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「十年一昔」と言いますが、落語家・桂枝雀が平成11年4月19日に亡くなって今年でもう10年。そして、今年は生誕70年と、二重で記念の年にあたります。 枝雀さんの誕生日である8月13日には、大阪で「生誕70周年記念落語会」が開催されて大盛況だったそうです。 僕が初めて桂枝雀という人を知ったのは、小学校1年生だった昭和56年頃、NHKで水曜夜8時から放送されていた『なにわの源蔵事件帳』という時代劇でした。時代劇といっても、明治維新直後の大阪が舞台で、奉行所ではなく「梅田警察署」が登場します。主人公の源蔵親分は通称「海坊主の親方」と呼ばれ、これを枝雀さんが演じていました。つまり、僕にとっての枝雀さんとの「出会い」は、落語家としてではなく「役者」としてだったのです。 その後、昭和58年頃に、『笑いころげてたっぷり枝雀』(毎日放送)という番組が日曜日の午後に放送され、この番組で初めて「枝雀落語」を本格的に楽しみました。因みに、この番組に引き続いて放送されていたのが『超時空要塞マクロス』。日曜の昼間にテレビで落語とアニメの「2本立て」が組まれていたとは、今思えば凄いことだったと思います。 小学校から中学校、高校と進んで行く中で、テレビ・ラジオで枝雀さんの落語を楽しむようになり、中学3年生だった平成元年秋から、『特選米朝落語全集』(毎日放送)というラジオ番組が始まって、そこでも時折枝雀さんの落語が放送された他、平成2年のお正月の放送では桂米朝師匠との「師弟対談」があったりと、枝雀ファンにとっても聴き応えのある番組でした。 そんな中で、高校2年生の夏、枝雀さんが尾道の隣町である福山市で落語会をやるというので、両親と共に初めて生で枝雀さんの落語を聴くことが出来ました。実は落語会が行なわれる数日前から風邪を引いて高熱を出した上にお腹も壊してしまって、その両方が治りきらないまま当日を迎えたことを今でも覚えています。その日の枝雀さんは、「おかしいから笑うのではなく、笑うからおかしくなる」という独自の「枝雀理論」を展開したマクラに始まって、「人間は怖がることも楽しむ」という話から本題の『饅頭こわい』へと入り、満場を笑いの渦に巻き込みました。落語会が終わった後、いつの間にか体調が元に戻ったように感じました。 大学に進学して大阪で下宿生活を始めると、枝雀さんの落語に接する機会が益々増えて行きます。毎月第2金曜日の深夜に放送されていた『枝雀寄席』(朝日放送)をほぼ毎回録画していたのに加え、落語のカセット(この頃はまだCDではなかったのです)も少しずつ買い集めて、時には落語会へも足を運んで枝雀さんの生の高座に触れました。 大学卒業を目前に控えた平成9年1月17日、枝雀さんが新しい自分の会を始めると聞いて、大阪・都島の辻久子記念弦楽アンサンブルホールへ行きました。会が終わった後、枝雀さんに軽く会釈をして「ありがとうございます」と言われたことは、僕の人生の中でも忘れられない思い出の一つです。それからちょうど1週間後の1月24日、北浜のコスモ証券ホールで開かれた「桂枝雀 写真と落語の寄席」で、立て続けに枝雀さんの高座を見たのですが、ここであるアクシデントに遭遇します。枝雀さんがマクラを喋り続けて行くうちに突然絶句して、涙ぐんでしまったのです。今までの高座では見たことのない姿でした。 3月に2回目の都島での会を見て間もなく、枝雀さんが体調を崩して入院、休養に入ったというニュースを知りました。その後、一時は高座へ復帰し舞台へも出演したものの、再び休業状態に入ったまま、平成11年4月19日、我々はあまりにも早く枝雀さんとお別れすることになってしまいました。 枝雀さんとお別れして10年。その人気は未だに衰えることを知らず、全国各地で開催される生前の高座をビデオで上映する落語会は軒並み盛況で、またCD・DVDも好調な売れ行きを維持しているそうです。 今年の4月には、「生誕70周年」を記念した「枝雀十八番(おはこ)」(東芝EMI)と題したCD・DVDの全集が発売され、こちらも好評を博しているそうです。 古希を迎えた枝雀さんが、どのような形の「枝雀落語」を見せてくれたのか。
