万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

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平成21年最後のご挨拶

我が町尾道は、時折雪がちらつく寒い大晦日となっています。
皆さんがお住まいの町は、どのような大晦日となっているのでしょうか?

さて、平成21年、西暦2009年も残す所9時間を切り、いよいよ暮れも押し詰まったという思いを強く感じています。
大晦日を迎えて思うことは、「一年が過ぎて行くのが早い」という思いが、齢を重ねて行くごとに強くなって来ているということです。
この思いは、来年の今頃には更に強く深いものとなっていることでしょう。
そして、人間というものはそんな風に出来ているのではないかとも思ったりします。

今年一年を振り返ってみると、この『万年寝太郎徒然日記』に関して言えば、一年を通じて記事の更新が殆ど停滞状態に終わってしまいました。
実は色々と書きたいことはあったんです。例えば、この5月に親戚の結婚式で十数年ぶりに東京に行き、そのついでに「らくごカフェ」に行った時の話とか、8月に母校の同窓会に参加した時、後輩に噺家がいることが分かったこととか…。
他には、落語・映画・プロ野球に関する話題とか、今年亡くなった方々についての感想とか、更には今年最も世間を騒がせた事件や人物に対しての自分の思いとか、そういった事が全く書けずじまいに終わってしまった事が自分でも残念に思っています。
来年は、今年あまり更新出来なかった分、しかしあくまでマイペースで、この『万年寝太郎徒然日記』を更新して行きたいと思います。
とりあえず、年明けからは「志ん朝」と「コロンボ」と「寅さん」について書いて行こうかな…と、考えています。

ともあれ、今年一年間御愛顧頂きまして、誠にありがとうございます。
来年も何卒宜しくお願い致します。

昭和48年から49年にかけて、全5作品が作られた深作欣二監督の『仁義なき戦い』。
その第1作(昭和48年1月13日公開)のオープニングタイトルは、東映お馴染みの「三角マーク」に続いて、昭和20年8月6日、広島に投下された原爆による忌まわしいキノコ雲のモノクロ写真をバックに、殴り書きのようなタイトル文字が表われるというものです。

          http://www.youtube.com/watch?v=nb8VXy4Takc

この第1作のオープニングタイトルにも象徴されているように、『仁義なき戦い』という映画では、戦争が投げかけた暗い影も重要な要素となっています。
『仁義なき戦い』の物語は、終戦から1年後の昭和21年、「戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼る他はなかった」(オープニングナレーションより)頃の、広島県呉市から始まります。終戦後、復員兵である主人公・広能昌三(菅原文太)は、闇市で殺人事件を起こして服役。出所後、その度胸を見込んだ山守義雄(金子信雄)率いる山守組の子分となり、暴力の世界に身を投じることで自らの思いをぶつけようとするも、やがて20年以上に及ぶ「広島ヤクザ戦争」の渦中に飛び込むことになってしまいます。
ここで描かれているのは、戦争が終わって己の行き場を失った広能という男が、一つの大きな流れに流されるまま抜け出せず、もがき苦しむ姿であり、また舞台である呉という町が終戦までは海軍の一大拠点であり、それが戦後になると、今度は新しい「戦争」の舞台になるという点に、歴史の皮肉さを感じます。

第1作でも随所で見られた「戦争の影」が、物語の背景として更に色濃く描かれたと言えるのが、シリーズの中では「番外編」でありながら、「最高傑作」の呼び声も高い次作の『広島死闘篇』(昭和48年4月28日公開)。
この作品では、広島でのヤクザ抗争が激化する中、名うての「ヒットマン」として恐れられた山中正治(北大路欣也)という男が事実上の主人公として登場します。予科練志願の学徒だったが終戦で心のやり場を失ったこの男は、「国のために戦う」という思いを果たせなかった無念さを、「国」を「親分」や「組」に置き換えて晴らそうとしますが、結局利用された挙句、「国のために死ぬ」以上に無様な最期を遂げてしまいます。山中と恋仲になる組長の姪・靖子(梶芽衣子)は戦争未亡人で、その夫の遺影が映るシーンは、「国のために死んだ者」とそれが出来なかった山中との対照的な関係が象徴されているように思います。
シリーズ第4作まで手がけた脚本家の笠原和夫は、『広島死闘篇』の製作にあたり、自らと同世代で「戦争に行き遅れた青年」である山上光治という実在の人物に注目し、彼をモデルに山中正治というキャラクターを生み出します。一方、笠原とは3歳年下で昭和5年生まれの深作は、山中の宿敵となる武闘派ヤクザの大友勝利(千葉真一)に共鳴し、その捉え方の違いに「時代感覚のギャップ」を痛感したといいます。

