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「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄がプロ入りして今年で50年ということで、「『ミスター』に挑んだ男たち」と題して、長嶋をライバルとしてきた人たちを取り上げるシリーズの第1回として、「二代目ミスター・タイガース」村山実について書いたのが、今年の4月のことでした。 その後、当ブログが休止状態になったことでこのシリーズも中断してしまいましたが、今後月1〜2回程度で残りの人たちについて書いていく予定です。興味のある方は、どうぞ楽しみに待っていて下さい。 さて、今回久々に書くプロ野球の記事は、僕にとってシーズン・オフの「楽しみ」についてです。 日本シリーズが終わり、次の年の春にペナントレースが始まるまでの間、プロ野球界では新人選手の入団やトレード、契約更改など話題は尽きませんが、それらの中で僕が必ず注目するのが、次の年から使用されるユニフォームのリニューアルの話題です。 「楽しみ」といっても、この話題に関して本当に「楽しさ」を感じることは多くありません。特に、プロ野球史上に残る長寿ユニフォームや名物ユニフォームに代わる新しいユニフォームが登場すると聞く度に、実際のものを見てガッカリしたり愕然としてしまったことを、今まで何度も経験してきました。特に最近では素材や技術の進歩によって、それらを活用した斬新なデザインのユニフォームが多くなった反面、完成されたスタイルを持ったものが少なくなっているように感じます。 そんな中で、広島東洋カープと横浜ベイスターズがユニフォームをリニューアルすることになり、同じ11月23日に開催された両チームのファン感謝デーでも「お披露目」が行なわれました。 カープはこれまでの赤いストライプのユニフォームが廃止され、ロゴと帽子の縁取りや袖やパンツのラインなどに元来のチームカラーである濃紺が21年ぶりに復活し、ビジター用は上が赤、下が白の球団史上初のツートンカラーを採用したのが大きな特徴。来春の新球場開場に合わせて登場する、「復刻」とは違う新しい「伝統」のスタイルと言えるもので、「こんなユニフォームが何故今まで出てこなかったのか?」というのが、最初に見た時の印象でした。個人的には、立ち襟は別に要らないのではないかとか、ビジター用についてはオーソドックスなグレーにして、「Hiroshima」のロゴも筆記体ではなく、所謂「花文字」の方が良かったとも思うのですが、それでも「赤一色」となって以降のユニフォームと比較しても、完成度の高いユニフォームであることは間違いないと思います。 そして、もう1つ思ったのが、「このユニフォームを市民球場で見たかった…」ということ。ファン感謝デーでの「お披露目」が、皮肉にも広島市民球場でこのユニフォームを見ることが出来る最初で最後となってしまいました。 一方のベイスターズですが、いかにチームが低迷しているとはいえ、ユニフォームのデザインを変えてしまうということ自体に少なからぬショックを受けたというのが正直な気持ちです。そして、それに代わる新しいユニフォームを見て、「ベイスターズは完成されたデザインと共に、あの1998年の『栄光と歓喜の記憶』まで葬り去ってしまった…」という思いを強く感じました。いかにもスマートな雰囲気のブルーのストライプや背番号の「カッパープレート・ゴシック」が消えてしまったことは本当に残念でなりません。プルオーバーというスタイルも時代遅れだし、横浜の頭文字をデザインしたという「Yネック」もいかにもカッコ悪い。同じ「Yネック」なら、見た目がそのまま「Y」の字に見える前立てのラケットラインを採用すべきだったし、またリニューアルするなら、かつての「横浜大洋ユニフォーム」のテイストを取り入れるべきだったとも思います。例えば、↓のようなユニフォームのような感じのものが良かったと思うのですが、如何でしょうか? http://mlb.yahoo.co.jp/photo/?f=7409 ところで、カープもベイスターズも今年まで使用されていたのはいずれもストライプのユニフォーム。平成17年までストライプのユニフォームだった東京ヤクルトスワローズを加えて、セ・リーグだけでも4つあった「縦縞」のチームも、来年からは阪神タイガースだけになる可能性が現時点では高くなっています。そのスワローズや、パ・リーグでは埼玉西武ライオンズも来年からユニフォームが変わるらしいとのことで、今年のオフの「ユニフォーム戦線」はまだ目が離せないようです。
