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「天下統一」に向けて邁進する織田信長と徳川家康の連合軍が、3千挺の鉄砲を用いて、武田勝頼率いる1万5千の軍勢を長篠合戦で撃破したのは、天正3年(1575年)5月21日のことでした。 信玄以来最強を誇った武田軍は、この合戦で決定的な打撃を受けて以来転落の道を歩み始め、そのわずか7年後の天正10年(1582年)3月11日、勝頼の自刃によって滅亡することになります。 武田勝頼の生涯には常に父・武田信玄の影が付いて回り、それは彼に対する「凡庸」「暗愚」といった一般的な評価にも大きな影響を与えています。 天文15年(1546年)、信玄と側室の諏訪御料人との間に信玄の四男として勝頼は生まれます。母の生家である諏訪家はかつて信玄によって滅ぼされており、諏訪御料人を側室に迎えるにあたっては武田家中でも根強い反対がありました。弘治元年(1555年)の母の死後、勝頼は信玄の信濃経略に伴う諏訪地方平定のため、諏訪家の名跡を継ぐことになります。この時、武田家代々に受け継がれてきた「信」ではなく、諏訪家代々に受け継がれてきた「頼」の一字を取って「諏訪四郎勝頼」と名乗り、諏訪家の家臣を付けられて信濃高遠城主となります。 信玄には、正室・三条夫人との間に生まれた嫡男・太郎義信という後継者がいました。しかし、信玄が駿河進出を画策したことがきっかけで、今川家から正室を娶った義信は父と対立。幽閉された末に永禄10年(1567年)、30歳で亡くなります。次男は失明して出家、三男は幼くして亡くなっていたことから、勝頼が武田家の後継者に指名されます。 天正元年(1573年)4月12日、勝頼によって人生最大の転機が訪れます。上洛を目指していた父・信玄が、53歳でこの世を去ります。死を前にした信玄は、「自分が亡くなったことは3年間秘密にせよ」と勝頼に遺言を残したと伝えられています。武田家20代当主となった勝頼、この時27歳。 信玄の死によって、それまで窮地にあった織田信長は、先ず信玄たちを影で操っていた室町幕府15代将軍・足利義昭を追放。次いで近江の浅井長政、越前の朝倉義景を滅ぼし、着実に勢力を拡大します。これに対して勝頼は、家督を継いだ翌年の天正2年(1574年)正月に美濃へ出陣。織田方の18城を攻め落とすと兵を遠江に転じ、徳川方の要衝で父・信玄さえ攻め落とせなかった高天神城の攻略に成功。勝頼の武名は上がり、信長と徳川家康を脅かします。しかし、この時が勝頼の人生最大のピークとなってしまいます。 勝頼の運命を左右した出来事として、多くの有力な家臣を失った長篠合戦と、天正6年(1578年)に発生した越後上杉家の家督相続を巡るお家騒動、所謂「御館の乱」が挙げられます。 前者は、『甲陽軍鑑』によれば、勝頼が信玄以来仕えてきた重臣たちの「無謀な戦い」という主張を聞き入れず、自分の側近たちの意見を取り入れた結果の大敗であったと記されている一方で、この記述に関しては、江戸時代に入って徳川家に仕えた武田の遺臣たちが、自分たちが「いい顔」をするために、勝頼や側近たちに責任を押し付けたのではないかとする説も一方であります。しかし、この背景には、信玄亡き後の武田家中が文字通りの分裂状態にあったという事実が存在することは確かでしょう。また、後者では、天正6年3月13日に上杉謙信が急死した後、景勝と景虎(北条氏秀)の2人の養子が跡目を争った際、初め勝頼は正室の実家である相模北条氏の出である景虎の陣営に加わりながら、景勝方が持ち掛けた取引に応じてしまったことで北条氏を敵に回した上、後に北条氏が家康と協力関係を結んだことで、勝頼はより苦境へと追い込まれる結果となります。 天正9年(1581年)、勝頼は甲府の西北に新府城(現在の山梨県韮崎市)を築き、ここを新たな拠点として起死回生を図りますが、翌天正10年、18万に及ぶ織田・徳川連合軍が甲斐に進撃するや、勝頼は家臣や親類たちの相次ぐ裏切りに遭います。新府城での最後の軍議で、勝頼は「城を枕に討死すべき」とする嫡男・信勝の主張を聞き入れず、家臣・小山田信茂の勧めを入れて、彼の居城・郡内岩殿城へ落ち延びることを決意します。しかし、岩殿城へ向かう途中でその信茂にも裏切られた勝頼は、夫人と信勝らとともに、天正10年3月11日、甲斐天目山(田野)において自刃したのでした。武田勝頼、この時37歳。 勝頼の悲劇は、武将としては優秀でありながら、常に偉大な父・信玄と比較され続けた上、更に時流を見誤ったことや権謀術数を持たなかったことにあったと思われます。しかし、彼にとっての最大の悲劇は、彼自身が当の武田家中にとって「歓迎されざる人物」であったことかもしれません。
ともあれ、武田勝頼の死によって、20代続いた甲斐武田家の命脈は絶たれたのでした。 |
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2007年05月27日
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