万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

『男はつらいよ』の世界

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テキヤ仲間紳士録

テキヤという職業柄、旅から旅への暮らしを送り、自らを「旅人」と称する車寅次郎。
そんな寅さんには、方々に気心の知れた仲間たちがおり、また、時には旅先で思いがけず仲間の消息を知ることもありました。

シリーズ初期の作品で常連だったのが、第1作(昭和44年)から登場した津坂匡章(現・秋野太作)演じる川又登。青森県八戸出身の彼は、テキヤの世界に憧れ寅さんを「兄貴」と呼んで慕っていますが、寅さんからはいつも「堅気になって地道に暮らせ」と言われていました。第4作『新・男はつらいよ』(小林俊一監督・昭和45年)では旅行代理店の社員となりますが、第5作『望郷篇』(昭和45年)では再び寅さんの舎弟となり、第10作『寅次郎夢枕』(昭和47年)まで登場します。その後堅気となった登は、第33作『夜霧にむせぶ寅次郎』(昭和59年)で久々に登場。盛岡で今川焼き屋を営みながら、妻子と共に地道な生活をしている姿が描かれましたが、ここでも再会した寅さんに説教されていました。

後期の作品でお馴染みだった関敬六演じる「ポンシュウ」。第35作『寅次郎恋愛塾』(昭和60年)辺りからこの呼び名が定着し、以後、最後の作品『寅次郎紅の花』(平成7年)まで、ほぼ毎回、寅さんと共に全国各地を旅しながら「バイ」に励む姿が描かれていました。寅さんを上回る(?)「女好き」として描かれており、第46作『寅次郎の縁談』(平成5年)の冒頭では、奥さんを若い人と取り替えたことを明かし、寅さんを呆れさせる一幕もありました。
第37作『幸せの青い鳥』(昭和61年)には、同じく現役の同業者・「キュウシュウ」(不破万作)が登場。その名の通り、九州近辺で商売をしていて、寅さんとは関門海峡を渡るフェリー乗り場などですれ違います。

『男はつらいよ』では、寅さんとテキヤ仲間との交流が描かれる一方で、テキヤ稼業の孤独で哀れな末路と、それを目の当たりにする寅さんの姿が度々描かれていました。第5作『望郷篇』では、死の直前に息子に会うことを願うも、鉄道機関士の息子(松山省二、現・政路)からは拒否される北海道の政吉親分(木田三千雄)の哀れな最期が描かれ、寅さんに堅気の道を歩むことを決意させます。第28作『寅次郎紙風船』(昭和56年)では、「カラスの常」こと倉富常三郎(小沢昭一)が登場。見舞いに訪れた寅さんに、「俺が死んだら、あいつを女房にしてやってくれ」と、妻・光枝(音無美紀子)のことを託した後、帰らぬ人となります。本人が登場しない分、より印象深いのが、第10作『寅次郎夢枕』の伊賀の為三郎。秋の甲州路を旅する寅さんが、たまたま立ち寄った土地の旧家の奥さん(田中絹代)から、その年の夏にこの家で為三郎が突然亡くなったことを聞かされ、彼の墓に手を合わせます。為三郎の最期の様子を語る奥さんの淡々とした口調や、奥さんに礼を言った後、夕暮れの田舎道を寂しく歩いて行く寅さんの後姿などが、より悲哀や侘しさを際立たせ、しみじみと心に沁みるシーンとなりました。

方々に親しい仲間を持ち、自由気ままな旅暮らしをする一方で、旅先などで仲間の最期を見聞きする度に、寅さんの胸の中では「明日は我が身」という思いが去来したのではないでしょうか。舎弟の登へしきりに堅気になることを勧めたのも、身寄りもなく哀れな最期を迎えさせたくないという、寅さんなりの思いやりだったのでしょう。
車寅次郎は、そんなテキヤという「自由」と「孤独」の狭間を行き来する世界に生きた人でした。

旅人・車寅次郎

映画『男はつらいよ』は、「旅」や「放浪」をテーマにした一種のロード・ムービーとしての一面も持っています。
自らを「旅人」と称していただけあって、車寅次郎と「旅」は切っても切れない関係にあります。
テキヤという職業柄、旅から旅への暮らしを送る寅さんは、行く先々で様々な人々、そしてマドンナと出会い、そこから様々な物語が生まれたのでした。

寅さんが旅した土地を順を追って辿ってみると、先ず第1作(昭和44年)は京都・奈良、第2作『続・男はつらいよ』(昭和44年)では再び京都と、当時の修学旅行のスタンダードな行き先がそのまま採用された感があります。このことは、元々『男はつらいよ』という作品がシリーズ化されることなど考えられていなかったことを物語っているとも言えます。
日本各地を旅する寅さんの姿が描かれるようになったのは、第3作『フーテンの寅』(昭和45年・森崎東監督)あたりからで、この作品では三重県の湯の山温泉が主な舞台となり、ラストシーンでは正月に種子島へ渡る寅さんが描かれ、桜島をバックにエンドマークが出て物語が終わります。

