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歴史学者・永原慶二さんの著書「戦国時代―16世紀、日本はどう変わったのか」(上・下、小学館ライブラリー)を基に、戦国時代について改めて考えるシリーズの2回目。 今回は、以前にもこのブログで書いたことがある、戦国時代の「始まり」と「終わり」についてです。 戦国時代がいつからいつまでを指すかについて、永原さんは「常識的な時代区分」として、応仁の乱が勃発した応仁元年(1467年)から、織田信長が15代将軍・足利義昭を追放した天正元年(1573年)までの百年余りを指すと記しています。応仁の乱によって諸国の状況が一変したことは、前回紹介した、奈良興福寺大乗院門跡の尋尊の文明9年(1477年)の日記にも書き記されていて、永原さんもこの時代区分は「いちおう適当」としながらも、いかに諸国の動乱が激しいと言っても9代将軍・足利義尚の代までは、まだ中央権力としての室町幕府の存在は無視出来ず、幕府―守護体制そのものに正面から反抗した者は殆どおらず、そのため応仁の乱の勃発を戦国時代の「始まり」とするのはやや曖昧で早いと説いています。 では、実際の戦国時代の始まりは一体いつかについてですが、それを考える目安として、文明18年(1486年)の出雲の前守護代・尼子経久による守護京極氏の拠点・月山(がっさん)城奪取、長享2年(1488年)に加賀の一向一揆によって守護富樫政親が倒されたこと、延徳3年(1491年)に北条早雲が伊豆韮山を奪い堀越公方・足利茶々丸を討ったこと、そして明応2年(1493年)に起こった細川政元による10代将軍・足利義稙(よしたね)追放の4つの出来事を挙げ、いずれもが幕府―守護体制そのものに対する根本的な反逆という性質を帯び、ローカルな事件である前3者を踏まえて、将軍の実権と既存の幕府体制に止めを刺す全国的意味を持った細川政元によるクーデターをもって、戦国時代の始まりとするに相応しいとしています。但し、これについては、北条早雲が相模の小田原城を奪取した明応4年(1495年)を始まりとする説もあり、やはり意見は分かれるところでしょう。 次に戦国時代の終わりについてですが、永原さんは天正元年よりも、信長が岐阜から安土に移った天正4年(1576年)が適当であり、その理由として、安土進出が、濃尾の戦国大名であった信長が「天下人」への飛躍を具体化した最も明瞭で画期的な出来事であったからだとしています。そして信長の遺志を引き継いだ豊臣秀吉によって小田原征伐が行なわれ、「天下統一」のための軍事活動が完了した天正18年(1590年)までを、戦国時代の最終局面として視野に入れる必要があると説いています。しかし、この天正18年の時点でも秀吉と並ぶ実力者として徳川家康がおり、秀吉の朝鮮侵略に端を発した豊臣家内部の内部争いも絡んで、秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦へと繋がります。関ヶ原の合戦に勝利した家康が慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いたことで戦国時代が終わったとする解釈もありますが、この時点でも徳川家への最大の反対勢力として豊臣家が存続している上に、諸大名の豊臣家への尊崇の念も根強く残っていました。慶長20年(1615年)、豊臣家が滅亡して間もなく徳川幕府は年号を「元和」に改元。いわゆる「元和偃武」(げんなえんぶ)を宣言したことで、真の「天下統一」は達成されたと考えられるので、戦国時代の終わりはこの元和元年であり、通説よりもかなり遅かったのではないかと考えます。 以上、戦国時代の「始まり」と「終わり」について書きましたが、結局、どの出来事や傾向を視点やキーワードに置くかで、その解釈は全く異なってしまうということが言えるのではないでしょうか。
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2007年04月15日
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