラウンライターライオンズに在籍していた永射(ながい)保という投手。
鹿児島県出身の永射は、指宿商業高校卒業後、昭和47年に広島に入団しますが、ここでは鳴かず飛ばずでわずか2年で当時の太平洋クラブライオンズへ移籍。移籍後、阪急ブレーブス・山田久志のフォームを研究して生み出した左のサイドスローという特異なフォームで「左殺し」として活躍します。昭和52年、永射はオールスターゲームに出場しますが、この時、得意の大きく曲がるカーブで王を三振に討ち取るのをテレビで観ていた阿久さんが、それから後楽園球場などで観戦したライオンズの試合で永射のピッチングを観察した結果、『サウスポー』の詞が生まれたのだそうです。
このエピソードについては、当の永射保さん御本人も今年9月に発売された『ベースボール・マガジン』でも語っているので、先ず間違いないでしょう。因みに、ピンク・レディーからは日本武道館でのコンサートで「一緒に踊って下さい」と頼まれたこともあったそうです。『サウスポー』という歌は「世界のホームラン王」がいなければ世に出なかったのは当然ですが、永射保という投手がいなくても生まれることはなかったのかもしれません。

話の中心を「背番号『1』の凄い奴」王貞治に移すと、王が生涯に打った868本のホームランの中で、世界新記録となった通算756号こそ、当時のヤクルトの右投手だった鈴木康二朗からでしたが、ベーブ=ルースを抜く715号は阪神・山本和行(昭和51年10月11日)、ハンク=アーロンに並ぶ755号は大洋ホエールズ・三浦道男(昭和52年8月31日)、800号は横浜大洋・大川浩(昭和53年8月29日)、そして、生涯最後のホームランとなった通算868号はヤクルト・神部年男(昭和55年10月12日)と、全て「サウスポー」から打ったものでした。そして、王自身もプロ入りするまでは「サウスポー」でした。

最後に、改めて阿久悠さんの御冥福を心よりお祈り申し上げます。
今年も残り2日で大晦日。
激動の平成19年、西暦2007年も、いよいよあと2日でその幕を閉じようとしております。

ところで、大晦日と言えば、毎年その夜に放送されるあの番組、『紅白歌合戦』に触れない訳にはいきません。
僕が小学生から中学生時代にかけては、大晦日の夜と言えば、夕食を食べながら『日本レコード大賞』をテレビで観て、そのまま『紅白歌合戦』を観ながら年越しそばを食べて新年を迎える…、というのが定番のパターンでした。しかし、いつの頃からか時間が長くなり、その分中身が薄くなったことで『紅白歌合戦』も面白くないものとなり、「セット」であった『日本レコード大賞』もその権威が薄れて、番組自体も大晦日の番組ではなくなってしまいました。更に言えば、『紅白歌合戦』の「裏番組」も昔と比べると年々質が落ちてしまっているように思います。

『紅白歌合戦』そのものからは話題を外して、この番組で連想するラジオ番組が実は2つあります。
1つは、TBSラジオの人気番組『小沢昭一的こころ』で平成4年暮れに放送された、「紅白」ならぬ「白黒歌合戦」。小沢昭一さんが少年時代に聞いて覚えた歌を、一週間を通してアカペラで歌いまくるというものでした。この「白黒歌合戦」が放送された時は、丁度『小沢昭一的こころ』が放送開始20周年を迎えたということで、年が明けた翌週は「新春・かくさず芸大会」、更にその翌週には「正月気分は反戦気分」と題して都合3週間にわたって放送され、後にCD化されました。
もう1つは、広島・RCCラジオで毎年暮れに『紅白歌合戦』の向こうを張って(?)放送されている『世良洋子の年忘れラジオ紅白歌合戦』。その年のニュース、人物、流行、面白かった出来事や見逃しがちな話題などを振り返りながら、紅白に分かれて音楽を紹介していくものですが、毎年紅組キャプテンを務める元・局アナの世良洋子さんの「冠番組」になっていることから分かるように、勝負は必ず紅組が勝つように「段取り」が出来ています。今年は大晦日正午から放送されます。

         http://www.1350.jp/2008.htm

再び『紅白歌合戦』に話を戻すと、数年前からずっと思い続けていることがあります。
それは「紅白」に分かれて「歌合戦」をやりたいのなら、NHKの全国の各放送局のアナウンサー、またはその年の「のど自慢」のチャンピオンが「紅白」に分かれて、それぞれ得意の歌、自慢のノドを披露して「勝敗」を決めるという形にしたらどうかということです。もっとも、実際に『紅白歌合戦』がこんな形になったら、視聴率が1ケタになってしまうでしょう。