そんなことに興味を抱きながら、それが現実には永遠に叶わないことを寂しく、また哀しく思う…、今日この頃でございます。 |
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この7月に『ヴィクトリー・カープ』というCDが発売されました。 今年、平成21年が広島カープ球団創立60周年にあたり、本拠地も広島市民球場から新たにマツダスタジアムに変わるという2つの節目を迎えたこともあって、長らく廃盤となっていた「それ行けカープ(若き鯉たち)」をはじめ、「勝て勝てカープ」「燃える赤ヘル僕らのカープ」「ヴィクトリー・カープ」「CARP讃歌」といったカープ応援歌を一堂に集めたものです。 収録されている全曲がカープファンにとっては堪らないであろうことは言うまでもありませんが、このCDにそれ以外にも圧巻というべきものがあります。 それは、ケース裏面に勢揃いした6人のカープ坊や―。 カープのマスコット・マークであるカープ坊やが登場したのは、昭和50年6月のこと。マスコット・マークのコンペから広島市在住のデザイナーの作品が採用され、カープ坊やは誕生しました。 この年、チームは球界初の外国人監督・ジョー=ルーツによって「赤ヘル」を採用。開幕わずか1ヶ月で退団したルーツの後を継いだ古葉竹識監督の下、「赤ヘル旋風」と呼ばれる快進撃を見せ、10月15日、後楽園球場で巨人を破り悲願の初優勝を果たします。つまり、カープにとって歴史の一大転換点となった同じ年にカープ坊やは誕生したのです。 さて、その「初代・カープ坊や」ですが、赤いのは帽子の色のみで、ユニフォームの文字やアンダーシャツは、元来のチームカラーである紺がメイン。赤は文字の縁取りと襟や袖、それに当時「ベルトレス」だった腰の部分に使われただけでした。使用期間は昭和50年6月のデビューから翌昭和51年までのわずか2年間。「初代」は意外と短命でした。 「2代目」は昭和52年に登場。昭和50年の「赤ヘル旋風」で一世を風靡したカープは、この年から更に「赤」のイメージを前面に押し出したユニフォームにモデルチェンジします。紺に赤い縁取りだった胸マークや背番号は赤一色となり、アンダーシャツも紺から赤へ変更。襟と袖のラインと腰の部分の赤と紺の配色も逆転します。昭和54年、チームは4年ぶりにリーグ優勝を果たし、初の日本一に。翌昭和55年もリーグ連覇、2年連続日本一と「赤ヘル黄金時代」を迎えます。その後、昭和59年には4年ぶりのリーグ優勝と日本一に返り咲き、古葉監督から阿南準郎監督へバトンタッチされた昭和61年には5度目のリーグ制覇と、チームの4度のリーグ優勝と3度の日本一を「2代目」は見届けたことになります。阿南監督が退陣した昭和63年、「2代目」も役割を終えますが、その期間は実に12年。歴代の中では現在一番の長寿になります。 「ミスター赤ヘル」山本浩二が監督に就任し、年号が「昭和」から「平成」に変わった、カープにとってもこの国にとっても大きな転機を迎えた平成元年、カープ坊やも「3代目」に変わります。一番大きく変わったのは、それまで帽子の「C」のマークやユニフォームのラインなどに使用されていた紺が完全に消えて赤一色となったことで、ユニフォームも左胸に「C」のマークという、メジャーリーグのシンシナティ・レッズを思わせるデザインとなりました。「3代目」は平成7年まで7年間使用されましたが、3年目の平成3年、チームは5年ぶりにリーグ優勝。これが現在では「最後の」優勝となっています。 