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戦国乱世において、親子や兄弟が激しく争い、時には血で血を洗う争いにまで発展することは、「下剋上」の風潮と共に決して珍しいことではありませんでした。 親を追放して家督を相続した戦国武将と言えば、甲斐の武田信玄がその代表的人物ですが、では追放されたその父・武田信虎とはどのような人物だったのでしょうか。 現存する戦国武将たちの肖像画の中でも、息子・信廉(のぶかど)によって描かれた信虎のそれは、異相と言われる彼の風貌を今日に伝えています。特に頭の形が異様に発達して大きく、見開いた眼からは妖しい光が放たれているような印象があります。この肖像画を描いた信廉という人は絵の才能に優れていた人物で、信虎だけでなく母・大井夫人の肖像画も残しており、彼の描いた信虎のそれも、父の実相をより正確に伝えているものと言って良いでしょう。 明応3年(1494年)、甲斐国守護武田氏17代当主・信縄(のぶつな)の嫡男として生まれて信虎は、永正4年(1507年)、父の病死によって14歳で家督を相続すると、翌年には叔父の武田信恵(のぶよし)を滅ぼし、次いで甲斐の有力国人だった小山田氏や大井氏との抗争では、小山田氏とは和睦を結び、大井氏とは、それを援護していた駿河の今川氏と和睦の後、大井氏と同盟を結び大井信達の娘を正室として迎えます。この正室・大井夫人との間に嫡男・晴信、後の信玄が生まれるのが、大永元年(1521年)のことでした。 晴信が生まれた頃の信虎は、近隣諸勢力との争いに明け暮れていました。国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加えて、晴信が生まれた大永元年には、甲府に迫った今川勢を撃退。大永4年(1524年)には、関東での扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)の両上杉氏と相模の北条氏の争いに介入。この年以降、今川、北条、諏訪との争いが激化します。このような「四面楚歌」の状況も、天文5年(1536年)に勃発した今川家のお家騒動「花倉の乱」で梅岳承芳、後の今川義元を支援したことから好転し始め、天文6年(1537年)、信虎は娘を義元に嫁がせ、今川家の仲介により公家三条氏の娘を嫡男・晴信の正室に迎えて今川氏と和睦。次いで北条氏とも和睦を結び、残る諏訪氏とは諏訪頼重の代にこれも娘を嫁がせることで和睦し、天文10年(1541年)には甲斐のみならず、信濃にも勢力を拡大します。 甲斐統一を進める過程にあった永正16年(1519年)には、それまで武田氏の本拠であった石和から川田を経て、西の府中に躑躅ヶ崎館を築き、城下町を整備して家臣たちを集住させています。 信虎の生涯、そして武田氏のその後を左右する出来事となった追放劇が起こったのは、天文10年のこと。信濃から凱旋して娘婿の今川義元に会うために駿河へ赴いた信虎は、譜代の重臣たちの支持を受けた晴信によって駿河へ追放され、晴信が家督と甲斐守護職を相続します。この信虎追放劇の背景には、かねてより晴信を疎んじ次男・信繁を偏愛していた信虎が、遂に晴信の廃嫡を考えるようになったとする親子不和説がある一方で父子同意説もあり、また信虎の圧政に苦しめられ新しい領主の登場を望んだ領民たちの声に晴信が応えたとする説など様々な説がありますが、領民の反発に加えて、信虎が甲斐を統一して武田氏を戦国大名へと脱皮させ、強力な中央集権化を断行したことで、これに反発した国人たちが晴信と謀って追放へと追い込んだものと考えられます。 国外へ追放された信虎でしたが、晴信からはその後も金銭面での援護を受けており、追放と言っても実際には強制的に隠居させられたと見るべきかもしれません。しかし、永禄3年(1560年)5月19日、それまで庇護していた今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、その跡を継いだ今川氏真と折り合いが悪かったことから駿河を去り、その後は志摩に渡って九鬼氏と争う地頭の軍師を務めたり、京都へ上って13代将軍・足利義輝の相伴衆になったと伝えられています。 武田信玄が病死した天正元年(1573年)、その子・勝頼を頼って武田領に戻った信虎は、翌天正2年(1574年)3月5日、身を寄せていた信濃高遠で80年の波瀾の人生を終えます。一説によると、勝頼と対面した信虎が、居並ぶ家臣の前で突如太刀の素振りを披露し、勝頼への与力と甲斐への帰国を願い出たものの、老臣たちから反対され、勝頼も混乱を恐れて高遠の叔父・信廉に預けたと言われています。
自らを追放した息子よりも一年長く生きたというのは皮肉ですが、その息子・信玄が戦国大名として飛躍する基礎を築いたのは他ならぬ信虎その人だったことも否定出来ないでしょう。信虎の死の翌年、天正3年(1575年)の長篠合戦を境にして、武田氏は滅亡への道を歩むことになります。 |
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2007年05月11日
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