今年は、紅組・白組共に男性キャプテンなど、それなりに「話題」はあるようですが、出場者や審査員の人選などからは相変らず「迷走」ぶりが感じられ、やはり見たいと言う気分にはなりません。
一部では「『紅白歌合戦』終息論」も囁かれていますが、今後も『紅白歌合戦』が幕を下ろすことはないと思います。果たして、来年以降この番組はどうなって行くのでしょうか?
今年も各界の著名人たちの訃報に多く接し、長年プロ野球を支えてきた人たちの中からも遠くへ旅立って行った人がいました。
その中で、「野武士軍団」として一世を風靡した西鉄ライオンズを支えた人たちの訃報が、特に目立ちました。

先ず6月9日、関口清治さんが81歳で亡くなりました。
大正14年生まれの関口さんがプロ野球の世界に入ったのは昭和23年。社会人野球を経て巨人に入団しますが、すぐに肩の故障に見舞われ、当時の監督・三原脩の助言で、翌年、社会人野球の別府星野組に入団。温泉での療養を配慮して入団したとされる別府星野組で、四番打者として都市対抗野球全国優勝に貢献します。プロ野球が「2リーグ」に分立した昭和25年、セ・リーグの西日本パイレーツに入団しプロ野球に復帰しますが、チームはわずか1年でパ・リーグの西鉄クリッパースと合併。昭和26年から新たに誕生した「西鉄ライオンズ」の一員となり、更に巨人時代に世話になった三原が監督に就任したことで、再び三原の下でプレーすることになります。ライオンズ黄金時代には主に5番打者として活躍し、昭和29年のリーグ初優勝、31年からのリーグ3連覇、3年連続日本一に貢献。日本シリーズでは、31年にはシリーズ史上初の4本塁打、33年には1勝3敗で迎えた第5戦の9回裏2アウトから「起死回生」となる同点タイムリーを放ち、「奇跡の大逆転」に繋げる活躍を見せました。西鉄ライオンズ黄金時代の「名脇役」だった関口さんは、阪急ブレーブスに移籍して昭和38年に引退してからは、阪急、そして近鉄バファローズで、かつて別府星野組で共にプレーした西本幸雄監督の下で長年コーチを務め、近鉄ではライオンズで僚友だった仰木彬と共に西本監督を支えた後、昭和57年から2年間、西本監督の後を受けて近鉄監督も務めました。コーチ・監督としては西本監督の側近としての印象が強い関口さんでしたが、昭和45年、かつてのエース・稲尾和久監督の就任に伴い、コーチとしてライオンズに復帰。チームが「太平洋クラブライオンズ」となった昭和48年までコーチを務めました。近鉄の監督を退いてからは第一線からも身を引いていたこともあって、その訃報もひっそりとした観がありました。

稲尾和久さんが70歳で世を去ったのは、11月13日のことでした。今年の10月2日、故郷の大分県別府市に完成した市民球場に「稲尾記念館」が開館し、その落成式に出席してわずか1ヶ月あまりの訃報だっただけに、その衝撃は大きなものでした。稲尾さんについてはこのブログでも既に書いたので改めて多くは触れませんが、現役時代の数々の「伝説」や「神話」は勿論、かつての「野武士軍団」の僚友たちが次々と福岡を去って行く中で最後までチームに残り、西鉄ライオンズの「終焉」を直に見届けたことや、ライオンズを去った後も一貫して「福岡のプロ野球人」であり続けたことは、決して忘れてはならないと思います。

12月14日には、花井悠さんが75歳で亡くなりました。花井悠さんと言えば、我々にとっては大阪・朝日放送の野球解説者として馴染みが深く、若いファンからは阪神タイガースのOBと間違われたこともあったと言いますが、この人も西鉄ライオンズ黄金時代を支えた1人でした。慶応大学から日本石油を経て昭和32年に西鉄に入団。大学、社会人を通じて後に巨人のエースとなり、監督も務めた藤田元司とチームメイトでした。左打ちのしぶとい打者だった花井さんの選手時代のエピソードとして、昭和33年の日本シリーズ第6戦、当時行なわれていた「予告先発メンバー」に入っていたある選手が第5戦で痛めた指が完治しなかったため、三原脩監督がその選手を花井さんに変更した所、巨人・水原茂監督がクレームをつけたことから試合開始が40分遅れ、シリーズの流れが西鉄に傾く遠因となったことが知られています。つまり、あの「奇跡の大逆転」には花井さんも「一役買った」と言える訳です。昭和39年に引退後、コーチも務めましたが、投手として在籍していた尾崎正司、後の尾崎将司にプロゴルファーへの転向を勧めたのがコーチ時代の花井さんだったそうです。

稲尾和久さんが亡くなった時にも書きましたが、「西鉄ライオンズの男たち」が次々と世を去ることでその「魂」までも1つずつ消えて行くことには寂しさを禁じ得ず、それはそのまま日本のプロ野球の「財産」が失われて行くことも意味していると言えます。
今年逝った「野武士」たちのことを書きながら、改めてこの「野武士軍団」が遺した「伝説」を後世まで語り継がなければならないと思いました。

