万年寝太郎徒然日記

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三遊亭圓朝の功績の一つに、生涯に渡って数多くの自作の噺を世に送り出したことが挙げられます。
現在高座にかけられている古典落語には、圓朝作品、或いは「圓朝作」と伝えられる噺が多く、名作として高く評価されています。

圓朝が創作の道を歩み始めたのは、安政6年(1859年)、ある寄席でトリをとることになり、師匠の二代目三遊亭圓生に助演を頼んだ所、自分がトリで演じる予定だった得意の芝居噺を師匠が先に演じてしまったことがきっかけでした。この時圓朝が作ったのが『累ヶ淵後日怪談』(かさねがふちごじつのかいだん)。江戸初期から伝えられる説話を基にしたとも、また夜店で見つけた草双紙から発想を得たとも伝えられ、明治になって、漢学者の信夫恕軒(しのぶ・じょけん)の勧めで『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)と改題されます。「真景」は「神経」に通じ、「文明開化の世の中に怪談でもあるまい」という思いからこの言葉が付けられたといいます。
ともあれ、21歳の時に発表したこの作品を皮切りに、圓朝は次々と自作の噺を世に送り出すことになります。

圓朝作品の特徴は、芝居噺、怪談噺から人情噺、伝記物、外国の作品を翻案したもの、更には観客からもらった三つの言葉を盛り込んで一席の噺に仕立て上げる「三題噺」など、その種類が多彩で豊富なことです。
怪談噺では最初の作品である『真景累ヶ淵』の他に『牡丹灯籠』『乳房榎』などがあります。『真景累ヶ淵』は、ある旗本が金貸しを斬ったことが発端となって、一筋の因縁が異なる物語に脈々と影響するという、数多くの場面から形成される長編で、最近でも映画の題材になるなど根強い人気を誇っています。『牡丹灯籠』は中国・明を起源とする江戸時代の説話から着想を得たもので、明治17年(1884年)に刊行された我が国最初の速記本としてベストセラーになったのがこの作品でした。『乳房榎』は、江戸中期の十返舎一九の読本(よみほん)が基で、木曽や信州を舞台にしたものを、圓朝が『江戸名所図会』を持ち出して江戸の話に置き換えた作品で、近代文学の心理描写や怪奇小説の展開を先取りした作品と評価されています。
人情噺の代表作として挙げられるのが『文七元結』(ぶんしちもっとい)。以前から演じられていた噺を圓朝が現在の形にしたと伝えられています。博打で身を持ち崩した左官・長兵衛を中心に江戸の市井に生きる人々の人情と泣き笑いを描いた大作で、歌舞伎の題材としてもよく知られています。

圓朝は、文久元年(1861年)頃から当時盛んだった「三題噺」の連である「酔狂連」(すいきょうれん)に加わり、創作力に磨きをかけますが、この「三題噺」からもいくつかの名作が生まれました。例えば暮れの代表的演目である『芝浜』は、「酔っ払い」「芝浜」「革財布」の題から圓朝が即席で作ったものと伝えられています。同じ冬の噺で、甲州身延山参詣の帰りに雪道に迷った江戸の商人が、山中の一軒家に辿り着いたことがきっかけで起こる出来事を描いた『鰍沢』は、「小室山の護符」「玉子酒」「鉄砲」、或いは「遊女」「熊の膏薬」「身延詣り」から作ったなどと言われ、また『大仏餅』は、「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」から作られたとされています。即興的要素が濃い「三題噺」でこれだけの作品を残したことからも、圓朝の類稀な才能を窺い知ることが出来ます。
明治維新後、海外の文明と共に文学や音楽も日本に入ってくるようになると、圓朝はそれらを翻案した作品も発表するようになります。フランスの正史劇「ラ・トスカ」をヒントに作られた『名人くらべ』(『錦の舞衣』)や、フランスの小説を翻案したと言われる『松操美人の生埋』といった作品は、圓朝と交流のあった明治期のジャーナリストで、後に東京日日新聞の社主を勤めた福地桜痴(おうち、源一郎)から教えられたことがきっかけで生まれたと言われています。また、明治20年(1887年)に中央新聞に連載された長編『名人長二』は、フランスの作家・モーパッサンの小説『親殺し』を翻案したものだといいます。
この他、圓朝が現地取材をして創作した伝記物『塩原多助一代記』、グリム童話を翻案したイタリア歌劇「靴直しクリスピーノ」を更に翻案したと言われる『死神』、盲人の弟子・三遊亭圓丸の実話の基に、不自由だった目が見えるようになった按摩の身に巻き起こる悲喜劇を描いた『心眼』など、圓朝作品には枚挙に暇がありません。

