万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

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2010年08月

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映画『男はつらいよ』。
その第1作が封切られたのは、昭和44年8月27日のことです。

渥美清演じる「寅さん」こと車寅次郎を主人公に、足掛け26年、全48作が作られた『男はつらいよ』シリーズは、大きく4つに区分けすることが出来ると考えます。
先ずは、第1作から第8作『寅次郎恋歌』(昭和46年)までの「黎明期」。
第1作『男はつらいよ』は、昭和44年6月に作品が完成したものの、元々がその前年に放送されたテレビドラマを映画化したものであったため、配給元の松竹では難色を示し、「絶対にヒットしない」という声が多くを占めていました。しかし、この第1作が予想外の大ヒットを記録すると、3ヶ月後の同年11月に第2作『続・男はつらいよ』、それから2ヶ月後の翌昭和45年1月に第3作『フーテンの寅』(監督・森崎東)、更にそれから1ヶ月後の同年2月に第4作『新・男はつらいよ』(監督・小林俊一)と、僅か半年の間で一気に4作が作られます。これは第1作が興行的に当たったから次々と続編を作ったという程度に過ぎなかったのですが、久々にメガホンを取った山田洋次監督が「完結編」のつもりで作った第5部『望郷篇』(昭和45年)から本格的なシリーズとして方向付けられ、第8作『寅次郎恋歌』では、それまで100万人弱だった観客動員数が一気に150万人を突破して、人気を不動のものにします。
この「黎明期」は、そのまま「おいちゃん」こと車竜造役が初代の森川信だった時代と重なります。浅草の軽演劇出身で、テレビドラマから引き続いてこの役を演じた森川信は、同じく浅草のストリップ劇場「フランス座」出身の渥美清とは芝居の息がピッタリで、コミカルな仕草や寅さんとの掛け合いは、落語そのままの雰囲気を感じさせるものでした。

次に、第9作『柴又慕情』(昭和47年)から第26作『寅次郎かもめ歌』(昭和55年)までの「絶頂期」。
『柴又慕情』から8月のお盆前後と正月の年2回の公開が定着し、「国民的映画」の道を着実に歩んで行きます。シリーズに欠かせない「マドンナ」役を見渡しても、『柴又慕情』と第13作『寅次郎恋やつれ』(昭和49年)の高見歌子(吉永小百合)、第17作『寅次郎夕焼け小焼け』(昭和51年)のぼたん(太地喜和子)、それに第11作『寅次郎忘れな草』(昭和48年)で初登場し、第15作『寅次郎相合い傘』(昭和50年)、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(昭和55年)にも登場したリリー松岡(浅丘ルリ子)など、印象に残る顔触れが登場します。全48作の中でファンの人気が高い作品の大半もこの時代のものが占めており、まさにシリーズの歴史の中でも最も充実した時代だったと言えます。
尚、『寅次郎恋歌』まで森川信が演じたおいちゃん役は、『柴又慕情』から2代目の松村達雄に引き継がれ、更に第14作『寅次郎子守唄』(昭和49年)からは3代目の下條正巳が演じ、ここにシリーズお馴染みのメンバーがほぼ揃うことになります。

「絶頂期」の後、第27作『浪花の恋の寅次郎』(昭和56年)から第41作『寅次郎心の旅路』(平成元年)までが「安定期」になります。
第1作以来、様々なマドンナと出会い恋を繰り返してきた寅さんですが、「安定期」の途中からは、マドンナに恋しながら、そのライバルが現われるや、一転してそのサポート役に転じて2人の仲を取り持つというパターンが見られるようになります。また、さくら(倍賞千恵子)一家の生活が急激に変化し豊かになって行く課程が以前よりも深く描かれるようになったのもこの時代の特徴でしょう。
「安定期」の始まりを『浪花の恋の寅次郎』にしたのは、この作品からさくらの長男・満男役が吉岡秀隆になったからで、シリーズが進むにつれて満男の存在は大きくなって行きます。第33作『夜霧にむせぶ寅次郎』(昭和59年)からは、タコ社長(太宰久雄)の娘・あけみ(美保純)が登場。第40作『寅次郎サラダ記念日』(昭和63年)からは、「とらや」の名称が「くるまや」に変わります。マンネリ化が囁かれ、渥美清が60歳を迎えたこともあり、『男はつらいよ』シリーズは大きな曲がり角に立つことになります。
シリーズが始まって20年、年号が昭和から平成に変わって最初の作品となった『寅次郎心の旅路』が、夏に公開された『男はつらいよ』としては最後の作品となりました。