全47都道府県のうち、シリーズで最も多く登場したのは北海道。第5作『望郷篇』(昭和45年)で札幌・小樽が登場したのを皮切りに、シリーズ最高のマドンナ・リリー(浅丘ルリ子)初登場編である第11作『寅次郎忘れな草』(昭和48年)では網走、リリー再登場編の第15作『寅次郎相合い傘』(昭和50年)では函館と再び登場の札幌・小樽、第23作『翔んでる寅次郎』(昭和54年)では支笏湖、第26作『寅次郎かもめ唄』(昭和55年)では江差・奥尻島、第31作『旅と女と寅次郎』(昭和58年)では羊蹄山、第33作『夜霧にむせぶ寅次郎』(昭和59年)では釧路、第38作『知床慕情』(昭和62年)では知床がそれぞれ登場しています。
一方、シリーズ開始当時はまだ「日本」ではなかった沖縄は、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(昭和55年)で漸く登場。病気のリリーを見舞うため、寅さんは苦手な飛行機に乗って沖縄へ行くことになります。無事に到着し、リリーが入院する病院へ向かう寅さんが乗ったバスの上を、米軍機が通り過ぎていくというシーンが印象的でした。

この他、寅さんが訪れた土地の中で印象に残る所をいくつか挙げると、さくら(倍賞千恵子)の夫・博(前田吟)の郷里である岡山県備中高梁(第8作『寅次郎恋歌』・昭和46年、第32作『口笛を吹く寅次郎』・昭和58年)、島根県津和野(第13作『寅次郎恋やつれ』・昭和49年)、兵庫県龍野(現在のたつの市、第17作『寅次郎夕焼け小焼け』・昭和51年)、愛媛県大洲(第19作『寅次郎と殿様』・昭和52年)、静岡県大井川・長野県木曽福島(第22作『噂の寅次郎』・昭和53年)、鎌倉(第29作『寅次郎あじさいの恋・昭和57年)、伊豆七島式根島(第36作『柴又より愛をこめて』・昭和60年)など、枚挙に暇がありません。
第41作『寅次郎心の旅路』(平成元年)は、仕事に追われる日々に疲れたサラリーマン・坂口(柄本明)と共にウィーンを旅することになる異色作。初めての海外に最初は戸惑いながらも、ドナウ川を江戸川に見立てるあたりが寅さんらしく、心に残るシーンとなりました。

シリーズ最後の作品となった第48作『寅次郎紅の花』(平成7年)で主な舞台となったのは、神戸と奄美大島。神戸はこの年1月17日に「阪神・淡路大震災」に見舞われたばかり。一方の奄美大島は、かつてテレビシリーズの最終回で、寅さんがハブに噛まれて一度「死んだ」地。最後となった作品の舞台に奄美大島が登場したことに因縁めいたものを感じます。

北から南へ、南から北へと旅暮らしを続けてきた寅さん。
しかし、自由気ままな旅を続けながら、桜を見ると懐かしい葛飾の桜に思いを馳せ、ドナウ川を江戸川に見立てたように、どこにいても、寅さんの心の中には常に故郷の風景が生きていたのでしょう。
『男はつらいよ』シリーズ第1作(昭和44年)は、20年ぶりに故郷の葛飾柴又に帰って来た車寅次郎(渥美清)が、矢切の渡しに乗って柴又へと向かうところから始まります。
柴又帝釈天の裏手を流れる江戸川は、第1作以来、シリーズには毎回のように登場し、柴又と並んで「寅さん」ファンにはお馴染みの場所となっています。

江戸川は、多摩川や荒川と並んで東京を代表する一級河川で、千葉県関宿で利根川と分かれ、東京と千葉の間を流れて東京湾へと注ぎます。首都圏住民の生活用水としての意味を持つだけでなく、住民の憩いの場としても貴重なスペースを提供しています。
寅さんが柴又に帰る時に乗る「矢切の渡し」は、東京都内で唯一残っている渡し船であり、昔ながらの手漕ぎ船が、現在でも柴又と千葉県松戸市下矢切の間を往復しています。江戸初期、江戸川の両側に田畑を持つ付近の農民のために徳川幕府が設けたのが始まりで、当時幕府は箱根と同様の厳しい関所を設けていたそうです。伊藤左千夫原作の『野菊の墓』や、ちあきなおみや細川たかしが歌った「矢切の渡し」など、小説や歌謡曲の舞台でも知られています。