「4代目」は、山本監督から三村敏之監督へ交代して3年目の平成8年に登場。当時、日本球界で流行り始めていた「ラケットライン」入りのユニフォームとなります。カープの歴代ユニフォームには、往年の花文字ロゴの影響もあって読売ジャイアンツとよく似た雰囲気のものがいくつかありますが、この時のユニフォームはまさにその代表的なものでした。「4代目」最初の年の平成8年は、あの「メーク・ドラマ」の“犠牲”となった年。チームが段々厳しい時代へと向かう中で、21世紀最初の年である平成13年までの6年間使用されました。 その平成13年に山本浩二監督が復帰し、翌平成14年にカープ坊やは「5代目」となります。長年慣れ親しまれてきた花文字の「CARP」のロゴが筆記体になった上に、赤いストライプの入ったユニフォームの採用と、今までにない大幅なモデルチェンジが行なわれ、それは「5代目」にも大きく影響しています。「5代目」の大きな特徴は、それまで輪郭の色が紺だったのが黒に変更したことで、歴代の中でも異色の雰囲気が感じられます。広島市民球場が51年の役目を終えた去年までの7年間にわたって使用されましたが、個人的にはユニフォームにも「5代目・カープ坊や」にも最後まで馴染めませんでした。 そして、今年から登場の「6代目」。平成になってからの20年間、赤一色だった帽子やユニフォームに久々に紺色が入り、カープ坊やの輪郭も再び黒から紺に戻りました。果たしてこれから何年にわたってその役割を果たすことになりますか…? 初めに紹介したCD『ヴィクトリー・カープ』に収録されている「ヴィクトリー・カープ」の3番まである歌詞は、いずれも「我らが勇士に栄光あれ」と締め括られています。
昭和50年のデビュー以来、カープの栄光と苦難を「6代」にわたって見続けてきたカープ坊や。 我らがカープ坊やに、再び栄光あれ! |
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黒澤明の監督第1作『姿三四郎』が公開されたのは、昭和18年3月25日のことでした。 当時は既に戦争の真っ只中。黒澤もまた、この時代の荒波とは無縁ではありませんでした。 昭和11年、26歳という当時としては遅い年齢で映画界に入った黒澤は、助監督として日々撮影に追われながら、その合間を縫って脚本を書き続けて頭角を現わし、31歳の時、漸く監督昇進のチャンスが巡ってきます。 しかし、黒澤が監督デビューを果たすまでには紆余曲折がありました。最初の脚本は、当時のフィルムの配給制限で映画化を断念。続いて書いた2つの脚本も「米英的である」との理由で検閲で却下。更に日露戦争を舞台にした小説を脚色した所、「新人監督にはスケールが大き過ぎる」と映画化を見送られてしまいます。つまり、映画監督として出発する時点で、黒澤は戦時下という時代背景に泣かされたのです。 相次ぐ企画中止に気力を失いかけていた黒澤が目にしたのが、富田常雄の小説『姿三四郎』出版の広告。タイトルに惹かれた黒澤は、まだ世に出ていないこの本を「絶対に素敵な映画になる」と直感し、早速所属する東宝の幹部に映画化権を獲得するよう進言。その勘は当たり、映画『姿三四郎』は、娯楽に飢えていた観客や批評家達から熱狂的な支持を受け、大ヒットを記録します。 デビュー作で早くも才能を世に知らしめた黒澤。しかし、戦局が悪化の一途を辿る中で、当時映画フィルムを軍事物資として統制する権限を持っていた軍部は、映画会社に「戦意高揚」を前面に押し出す映画を作ることを要求し、黒澤も、海軍の情報部からゼロ戦を使った活劇映画を撮るようにと相談を受けたことがありました。海軍の戦力が衰え、ゼロ戦を映画で使う余裕がなくなったためにこの企画が立ち消えとなった後、黒澤が手がけた監督第2作が、昭和19年4月に公開された『一番美しく』。