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江戸時代から21世紀の現在まで脈々と続く落語の世界。 その中で、今日まで最も大きな影響力を持っているのが、「近代落語中興の祖」と謳われ、その偉大さ故にあらゆる落語家達から「大師匠」の尊称で呼ばれる、幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝です。 このブログでは、以前に彼の命日である8月11日頃に毎年行なわれる「圓朝まつり」について紹介しましたが、圓朝その人について書いたことは今まで殆どありませんでした。 そこで今回、この不世出の落語家の生涯や作品、そして今日の落語界に与えている影響について書いてみたいと思います。 三遊亭圓朝、本名・出淵次郎吉(いずぶち・じろきち)は、天保10年(1839年)、江戸・湯島に生まれます。父・出淵長蔵は、二代目三遊亭圓生門下で、初代の橘家圓太郎という音曲師でした。 弘化2年(1845年)3月、橘家小圓太の芸名で初高座を務め、父の師匠である二代目圓生に入門。嘉永2年(1849年)に二つ目に昇進するも、一時廃業。商家奉公や歌川国芳の下で絵を学んだ後、噺家に復帰。安政2年(1855年)、当時人気絶頂だった新内(浄瑠璃の流派の一つ)の名人・富士松紫朝(ふじまつしちょう)の「朝」の字を取って、自ら「三遊亭圓朝」を名乗り、生涯この芸名を通します。 安政5年(1858年)、二十歳の頃、大道具を用いて鳴り物入りで演じる「道具入り芝居噺」を高座にかけるようになり、徐々に人気を得て行きます。 噺家として順風満帆だった圓朝にとって人生最初の転機が訪れるのが、安政6年(1859年)。ある寄席でトリをとることになった圓朝は、師匠の二代目圓生に助演を頼みますが、この時師匠は自分がトリで演じる予定だった得意の芝居噺を先に演じてしまいます。これについては、前途有望な弟子に対する嫉妬心から生じた嫌がらせという説が今日では定説となっており、師弟間の確執は、二代目圓生が文久2年(1862年)に亡くなる直前まで続いたと伝えられています。 この一件をきっかけに、「既存の噺を演じるだけでは道は開けない」と悟った圓朝は、創作活動に意欲を示し始めます。元々創作の才もあった圓朝は、怪談噺の『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)や『牡丹灯籠』を発表して評価を高め、また文久元年(1861年)頃には、当時盛んだった「三題噺」の連である「酔狂連」(すいきょうれん)に加わり、創作力に磨きをかけながら、文化人たちとの交流も深めます。この頃の寄席は一月を上下に分けて、月2回の興行が決まりになっていて、真打が15日間トリで続きものの人情噺を演じていましたが、圓朝はそこで常に新しい噺を演じたことで、評判を上げて行ったのでした。 自らの創作による「道具入り芝居噺」で落語界の第一人者となった圓朝にとって、明治維新は第二の転機となりました。この時、それまで用いていた道具一式を弟子の三代目圓生に譲った圓朝は、自身は素噺(すばなし)、つまり話術と扇子一本による芸に転向します。そして、ここで時代の「新しい風」が彼に味方します。 明治14年(1881年)10月12日、所謂「国会開設の詔(みことのり)」が明治天皇より出されたのを機に、国会議事録記録の必要から多くの速記法が考案されます。その啓蒙活動として速記本の発行が企画され、我が国の速記の草分けである若林坩蔵(かんぞう)が、圓朝の高座を書き留めた『怪談牡丹灯籠』がベストセラーとなり、落語が全国に普及する結果を生みました。 この速記本の効果は文学界にも波及します。明治中期、新しいタイプの文章を書こうと悩んでいた作家・二葉亭四迷は、先輩の坪内逍遥から圓朝の速記本を読むことをアドバイスされ、その結果、彼の代表作『浮雲』(明治20年発表)が生まれます。明治の文学者による一大改革運動である「言文一致運動」は圓朝がきっかけを作ったと言え、近代の文学界においても圓朝は「大功労者」となったのでした。 多くの創作を発表し、また多くの優れた門弟を輩出した圓朝は、一方で山岡鉄舟の弟子として禅を学び、名士高官との交流によって落語の地位を向上させ、落語界に大きく貢献します。明治24年(1891年)、席亭との意見の違いから寄席の出演を退き、その後は特別な会の出演や速記発表に専念します。 数々の功績を残した圓朝ですが、惜しむらくはその「声」が現在に残されていないこと。日本で初めて落語のレコードへの吹き込みが行なわれたのは、圓朝が没して3年後の明治36年(1903年)5月。圓朝の声が永久に聴けないことは、落語ファンにとって残念でなりません。 明治33年(1900年)8月11日、進行性麻痺と続発性脳髄炎のため永眠。三遊亭圓朝、時に62歳。
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2009年08月11日
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