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黒澤明の監督第1作『姿三四郎』が公開されたのは、昭和18年3月25日のことでした。 当時は既に戦争の真っ只中。黒澤もまた、この時代の荒波とは無縁ではありませんでした。 昭和11年、26歳という当時としては遅い年齢で映画界に入った黒澤は、助監督として日々撮影に追われながら、その合間を縫って脚本を書き続けて頭角を現わし、31歳の時、漸く監督昇進のチャンスが巡ってきます。 しかし、黒澤が監督デビューを果たすまでには紆余曲折がありました。最初の脚本は、当時のフィルムの配給制限で映画化を断念。続いて書いた2つの脚本も「米英的である」との理由で検閲で却下。更に日露戦争を舞台にした小説を脚色した所、「新人監督にはスケールが大き過ぎる」と映画化を見送られてしまいます。つまり、映画監督として出発する時点で、黒澤は戦時下という時代背景に泣かされたのです。 相次ぐ企画中止に気力を失いかけていた黒澤が目にしたのが、富田常雄の小説『姿三四郎』出版の広告。タイトルに惹かれた黒澤は、まだ世に出ていないこの本を「絶対に素敵な映画になる」と直感し、早速所属する東宝の幹部に映画化権を獲得するよう進言。その勘は当たり、映画『姿三四郎』は、娯楽に飢えていた観客や批評家達から熱狂的な支持を受け、大ヒットを記録します。 デビュー作で早くも才能を世に知らしめた黒澤。しかし、戦局が悪化の一途を辿る中で、当時映画フィルムを軍事物資として統制する権限を持っていた軍部は、映画会社に「戦意高揚」を前面に押し出す映画を作ることを要求し、黒澤も、海軍の情報部からゼロ戦を使った活劇映画を撮るようにと相談を受けたことがありました。海軍の戦力が衰え、ゼロ戦を映画で使う余裕がなくなったためにこの企画が立ち消えとなった後、黒澤が手がけた監督第2作が、昭和19年4月に公開された『一番美しく』。工場で軍事用レンズを作る勤労動員の女子挺身隊を描いた作品で、ダイナミックで男性的な作風が身上の黒澤にとっては珍しい女性映画です。撮影にあたって「その工場で実際に働いている少女の集団をドキュメントのように撮ってみたい」と考えた黒澤は、21人の若い女優達を実際に工場の寮に住まわせて作業を体験させるという、当時としては画期的な演出を試みます。「滅私奉公をテーマにしたこの作品は、こうでもしなければ、全くリアリティのない紙芝居になってしまうと考えてやっただけである」という黒澤の意図が実を結び、作業に勤しむ女子工員を演じる女優達のひたむきな表情は、時代を超えた現実感に溢れるものとしてスクリーンに映し出されました。 この映画には「後日談」があります。主役を演じた矢口陽子は、映画での役柄同様、若い女優達のリーダー的存在でしたが、『一番美しく』が公開された翌年に引退します。理由は、黒澤明と結婚するためでした。 昭和20年、デビュー作『姿三四郎』の好評を受けて撮影された『続・姿三四郎』を経て、黒澤は時代劇のスター・大河内傳次郎と、当時人気絶頂だった喜劇俳優の「エノケン」こと榎本健一主演で時代劇に取り組みます。当初「桶狭間の合戦」を舞台にした作品を作ろうとした所、ラストシーンで必要な馬が足りないという理由で断念。その代わりとして、当時能など日本の古典芸能に熱中していた黒澤が歌舞伎の『勧進帳』を基に一晩で脚本を書き上げたのが、大河内が弁慶、エノケンが独自のキャラクター・強力を演じたミュージカル・コメディ仕立ての『虎の尾を踏む男達』。戦争も末期となり、物資の不足など困難を極める中で撮影が続けられるうち、8月15日を迎え撮影は中断。しかし、数日で再開され、映画は無事完成します。 時代の激動を掻い潜り、黒澤が苦心の末に完成させたこの映画は、しかし、彼が最も嫌悪する内務省の検閲官との間で押し問答となった末に占領軍に提出する報告書から故意に除外され、所謂「非合法作品」となってしまいます。 映画『虎の尾を踏む男達』が漸く陽の目を見るのは、完成から7年後、GHQによる占領政策が終わった昭和27年4月のことでした。 暗い時代の中で映画監督としてのキャリアをスタートさせた黒澤明は、生前「戦争は嫌いだ!」と常々言い切り、また、戦時中厳しい検閲に晒されていたことを振り返る度に「怒りで身が震えた」といいます。
しかし、限られた状況下での映画作りの中で、「巨匠」としての片鱗を見せていたこともまた事実です。 昭和18年の監督デビューから終戦までの時期は、様々な点で「世界のクロサワ」の原点であったと言えるのかもしれません。 |

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