これほどの幅広い作品を生み出し、しかもその殆どが現在まで語り継がれていること。
これだけでも三遊亭圓朝という噺家の偉大さの証であると言えます。
江戸時代から21世紀の現在まで脈々と続く落語の世界。
その中で、今日まで最も大きな影響力を持っているのが、「近代落語中興の祖」と謳われ、その偉大さ故にあらゆる落語家達から「大師匠」の尊称で呼ばれる、幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝です。
このブログでは、以前に彼の命日である8月11日頃に毎年行なわれる「圓朝まつり」について紹介しましたが、圓朝その人について書いたことは今まで殆どありませんでした。
そこで今回、この不世出の落語家の生涯や作品、そして今日の落語界に与えている影響について書いてみたいと思います。

三遊亭圓朝、本名・出淵次郎吉(いずぶち・じろきち)は、天保10年(1839年)、江戸・湯島に生まれます。父・出淵長蔵は、二代目三遊亭圓生門下で、初代の橘家圓太郎という音曲師でした。
弘化2年(1845年)3月、橘家小圓太の芸名で初高座を務め、父の師匠である二代目圓生に入門。嘉永2年(1849年)に二つ目に昇進するも、一時廃業。商家奉公や歌川国芳の下で絵を学んだ後、噺家に復帰。安政2年(1855年)、当時人気絶頂だった新内(浄瑠璃の流派の一つ)の名人・富士松紫朝(ふじまつしちょう)の「朝」の字を取って、自ら「三遊亭圓朝」を名乗り、生涯この芸名を通します。
安政5年(1858年)、二十歳の頃、大道具を用いて鳴り物入りで演じる「道具入り芝居噺」を高座にかけるようになり、徐々に人気を得て行きます。

噺家として順風満帆だった圓朝にとって人生最初の転機が訪れるのが、安政6年(1859年)。ある寄席でトリをとることになった圓朝は、師匠の二代目圓生に助演を頼みますが、この時師匠は自分がトリで演じる予定だった得意の芝居噺を先に演じてしまいます。これについては、前途有望な弟子に対する嫉妬心から生じた嫌がらせという説が今日では定説となっており、師弟間の確執は、二代目圓生が文久2年(1862年)に亡くなる直前まで続いたと伝えられています。
この一件をきっかけに、「既存の噺を演じるだけでは道は開けない」と悟った圓朝は、創作活動に意欲を示し始めます。元々創作の才もあった圓朝は、怪談噺の『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)や『牡丹灯籠』を発表して評価を高め、また文久元年(1861年)頃には、当時盛んだった「三題噺」の連である「酔狂連」(すいきょうれん)に加わり、創作力に磨きをかけながら、文化人たちとの交流も深めます。この頃の寄席は一月を上下に分けて、月2回の興行が決まりになっていて、真打が15日間トリで続きものの人情噺を演じていましたが、圓朝はそこで常に新しい噺を演じたことで、評判を上げて行ったのでした。