『仁義なき戦い』では、『広島死闘篇』以降、原爆ドームが映って物語が終わるというスタイルが定着します。これは、以前から「ヤクザ映画には社会性が足りない」と考えていた撮影担当の吉田貞次カメラマンが、戦争の犠牲者とヤクザの犠牲者とを重ねる形で原爆ドームを撮ることを決めたそうです。
事実、広島の象徴であり、戦争の悲惨さの象徴でもある原爆ドームを映画の最後に出すことで、『仁義なき戦い』が何を訴えようとしているのかを表わすのに効果的な役割を果たしています。

『仁義なき戦い』と戦争との関係について書いてみましたが、ここまで書いて気付いたことは、国同士の戦争も、ヤクザ同士の争いも、「形」や「規模」は変わってもその実態には変わりはなく、また、巨大な力によって若者たちが操られ、その尊い命が犠牲になるという構図も全く同じであるということです。
シリーズ最終作となった『完結篇』(昭和49年6月29日公開)は、「人間の社会から弱肉強食の戦いが絶えるのは、果たしていつのことだろうか」というナレーションで締め括られ、全5作に渡った『仁義なき戦い』は幕を降ろします。
『仁義なき戦い』という映画は、単なるヤクザの争いを描いた作品に留まらず、戦争の悲惨さ、愚かさや平和の尊さを考えさせてくれる映画でもあると思います。

かつて、落語がお寺に葬られた時代がありました。

日中戦争が始まって4年。太平洋戦争開戦も目前に迫っていた昭和16年(1941年)、軍国一色に塗り潰され我が国では、あらゆる分野で戦争への協力が求められ、芸能の世界も例外ではなく、落語界・演芸界も演目の自粛を強いられます。
落語の演目は「甲乙丙丁」に分類され、このうち廓噺や花柳界、妾、それに「間男」に関わる題材など53演目が、時局に合わない「丁」と見なされ、この年の10月20日、落語界の先輩たちの霊と共に東京・浅草にある日蓮宗の寺・本法寺(ほんぽうじ)に建立された「はなし塚」に葬られます。
これが所謂「禁演落語」です。


やがて終戦を迎え、それから約1年が過ぎた昭和21年9月30日、「はなし塚」に集まった噺家たちによって「禁演落語復活祭」が行なわれ、禁演落語はめでたく「解禁」。「はなし塚」には今まで納められていた53席の噺に替わって、戦時中の落語の台本が納められます。
長い戦争が終わり、落語界にも漸く自由で平和な時代が戻って来た…と思ったら、これがとんだ大間違い。
「禁演落語」解禁からまだ半年余りしか経っていない昭和22年5月30日、今度はこの月の3日に施行されたばかりの日本国憲法の線に沿い、連合国軍最高司令官総司令部民間情報部、即ちGHQの検閲機関の指示に応じる形で、落語協会と日本芸術協会(現在の落語芸術協会)によって、新たに20演目が「禁演落語」に指定され、前回と同じく浅草・本法寺の「はなし塚」に葬られたのです。
この背景にあったのは、当時GHQが推し進めていた日本の民主化と非軍事化。
小島貞二編著『禁演落語』(ちくま文庫)によれば、これに先立つ昭和20年12月の日付で、「上演不可能歌舞伎之部」72演目と「上演不可能新時代劇之部」260演目がリストアップされ、これらを含めた約500本に上る脚本のうち、上演が許されたのは約3分の1の174演目だったそうです。また、映画界では「戦闘心を煽る」との理由から、チャンバラ映画が禁止されるという事態が起こります。「禁演落語」もこれらの事情と決して無関係ではなかったと考えられます。