帝釈天の裏手に広がる江戸川の土手と河川敷も、柴又へ向かう途中の寅さんが必ず大騒動を巻き起こしてしまうタイトルバックを始め、何度も物語の重要な舞台として登場したお馴染みの場所です。河川敷にはゴルフ場や野球場があり、これらもシリーズには度々登場しています。第1作では、渡し船を降りた寅さんがゴルフ場のグリーンを突っ切り、ホールへ転がっていたゴルフボールを取り上げ、ゴルファーに投げ返して軽く会釈をするというシーンが登場します。この後、久々に帰って来た故郷を感慨深い表情で眺めるスーツ姿の寅さんも印象的です。
江戸川の土手沿いには、老舗川魚料理店「川甚」が4階建てのビルを構えています。江戸時代の寛政年間(1789〜1801年)に創業のこの店は、夏目漱石や谷崎潤一郎など多くの文人に愛されたことでも知られています。第1作で、さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚披露宴会場として登場したのもこの店でした。

しがないフーテンの旅暮らしを続ける寅さんにとって、幼い頃から見慣れ親しんできた江戸川の風景は常に心の中に生き続けており、第1作や第38作『知床慕情』(昭和62年)の冒頭でその想いが語られています。時には思いがけない所でその想いが表われることがあり、第41作『寅次郎心の旅路』(平成元年)では、ひょんなことからオーストリアのウィーンに旅に出る破目になった寅さんが、現地ガイドの日本人女性・久美子(竹下景子)とドナウ川の流れを眺めながら、江戸川に想いを馳せ、戦前のヒット曲「大利根月夜」(昭和14年)を口ずさみ、「この歌は合わないね」と笑う場面が出てきます。
これとは別に、第15作『寅次郎相合い傘』(昭和50年)のタイトルバックは、江戸川土手で自転車を走らせるさくらがメインという珍しいものですが、一旦自転車を止めたさくらが遠くを眺めながら兄を思うというシーンがあり、シリーズの歴代タイトルバックの中でも味わい深いものとなっています。

寅さんの心の中で常に生き続けていたであろう江戸川の風景。
それは現在でも殆ど変わることなく、「『男はつらいよ』の世界」を今でも色濃く残しています。
柴又と共に、一度は訪れてみたい場所です。
一生に一度行ってみたい町や場所というものは、誰にでもあるのではないでしょうか。
僕にとって、東京・葛飾柴又は、そんな町の一つです。

映画『男はつらいよ』の舞台は、「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい…」と主題歌の冒頭のセリフにもある、東京都葛飾区柴又の帝釈天界隈です。
シリーズ第1作『男はつらいよ』(昭和44年)は、父親と喧嘩をして家を出た主人公・車寅次郎(渥美清)が、20年ぶりに故郷の柴又に帰って来る所から始まります。ちょうどその日は60日に一度の庚申祭りの最中で、纏を持って帝釈天の境内に入った寅さんは、そこで御前様(笠智衆)、「おばちゃん」ことつね(三崎千恵子)と対面。「おいちゃん」こと竜造(森川信)の家、すなわち帝釈天参道にある草団子屋「とらや」へ向かった寅さんは、そこで美しく成長した妹・さくら(倍賞千恵子)と再会を果たします。

さて、寅さんが「産湯」をつかったという、柴又帝釈天の正式な名称は「経栄山題経寺」(きょうえいざんだいきょうじ)。日蓮宗の寺院で、江戸初期の寛永年間(1624〜44)の開基と伝えられています。日蓮聖人が刻んだと言われる帝釈天の「板本尊」が安置されていたのが、江戸中期の一時期所在不明になっていましたが、安永8年(1779年)の春、本堂改修中に発見。その日が庚申の日であったことから、それ以来、60日に一度の庚申の日が縁日となりました。板本尊が発見されて4年後の天明3年(1783年)、時の住職自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、「天明の大飢饉」に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったために、帝釈天への信仰が広まったと伝えられています。主な年中行事としては、元旦の「四方拝」と「祈祷会」、2月3日の「節分会」、11月3日の「水神祭」があります。

帝釈天山門前から京成電鉄柴又駅へ向かって続いているのが帝釈天参道。この参道の風景は映画でもお馴染で、参道脇には山田洋次監督の自筆で「私生れも育ちも葛飾柴又です」と書かれた記念碑がある他、映画に縁の深い店が今でも軒を連ねています。
参道両側に向かい合って建っている草団子屋「高木屋老舗(ろうほ)」は、江戸時代から続く老舗。元々柴又周辺は江戸時代は米どころで、春になると農家ではよもぎを摘んで草団子を作っていたそうです。門前町に草団子屋が多いのは、邪気を払うためだと言われています。「寅さんゆかりの草団子」となったのは勿論映画が公開されてからのことで、柴又ロケの際には、出演者や関係者の控室として使われていたそうです。販売用店舗の奥には渥美さんの指定席が保存されており、また、帝釈天に向かって左の喫茶用店舗には、ロケの記念写真が壁一面に飾られているそうです。
江戸時代から9代続く川魚料理店の「川千家」(かわちや)は、画面やセリフの上で何度も登場しています。天ぷら屋の「大和家」は、松竹宣伝部の控室として使われた店で、現在の御主人・大須賀仁氏は、子供の頃からエキストラとしてシリーズに何度も登場したそうです。因みに、映画のオープニングタイトルで「協力」の欄にクレジットされている「柴又神明会」とは、帝釈天参道の商店を中心に約50店で組織された団体だそうです。