自らの創作による「道具入り芝居噺」で落語界の第一人者となった圓朝にとって、明治維新は第二の転機となりました。この時、それまで用いていた道具一式を弟子の三代目圓生に譲った圓朝は、自身は素噺(すばなし)、つまり話術と扇子一本による芸に転向します。そして、ここで時代の「新しい風」が彼に味方します。
明治14年(1881年)10月12日、所謂「国会開設の詔(みことのり)」が明治天皇より出されたのを機に、国会議事録記録の必要から多くの速記法が考案されます。その啓蒙活動として速記本の発行が企画され、我が国の速記の草分けである若林坩蔵(かんぞう)が、圓朝の高座を書き留めた『怪談牡丹灯籠』がベストセラーとなり、落語が全国に普及する結果を生みました。
この速記本の効果は文学界にも波及します。明治中期、新しいタイプの文章を書こうと悩んでいた作家・二葉亭四迷は、先輩の坪内逍遥から圓朝の速記本を読むことをアドバイスされ、その結果、彼の代表作『浮雲』(明治20年発表)が生まれます。明治の文学者による一大改革運動である「言文一致運動」は圓朝がきっかけを作ったと言え、近代の文学界においても圓朝は「大功労者」となったのでした。

多くの創作を発表し、また多くの優れた門弟を輩出した圓朝は、一方で山岡鉄舟の弟子として禅を学び、名士高官との交流によって落語の地位を向上させ、落語界に大きく貢献します。明治24年(1891年)、席亭との意見の違いから寄席の出演を退き、その後は特別な会の出演や速記発表に専念します。
数々の功績を残した圓朝ですが、惜しむらくはその「声」が現在に残されていないこと。日本で初めて落語のレコードへの吹き込みが行なわれたのは、圓朝が没して3年後の明治36年(1903年)5月。圓朝の声が永久に聴けないことは、落語ファンにとって残念でなりません。

明治33年(1900年)8月11日、進行性麻痺と続発性脳髄炎のため永眠。三遊亭圓朝、時に62歳。
昭和54年に福岡から埼玉・所沢に本拠地を移した西武ライオンズが最も輝いていたと言えるのが、11度のリーグ優勝、8度の日本一に輝いた昭和57年から平成6年までの13年間でしょう。
以前、この時代のパ・リーグ5球団を振り返ってみましたが、今回は同じ時代のセ・リーグ6球団について、各球団ごとに振り返って行きます。

○読売ジャイアンツ
監督:藤田元司(〜昭和58年)→王貞治(昭和59年〜63年)→藤田元司(平成元年〜4年)→長嶋茂雄(平成5年〜)
昭和55年の「長嶋解任、王引退」の後、藤田政権初年度の昭和56年、8年ぶりに日本一を奪回したジャイアンツ。2年ぶりにペナントを奪還した昭和58年、パ・リーグ連覇を果たしたライオンズと日本一を争い敗れる。「球団創立50周年」の昭和59年、王が監督に就任。期待と注目を集めるが苦戦が続き、就任4年目の昭和62年、漸くリーグ優勝を果たすが、ここでも日本シリーズでライオンズに破れ、翌昭和63年、王は監督を解任。再び藤田監督に。平成元年、8年ぶりに日本一となった後、翌年もリーグ制覇を果たすが、日本シリーズではライオンズの圧倒的な強さの前に三度破れる。平成5年、「ミスター・プロ野球」長嶋が監督に復帰。翌平成6年、リーグ優勝を果たし、ライオンズを破って日本一を手中に収める。「獅子の時代」の13年間でリーグ優勝5回、日本一2回といずれもセ・リーグ最多だが、「強い巨人」を印象付けたのは、2度の藤田政権時代であったと思う。

○阪神タイガース
監督:安藤統夫(昭和57年〜59年)→吉田義男(昭和60年〜62年)→村山実(昭和63年〜平成元年)→中村勝広(平成2年〜)
「西武ライオンズ」誕生に際しては重大な関わりを持ったタイガース。ペナントレースの成績よりも「お家騒動」が世間の注目を集める時代が暫く続いた後、吉田監督2度目の登場で迎えた昭和60年、「甲子園・バックスクリーン3連発」をきっかけに、ランディ=バース、掛布雅之、岡田彰布のクリーンアップを中心とする「新ダイナマイト打線」の圧倒的な破壊力でペナントレースを席巻。10月16日、21年ぶりにリーグ優勝を果たす。続く日本シリーズでもペナントレースの勢いそのままにライオンズを圧倒して初の日本一。球団創立50周年を最高の形で飾る。日本中に「タイガース・フィーバー」が巻き起こり、チームもファンも「全員一丸」となって「この世の春」を謳歌したのであったが…。