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平素は、「万年寝太郎徒然日記」を御愛顧頂きまして、誠にありがとうございます。 「しばらく御無沙汰しておりました」という言葉だけでは物足りないくらい、本当にしばらくの間御無沙汰してしまいました。 毎度申し上げている通り、「好きなことを好きなだけ、書きたいことを書きたいだけ」「世のため、人のためになることは一切書かない」をコンセプトに、種々雑多なテーマを取り上げている当ブログ。平成17年5月19日に開設して以来今年の春まで、一時期を除いて比較的コンスタントに書き続けてきました。 それが今年の4月頃を最後に新しい記事の更新が途絶えてしまい、また各記事に寄せられたコメントへの返信も滞ってしまいました。この間、馴染みのブログやサイトには時間の許す限り訪問して、コメントを書き込んだりしていたのですが、なかなか自分のブログを再開させるまでには至らず、春が過ぎ、梅雨も明けて、暑かった夏もあっという間に終わってしまい、とうとう秋ももう終わろうかという時期になってしまいました。 「何とか、冬が来る前に再開出来れば…」と思い、今日11月19日、本当に久しぶりに、この記事を投稿することが出来ました。 一度「休み癖」「怠け癖」というものが身についてしまうとどうしようもなくなってしまうようで、「いずれ近いうちにまた始めよう」と思うとその繰り返しになってしまって、結局「後回し」か「やらずじまい」になってしまいます。4月から「休業」状態に入った時は、まさかここまでその状態が続いてしまうとは自分でも思っていませんでした。これも、「いずれまたやろう」「いつでも出来る」という思いを引き摺ってきた結果だと思っています。 また、仮にブログを再開したとして、「一体いつから、どんなタイミングで、どういうテーマから始めようか」と考え始めると、根が優柔不断な人間であるため、それをあれこれ考えているうちにまた時間が過ぎてしまうということも繰り返してしまいました。つまり、自分の「超楽観主義」と「優柔不断」が如実に表われた半年間だった訳です。 この約半年の間、ブログ・リーダー(「ブログの指揮者」ではなく「ブログを読む人」という意味)としての日々を過ごしてきましたが、他の方々のブログを読んでいると、皆さん、こまめにブログを書き続け、また熱心にブログの運営に取り組んでいることを改めて実感しました。そして、「詩を書かない詩人」というのはカッコいいが、「ブログを書かないブロガー」というのは何となく怠け者でみっともないのではないかという思いを強く感じるようになりました。 長いブランクがあったので、以前のような感覚を掴むまでには時間がかかりそうだし、またコンスタントに新しい記事を更新出来るとは限りませんが、しばらくの間は一種の「リハビリ」のつもりでボチボチと書いて行こうと考えていますので、これまでと同様、宜しくお付き合いの程をお願い致します。 それにしても、11月も後半に差し掛かった途端、一気に冬本番となったような今日の天気でした。
「冬が来る前に…」というフレーズも出てきたので、最後にこちらの音楽と映像でお楽しみ下さい。 http://jp.youtube.com/watch?v=7MrUuK2XU08 |

