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このブログを初めて2年近くになりますが、戦国時代や戦国武将についての記事を多く書いてきました。 ここで改めて戦国時代とはどんな時代で、その後の日本の歴史にどのような影響を与えたのかについて、何回かに分けて書いてみようと思います。 歴史学者で、平成16年に亡くなった永原慶二さんは、日本中世史が専門で主に鎌倉・室町時代をテーマにした論文や著書を多く残していますが、戦国時代についてもいくつかの著書を残しておられます。 その中でも「戦国時代―16世紀、日本はどう変わったのか」(上・下、小学館ライブラリー)は、動乱の16世紀、つまり戦国時代を多角的に捉え直しており、専門家・研究者から一般読者まで分かり易く読める内容にまとめれています。ここでは、この本を基に、戦国時代をもう一度考えて行きます。 京都の大半を焼き尽くし、各地を動乱に巻き込んだ応仁の乱が、十年余りに及んだ末漸く終わりを告げた文明9年(1477年)。奈良興福寺大乗院門跡の尋尊は、自らの日記において、乱によって一変した諸国の状況を、「室町幕府の命令に従わず、年貢を進上しない国々」「いまだ国中が戦乱にあり、年貢進上どころではない国々」「幕府の任命した守護は下知に従うが、守護代以下在国の者は従わない国々」と区分けし、このいずれかの状態に諸国はあり、これを基準に国々を色分けしたものの、結局「悉く下知に応じない」として、尋尊は匙を投げています。応仁の乱以前は、室町幕府も永く社会基盤となった「荘園公領制」の秩序を大枠として認め、守護や国人が独立領主化する動きを抑える方針を取っていたのが、乱をきっかけに全面的に崩れ出し、各地の荘園の大部分が応仁の乱を境に年貢が納められず有名無実となったことが、史料によって証明されています。更に社会の変動に拍車をかけたのが、村々の地侍や民衆たちで、文明17年(1485年)の「山城国一揆」や、長享2年(1488年)、加賀の一向一揆が守護富樫政親を倒し、「百姓の持ちたる国」と言わしめる事態をもたらした事件がその代表的な出来事となりました。このように将軍から守護へ、守護から守護代・国人へ、更に地侍・「百姓」へと、権力は次第に分散下降し、「下剋上」の風潮が広まって、時代は室町から戦国へと移行し始めたのです。 この頃、将軍はどうしていたかというと、9代将軍・足利義尚は、長享元年(1487年)に近江へ出兵して守護の六角高頼を討つなど、幕府権力の回復に努めていたものの、それからわずか2年後に25歳で亡くなってしまいます。その後、10代・義稙(よしたね)は、細川政元とその養子・細川高国に2度に渡って追放された後、近江で58歳で没。11代・義澄は、これも細川高国らに追われて32歳で近江で病死。12代・義晴は三好元長らに追われ、40歳で近江で没。13代・義輝は松永久秀らに攻められ30歳で戦死。その後継に立てられた14代・義栄(よしひで)は、義輝の弟・義昭を擁する織田信長に追われ、摂津で29歳で病死。そして、15代将軍となった義昭も、結局信長によって天正元年(1573年)京都を追放され、ここに室町幕府は滅亡します。義尚から義昭までいずれも京都で平穏な終わりを全うすることが出来ず、しかも、この間、細川家は分裂して力を失い、三好から松永、更には信長と、将軍を追放した側を通じて権力の移行の構図を見ることが出来ます。 以上のように、応仁の乱を発端とする「荘園公領制」や足利将軍家に代表される旧秩序の解体から、戦国時代の幕は開けられました。次回は、以前にもこのブログで書いたことのある、戦国時代の「始まり」と「終わり」について、改めて書いてみたいと思います。
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