○広島東洋カープ
監督:古葉竹識(〜昭和60年)→阿南準郎(昭和61年〜63年)→山本浩二(平成元年〜5年)→三村敏之(平成6年〜)
「西武ライオンズ・元年」の昭和54年、初の日本一に輝き、「赤ヘル黄金時代」を迎えたカープ。共にプロ野球で一時代を築いた「赤ヘル軍団」と「レオ軍団」が初めて日本シリーズで対決したのが、奇しくもカープが古葉から阿南へ、ライオンズが広岡達朗から森祗晶へと共に監督がバトンタッチされた昭和61年。史上唯一の「8戦シリーズ」は、初戦引き分けの後3連勝しながらその後4連敗を喫し、日本一奪回を逃す。黄金時代を支えてきた「ミスター赤ヘル」山本浩二、「鉄人」衣笠祥雄の両雄が引退した後、平成元年、山本が監督に就任。3年目の平成3年、5年ぶりのリーグ優勝を果たし、再び日本シリーズでライオンズと対決。ここでも先に日本一へ「王手」をかけながら、最盛期を迎えたライオンズの前に最後に力尽きる。この時から既に18年の歳月が流れた。

○中日ドラゴンズ
監督:近藤貞雄(〜昭和58年)→山内一弘(昭和59年〜61年)→星野仙一(昭和62年〜平成3年)→高木守道(平成4年〜)
「西武ライオンズ」初優勝の昭和57年、セ・リーグを制したのはドラゴンズだった。近藤監督就任2年目のこの年、巨人との熾烈な争いの末、リーグ最終戦で8年ぶりの優勝を決める。その後、暫く低迷が続いた後、昭和62年、「燃える男」星野が監督に就任。オリオンズから落合博満を交換トレードで獲得するなど、徹底した意識改革でチームを活性化させ、翌昭和63年、就任2年目にしてリーグ優勝を果たす。しかし、この2度とも日本シリーズではライオンズに敗れ、日本一には手が届かなかった。星野の後を継いだ高木監督の下、平成6年に長嶋ジャイアンツと最後まで優勝を争うが、「10・8決戦」で力尽きる。13年間を見てみると成績の浮き沈みの激しい時代ではあったが、ドラゴンズが「全国区」に躍り出たのもこの頃だったと言える。

○ヤクルトスワローズ
監督:武上四郎(〜昭和59年シーズン途中)→土橋正幸(昭和59年シーズン途中〜昭和61年)→関根潤三(昭和62年〜平成元年)→野村克也(平成2年〜)
ライオンズが所沢に移る前年の昭和53年、後にその指揮を執る広岡監督の下で初のリーグ優勝、日本一となったスワローズも、その後は昭和50年代後半から60年代前半にかけて4度の最下位になるなど、以前の「お荷物球団」に逆戻りしてしまう。そうしたムードに変化が訪れるのが、関根監督が就任した昭和62年から。広沢克己、池山隆寛をはじめとする若手選手が続々と台頭し、「弱いが明るいチーム」として特異な存在感を放つ。平成2年、野村監督が就任。ドラフト1位で古田敦也が入団。「ID野球」の下、「明るいチーム」から「勝つチーム」へと進化を遂げ、平成4年、14年ぶりにリーグ優勝。この年はライオンズに日本シリーズで敗れるが、翌年リーグ連覇を果たすと、2年連続となったライオンズとの日本シリーズを制し、以後「黄金時代」を迎えることになる。