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×月○日 NHK教育テレビで放送されている『日本の話芸』は、全国ネットのテレビ番組の中で、現在唯一落語をたっぷりと聴ける番組である。平成3年頃にスタートして、初めは小沢昭一のナレーションがオープニングに流れていたのだが、いつの間にかそれが聴けなくなったことを今でも残念に思っている。 これまで本放送が土曜午後1時45分だったのが、この4月から何故か平日の火曜午後になってしまった。毎月第3週は上方落語で、日曜早朝の再放送を録画したものを観る。今回は、桂都丸の「桜の宮」。都丸という人は桂ざこば師の一番弟子であり、かつては昼のワイドショーでレポーターをやっていたこともあって、以前からよく知っている落語家さんである。今では上方落語界の中堅であり、『上方落語家名鑑ぷらす上方噺』(出版文化社)によると、大ネタの「地獄八景亡者戯」は、大師匠の桂米朝師に「閻魔大王も人呑鬼もそのままやれる」と言わしめるほどだという。 この「桜の宮」という噺は、江戸落語の「花見の仇討」を移植したものであり、上方では五代目笑福亭松鶴、その息子の六代目松鶴が演じ、現在ではその五代目松鶴の弟子である笑福亭松之助、桂南光などによって演じられている。南光師は松之助師から教わったという。おそらく都丸師も松之助師から教わったものと思われる。桜ノ宮と言えば、現在でも「桜の通り抜け」が大阪の春の風物詩として知られ、その名の通り、大阪を代表する桜の名所だが、僕は大学生活を大阪で過ごしている間、1度も「桜の通り抜け」には行かず仕舞いであった。 それにしても、「天満天神繁昌亭」の開場や朝のドラマ『ちりとてちん』の影響も相まって、上方落語界は以前よりも増して活気づいているように感じられる。もはや漫才に限らず、落語も上方がメッカになったと言っても過言ではないだろう。 ×月△日 山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審が開かれ、被告の「元・少年」に死刑判決が下される。当然の結果であると思う。 僕は「死刑制度」というものを以前から良く思ってはいないのだが、それと今回のこの裁判とは全くの別問題である。何故なら、これだけの兇悪な事件を起こしたにもかかわらず、事件当時「未成年」だったということをいわば「楯」にして、その罪を軽くしようとする弁護団の「思惑」があまりにもあからさまであり、また刑事裁判そのものを冒涜しているものと映ったからである。 妻子の命を理不尽な形で奪われた本村洋さんの怒りは、以前の被告人本人に対してのものから、今回彼が「死刑判決」を宣告されるまでに至った背景、そしてこうした人間を生み出してしまった世の中全体に対するものへと変化し、また拡がって行ったように思われる。本村さんの姿を見ていると、ケースは異なるが、これも理不尽な形で2人の幼い我が子の命を奪われた福岡の大上さん夫妻と重なるが、大上さん夫妻が再び新しい命を授かったのに対して、本村さんは永遠に「独り」なのである。この違いは大きい。 本村さんの会見を聞いて気付いたことは、この人自身「死刑」をいう刑罰が横行することを良くは思っておらず、寧ろそうした社会に対して「憂い」を抱いているという点である。そうした心中を理解しようとせず、ただひたすら被告人を「死刑」にしないことだけに時間と労力を費やしたことを、弁護団の諸氏は大いに反省すべきではないか。 ×月◎日
長野で北京オリンピック聖火リレーが予定通り開催。大きな混乱もなく終わる。 オリンピックも開催まで約百日となったが、特に今年に入ってからの中国を巡る不穏な情勢によって、聖火リレーもまた、各国で不穏な状況の中で行なわれる破目になった。今回のような形で聖火リレーが注目される結果になったのは本当に残念である。 僕は昭和50年生まれだが、「オリンピック」というものを初めて認識したのは、モントリオールで開催された昭和51年ではなく、モスクワで開催された昭和55年のことである。今でも覚えているのが、マスコットキャラクターが「ミーシャ」という子熊で、開催前には『こぐまのミーシャ』というテレビアニメも放送された。しかし、日本はこの大会をボイコット。自分にとって「初めて」のオリンピックは、同時に「幻」のオリンピックでもあったのだ。 僕は国際情勢には詳しくないので、今回のチベット問題についても語ることは出来ない。しかし、1つだけ言いたいのは、昭和55年の自分のような子供たちが出てこないで欲しいということである。 因みに、日本がモスクワオリンピックをボイコットした昭和55年と、今年平成20年の暦は、そっくり同じなのである。何とも嫌な偶然である。 |

