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東京ヤクルトスワローズ・高田繁は「88」。北海道日本ハムファイターズ・梨田昌孝も同じく「88」。そして、西武ライオンズ・渡辺久信が「99」。 来年から指揮を執ることになった3人の新監督の背番号は、いずれも「ぞろ目」。 更に、今年2年連続で日本シリーズで対決した中日ドラゴンズと北海道日本ハムの落合博満、トレイ=ヒルマン両監督が、それぞれ「66」に「88」と、これまた「ぞろ目」。 最近の日本プロ野球では、「ぞろ目監督」が流行っているようです。 「2個のサイコロを振って同じ目が出ること」から転じて、2ケタ以上の数字が全て同じ数字であることを意味する「ぞろ目」。日本プロ野球の歴史の中で、その「ぞろ目」を背番号にした監督は今までに多く登場していますが、その第一号は、戦前の東京巨人軍を率いた藤本定義。昭和12年、13年の2年間、背番号「22」で采配を振るい、その後は当時の監督の背番号の定番だった「30」に変更しています。 「ぞろ目監督」中でも「2大巨頭」と言えるのが、共に背番号「77」を着けていた川上哲治、星野仙一の2人でしょう。昭和36年から14年間巨人監督を務めた川上が、現役時代から着けていた背番号「16」から「77」に変更したのは、就任5年目の昭和40年。当時の監督の背番号としては珍しく大きな番号でした。監督就任以来4年間、成績の浮き沈みが激しかった川上が背番号を変えたこの年こそ、巨人の「V9」スタートの年。「77」は、まさに幸運を呼ぶ背番号となりました。川上が監督を退いた昭和49年、巨人の「V10」を阻止して20年ぶりのリーグ優勝を果たしたのは中日ドラゴンズ。その原動力となった「燃える男」星野仙一が監督に就任するのが、それから13年後の昭和62年。この時星野が着けた「77」も、当時、監督の背番号は「60」番台が多かった中日では珍しく大きな番号でした。昭和62年からの5年間、平成8年からの6年間の計11年間の中日監督時代、平成14年から2年間の阪神タイガース監督時代と、一貫して「77」を着け、チームを3度リーグ制覇に導きました。勿論、今回の北京オリンピック日本代表チームでも、背番号は「77」で指揮を執ります。背番号「77」の監督は、他にロッテオリオンズ・山本一義(昭和57年〜58年)、日本ハムファイターズ・大島康徳(平成12年〜14年)がいます。 「77」の次は「88」。その第一号は、「ミスター赤ヘル」山本浩二、ではなく、実は昭和49年、日本ハムファイターズ監督に就任した中西太が1年間だけ「88」を着けていたそうです。日本ハムというチームは「88」という数字に余程縁があるのか、平成7年から5年間采配を振るった上田利治、昨年、今年とチームをリーグ2連覇、日本一1回に導いたヒルマン、そして来年から指揮を執る梨田と、都合4人の監督が背番号「88」を着けています。平成元年、広島東洋カープ監督に就任した山本浩二の「88」は、勿論、現役時代の背番号「8」に因んだものであり、親友星野の「77」の向こうを張ったものでもありました。東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督・田尾安志(平成17年)もこの番号でした。 「88」と言えば、巨人では堀内恒夫(平成16年〜17年)、現在の原辰徳と2人続けてこの背番号を着けていますが、その由来は全く異なり、堀内は母校・甲府商業の恩師・菅沼八十八郎氏にあやかったもので、原は現役時代の背番号「8」を重ねたものだそうです。そう言えば、山本、原に加えて、高田、梨田の2人も現役時代の背番号は「8」。「『八』は末広がりで縁起がいい」とよく言われる通り、「縁起担ぎ」の意味も込められているのでしょうが、この背番号を着けた監督は、ヒルマン以外は芳しい成績を収めているとは言えないのもまた事実です。 「77」「88」ときて、いきなり小さくなって「33」。となると、平成5年、巨人監督として13年ぶりに日本プロ野球界に復帰した「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄と行きたいところですが、この番号も長嶋より以前に、昭和54年から3年間、ロッテオリオンズ監督を務めた山内一弘が、就任2年目から2年間着けていました。長嶋の「33」も、現役時代の背番号「3」に因んだもので、いかに「3」という数字にこだわりを持っていたかがよく分かりますが、監督復帰8年目の平成12年、現役時代の「3」に背番号を戻したのは、「監督・長嶋茂雄」としては「33」を貫いた欲しかったと思う者としては正直残念でした。因みに、現役時代は一貫して背番号「33」を着けていた阪急ブレーブス・梶本隆夫は、昭和54年から2年間監督を務めましたが、この時の背番号は「78」でした。 長嶋とくれば、そのライバルだった阪神・村山実。昭和45年から3年間(選手兼任)、そして昭和63年から2年間の2度に渡って阪神監督を務めましたが、背番号は一貫して「11」。昭和11年生まれだった村山の、この番号に対する愛着とこだわりが伺えます。 最後に、背番号「55」で采配を振るったのが、中日・杉浦清(昭和38年〜39年)と阪神・後藤次男(昭和44年)。杉浦は昭和24年からこの番号を着け、「ツーファイブ」(55)という名前の喫茶店も開いていたそうです。一方の後藤は、昭和44年、53年と1年間ずつ、2度阪神監督を務めましたが、「55」を着けた昭和44年は法政大学から田淵幸一が入団した年、そして昭和53年は田淵が阪神でプレーした最後の年でした。2人とも、監督としてよりも、テレビ・ラジオの野球解説者としてのイメージが強く印象に残っています。 これまで様々な「ぞろ目監督」が登場しましたが、「44」を着けて采配を振るった監督はまだ出ていません。 因みに、来年からメジャーリーグのカンザスシティ・ロイヤルズ監督を務めるトレイ=ヒルマンの背番号は「22」だそうです。 (一部、訂正があります)