○横浜大洋ホエールズ(〜平成4年)→横浜ベイスターズ(平成5年〜)
監督:関根潤三(昭和57年〜59年)→近藤貞雄(昭和60年〜61年)→古葉竹識(昭和62年〜平成元年)→須藤豊(平成2年〜4年)→近藤昭仁(平成5年〜)
ライオンズが所沢に移る前年に本拠地を川崎から横浜に移したホエールズ。「長嶋監督」誕生までの“繋ぎ役”と目された関根、「スーパーカートリオ」などのアイデアで話題を呼んだ近藤、「赤ヘル黄金時代」を築いた古葉、ジャイアンツの二軍監督としての実績を評価された須藤と入れ代わり立ち代わり監督が変わるものの、この間Aクラスに入ったのは2回だけで、勝率5割以上を超えることはなかった。平成5年、球団名を「横浜ベイスターズ」と改称。企業色を払拭した地域密着型チームとして再出発を図ることになる。「獅子の時代」の13年間において、セ・リーグで唯一優勝のなかったこのチームがリーグ制覇を果たすのは、チーム名が変わってから5年後のことである。

昭和57年から平成6年にかけてのセ・リーグを振り返ってみると、パ・リーグがそうであったように、各チームで世代交代に伴って新しいスター選手が台頭し、また球史に残る出来事も多かったことが分かります。
昭和54年、それまで福岡を本拠としていたライオンズが「西武ライオンズ」となり、埼玉・所沢に移ってから今年でちょうど30年。
その西武ライオンズが最も輝いていた時代といえば、共に巨人出身の広岡達朗・森祗晶両監督の下で11度のリーグ優勝、8度の日本一を果たした昭和57年から平成6年までの13年間でしょう。
では、パ・リーグの他の5球団にとってこの13年間はどんな時代であったのか。各球団ごとに簡単に振り返ってみたいと思います。

○近鉄バファローズ
監督:関口清治(昭和57年〜58年)→岡本伊三美(昭和59年〜62年)→仰木彬(昭和63年〜平成4年)→鈴木啓示(平成5年〜)
「西武ライオンズ」初優勝の昭和57年、近鉄も「闘将」西本幸雄が去り、新しい時代へと突入した。関口・岡本監督時代を経て、昭和63年、長年コーチを務めた仰木監督が就任。西武と最後までデットヒートを演じ、あの「10・19」で力尽きる。翌平成元年、前年以上の壮絶な優勝争いの末、9年ぶりのリーグ制覇。「常勝軍団」として君臨する西武の「管理野球」に対して、個性豊かな選手が揃い、自由奔放、豪快さを前面に押し出したチームカラーでパ・リーグ人気を盛り上げた功績は大きい。仰木監督勇退後、その独特の個性が「陰り」を見せ、平成6年オフ、チームの「看板」だったエース・野茂英雄が海の向こうへ旅立ったことがそれに拍車をかける結果となった。

○阪急ブレーブス(〜昭和63年)→オリックスブレーブス(平成元年〜2年)→オリックスブルーウェーブ(平成3年〜)
監督:上田利治(〜平成2年)→土井正三(平成3年〜5年)→仰木彬(平成6年〜)
昭和50年代前半、パ・リーグの「盟主」として黄金時代を築いた阪急。一旦辞任した上田監督が復帰して4年目の昭和59年、6年ぶり、通算10回目のリーグ制覇。これが「阪急ブレーブス」として最後の優勝となる。昭和63年、突如球団が身売り。更にその2年後には本拠地が西宮から神戸へと移り、「ブレーブス」のチーム名が消える。神戸移転後の3年間はAクラスを維持するもパッとせず。平成6年、仰木監督が就任。そして、同じ年に本格的にデビューした「鈴木一朗」改め「イチロー」が、「獅子の時代」以後のパ・リーグ、そして日本プロ野球を席巻することになる。

