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僕が住む広島県尾道市の隣町である福山市では、今日11月17日、プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズ対東京ドリームス戦が開催されます。 日本プロ野球を支えてきた往年の名選手たちのプレーが見られるということで、地元のファンの皆さんもは楽しみにしていたと思いますが、ただ一つ残念なことは、福岡ドンタクズ監督として参加する予定だった稲尾和久さんが、これに先立つ11月13日に亡くなったことでその姿を見ることが永久に叶わなくなったことです。 往年の西鉄ライオンズのエースであり、球史に残る名投手の1人でもあった稲尾さんも、大分の別府緑ヶ丘高校時代から昭和31年に西鉄ライオンズに入団した頃までは、殆ど無名の存在でした。しかし、少年時代に漁師だった父親を手伝うため舟の櫓を漕いだことで自然に足腰や手首が鍛えられたことや、入団の年に長崎県島原市で行なわれた西鉄の春季キャンプで打撃投手をしているうちにコントロールを身に付けていったことが、後に日本プロ野球を代表する投手への飛躍へと繋がります。 稲尾さんの日本プロ野球での功績は様々ですが、その最大のものと言えば、数々の「伝説」や「神話」を残した現役時代の活躍です。1年目は21勝6敗、防御率1.06でチームのリーグ優勝と初の日本シリーズ制覇に貢献し、新人王を受賞。2年目には20連勝のプロ野球記録を作って35勝6敗、防御率1.37で、最多勝と2年連続で最優秀防御率を獲得。一躍西鉄のエースに成長します。「神様、仏様、稲尾様」という言葉が誕生したのは、11・5ゲーム差を逆転してのパ・リーグ3連覇、日本シリーズでの3連敗からの4連勝と、西鉄ライオンズが1年で2度「奇跡」を演じた昭和33年。その最大のヒーローとなった稲尾さんを讃えたものでした。昭和36年のシーズン42勝、入団から8年連続で20勝以上を記録するなど、「鉄腕・稲尾」の偉業は今でも色褪せることはありません。昭和44年に引退するまで14年間の現役生活で、通算276勝137敗、防御率1.98。「沢村賞」を除く投手のタイトルは全て獲得しています。 稲尾和久のプロ野球人生を振り返る上で、選手時代と共に忘れてはならないのは、豊田泰光、中西太、仰木彬などといった、かつての「野武士軍団」の僚友たちが次々とチームを去って行った後も西鉄ライオンズに残り、その「終焉」を直に見届けたことです。昭和44年、現役引退と同時に32歳の若さで西鉄監督に就任しますが、この時既にかつての栄光は遠い過去のものとなっており、しかも就任1年目の昭和45年には「黒い霧事件」によって多くの主力選手が「永久追放」となり戦力は激減。昭和46年には、チームの年間勝利数が、かつて自らが記録したシーズン42勝にすら満たないという屈辱も味わいました。昭和47年のシーズン終了後、遂に西鉄は球団を譲渡。「太平洋クラブライオンズ」となってからの2年間、引き続き監督を務めた後、昭和49年、稲尾さんはライオンズを去ります。監督となってからの5年間は、稲尾さんにとって最も辛く苦しい時代だったことでしょう。 ライオンズが福岡を去ったのは、それから4年後の昭和53年のことでした。 ライオンズを去った後、昭和53年から中日ドラゴンズの投手コーチ、昭和59年からロッテオリオンズの監督をそれぞれ3年間務め、また大阪・朝日放送の野球解説者としても活躍した稲尾さんでしたが、御本人は一貫して「福岡のプロ野球人」であることを自負していたものと思われます。オリオンズの監督を引き受けた際にはチームを数年以内に福岡へ移転するという条件を提示し、結局それは叶わなかったものの、「再び福岡にプロ野球チームを…」という思いは誰よりも強かったのではないでしょうか。その福岡に、現役時代のライバルチームであった南海ホークスが「福岡ダイエーホークス」として大阪から移ってきたことに、稲尾さんは「皮肉な因縁」を感じたかもしれませんが、それでも近年福岡に戻り、「地元の球団」となったかつてのライバルに対して厳しくも温かい眼差しを注いでいたのは、「福岡のプロ野球人」として「福岡のプロ野球チーム」を見守って行きたいという気持ちの何よりの証でしょう。 今年の10月2日、故郷の大分県別府市に完成した市民球場に「稲尾記念館」が開館しました。落成式には稲尾さんも出席しましたが、まさかこれからわずか1ヶ月あまりでこの世を去ってしまうことになるとは御自身も予期していなかったようで、本当に残念でなりません。
亡くなった日のニュースで福岡市内での街頭インタビューが流されましたが、その中でも「もう、あげな人は出てこん」言葉こそ、不世出の「鉄腕」・稲尾和久に対するシンプルで、しかし最大級の賛辞であったと思います。 それにしても、「西鉄ライオンズの男たち」が次々とこの世を去り、その「魂」までもこの世から1つずつ消えていくことに一抹の寂しさを感じてしまいます。 |
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2007年11月17日