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2007年11月18日
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大河ドラマ『風林火山』もいよいよ大詰め。 最近は前半に比べるとややパワーダウンしている感も否めませんが、全49回の予定だったのが1回延長されることになり、ドラマの最後にして最大の山場と言える永禄4年(1561年)の「第四次川中島の合戦」がどのように描かれるのかが今から楽しみです。 昭和38年の『花の生涯』以来、40年以上の歴史を持つNHK大河ドラマですが、武田信玄は、今年の『風林火山』の市川亀治郎を含めて、これまでに都合8人の俳優が演じています。 最初に信玄が登場したのは第3作の『太閤記』(昭和40年)。但し、信玄が登場する回の映像は現存していません。この作品で信玄を演じた早川雪洲(せっしゅう)は、明治の末に単身アメリカへ渡り、まだ映画がサイレントだった時代にハリウッドでスターとなった、日本人で最初の国際派映画俳優。戦後のイギリス映画『戦場にかける橋』(1957年=昭和32年)で日本軍の収容所長・斎藤大佐を演じ、日本人で初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされた人でもあります。 カラー放送第1作でもある第7作『天と地と』(昭和44年)では、石坂浩二演じる主人公・上杉謙信の宿敵として信玄が登場します。演じたのは、4年前の『太閤記』で織田信長を演じ、一躍人気を博した高橋幸治。『天と地と』の後、第10作『新・平家物語』(昭和47年)では源頼朝、第16作『黄金の日日』では再び信長を演じ、前期大河ドラマを代表する俳優の1人です。この作品の最大の見所は、やはり終盤の川中島での謙信と信玄の一騎打ちで、このシーンが登場する第50回「川中島の章・その四」は、『天と地と』全話の中で唯一映像が現存するものです。尚、『太閤記』には石坂浩二も石田三成役で出演しています。 第11作『国盗り物語』(昭和48年)では、時代劇のベテラン・大友柳太朗演じる信玄が登場。天下統一へと突き進む信長(高橋英樹)を脅かすも、病に倒れ無念の最期を遂げる晩年の信玄の姿が描かれていました。大友柳太朗は、『天と地と』では信玄の重臣・板垣信方役で出演していたそうです。 第16作『黄金の日日』(昭和53年)では信玄その人は姿を見せず、能楽師で俳優としても活躍した観世栄夫(ひでお)が、信玄の「声」を演じています。 第21作『徳川家康』(昭和58年)の信玄は、大河ドラマ常連俳優の1人・佐藤慶。青年時代の家康(滝田栄)の前に「壁」のように立ちはだかる人物として登場します。この作品での信玄の最期は、家康を完膚なきまでに叩きのめした直後、家康を陰で支える竹之内波太郎(石坂浩二)に狙撃され命を落とすというものでした。 そして、第26作『武田信玄』(昭和63年)で、遂に信玄は大河ドラマの主人公となります。この作品の信玄は、目的のためなら手段を選ばない謀略家である一方、情に厚く家臣への気配りも常に怠らない人物という設定で、武将としての成長、宿敵・上杉謙信(柴田恭兵)との対決、そして父を追放し息子を死に追いやるなど家族や肉親との関係に苦悩する姿まで描かれました。名を「武田晴信」から「信玄」に改めた後も終生髷を結っていたのも大きな特徴でした。演じたのは少年時代は真木蔵人(ドラマの終盤に諏訪四郎勝頼役で再登場)、そして青年期から晩年までは、大河ドラマ初出演だった中井貴一。元々信玄役には別の俳優が予定されており、中井貴一も最初は脇役として出演依頼を受けていたのが、主役に抜擢されたことに本人は驚き、また、前作『独眼竜政宗』(昭和62年)の大成功もあってプレッシャーが大きく、自分の顔と肖像画との顔が違うことには戸惑いを感じていたそうです。ドラマは最高視聴率49.2%を記録するなど、『政宗』に勝るとも劣らないヒット作となりました。因みにこの作品は、大河ドラマで山本勘助が初めて登場した作品でもあり、こちらは西田敏行が好演しました。 『武田信玄』以降、大河ドラマでは何度も戦国時代を舞台にした作品が作られましたが、劇中で武田信玄の名前が出ることはあっても、信玄その人が登場することはありませんでした。今年の『風林火山』は、大河ドラマでは実に19年ぶりに信玄が「姿を見せた」作品でもあるのです。
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