○南海ホークス(〜昭和63年)→福岡ダイエーホークス(平成元年〜)
監督:ドン=ブレイザー(〜昭和57年)→穴吹義雄(昭和58年〜60年)→杉浦忠(昭和61年〜平成元年)→田淵幸一(平成2年〜4年)→根本陸夫(平成5年〜6年)
昭和30年代、福岡にあったライオンズとパ・リーグの覇権争いを繰り広げ、その後もリーグを牽引してきたホークスも、昭和50年代中盤からは5〜6位が「指定席」となり、「斜陽の球団」へと転落して行った。往年のエース・杉浦が監督となって3年目の昭和63年、遂に球団が身売り。長年住み慣れた大阪からかつてのライバルチームの本拠地だった福岡への移転は、ファンに衝撃を与えた。本拠地が福岡ドームとなった平成5年、「常勝西武」を陰で支えた根本が監督に就任。チームの「土台作り」が行なわれ、根本がフロントに転じた後、「世界の王」の下での「強いホークス」へと繋がっていった。

○ロッテオリオンズ(〜平成3年)→千葉ロッテマリーンズ(平成4年〜)
監督:山本一義(昭和57年〜58年)→稲尾和久(昭和59年〜61年)→有藤道世(昭和62年〜平成元年)→金田正一(平成2年〜3年)→八木沢荘六(平成4年〜6年)
ライオンズが所沢に移る前年に本拠地を川崎に移したロッテ。稲尾監督時代は2年連続Aクラスと健闘し、エース・村田兆治の故障からの復活や「オレ流」落合博満の2年連続三冠王など話題も多かったが、稲尾が退任し、落合がチームを去って以降、成績が低迷。昭和63年の「10・19」では、図らずも殆どのプロ野球ファンを「敵」に回すことに。人気獲得策が実を結ばないまま、平成4年、本拠地を千葉に移し、長年親しまれた「オリオンズ」のチーム名が消える。千葉移転後も暫くは低迷。平成6年のシーズン終了後、メジャーリーグで采配を振るったボビー=バレンタインが監督に就任する。

○日本ハムファイターズ
監督:大沢啓二(〜昭和58年)→植村義信(昭和59年シーズン途中まで)→大沢啓二(昭和59年シーズン終了まで)→高田繁(昭和60年〜63年)→近藤貞雄(平成元年〜3年)→土橋正幸(平成4年)→大沢啓二(平成5年〜6年)
「西武ライオンズ」初優勝の前年にパ・リーグを制したファイターズ。昭和57年も後期優勝、シーズン通算1位の成績を収めるが、プレーオフで西武に敗れてリーグ連覇を逃す。翌昭和58年に大沢監督が退任後、次々と監督が変わるが成績は低迷。平成5年、大沢監督が復帰。久々にチームがAクラスに返り咲いたばかりか、西武とシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げてファンを沸かせた。その後もAクラス入りはするものの、なかなか優勝には手が届かなかったファイターズが次にリーグ制覇を果たすのは、本拠地が東京から北海道に移った、前回の優勝から約四半世紀後のことである。

「獅子の時代」のパ・リーグ5球団を振り返ってみましたが、この時代は西武ライオンズが「常勝軍団」として君臨していた一方で、各チームで世代交代に伴って新しいスターが台頭したり、また球団が人気獲得のために奔走したこともあって、空前の「パ・リーグ人気」が巻き起こった時代でもありました。ライオンズ以外のファンにとって、この時代は「辛い時代」だったと思う反面、「懐かしい思い出」も多いのではないかと思います。
1月に、昭和の落語家たちを取り上げた本として、『談志絶倒昭和落語家伝』(大和書房)とCD付きの隔週刊雑誌『落語 昭和の名人たち』(小学館)の2冊をこのブログで紹介しました。
このうち、『談志絶倒昭和落語家伝』を読みながら、ある1冊の本のことを思い出しました。

その本とは、『昭和 高座の名人たち』(三一書房)。
平成9年頃に発売されたこの本は、写真家の金子桂三さんが、昭和35年頃から撮り続けてきた落語家やその他の芸人たち、更に当時の寄席の風景の写真までを1冊にまとめたもので、この本が発売された当時、まだ大学生で大阪で下宿生活を送っていた僕は、大阪市内の書店で先ずこの本を見かけ、その後最寄りの図書館で何度か借りて、夢中になって読んだものでした。大学生活を終えて故郷尾道に帰った後、「また読みたい」と思ったものの、地元の図書館にはなく、また尾道近郊の図書館にもないようで、なかなかその機会に恵まれませんでした。
「もう再び読むことは叶わないのか…」と半ば諦めかけていた時、某インターネットの通販サイトで偶然この本を発見。早速大枚はたいて購入しました。