さて、「禁演落語」となった20演目は以下のものです。
 お七 景清 巌流島(岸柳島) 胆つぶし くしゃみ講釈 袈裟御前 後生鰻 写真の仇討
 宗論 将棋の殿様 城木屋 高尾 ちきり伊勢屋 寝床 花見の仇討 毛氈芝居
 桃太郎 宿屋の仇討 山岡角兵衛 四段目

戦時中の「禁演落語」が、廓噺などのいわば「柔らかい」噺が中心だったのに対して、ここでは「仇討ちもの」「婦女子虐待もの」など軍国主義的、暴力的、荒唐無稽に過ぎると見なされたものが選ばれ、中には「後生鰻」「城木屋」「高尾」のように、前回に続いて「2度目のお勤め」となったものもありました。
しかし、「宿屋の仇討」「花見の仇討」「写真の仇討」のように、題名に「仇討」と付いているだけで「禁演」となったものや、見当違いの理由で選ばれたと思われるものが殆どで、新しい政策や体制に過剰に反応した結果、そうなってしまったことは否定出来ません。
実際、この2度目の「禁演落語」が登場してから半年足らずの昭和22年11月には、それまで上演禁止となっていた歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の上演が許可されており、「禁演落語」の存在自体が全く無意味なものであったことは明らかなようです。
結局、新体制の「御機嫌を伺う」という意味で生まれたであろう戦後の「禁演落語」は、昭和27年の占領体制終了に伴い自動的に解除されますが、実際にはそれよりずっと以前の昭和24年4月頃に「禁演落語復活祭」が本法寺で行なわれたそうで、更に言えば、今も書いたように存在自体が「有名無実」であったと言えます。

長くて暗い戦争の時代が終わり、日本が平和への道を進んで行く中で、落語の世界にも「紆余曲折」があったことを証明するものが、このもう一つの「禁演落語」であったということでしょう。

黒門町・夏の噺

五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生と並んで「昭和の名人」と謳われ、その住まいから「黒門町」の通称でも知られた八代目桂文楽。
志ん生や圓生などと比べて噺のレパートリーが少なく、持ちネタの数は30前後であったと言われていますが、その一つ一つが長年研鑚を積み重ねた末に、寸分の狂いもない「完成品」として仕上がっていました。

文楽の十八番の中には、夏を舞台にした噺がいくつかあります。
先ずは「船徳」。「道楽とは『道を楽しむ』と書くそうですが、中には『道に落ちる』と書く“道落”がある…」というマクラから始まるこの噺は、「道楽」の果てに「道落」をして実家から勘当され、柳橋の馴染みの船宿に居候する若旦那の徳さんが主人公。ある日突然「船頭になりたい」と言い出して親方を驚かせますが、「ここでなれなきゃ、他所へ行ってなる」の一言で親方も渋々承知します。暑い盛りの七月十日、浅草観音の縁日、所謂「四万六千日」の日。男2人連れの客が船宿にやって来ますが、あいにく船頭が出払って、残っているのは徳さん一人。断ろうとする女将を振り切って大張り切りで仕事を引き受け、柳橋から大川へ舟を漕ぎ出す徳さんでしたが…。
「にわか船頭」の身でありながら、一年の内で一番の書入れ時に舟を漕ぐ破目になった徳さんの悪戦苦闘ぶりもさることながら、親方に呼び出された船頭たちが「藪をつついて蛇を出す」ことになる件や、思いがけない「修羅場」を体験する2人の客、そして聴き手を一気に夏の盛りへといざなう「四万六千日、お暑い盛りでございます」など、聞き所満載の一席です。

「半可通」や知ったかぶりを指す言葉のもとになった「酢豆腐」も、また夏の代表的な演目。
夏の暑い盛り、町内の若い衆が寄り集まって酒を呑む相談をしています。酒はあるが肴はない。糠味噌があるが、誰も糠味噌樽に手を突っ込みたがらない。昨夜買った豆腐は、与太郎がうっかり釜の中に閉まったために、腐ってカビが生えている始末。どうしたものかと困っている所へ通りがかったのがキザで何でも知ったかぶりをする若旦那。日頃から若旦那のことをよく思っていない連中は一計を案じて…。
江戸時代中期の宝暦13年(1763年)に書かれた『軽口太平楽』が原話とされるこの噺、特別にこれといった筋はないのですが、前半のとりとめのない若い衆の会話からは、原題の通り「太平楽」な雰囲気が感じられ、噺の「核」である豆腐を巡る場面と合わせて、全編が聞き所と言うべき噺と言えるかもしれません。

