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広島に「にしき堂」というお菓子屋さんがあります。 宮島が発祥で、今や広島の名物である「もみじ饅頭」を広島市で初めて製造・販売したことでも知られるこの店の人気商品の1つに、「新・平家物語」という洋風和菓子があります。 これはカステラの切り口を「十二単」に見立て、赤い餡は「源氏」、白い餡は「平家」にあやかり、小箱に納めて平和を象徴したもので、作家・吉川英治の代表作に因み、吉川家の了解を得てその名が付けられました。 「新・平家物語」についてのいきさつを知っていたこともあって、僕にとって吉川英治という作家の名前は子供の頃から知っていました。しかし、実際にこの人の作品を手にとって読んだのは、それからずっと後のことです。 今でこそ、「国民的作家」と言えば司馬遼太郎や池波正太郎あたりになるのでしょうが、その先駆けとなると、やはり吉川英治ということになるでしょう。 同じ「国民的作家」と言われる存在でありながら、明治生まれの吉川と大正12年生まれの司馬遼太郎とは、生まれた時代以外にも大きな違いが見られます。 明治25年生まれの吉川は、父の事業の失敗で小学校を卒業目前に中退。作家として認められるまでに様々な職業を転々とし、18歳の時には、横浜のドックで作業中に船底に墜落して九死に一生を得たこともありました。このように世の辛酸を嘗め尽くした彼の少年期は、作家になる以前は新聞記者という「エリート」であった司馬遼太郎とは対照的なもので、後の作品にも大きな影響を与えます。 『神州天馬峡』や『鳴門秘帖』などの大衆文学作品で世に知られるようになった吉川英治が、「国民的作家」としての地位を完全に確立したのは、『親鸞』を発表し、『宮本武蔵』の新聞連載を開始した昭和10年頃のことで、特に『宮本武蔵』は「剣禅一如」を目指す主人公の人間的成長を描きながら、作者である吉川自身が作家として成長していった作品であったと言えるのかもしれません。昭和14年には、2月に『新書太閤記』の連載が開始。7月に『宮本武蔵』が完結し、8月からは『三国志』の連載が開始と、作家として最も充実した時期に入ります。『新書太閤記』も『三国志』も、共に時代の流れとその中での様々な人間模様が重厚に描かれていて、以後、歴史上の人物を題材にした作品を多く発表します。 昭和20年8月15日の終戦は、吉川英治に執筆が出来なくなる程の衝撃を与えます。この作家人生最大の危機を救ったのは、親友の菊池寛でした。昭和22年に執筆を再開した吉川が、「週刊朝日」に『新・平家物語』の連載を開始したのが昭和25年。平家一門の栄枯盛衰を終戦までの日本の姿に重ねて描いた、いわば吉川英治版『戦争と平和』ともいうべき作品で、これは昭和33年から連載が始まり、遺作となった『私本太平記』にも似たような趣が感じられます。『新書太閤記』『新・平家物語』『私本太平記』、そして『宮本武蔵』は、いずれもNHK大河ドラマの原作となった他、それ以外の映画や時代劇の原作にも取り上げられ、映像を通じて吉川英治という作家やその作品を知った人も多いのではないでしょうか。 因みに、僕自身は『新・平家物語』を2回読んで、2回共に途中で頓挫してしまった苦い経験を持っています。 吉川英治は昭和37年9月7日、70歳で亡くなりましたが、没後40年以上が経つ現在でも幅広い読者層を維持しています。
吉川文学の特徴は、たとえ歴史小説であっても、史実以上に、いつの時代でもどの国でも決して変わることのない人間の様々な姿に重点を置き、また真の幸福や平和を追求する思いも込められていたと思います。それもまた、「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を確立した司馬遼太郎と対照的な点であり、その根底には、苦労を重ねた少年期や「戦争と平和」の間で生きた人生経験があったのではないでしょうか。 |
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2007年10月11日
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