第42作『ぼくの伯父さん』(平成元年)から、『男はつらいよ』は「晩期」へと入ります。
この作品から「お正月映画」として年1回の公開となり、同時に寅さん中心の物語から、満男の成長にも重点を置いた物語へと変容します。ここで重要な役割を担ったのが、後藤久美子演じる満男の恋人・及川泉で、この2人の恋の行方もシリーズの大きな見所となります。
平成に入ると、渥美清の体は病魔に冒され、急激に体力の衰えを見せるようになります。第47作『拝啓車寅次郎様』(平成6年)、そして最後の作品となった第48作『寅次郎紅の花』(平成7年)は、山田洋次監督が「もう1作」と「これで最後」という2つの思いを交錯させながら作ったそうです。
歴代マドンナの中でも随一の人気を誇るリリーが、『寅次郎ハイビスカスの花』以来15年ぶり、4度目の登場となった『寅次郎紅の花』が公開されて約8ヶ月後、平成8年8月4日、渥美清は68歳で世を去り、映画『男はつらいよ』シリーズはその歴史に幕を降ろしたのでした。

人の一生がいくつかの段階に区分け出来るように、『男はつらいよ』も4つの段階に区分けすることが出来ます。
このような映画は古今東西、後にも先にもなく、またこれからも出てこないでしょう。

戦争と回覧板

戦争が終わって65年。
「戦争を知らない子供たちの子供」の世代である我々は、「戦争を知っている大人たち」から戦争の記憶を聞くことで、その恐ろしさや愚かさを知り、そこから平和の大切さやありがたさを知ることで後世に伝える責任を負う世代なのかも知れません。
「戦争を知っている大人たち」から得る物は大きいのですが、今やその時間も多くは残されていません。

尾道は長い歴史を持つ町としても知られていますが、戦時中の生活について伝えるものは殆ど残されておらず、したがって我々もその時代の尾道について知る機会はありませんでした。当時の人々の暮らしを知る手がかりとして、町内で配布されていた「回覧板」があるのですが、全国的にも今日ではあまり現存していないそうです。何故なら、これらの行政文書は終戦と同時に即刻焼却処分されてしまったからです。
ところが、尾道という町は我が町ながら凄い所で、このほど市内の旧家から長年埋もれたままになっていた、太平洋戦争が勃発する前年の昭和15年(1940年)から戦時下真っ只中の昭和17年(1942年)頃にかけて、隣組(町内隣保班)に回覧・配布された当時の回覧板などが発見され、更に市内にある時宗の寺院。常称寺からも戦時中の紙芝居が発見されました。
尾道の地域文化の掘り起こしや再発見、その研究材料となる歴史資料の収集に取り組んでいる「尾道学研究会」が、これらの資料の一堂に集めて完全復刻した史料集『戦時下ノ尾道』を発表することになり、それに先立った公開展示会が、現在市内にある「おのみち街かど文化館」で開催されています。