工場で軍事用レンズを作る勤労動員の女子挺身隊を描いた作品で、ダイナミックで男性的な作風が身上の黒澤にとっては珍しい女性映画です。撮影にあたって「その工場で実際に働いている少女の集団をドキュメントのように撮ってみたい」と考えた黒澤は、21人の若い女優達を実際に工場の寮に住まわせて作業を体験させるという、当時としては画期的な演出を試みます。「滅私奉公をテーマにしたこの作品は、こうでもしなければ、全くリアリティのない紙芝居になってしまうと考えてやっただけである」という黒澤の意図が実を結び、作業に勤しむ女子工員を演じる女優達のひたむきな表情は、時代を超えた現実感に溢れるものとしてスクリーンに映し出されました。 この映画には「後日談」があります。主役を演じた矢口陽子は、映画での役柄同様、若い女優達のリーダー的存在でしたが、『一番美しく』が公開された翌年に引退します。理由は、黒澤明と結婚するためでした。 昭和20年、デビュー作『姿三四郎』の好評を受けて撮影された『続・姿三四郎』を経て、黒澤は時代劇のスター・大河内傳次郎と、当時人気絶頂だった喜劇俳優の「エノケン」こと榎本健一主演で時代劇に取り組みます。当初「桶狭間の合戦」を舞台にした作品を作ろうとした所、ラストシーンで必要な馬が足りないという理由で断念。その代わりとして、当時能など日本の古典芸能に熱中していた黒澤が歌舞伎の『勧進帳』を基に一晩で脚本を書き上げたのが、大河内が弁慶、エノケンが独自のキャラクター・強力を演じたミュージカル・コメディ仕立ての『虎の尾を踏む男達』。戦争も末期となり、物資の不足など困難を極める中で撮影が続けられるうち、8月15日を迎え撮影は中断。しかし、数日で再開され、映画は無事完成します。 時代の激動を掻い潜り、黒澤が苦心の末に完成させたこの映画は、しかし、彼が最も嫌悪する内務省の検閲官との間で押し問答となった末に占領軍に提出する報告書から故意に除外され、所謂「非合法作品」となってしまいます。 映画『虎の尾を踏む男達』が漸く陽の目を見るのは、完成から7年後、GHQによる占領政策が終わった昭和27年4月のことでした。 暗い時代の中で映画監督としてのキャリアをスタートさせた黒澤明は、生前「戦争は嫌いだ!」と常々言い切り、また、戦時中厳しい検閲に晒されていたことを振り返る度に「怒りで身が震えた」といいます。
しかし、限られた状況下での映画作りの中で、「巨匠」としての片鱗を見せていたこともまた事実です。 昭和18年の監督デビューから終戦までの時期は、様々な点で「世界のクロサワ」の原点であったと言えるのかもしれません。 |

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このお盆休みを故郷で過ごされた方の中には、自分が生まれ育った町のいつまでも変わらない風景と、反対にいつの間にか変わってしまった風景と、それぞれに深い感慨を抱いた方が多いことでしょう。 我が町尾道は、古くからの町並みや風景が比較的多く残っていますが、しかし実際には、時の流れの中で確実にその姿を変えています。 「尾道学研究会」という会があります。 平成17年11月に発足したこの会は、「尾道を『知る』『学ぶ』『考える』」をスローガンに、尾道という地域の文化の掘り起こしや再発見に取り組みながら、その研究材料となる史資料の収集にも取り組んでいて、今年4月現在で会員数は114名に達し、尾道市外の会員も増えています。 会長の天野安治さんは、尾道では江戸時代から続く旧家の出身で、高校で長らく日本史の教師を務める一方で、切手収集の第一人者としても全国的に知られています。 その天野さんの郵便に関するコレクションのうち、尾道の風景を取り上げた絵葉書を展示した「まちかど尾道学ミュージアム002・天野安治コレクション展」が平成18年春に開催され、ここで埋もれている尾道の絵葉書の発掘と提示を呼びかけた所、多くの市民の方から多数の絵葉書が寄せられ、一般的な風景から名所旧蹟が写ったものから、明治後期から大正、昭和初期から戦後にかけての尾道の様々な姿を映し出したものまで幅広く集まったそうです。