『談志絶倒昭和落語家伝』が、昭和20年代から30年代初めにかけての落語家たちが紹介されているのに対して、この本は主に昭和35年以降の写真が中心。紹介されているのが、落語家が三代目桂三木助、(俗に)九代目鈴々舎馬風、三遊亭百生、八代目三笑亭可楽、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬、(初代)桂小文治、二代目古今亭甚語楼、八代目桂文楽、六代目三升家小勝、三代目三遊亭小圓朝、五代目古今亭志ん生、(先代)金原亭馬の助、五代目古今亭今輔、二代目桂枝太郎、九代目桂文治、六代目春風亭柳橋、六代目三遊亭圓生、七代目橘家圓蔵、林家三平、八代目林家正蔵、十代目金原亭馬生、四代目三遊亭圓遊、四代目三遊亭圓馬、それに真打ちに昇進して間もなく落語家を廃業し、落語協会の事務員に転じた三遊亭市馬。色物では紙切りの先々代林家正楽、三味線漫談の柳家三亀松(みきまつ)、日本手品の一徳斎美蝶、音曲師の春風亭枝雀、女流三味線漫談の都家かつ江、漫才のリーガル千太・万吉、それに上方の下座囃子の第一人者・林家トミ。また、桃川燕雄、七代目一龍齋貞山、五代目一龍齋貞丈、服部伸、五代目宝井馬琴の講談師、更に昭和45年1月に廃業した人形町末広、現在のビルになる前の上野鈴本、今も殆ど変わらない外観の新宿末広亭、平成2年に幕を降ろした上野本牧亭といった寄席の風景まで収録されています。八代目文楽の項の「文楽崇拝の序」(小沢昭一)、人形町末広の項の「のどかな佳き思い出」(興津要)など、それぞれに味わいのあるエッセイが添えられています。

撮影した金子桂三さんは、前書きの「撮影当時の思い出」の最後に、「今あの頃の写真を見ていると志ん生がいて、文楽がいた昭和三十年頃の寄席はまさに黄金時代だったに違いありません。そんな中で数多くの芸人達に触れ、その姿を撮ることができたことは、この上のない幸せだったと思います」と書いています。久しぶりに一読して、金子さんが体感した「この上のない幸せ」を、改めて写真を通して実感したのと同時に、最初にこの本を手にして読んだ、今から12年程前の自分のことにも、ふと思いを馳せました。
尚、金子さんの貴重な写真は、『寄席はるあき』(安藤鶴夫・著、河出文庫)でも見ることが出来ますので、興味のある方は是非お手にとって御覧下さい。

もののついでに、「昭和の落語家たち」を取り上げた本をもう1冊紹介したいと思います。
といっても、こちらは昭和59年頃に出版された『座・噺家』という写真集。写真家の星野小麿さんが昭和50年頃に活躍していた落語家たちの写真を収録したもので、当時大御所的存在だった六代目圓生、八代目正蔵(彦六)、五代目小さんから、まだ30〜40代だった古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭圓楽、柳家小三治といった面々が登場する他、高座以外の落語家たちの姿も紹介されています。また、鈴本演芸場でお囃子の稽古に励む前座さんたちの中には、現在真打ちとして活躍している人の姿も見られ、これまた貴重な1冊と言えますが、現在では一般の書店で手に入れることは困難なようです。

昭和から平成になって20年余りが過ぎた今、「落語ブーム」が巻き起こって久しいですが、本当の意味で落語の世界や寄席が輝きを見せていたのは、やはり昭和の時代だったと思っています。
自分はリアルタイムで接することは出来ませんでしたが、今回紹介した本や、現在立て続けに発売されているCDやDVDでその時代に触れることが出来る訳で、その点では落語ファンにとって今は「いい時代」ではないかとも思うのですが、如何でしょうか。

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