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フジテレビというテレビ局は、「トレンディー・ドラマ」を先駆けた影響もあって、そういうタイプのドラマのイメージが強いようですが、その歴史を辿ると、テレビ史上に残る質の高い時代劇を多く世に送り出した局でもあります。 その中でも、「金字塔」と呼ぶに相応しい作品が、昭和41年から59年まで18年間に渡って放送された、大川橋蔵主演の『銭形平次』です。 テレビの時代劇で、1人の俳優が一貫して同じ役を演じ続けたものでは、『大岡越前』(昭和45年〜平成18年)での加藤剛の大岡忠相や、『暴れん坊将軍』(昭和53年〜平成16年)での松平健の徳川吉宗、それに「必殺」シリーズでの藤田まことの中村主水などがあり、また長寿時代劇と言えば、昭和44年のスタート以来放送回数が千回を超えた『水戸黄門』(昭和44年〜)などがありますが、大川橋蔵版『銭形平次』の凄い所は、番組開始から終了までの18年間殆ど休みなしで放送されたことで、これだけでもその偉大さが分かると言えるでしょう。 原作となった『銭形平次捕物控』は、昭和6年から32年まで26年の間に全383編が執筆されました。原作者・野村胡堂はこの作品の特徴として、「容易に罪人を作らないこと」「町人や庶民に愛着を持つこと」「侍や遊び人を徹底的にやっつけること」「全体的に明るく健康的な捕物帳に仕上げること」の4つを挙げていたそうです。映画では、往年の二枚目スター・長谷川一夫が「当たり役」として演じました。 大川橋蔵と『銭形平次』との出会いは昭和40年頃のこと。昭和30年代の日本映画全盛期、東映時代劇映画を代表する美男スターとして、中村錦之助(萬屋錦之介)などと共に人気を集めていた橋蔵は、30歳を超えたあたりから役者としての転機を図ろうとしますが、主演作品の興行的失敗などで伸び悩んでいました。フジテレビから『銭形平次』の出演依頼があったのは丁度その頃のことでした。 昭和41年5月3日、大川橋蔵主演『銭形平次』がスタート。番組開始当初はモノクロで、昭和44年5月からカラー放送となりました。橋蔵はテレビの連続時代劇に初めて出演するに当たって、「演じる上は中途半端なことは嫌だから、年間を通じて『銭形平次』にかかりっきりになる」「その代わり、東京の明治座と歌舞伎座、大阪の新歌舞伎座での年3回、3ヶ月間の公演だけはさせて欲しい」との条件を提示し、これを通したそうです。こうして1年の内の9ヶ月間は『銭形平次』の撮影、残りの3ヶ月間は舞台というスケジュールが組まれ、撮影は1日に3作品分を同時進行させ、1ヶ月に台本8本分を仕上げていたといいます。几帳面な性格で、演技の研究にも熱心だった橋蔵は、一日の撮影が終わってからも翌日のシナリオを丹念にチェックし、また最大の見せ場である「投げ銭」のシーンをテレビ向けに工夫したり、2本の十手を使うアクションを考案するなど様々なアイデアを生み出し、『銭形平次』という作品に真摯に取り組みました。 レギュラー出演者は橋蔵の他に、女房・お静は、初代の八千草薫(昭和41年5月3日〜昭和44年4月30日)から2代目の鈴木紀子(昭和44年5月7日〜昭和45年4月29日)を経て、昭和45年5月6日の放送から最終回まで3代目の香山美子が演じ、子分・八五郎の林家珍平、ライバル・三輪の万七の遠藤太津朗(番組放映中の昭和48年に「遠藤辰雄」から改名)などが主なメンバー。長寿番組であったためにその他の出演者は何度か入れ代わり、番組開始10年目以降は、林寛子や海原千里(現在の上沼恵美子)・万里、更に番組後期には森田健作、市毛良枝、京本政樹などが出演していました。 僕が『銭形平次』を見始めた頃には既に番組開始から10年経っており、舟木一夫の歌う主題歌をバックに、平次が大立ち回りを繰り広げるオープニングの映像が今でも記憶に残っています。因みに、ここで登場した「寛永通宝」を模した巨大砂絵は香川県観音寺市の有明浜にあり、現在でも観光名所として知られています。 余談ですが、フジテレビの「新春かくし芸大会」などで、「素顔」の大川橋蔵を何度か見たことがあります。「銭形平次」ではない大川橋蔵は、いかにも地味な「普通のおじさん」という印象でした。 昭和59年4月4日、第888回「あゝ十手ひとすじ・八百八十八番大手柄」をもって、18年間続いた『銭形平次』は終了します。「888」という数字は、番組の放送が水曜夜8時だったこととフジテレビの「8」チャンネルに合わせたものだそうです。それからわずか8ヶ月後の昭和59年12月7日、大川橋蔵は55歳の若さで世を去り、結果的に『銭形平次』は文字通りのライフワークとなりました。告別式の際、彼の棺には平次が使っていた十手と投げ銭が入れられたそうです。
テレビに留まらず舞台でも平次役を演じ、最後に出演した映画も昭和42年公開の『銭形平次』だった大川橋蔵。まさに一代の「平次役者」でした。 |

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