万年寝太郎徒然日記

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『男はつらいよ』の世界

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渥美清が亡くなったのは、平成8年8月4日のことです。
もっとも、我々が渥美さんの死を知ったのは、それから数日経った8月7日のことで、その時には既に通夜、葬儀、火葬が家族だけでひっそりと行なわれた後でした。
亡くなる5年ほど前からガンとの闘病生活を送っていたそうですが、それを全く見せることもなく、静かにこの世から旅立って行ったことに、本物の「プロの役者」としての生き方を貫いた渥美さんの生き様を垣間見るような気がします。

平成8年と言えば、僕は大学4年生で、8月7日はちょうど尾道の実家に帰省していました。夕方、何気なく耳にしていたラジオのニュースで、「映画『男はつらいよ』の寅さん役で知られる、俳優の渥美清さんが今月4日に亡くなっていたことが分かりました」と聴いて驚いたことを今でも覚えています。同じような思いを感じた人も多いのではないでしょうか。この時、「もう、新しい『男はつらいよ』は作られないんだな…」と、寂しい思いも同時に感じたものでした。

渥美清、本名・田所康雄は、昭和3年3月10日に東京・上野に生まれました。子供の頃から病弱で学校も休みがちだった一方で、落語や軽演劇に興味を持ち始めたのもこの頃だそうです。中央大学を中退後、芝居の世界に入り、昭和28年、浅草のストリップ劇場「フランス座」の専属コメディアンになります。
昭和29年、肺結核で倒れ、右肺を摘出する大手術を経て埼玉県の病院で2年間の闘病生活を送り、昭和31年に「フランス座」へ復帰。昭和33年には役者仲間の谷幹一、関敬六と「スリーポケッツ」を結成しますが、わずか3ヶ月で解散。その後は、テレビでは『若い季節』(昭和36年〜39年)、『夢であいましょう』(昭和36年〜41年)、『泣いてたまるか』(昭和42年〜43年)などの人気番組で活躍し、映画でも野村芳太郎監督の『拝啓天皇陛下様』(昭和38年)や、「列車」シリーズ(昭和42年〜43年)などの作品に主演しました。
そして、昭和43年、40歳の時に主演したテレビドラマ『男はつらいよ』が人気番組となり、翌昭和44年には映画化。以後大ヒットシリーズとなり、亡くなる前年の平成7年公開の「寅次郎紅の花」まで、27年間、全48作にわたって車寅次郎を演じ続けました。

渥美清の魅力は、例えば吉本新喜劇などのようなドタバタとした笑いではなく、何気ない仕草やちょっとした台詞の中の言葉の可笑しさにあったと思います。中でも、言葉のセンスは、小さい頃から芝居や落語に親しみ、また本物のテキ屋から教わったという口上などに代表される話術・話芸から培ってきたのではないでしょうか。それが十分に生かされたのが『男はつらいよ』でしょう。車寅次郎というキャラクターがどうして生まれたのかについてはこの間も書きましたが、寅さんがこれほどまでに愛されたのは、渥美清自身の人生経験や舞台などで鍛えた演技力に因るところも大きく、これも落語好きで知られる山田洋次監督の演出と相まって、25年以上も続く長寿シリーズへと繋がって行ったのだと思います。
一方で、しみじみとした語り口にも味わいがあって、早坂暁脚本のテレビドラマ「花へんろ」シリーズ(昭和60年〜63年)のナレーションでその魅力が生かされていました。

素顔の渥美さんは芝居や演芸を熱心に見ていただけでなく、読書家で、また洋画会社の試写室にもよく来て、1日に2本ぶっ通しで洋画を観ることも多かったそうです。私生活を決して見せることのなかった人ですが、言い換えれば「寅さん」のイメージを大切にし、誰よりも車寅次郎という人物に愛着を感じていたのかも知れません。
渥美清という人は、やはり寅さんと「2人で1人」の関係だったのだと、今、思います。
NHK‐BS2で、今月から『男はつらいよ』シリーズ全48作が順次放映されることになりました。
昭和44年に第1作が封切られて以来、平成7年公開の『寅次郎紅の花』まで足掛け27年に渡って休みなく作られ、「世界一の長編映画シリーズ」としてギネスブックでも公認されました。世界的にも知られた日本映画と言っても良いでしょう。
今回から、この映画のコーナーでは、『男はつらいよ』シリーズについて色々と書いて行きたいと思います。

映画『男はつらいよ』が作られる基になったのは、その前年の昭和43年10月から半年間、フジテレビで同名のテレビドラマが放映されたことでした。ドラマの打ち合わせの席で、主演の渥美清と脚本を担当する山田洋次監督が、青春時代に見聞きしたテキヤ(盛り場や縁日などで店を出して物を売る人たち)のエピソードを話していたことからヒントを得て、「フーテンの寅」こと車寅次郎のキャラクターが生まれました。ドラマでは、後の映画と同様、東京の葛飾・柴又を舞台に、主人公・寅次郎と妹・さくら、それに団子屋「とらや」を営むおいちゃん(竜造)におばちゃん(つね)、さくらの夫・博らとの人情味豊かな交流が描かれ、お茶の間の人気を集めました。

お茶の間の人気を集めたと言っても、ただそれだけだったなら、車寅次郎がスクリーンに登場することはなかったかも知れません。この作品が映画で作られるきっかけとなったのは、その「最終回」にあります。
この回で、奄美大島にハブを獲りに行った寅次郎は、逆にハブに噛まれて死んでしまいます。番組終了と同時に、フジテレビには「何故寅さんを殺したのか?」と抗議の電話が殺到しました。後でそれを聞いた山田洋次監督が、自分が書いた脚本で寅さんを殺してしまった「お詫び」の意味を込めて、「男はつらいよ」の映画化を決意したのだそうです。

映画『男はつらいよ』(第1作)は、昭和44年6月に作品が完成したものの、配給元の松竹内部では、テレビドラマを映画化することに難色を示す向きもあり、また「絶対にヒットしない」という声も高く、完成から2ヶ月後の8月27日に漸く上映されることになりました。ところがこの第1作が予想外の大ヒット。直ちに松竹は第2作『続・男はつらいよ』の制作を決定し、前作からわずか3ヶ月後の昭和44年11月に公開され、この作品も大ヒットを記録しました。
以後、第3作『男はつらいよ・フーテンの寅』では森崎東、第4作『新・男はつらいよ』ではテレビ版を演出した小林俊一がそれぞれメガホンを取り、第5作『望郷篇』(ここまでいずれも昭和45年)からは再び山田監督が復帰し、1作ごとに観客動員数も着実に増え、第8作『寅次郎恋歌』(昭和47年)では、それまで100万人弱だったのが、一気に150万人を突破し、人気を決定的なものにしました。その後、全盛期には盆と正月の年2回作られ、通算48作という驚異的なシリーズへと繋がっていったのでした。

今回は、『男はつらいよ』が映画になるまでを中心に書いてきました。それにしても、ドラマの中で寅さんが死んでしまったことが映画化のきっかけとは、ずっと前から話は知っていましたが興味深いものがあります。もし、寅さんが幸せになってドラマが終わっていたとしたら、寅さんが映画に登場していなかったかも知れない訳で、世の中は分からないものです。

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