          http://www.onomichig.com/

回覧板の中で先ず目立つのは配給に関するもので、例えば、昭和15年8月5日付の回覧板では、「お互国民が贅沢をして居る間は此事変は片付きません。真剱味ある生活をいたしましょう」という見出しの後、「七月七日事変記念日(注、昭和12年7月7日に起きた満州事変のこと)に贅沢品の製造、販売に制限が入る規制が発布」されたことに触れ、「此時勢此規則が発せられたのは吾々大和民族の恥」とした上で、「法に拠らず国民が自粛自戒すべき時」「今日只今より贅沢や豪華な生活は断然止めましょう」「お互いが目覚めて真の生活をして我経済力に無限の強みを持った時初めて聖業完遂する時です」と記載されています。
定期的な会合であり、国民の統合を図るための場でもあった「常会」で話し合われた内容を伝える「常会通達事項」は毎月26日に発布されていたもので、「指導目標」と「通達事項」の2つの項目に分けられています。「指導目標」では陸軍記念日、国民貯蓄の強化継続、結核予防、資源・金属類の回収、中元贈答品廃止といったものの他に、防諜、つまり、いくら近所の親しい間でも軍事機密についての不正確な情報を無闇に話してはならないということについても触れられています。

回覧板以外では、「国民精神総動員」「銃後の護りを堅めましょう」など戦意高揚を謳った国策標語付きの日付印が入った葉書のコレクションや、ビルマ・スマトラ島から尾道の留守家族へ宛てた軍事郵便、臨時召集令状、所謂「赤紙」などが展示されている他、昭和17年1月頃に書かれた「配給簿」や昭和18年7月頃に書かれた「防空資材台帳」も見ることが出来ます。配給簿は当時の配給の記録が細かく記された貴重な資料で、一方の防空資材台帳には、空襲に備えての準備事項が記入されているのですが、その準備すべき物というのが、班用ポンプ1、はしご1、スコップ1、ロープ2、消毒粉2、警報用振鈴2、拍子木1、メガホン2。実際には何の役にも立たない貧弱なもので、当時の人々がこれで空襲から身を守り、戦争に勝てると本気で思っていたのかという憤りと哀れさを感じました。

尾道は幸いにも戦争の犠牲を直接受けませんでした。そのことが今回発見された回覧板などが残った一因にもなったことは間違いありません。全てが戦争一色であり、また国民全体が戦争へと駆り立てさせられた時代を知る上で、これらのものは貴重な財産であると思います。
「凄い物を見ることが出来た」と思う一方で、「こんな時代は二度と御免だ」という思いを強く感じた次第です。

東横落語会の歳月

今年の4月、『東横落語会〜ホール落語のすべて〜』というCDブックが小学館から発売されました。
昭和31年から60年にかけて開催されたホール落語「東横落語会」の歴史を、当時の高座を収録したCDと196ページにまとめられた本で振り返るもので、全20組のCDでは六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵(彦六)、五代目柳家小さん、十代目金原亭馬生、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝の噺を聴くことが出来ます。


戦後の昭和20年代後半から30年代にかけて、東京落語が黄金時代を迎えた原動力となったのは、一つは昭和20年代後半に続々と開局した民間放送の存在であり、もう一つは時を同じくして登場したホール落語でした。
東横落語会は、昭和28年4月に始まった「三越落語会」に続く二番目のホール落語として、昭和31年5月30日、東京・渋谷の東横百貨店(現在の東急百貨店東横店)内の東横ホール(後に東横劇場と改称)で幕を開けました。会の創始者・湯浅喜久治は、これに先立つ昭和30年秋、当時嘱望されていた若手落語家数人にメンバーを限定した「若手落語会」を発足させ、後にバラエティーショー「東横寄席」の企画・演出も手がけ、4年連続で芸術祭奨励賞を受賞したことから「芸術祭男」の異名を取った名プロデューサーですが、絶頂期にあった昭和34年1月26日、睡眠薬の大量服用が原因で29歳の若さで亡くなってしまいます。没後半世紀が過ぎた現在では、その記録が殆ど残っていない「伝説の人」となっています。