これを機に同研究会は、「尾道絵葉書発掘プロジェクト」を立ち上げ、先に集められたものに加えて実に330種の絵葉書が発掘・収集されました。 そうした尾道の絵葉書が、去年から今年にかけて『尾道…セピア色の記憶』と題し、「絵葉書に見るありし日のオノミチ」と「過去と現在をゆく今昔散歩」の2冊の本にまとめられました。 前者は、「手彩色」「鉄道」「公共建築物」「学校」「尾道港」「小歌島」「博覧会」「鳥瞰・町並風景」「千光寺公園」「社寺」「尾道名勝観光絵はがき」のテーマごとに、明治から昭和の戦後にかけての尾道の様々な風景を映したものや、記念に発行された絵葉書など143種の絵葉書が紹介され、そのいずれもが尾道の歴史を知る貴重な資料となっています。後者は、これらの絵葉書を基に、現在の同じ場所を撮った写真を並べて過去と現代の「時間旅行」が楽しめる内容で、いつまでも変わらないようで、実は確実に変わっている尾道の姿を知ることが出来ます。 第1冊目の「絵葉書に見るありし日のオノミチ」の「序にかえて」の中で、天野安治さんは、「元来が、地方都市の絵葉書はその種類も数も少ないものであるが、そのなかで小さな都市の割には尾道のそれは種類も多く多彩である。観光都市という側面を割引いても、やはり種類が多く、おかげでこのような尾道絵葉書の資料集をまとめることができた。このような企画は、やはり、どこでもできるというものではないであろう。戦前の尾道の都市力の反映といってよいかも知れない。それにしても、このようにして纏められた本資料集は、多くの会員・市民のみなさまのご協力の賜物である。あつく敬意を表したい」と書いています。 絵葉書を通じて尾道の歴史を知ろうとする取り組みが2冊の本という形で結実したことは、尾道という町が持つ歴史の「長さ」と「深さ」の証であり、またそれを伝え、遺そうとする人々の志の表われであるとも言えます。その意味でも「『セピア色』の尾道」を今日に伝えるこの2冊は、「尾道学研究会」だからこそ作れた貴重な労作です。 尚、本に掲載されている絵葉書の一部は、上記の「尾道学研究会」ホームページでも見ることが出来ますので、興味のある方は是非一度御覧になって下さい。
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幕末から明治にかけて落語界の第一人者として君臨し、今日も演じられている多くの噺を世に送り出した三遊亭圓朝は、また、優秀な弟子たちに恵まれた人でもありました。 そして、その弟子たちから更に後の世代へ圓朝の「遺産」が継承されたことも忘れてはなりません。 圓朝は、直弟子だけでも20人を超えていたと伝えられています。 明治維新後、素噺に転向した圓朝が、それまで用いていた「道具入り芝居噺」の道具一式を譲った三代目三遊亭圓生は、通称「のしんの圓生」と呼ばれ、役者から落語家に転向したと伝えられています。この「のしん」については、本名の「野本新兵衛」に因んだものと言われる一方で、元々天狗連(所謂セミプロの落語家の集まり)の真打格であったことから、「○○連の真打(しん)」と言われ、その「の真打」が「のしん」に転じたという説もあります。三代目圓生を襲名した時期も、明治5年(1872年)とする説とそれより少し早い明治2〜3年(1869〜70)頃とする説があって明確ではありませんが、明治初期の芝居噺の第一人者であったことは確かです。養母の死後神経を病み、明治14年(1881年)、43歳で亡くなっています。 四代目三遊亭圓生は、背負いの小間物屋から圓朝の弟子となり、一時廃業して芝居茶屋の主人となるも上手く行かず落語界へ復帰。