万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

文学

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今年、没後30年を迎える海音寺潮五郎。
司馬遼太郎などに比べるとその知名度は低いものの、歴史小説の世界に確固たる地位を築いた作家の1人として、この人の存在を忘れるわけにはいきません。

明治34年11月5日、鹿児島県伊佐郡大口村(現・大口市)生まれ。本名は末富東作(すえとみ・とうさく)。
國學院大学高等師範部を卒業後、旧制中学の教師を勤めながら創作活動を行ない、昭和4年、雑誌「サンデー毎日」の懸賞小説に『うたかた草子』を応募して当選。昭和7年、同じく「サンデー毎日」の創刊10周年記念小説として応募した『風雲』が当選して連載され、昭和9年、「サンデー毎日」大衆文芸賞を受賞したのを機に教師を辞め、専業作家としての道を歩み始めます。「海音寺潮五郎」というペンネームは、教師が小説を書くことが許されなかった当時、ペンネームをあれこれと考えているうちに眠ってしまい、紀州の浜辺で寝ている夢を見たところ、どこかで「海音寺潮五郎、海音寺潮五郎」と呼ぶ声を聞き、それをペンネームとしたそうです。
昭和11年、『天正女合戦』と『武道伝来記』で第3回直木賞を受賞。作家として確固たる地位を確立した後、第39回から第63回にかけて直木賞選考委員も務めます。この間、第42回の受賞者となった司馬遼太郎を高く評価した一方で、第40回から候補者となっていた池波正太郎には文学観が異なっていたために厳しい評価を下し、第43回に受賞した際には「こんな作品が候補作品になったことすら意外だ」と酷評した上、直木賞選考を辞退するまでに至ったという逸話があるそうです。

海音寺潮五郎の作家として最大の功績と言えるのが、「史伝文学」の復興です。
「史伝文学」とは、歴史上の人物や出来事を題材にした作品を記述する上でフィクションの部分を取り除き、綿密な文献調査を基に史実を徹底的に追求する文学形式を指します。昭和に入って以降、日本人から日本の歴史についての常識が失われつつあると憂慮した海音寺は、明治から大正に書けて盛んに執筆されながらその後衰退した史伝文学の執筆に、本人曰く「史伝復興の“露払い”の気持ちを込めて」取り組み始め、『武将列伝』『悪人列伝』(いずれも文春文庫)など多くの史伝文学を手がけます。これらの史伝文学の諸作品、或いはNHK総合テレビでかつて放送された番組を収録した『日本史探訪』(角川文庫)での座談などを読むと、この人の歴史に関する広範且つ膨大な知識と真摯で鋭い視点に何度も魅了され、圧倒させられます。この「史伝復興」の功績などが認められ、昭和43年には第16回「菊池寛賞」を受賞しています。

海音寺潮五郎の作品の中で、一般に最もよく知られた作品と言えば、上杉謙信の生涯を描き、昭和44年にNHK大河ドラマの原作にもなった『天と地と』でしょう。ところが、『天と地と』がテレビで放送されたその年の4月1日、新聞紙上で突如「今後一切、新聞・雑誌からの仕事は受けない」という旨の「引退宣言」を発表。世間を驚かせます。「小説がテレビの力を借りなければ読まれない状況に対する不満」という見方をされましたが、実際にはこの数年前から「引退」を考えていたそうで、その理由は、郷土の英雄・西郷隆盛についての史伝の完成、「人物列伝」ものの一層の充実、5部作『日本』の完成の3つの目標の達成と、その執筆活動に専念するためだったそうです。こうして、晩年の海音寺の執筆活動は長編史伝『西郷隆盛』の執筆に費やされますが、その真っ只中にあった昭和52年11月、脳溢血に倒れ、約2週間後には心筋梗塞を併発。12月1日、76歳で亡くなり、3つの目標はいずれも達成されることなく終わってしまいました。
歴史上の人物の中では「清白さを持った英雄」を好み、上杉謙信、西郷隆盛、中国の諸葛亮孔明などが好きだったといいます。また、源平合戦、楠木正成親子を中心とした南北朝の歴史、上杉謙信と武田信玄の対決、信長・秀吉・家康の覇者交替劇、赤穂浪士の討ち入り、そして明治維新の6つの出来事を、日本の歴史上の「大ロマン」であると唱えていました。

歴史小説、とりわけ「史伝文学」に一生を捧げた海音寺潮五郎。
「詩人」ならぬ「史人」という呼び方が相応しい人であったと思います。

吉川英治の根底

広島に「にしき堂」というお菓子屋さんがあります。
宮島が発祥で、今や広島の名物である「もみじ饅頭」を広島市で初めて製造・販売したことでも知られるこの店の人気商品の1つに、「新・平家物語」という洋風和菓子があります。
これはカステラの切り口を「十二単」に見立て、赤い餡は「源氏」、白い餡は「平家」にあやかり、小箱に納めて平和を象徴したもので、作家・吉川英治の代表作に因み、吉川家の了解を得てその名が付けられました。