東横落語会を始めるにあたって、湯浅は出演者をレギュラー制にして限定します。「現在の落語家の芸で鑑賞に耐えるのは、この五人だけ」という主張の下に選ばれたのは、当時60代の五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、50代の六代目三遊亭圓生、三代目桂三木助、それにまだ40代になったばかりの五代目柳家小さん。これに「若手落語会」のメンバーを前座として加えるというものでした。「若手落語会」のパンフレットの題字を武者小路実篤、原稿を志賀直哉や小泉信三などに依頼したほど並外れた一流趣味の持ち主だった湯浅は、東横落語会のポスター、パンフレットの文字を画家の木村荘八に書かせて話題を呼びます。演目を記した「めくり」が寄席文字ではなく前衛書道で書かれ、高座の脇に鉄瓶を載せた火鉢が置かれているのも大きな特徴でした。
第一回の出演者と演目は、柳家小ゑん「蜘蛛駕籠」、古今亭志ん生「粗忽長屋」、三代目三遊亭金馬「転宅」、桂三木助「へっつい幽霊」、柳家小さん「提灯屋」、そしてトリが三遊亭圓生「品川心中」。レギュラーのうち、文楽が出演出来なかったため、金馬が代わりを務めています。最初に登場した柳家小ゑんは、当時二つ目でまだ二十歳。それから7年後の昭和38年に真打ちに昇進し、「立川談志」と名を改めます。

当初は年6回、奇数月のみの開催だった東横落語会も、昭和32年からは、毎年8月11日の三遊亭圓朝の命日に合わせてこの月に「圓朝祭」が行なわれるようになり、昭和40年1月からは毎月開催されるようになります。芸術祭にも度々参加し、昭和35年11月30日の第28回では、三木助の「三井の大黒」の上演時間が長くなったため、次に上がった圓生がやむなく「首提灯」を短く演じた所、これが評価されて芸術祭賞を受賞する結果となりました。レギュラーの一人であった三木助はこの日が最後の高座となり、翌昭和36年1月16日、59歳で亡くなっています。
三木助の没後間もなく開催された昭和36年1月31日の第29回で、彼が演じる予定だった「芝浜」とトリの「抜け雀」の二席を演じるサービスを見せた志ん生も、この年の秋に脳卒中で倒れてしまいます。
昭和40年代になると、志ん生が昭和43年に事実上高座から引退、文楽も芸に衰えを見せ始め、圓生、小さん、それに新たにレギュラーとなった十代目金原亭馬生などが中心となり、更に昭和50年代に入ると立川談志、三遊亭圓楽、それに古今亭志ん朝などが主要メンバーとなり、一時は「若い東横落語会」と題した若手中心の会も不定期で開催されました。
第一回のトリを務め、長年会を支えてきた六代目圓生は、昭和54年8月27日の第224回を最後に、それからわずか1週間後の9月3日、79歳で世を去ります。最後の「ネタおろし」となった三遊亭圓朝作「福禄寿」の初演も、この年7月30日の第223回(「圓朝祭」)でのものでした。十代目馬生の最後の高座も昭和57年8月30日の第260回で演じた「船徳」で、それからわずか半月後の9月13日、54歳の若さで亡くなります。この日の様子については、立川志らく著『全身落語家読本』(新潮選書)の中に綴られています。

東横落語会は、昭和60年6月28日の294回を最後にその歴史に幕を閉じます。レギュラーが次々と亡くなり人気が下降線を辿ったことと、会場の東横劇場が老朽化により閉鎖されることが理由でした。
最終回の出演者と演目は、春風亭小朝「紀州」、立川談志「山号寺号」、三遊亭圓楽「紺屋高尾」、古今亭志ん朝「火焔太鼓」、そしてトリは柳家小さん「笠碁」。第一回の出演者の中で名を連ねているのは当時小ゑんだった談志と小さんの2人だけで、まだ落語家になっていなかった志ん朝やわずか1歳だった小朝の名前が見られることに、戦後の落語界と共に歩んだ東横落語会の歳月の長さが感じられ、更にそれから四半世紀が経った今、この最終回の出演者の中で健在なのが小朝と談志の2人だけであることに、人気と格調を誇ったこの会が姿を消してからの歳月の長さと、落語界が失ったものの大きさを感じる落語ファンは多いことでしょう。