明治15年(1882年)、四代目圓生を襲名します。師匠圓朝の私信に「圓生は生来名人なり」とあり、落とし噺では圓生に適わないと言わしめた程だったといい、廓噺を得意とした他、人情噺にも優れ、更には自らも噺を創作して、明治中期を代表する名人の一人として活躍しました。 この二代の圓生と並んで、晩年の住まいから「駒止の圓馬」と呼ばれた初代三遊亭圓馬、律義な人柄で一門に重きをなした二代目三遊亭圓橘が、「圓朝門下四天王」と謳われたといいます。 多士済々の圓朝の弟子たちの中でも一際異彩を放ち、また、落語の近代化と大衆化に絶大な功績を残したのが、本来は「三代目」でありながら、後年あまりにも有名になったことで俗に「初代」とされる三遊亭圓遊。23歳頃に圓朝門下となった圓遊は、「ステテコ踊り」という珍妙な踊りで人気を博す一方、本格芸では当時の名人たちに適わないと悟るや、当時は比較的軽視されがちだった滑稽噺に斬新なギャグや時代・風俗描写を巧みに盛り込んで、新作・改作を連発。「滑稽落語」というジャンルを確立した点で、圓朝に勝るとも劣らぬ落語界の一大功労者と言えます。「ステテコ踊り」から「ステテコの圓遊」、また鼻の大きさを売りにしたことから「鼻の圓遊」の異名を取りました。 名人の呼び声が高く、「圓朝に最もよく似ていた」と言われた四代目橘家圓喬。師匠譲りの長編人情噺から四代目圓生系の落とし噺、三題噺に上方の噺に至るまで幅広い芸域を持ち、その芸は後世に多大な影響を与えました。明治30年代から既に「二代目圓朝」に推す声があり、本人もその気持ちがあったといいますが、一方で「生意気」「高慢」など仲間内の評判が悪く、人望の点でいま一つだったことがあって、圓朝襲名は実現しないまま、大正元年(1912年)11月22日、肺病がもとで48歳で亡くなりました。 圓朝の弟子には、この他に明治から大正にかけて東西の落語界で重きをなした二代目三遊亭圓馬、その実弟の初代橘ノ圓、明治の末に「落語研究会」を起こした初代三遊亭圓左と二代目三遊亭小圓朝、それに、圓朝譲りの怪談噺や芝居噺を後世に伝え、「一朝老人」と敬われた三遊亭一朝などの人たちがいます。 圓朝は、昭和の落語家たちにも大きな影響を与えました。 例えば、五代目古今亭志ん生は、落語家として絶頂期を迎えた昭和30年代、主にラジオで圓朝作の長編人情噺を好んで演じ、晩年高座を退いてからも、常に「圓朝全集」を手放すことなく読み耽っていたといいます。八代目林家正蔵(彦六)と「お婆さん落語」で一世を風靡した五代目古今亭今輔は、前記の三遊亭一朝の晩年を交代で世話しながら、怪談噺や道具入り芝居噺を一朝から継承しました。 圓朝が明治33年8月11日に亡くなって1ヶ月足らずの同年9月3日に生まれたのが、六代目三遊亭圓生。義太夫語りから落語家に転向して内輪となった四代目橘家圓蔵は圓朝の孫弟子、圓生自身は義父である五代目三遊亭圓生と同様、圓朝の曾孫弟子に当たります。圓生は生前、「自分が聞いた噺家の中ではっきり名人と言えるのは橘家圓喬ただ一人」と言い、自らも圓喬を理想と考えていたそうです。圓喬は圓朝の弟子であり、圓生の究極の目標はやはり圓朝だったのかも知れません。持ちネタの豊富さでも知られた圓生は、無論圓朝作の長編人情噺なども多く演じており、生涯最後に「ネタおろし」した噺も、圓朝が明治19年(1886年)に発表した『福禄寿』という噺でした。 演芸評論家・安藤鶴夫は、自らのエッセイの中で、「一瞬にして消えてゆく話芸だけでは、どんなに名人であろうともう忘れられているはずなのに、円朝の名は今日ラジオやテレビに出ている落語家(はなしか)とおなじように今もなお健在である。作家・三遊亭円朝としての生命である」と書いています。
19世紀最後の年、明治33年、西暦1900年8月11日にこの世を去って、今年で111年。 三遊亭圓朝は、21世紀の今日も生きています。 |