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当ブログが「お気に入り」で登録している「花形チャンネル・プラス」で、3月に「ボクのベストテレビ番組表」という記事が掲載されました。 |

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我々日本人というのは、「これで最後」というものに弱く、またそうしたものには一斉に飛び付く習性を持っているようです。 そうした習性は、特に鉄道などの乗り物に関して顕著なようで、JRの寝台急行「銀河」が先月3月14日いっぱいで廃止された時も、その最後の姿を見るため、鉄道マニアを中心に多くの人々が東京駅のホームに押し寄せたそうです。 尾道にも、この4月30日で「これで最後」となる乗り物があります。先日もこのブログで紹介しましたが、尾道と対岸の向島を結ぶ渡船の1つである「しまなみフェリー」、通称「岸元渡船」がそれです。 http://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/52839992.html 数ある尾道の渡船の中で、僕がこの航路を利用したことは他と比べると少なかったのですが、それでも自分の日常生活の中に長らく定着していたことには違いはありません。 この航路にとっては最後の日曜日となる今日4月27日、最後の乗船をしてきました。 午後2時前に自宅を出発。久しぶりに乗った自転車でおよそ20分、向東町彦ノ上にある向島側の桟橋に到着。桟橋前の看板に貼られた紙には、次のように書かれてありました。 「謹告 平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。 平成12年10月より岸元ラインより営業を引き継ぎ、『生活の足』として皆様に馴れ親しんで頂きましたが、その間合理化に合理化を重ね今日まで持ちこたえて参りました。しかしながら昨今の状況は厳しいものばかりです。 大変唐突とは存じますが、平成20年4月30日(水)を限りに『彦ノ上〜尾道』航路を閉鎖することになりました。 従業員一同誠に残念の一語で、断腸の思いで一杯でございます。厳しい環境をご理解賜ります様宜しくお願い申し上げます。 永年ご愛顧頂きましたことを深く感謝申し上げますと共に謹んでご通知申し上げます(以下略)」―。 この「しまなみフェリー」は、我々地元に住む者にとっては通称の「岸元渡船」という呼び方がより馴染みが深く、長らく親しまれてきました。他の渡船もそうですが、この船の向島側の桟橋の近くには造船所をはじめ多くの工場が建ち並んでいて、ここに自転車やバイクで通勤する人々にとっては、まさに「生活の足」そのものでした。また、尾道側の桟橋に到着して東に向かうと尾道市役所や「おのみち映画資料館」へ、真っ直ぐ足を向けると商店街や千光寺公園行きのロープウェー乗り場に辿り着きます。遠方から尾道にやって来た人たちにとっては、その対岸にある向島や更に海を挟んで接する因島や生口島へと渡る「旅の足」でもあり、尾道側の桟橋に立つ看板には「日本一短い船旅に出発!!」という言葉が書かれています。今日もゴールデンウィークを利用して尾道に旅行や観光に訪れた人たちが、尾道側から多く乗船していました。その様子を見ながら、「この人たちの中に、自分たちが今乗った船の航路があと3日でなくなってしまうことを知っている人がどれだけいるだろうか…」と、しみじみと思いました。 昨日、今日と2日館に渡って開催された「尾道みなと祭」とゴールデンウィークの賑わいが、図らずも「岸元渡船」にとって最後の賑わいの時と重なってしまいました。祭りの様子を一通り見て歩いた後、再び尾道から乗船し、これが僕にとって最後の「日本一短い船旅」となりました。 しまなみ海道の全線開通以来、尾道の渡船を取り巻く環境は年を追うごとに厳しいものになっています。
尾道から渡船が1つ姿を消してしまうということは、「生活の足」が1つ減り、「日本一短い船旅」が体験出来なくなるだけに留まらず、長年尾道の町に定着してきた風景、そして根付いてきた文化そのものまでが失われて行くことをも意味していると言えます。 だからこそ、尾道から渡船が消えてしまうことは、絶対にあってはならないと思うのです。 |