菅野美穂・1997―2010

女優としてデビューしたのが1993年、15歳の時。
それから17年が経つというのだから、この8月22日で33歳になる菅野美穂にとって、女優として過ごした時間が人生の半分を超えることになります。

デビューしたのが高校生の頃だったこともあって、当初は制服姿の美少女役が多く、しかし『イグアナの娘』(1996年)のように、その制服姿の奥に複雑で屈折した感情を秘めた役柄を演じたことは、その後の女優としての大成を予感させるものでした。
菅野美穂を語るとき、やはり1997年8月22日という日を外すことは出来ません。単に20歳の誕生日を迎えたというだけでなく、突如としてヌード写真集『Nudity』を発表したことで、女優としても、また自らの人生においても重大な転機をもたらすことになったからです。今では最早「遠い昔の話」となった感もありますが、当時世間に与えた影響は本人の想像以上に大きく、出演していたCMの降板を余儀なくされたほどでした。菅野自身、この当時のことをそれから約1年後に発売されたフォト・エッセー集『定本・菅野美穂』(集英社)の中で振り返っていますが、自分が投じた波紋の大きさやそこから垣間見た現実について、ありのままに、しかし努めて冷静に綴っています。

20歳以降の菅野美穂は、CM降板以外で写真集騒動の余波を受けることは殆どなく、可愛さや親しみやすさから妖艶さ、魔性に至るまで女性が持つあらゆる面を兼ね備えて表現出来る女優へとパワーアップして行きます。
テレビドラマには殆ど休むことなく出演し続け、一方で舞台『奇跡の人』(2000年)のヘレン・ケラー役や、北野武監督の映画『Dolls』(2002年)などでも印象に残る演技を見せますが、菅野が持ち前の演技の幅広さを遺憾なく発揮しているのは、寧ろ単発ドラマや実在の人物を描いた作品ではないかと思います。前者は耳の不自由なヒロインが周囲の善意に支えられながら、結婚、出産、子育てなどを通じて成長する姿を描いた『君の手がささやいている』シリーズ(全5作、1997年〜2001年)、悪役・玉梓(妙椿)を演じた『里見八犬伝』(2006年)など、後者では、ピアニスト、フジ子・ヘミングの半生を伝記調で描いた『フジ子・ヘミングの軌跡』(2003年)などがあり、昨年から3年がかりで放送中の『坂の上の雲』(2009年〜2011年放送予定)の正岡子規の妹・律役もこれに当たります。

21世紀に入り、朝のテレビ小説『ちゅらさん』(2001年)で天邪鬼なメルヘン小説家役を演じた辺りから、菅野美穂は「働く女性」像を数多く演じるようになり、それは30代にさしかかってからの『わたしたちの教科書』(2007年)での弁護士役や『働きマン』(同)の猛烈編集者、不可解な事件を推理する女刑事を演じた『キイナ〜不可能犯罪捜査官〜』(2009年)、それに『曲げられない女』(2010年)といった一連の作品と役柄へと繋がって行きます。菅野美穂がそれだけ年齢とキャリアを積み重ねたことの表われであると言える一方、2006年にそれまでの所属事務所から現在の研音に移籍したことも大いに影響していると思われます。

取材したマスコミ関係の人々が皆揃ってファンになってしまったという逸話を持つ菅野美穂は、最近では「アラサー」世代の女性たちの間で最も支持されている女優と言われています。
1997年以降、女優としても女性としても着実に成長を続けて来た菅野美穂は、「アラサー」世代の人々と共に生き続けている女優でもあるのです。