寅さんの手紙

いきなり私事から始まりますが、今日、来年の年賀状を全て出し終わりました。
最近はインターネットや携帯電話が普及したことで、逆に手紙を書く習慣というものが少なくなってきているように思われます。しかも、年始の挨拶も最近ではメールで済ませるケースが増えているそうです。
ハガキや便箋に向かって文字を書くというのは手間のかかる作業ではありますが、自分の気持ちを自分の言葉や文字で伝えるという習慣は、いつまでも大事にすべきではないかと思います。

映画『男はつらいよ』シリーズでは、物語の中で何度も「手紙」が重要な役割を果たしています。
シリーズで最初に登場した手紙は、第1作(昭和44年)で、20年ぶりに故郷・葛飾柴又に帰ってきたにもかかわらず、妹・さくら(倍賞千恵子)の縁談をぶち壊してしまったことでおいちゃん(森川信)と大喧嘩した車寅次郎が、翌日、黙って旅立った際、さくらに宛てた置き手紙でした。
「妹よ。夕べは悪いことをした。俺は出てゆく、たびの空。お前のしあわせいのってる。俺の弟、登(津坂匡章、現・秋野太作)のことはよろしくたのむよ、さようなら。愚かな兄の寅次郎」。
第22作『噂の寅次郎』(昭和53年)でも、タコ社長(太宰久雄)と大喧嘩した翌日、「やっぱり帰ってくるんじゃなかった。社長によろしく言ってくれ。あばよ。とらやご一同様 寅次郎」という手紙を残して柴又を去って行きました。

第1作では、ラストシーンで、寅さんがマドンナ・坪内冬子(光本幸子)に宛てた手紙も登場します。
「拝啓、坪内冬子様。久しきご無沙汰をお許し下さいまし。故郷柴又を出でしより一年余り、思えば月日の経つのは早きもの。風の便りに妹・さくらの出産の知らせを聞き、兄として喜びこれに優る物なく、愚かしき妹なれど私のただ一人の肉親なれば、今後とも御引き立ての程、お願い申し上げます。尚、私事思い起こせば恥ずかしきことの数々、今はただ後悔と反省の日々を弟・登と共に過ごしておりますれば、お嬢様には他事ながらお忘れ下さる様、ひれ伏してお願い申し上げます」。
この手紙の中の「思い起こせば恥ずかしきことの数々」という言葉は、その後の作品でも、寅さんの手紙の「常套句」として頻繁に登場しています。

寅さんが柴又の人たちに宛てて書く手紙は、自分の消息を伝えるものや過去の行ないに対する反省、それに皆の無事を祈ることと、その内容は大体決まっています。そして、寅さんが手紙を書いているシーンも何度か登場しています。
第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(昭和55年)では、病に倒れたマドンナ・リリー(浅丘ルリ子)を見舞うためにはるばる沖縄へやって来た寅さんが、その様子を伝える手紙を書いているシーンが登場します。第29作『寅次郎あじさいの恋』(昭和57年)のオープニングでは、旅先から柴又に宛てる手紙を書いている途中、たまたま側で絵を書いていた人に「懐かしい」という字の書き方を尋ねます。第47作「拝啓車寅次郎様』(平成6年)の冒頭でも、旅先の郵便局で寅さんが柴又宛てのハガキを出すシーンが出てきます。
ハガキや手紙によって寅さんの消息が分かった例では、第1作、第7作『奮闘篇』(昭和46年)、第11作『寅次郎忘れな草』(昭和48年)、第21作『寅次郎わが道をゆく』(昭和53年)などがあり、最終作『寅次郎紅の花』(平成7年)でも、最後にリリーの手紙によって寅さんがまた旅に出たことが明らかにされます。第41作『寅次郎心の旅路』(平成元年)では、ひょんなことからオーストリアのウィーンに旅に出ることになった寅さんが、トイレットペーパーに「さくら心配するな 俺は生きている 寅」と書いて、柴又の人たちに無事を知らせようとしたこともありました。

寅さんの書く手紙は、字は酷いが文章は簡潔且つ行き届いているものが多く、流石は「言葉」を扱うテキヤ稼業に身を置くだけのことはあると感心します。しかし、「手紙を書く」ということは、紙に向かい筆を取り、言葉を選び文章を練りながら文字を記すという手間のかかるもの。決して「忍耐強い」とは言えない寅さんが、その「手間のかかること」を続けるのは、常に迷惑ばかりかけている人たちに対して、面と向かっては言えない自分の気持ちを伝えたいという思いを持ち続けているからであり、それこそが寅さんの「真心」の表れなのでしょう。だから、寅さんの手紙には決して「嘘」がありません。
今やインターネットや携帯電話の普及によって、メールで簡単に連絡を取り合えるようになった時代。しかし、寅さんはメールの打ち方に四苦八苦する姿よりも、やはり手紙を書く姿が似合います。

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