桂文楽は、「富久」「愛宕山」「つるつる」など幇間(たいこもち)の出てくる噺も多く演じました。「鰻の幇間(たいこ)」はその中の一つ。
夏の炎天下、しがない幇間の一八は顔に見覚えのある浴衣姿の男と出会い、適当に話を合わせながら上手く取り入って鰻屋に案内してもらいます。この鰻屋というのが汚い店で、二階へ上がると子供が勉強机を持って出て行くという有様。それでもお世辞を並べた一八は酒と鰻にありつくことに成功します。ところが、男が小用に立ったのを境に、事態は思わぬ展開に…。
客を「釣ろう」と考えた一八が逆に「踏んだり蹴ったり」の目に遭う顛末を描いた一席。元々この噺には、一八が男と出会う場面の前に馴染みの芸者屋を訪ねる件があるのですが、文楽はいつしかこの場面をカットして、鰻屋での騒動に内容を絞り込んで演じるようになりました。一八が連れて来られた鰻屋の凄まじさが笑える一方で、男が席を外した後の一八の独り言や「十円札」の件には、明日の見えない芸人稼業に身を置く一八の悲哀がよく表われています。

ところで、文楽の落語の特徴として、それぞれの噺ごとに一度耳にしたら忘れられないフレーズがあることが挙げられますが、ここに挙げた3席も例外ではありません。
「船徳」では、今も書いた「四万六千日、お暑い盛りでございます」。
「酢豆腐」では、「金がないが刺身は食う」に「さすがはスンちゃん」。
そして「鰻の幇間」では、「先のとこ」に「見ろ、この十円の影の薄いこと」―。
どんな場面でこれらのフレーズが出てくるのかは、聞いてのお楽しみということで…。
例年よりも大幅に遅かった梅雨明けに、豪雨や地震など各地で相次ぐ自然災害など、今年の夏はいつも以上に我々人間にとって厳しいものになっているようです。
しかし、日中の「うだるような暑さ」には変わりがありません。この季節、暑さと日々の生活に追われる毎日に疲れた心と体を癒してくれるのは、やはり冷たい飲み物です。

先日、飲料水を作っている父方の親類から荷物が一箱送られてきました。中身は1ダース分のラムネ。
子供の頃から炭酸飲料好きで、特に夏になると毎日のようにサイダーやソーダ、コーラを口にしていますが、ラムネとは暫く御無沙汰でした。
独特の形をした瓶、見るからに爽やかな色合い、涼やかさを感じさせるビー玉、そしてどこか心を和ませてくれる瓶の手触り…と、何もかもがある種のノスタルジーを思い起こさせてくれて、存在そのものがまさに「日本の夏」と言っても決して過言ではありません。送られてきたラムネは、昔ながらのガラス瓶ではなくプラスチックの瓶に入ったものですが、ラムネ本来の「味わい」は見事に守られていました。

送られてきて数日後の風呂上がり、よく冷やしたラムネを頂きました。
冷蔵庫から取り出してフタでビー玉を瓶の中へ押し込むと、「ポン」と炭酸の泡の弾ける音。これもまたラムネの「醍醐味」。一口飲んだ後、口の中に広がる清涼感と喉から体内へと突き抜けて行く爽快感。
こうしてみると、ラムネほど目にも耳にも体にも涼しく、それでいて温かく、更に懐かしさを感じさせてくれる飲み物は他にありません。

ラムネと並んで最近ハマっている飲み物が、「ジョージア」のゼリーコーヒー。
6月のある日曜日、出先で立ち寄った自動販売機で買い求めて、「5回以上振ってからお飲みください」という缶の説明書きを見落としてしまったばっかりに、「何じゃこりゃ!?」と思いながらも何とか飲み干したのが最初でした。しかし、従来の缶コーヒーとは違う独特の味にすっかり病み付きになってしまい、ほぼ2日に1回の割合で飲んでいます。ゼリー独特のドロリとした食感とコーヒー本来の苦味のマッチングが堪えられません。

ラムネとゼリーコーヒー。
僕にとって、これがこの夏の愉しみです。

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