『野良犬』とその時代

黒澤明監督が、平成10年9月6日に亡くなって12年。
今年は明治43年3月23日に生まれた黒澤監督の生誕百年でもあり、二つの意味で節目の年になります。

一般的に「黒澤映画」と言えば、『七人の侍』(昭和29年)や『用心棒』(昭和36年)に代表されるダイナミックな時代劇のイメージが強いと思われます。
しかし、終戦直後から『羅生門』(昭和25年)で国際的名声を得るまでの黒澤は、様々なテーマやジャンルに取り組みながら、当時の世相や人々の姿をリアルに映し出した映画監督でした。
日本映画に「刑事もの」というジャンルを確立し、その後のテレビの刑事ドラマにも多大な影響を与えた昭和24年公開の『野良犬』も、その中の1本です。

恐ろしいほど暑い夏のある日、警視庁捜査一課の新人刑事・村上(三船敏郎)は、射撃訓練の帰りのバスの中で弾丸7発が入ったコルトを盗まれます。スリ係の刑事の協力を得て、盗みに手を貸した女スリから「ピストル屋」の存在を聞き出した村上は、淀橋署のベテラン刑事・佐藤(志村喬)と組んで野球好きのピストル屋を後楽園球場で張り込みの末、逮捕。コルトが遊佐新二郎(木村功)という男の手に渡っているという供述を得ます。復員兵の遊佐は数日前に実家から姿を消しており、幼馴染のレビューの踊り子・並木ハルミ(淡路恵子)からは最近金回りが良く、彼女に言い寄っていたことを聞き出します。しかしこの間、村上のコルトを使った強盗傷害事件、続いて強盗殺人事件が発生。2人はハルミのアパートを訪ね、遊佐の居場所を尋ねますがなかなか口を開こうとしません。遊佐が殺人犯であり、兇器が自分のコルトであること、そして自らも遊佐と同じ復員兵であることをハルミに明かす村上。一方、ハルミの部屋にあったマッチを頼りに神田の簡易ホテルに向かった佐藤は、遊佐を突き止めて警察と村上に電話で連絡しますが、捜査の手が及んでいることを知った遊佐に撃たれてしまいます。病院で佐藤の容態を案ずる村上の前にハルミが訪れ、遊佐から朝6時に待っていると連絡があったことを告げます。事件解決とコルトを取り戻すため、村上は一人で待ち合わせの場所へと向かいます―。

サスペンス映画として評価が高く、今日のように冷房が発達していない時代の文字通りの「恐ろしい暑さ」が画面全体から伝わってくるこの作品は、戦争が終わってやっと4年が経ち、街や人々の間に漸く活気が戻って来た様子と、戦争が終わってまだ4年しか経っておらず、人々の生活も貧しく先も見えないという現実の、いわばこの時代の「明」と「暗」が明確に描き出された作品でもあります。事件を追う側である村上刑事と追われる側である犯人の遊佐が共に復員兵であり、また復員途中で同じ経験をした共通点を持っているという設定が、当時の時代背景を如実に示している上、そのまま2人の男の明暗が分かれたその後の生き方を際立たせているように思います。『野良犬』とは、事件とピストルを執念深く追う村上は勿論、世間からドロップアウトしてしまった遊佐のことも指しているのでしょう。
この映画で圧巻なのが、村上がピストルを捜し求めて東京の盛り場を歩き回るシーンと、最初の山場である後楽園球場のシーン。前者は本作の監督助手で、後に『ゴジラ』(昭和29年)を手がける本多猪四郎が担当したもので、黒澤も後にこのシーンの出来栄えを大いに認めたそうです。後者では、後楽園球場で実際に行なわれた巨人―南海戦が登場。『野良犬』が公開された昭和24年は、日本のプロ野球が1リーグだった最後の年で、特にこの年の巨人―南海戦は、最も注目を集め人気を呼んだカードでした。川上哲治、千葉茂、青田昇などの当時の人気選手の映像が見られる点でも貴重な作品です。

映画『野良犬』は、公開から60年以上経った今、歴史資料的価値の高い作品となっています。
黒澤明の時代と人間を見る眼の確かさの証と言えるでしょう。

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