山田洋次監督は、『寅さん完全最終本』(小学館)の中で、「昭和の初期くらいの面影が、いまでも残っています。駅から帝釈天へ行く参道が、ゆったりカーブしている。田んぼの間の農道がそのまま道になっているんですね。浅草仲見世通りにようなシンメトリカル(左右対称)な都会的な風景とは違って、風情がありました」と、柴又について語っています。平成9年11月には「葛飾柴又寅さん記念館」がオープンし、先日来館者が250万人を突破したそうです。
寅さんの故郷・柴又は、寅さんによって日本の代表的な町となりました。

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「ポンシュウ」を悼む

『男はつらいよ』シリーズでは、お馴染みのレギュラー陣の他に、「準レギュラー」と言っても差し支えない常連の役者さんたちが、様々な役で登場してきました。
その中の1人に、寅さんのテキヤ仲間、通称「ポンシュウ」役を主に演じ、去る8月23日に78歳で亡くなった関敬六がいます。

昭和2年に栃木県に生まれた関敬六は、戦時中は陸軍特別幹部候補兵、すなわち特攻隊員として従軍し、インドネシアのジャワ島で終戦を迎えます。数年間の抑留生活を経て、昭和26年に法政大学専門部を卒業。「エノケン」こと喜劇界の重鎮・榎本健一率いる「エノケン劇団」を経て、ストリップ劇場の「浅草フランス座」所属の役者となり、ここで同年代で生涯の友となる渥美清と出会います。
昭和34年、渥美、そして同じく浅草の役者仲間であった谷幹一と共に「スリー・ポケッツ」というユニットを結成し、お茶の間でも人気を博しますが、間もなく解散。その理由は、「友情は不変だが頼むから俺を1人にして欲しい」という渥美清の意向があったからだそうです。その後、『オバケのQ太郎』(昭和40年)や『スーパースリー』(昭和42年)などのアニメの声優としても活躍し、また昭和50年には自らの劇団を結成し、浅草を中心に活動を展開しました。因みに、今ではダチョウ倶楽部の定番ギャグのイメージが強い「ムッシュムラムラ」というギャグの元祖は、実はこの人なんだそうです。

「スリー・ポケッツ」解散後、テレビ・映画で売れっ子となった渥美清が、昭和44年から始まった『男はつらいよ』シリーズに主演するようになると、親友である関敬六もシリーズの常連として出演するようになります。第1作では、さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚披露宴の司会者役で登場。博の父親(志村喬)を紹介する際に、「諏訪…、諏訪ン〜一郎様」(実際には「ひょういちろう」と読む)と読み上げるシーンと、披露宴の最中に寅さんに外へ連れ出されてドヤされるシーンが印象的でした。
第26作『寅次郎かもめ唄』(昭和55年)からは、寅さんのテキヤ仲間、草野球帰りのとらやの客、チンドン屋、タクシー運転手など様々な役で毎回登場するようになります。

関敬六=ポンシュウが完全に定着するようになったのは、第35作『寅次郎恋愛塾』(昭和60年)辺りからで、以後、最終作である『寅次郎紅の花』(平成7年)まで、ほぼ毎回、全国各地を旅しながら「バイ」に励む寅さんとポンシュウの姿が映画の中で描かれました。
年号が「昭和」から「平成」に代わり、シリーズも40作を超えた辺りから徐々に渥美さんの体調が悪くなっていくと、ロケでは常に渥美さんを気遣っていたのが関さんで、また限られた友人としか交際しなかった渥美さんが、一番心を許していたのも関さんだったそうです。山田洋次監督は、関さんと渥美さんが喋り、そして歩いているだけで独特の世界となり、そのままで絵になると語っていたといいます。

ここまで書いたように、関敬六さんと渥美さんとは若い頃からの文字通り親友であり、それは映画の中での寅さんとポンシュウの比ではありませんでした。渥美さんが平成8年8月4日に世を去った時にはショックで倒れて2ヶ月ほど入院し、その後も月命日に墓参りを欠かさなかったそうです。渥美さんが亡くなってちょうど10年、しかも同じ8月に亡くなったことにも因縁を感じてしまいます。
今頃は10年ぶりに再会を果たした「渥美ちゃん」と、天国で思い出話などに花を咲かせていることでしょう。

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