「新・平家物語」についてのいきさつを知っていたこともあって、僕にとって吉川英治という作家の名前は子供の頃から知っていました。しかし、実際にこの人の作品を手にとって読んだのは、それからずっと後のことです。
今でこそ、「国民的作家」と言えば司馬遼太郎や池波正太郎あたりになるのでしょうが、その先駆けとなると、やはり吉川英治ということになるでしょう。
同じ「国民的作家」と言われる存在でありながら、明治生まれの吉川と大正12年生まれの司馬遼太郎とは、生まれた時代以外にも大きな違いが見られます。
明治25年生まれの吉川は、父の事業の失敗で小学校を卒業目前に中退。作家として認められるまでに様々な職業を転々とし、18歳の時には、横浜のドックで作業中に船底に墜落して九死に一生を得たこともありました。このように世の辛酸を嘗め尽くした彼の少年期は、作家になる以前は新聞記者という「エリート」であった司馬遼太郎とは対照的なもので、後の作品にも大きな影響を与えます。

『神州天馬峡』や『鳴門秘帖』などの大衆文学作品で世に知られるようになった吉川英治が、「国民的作家」としての地位を完全に確立したのは、『親鸞』を発表し、『宮本武蔵』の新聞連載を開始した昭和10年頃のことで、特に『宮本武蔵』は「剣禅一如」を目指す主人公の人間的成長を描きながら、作者である吉川自身が作家として成長していった作品であったと言えるのかもしれません。昭和14年には、2月に『新書太閤記』の連載が開始。7月に『宮本武蔵』が完結し、8月からは『三国志』の連載が開始と、作家として最も充実した時期に入ります。『新書太閤記』も『三国志』も、共に時代の流れとその中での様々な人間模様が重厚に描かれていて、以後、歴史上の人物を題材にした作品を多く発表します。

昭和20年8月15日の終戦は、吉川英治に執筆が出来なくなる程の衝撃を与えます。この作家人生最大の危機を救ったのは、親友の菊池寛でした。昭和22年に執筆を再開した吉川が、「週刊朝日」に『新・平家物語』の連載を開始したのが昭和25年。平家一門の栄枯盛衰を終戦までの日本の姿に重ねて描いた、いわば吉川英治版『戦争と平和』ともいうべき作品で、これは昭和33年から連載が始まり、遺作となった『私本太平記』にも似たような趣が感じられます。『新書太閤記』『新・平家物語』『私本太平記』、そして『宮本武蔵』は、いずれもNHK大河ドラマの原作となった他、それ以外の映画や時代劇の原作にも取り上げられ、映像を通じて吉川英治という作家やその作品を知った人も多いのではないでしょうか。
因みに、僕自身は『新・平家物語』を2回読んで、2回共に途中で頓挫してしまった苦い経験を持っています。

吉川英治は昭和37年9月7日、70歳で亡くなりましたが、没後40年以上が経つ現在でも幅広い読者層を維持しています。
吉川文学の特徴は、たとえ歴史小説であっても、史実以上に、いつの時代でもどの国でも決して変わることのない人間の様々な姿に重点を置き、また真の幸福や平和を追求する思いも込められていたと思います。それもまた、「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を確立した司馬遼太郎と対照的な点であり、その根底には、苦労を重ねた少年期や「戦争と平和」の間で生きた人生経験があったのではないでしょうか。
作家・池波正太郎がこの世を去ったのは、平成2年5月3日のことです。
『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』の「3大シリーズ」や、「真田もの」「忍者もの」など、時代小説の分野で幅広い作品を世に送り出し、没後15年以上が経った今でも根強い人気を誇っていますが、しかし、僕にとっては知っているようで知らない部分も多い作家でもあります。

池波正太郎の作品や人となりを追った「王道―池波正太郎全仕事」(一迅社)の前書き「永遠に読み継がれる池波作品」には、次のように書かれています。

「『国民的作家』
池波正太郎は、まさにそうした呼称がふさわしい大作家である。
その作品に数多の読者がひきこまれていく。
しかし、意外なことに、
たとえば『鬼平犯科帳』ファンは『鬼平犯科帳』のみを読み、
他の作品を読んでいないという印象がある。」
(以下略)

「たとえば『鬼平犯科帳』ファンは『鬼平犯科帳』のみを読み、」の部分は、まさに僕自身がこれに当てはまります。僕が池波正太郎という作家を知ったのは、やはり『鬼平犯科帳』からで、中村吉右衛門版の『鬼平』がスタートしてから原作の文庫版(文藝春秋)を買い集めるようになりました。その後、『剣客商売』(新潮社)や『仕掛人・藤枝梅安』(講談社)も文庫版で買い集めましたが、読む量では『鬼平犯科帳』が圧倒的で、『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』は殆ど埃を被っているような状態です。更に言えば、全巻を所蔵しているのは『鬼平犯科帳』のみです。しかし、逆に言えば『剣客商売』のみを読む池波ファンや、『仕掛人・藤枝梅安』のみを読む池波ファンも、『鬼平』ばかりを読む池波ファンと同じ数だけいるはずで、要は各作品ごとに根強いファンを確保しているのが、池波正太郎という作家の凄さだと思います。

作家としての「凄さ」とは別に、池波正太郎という人には、個人的に1人の人間としての「近さ」も感じます。その根拠となっているのがこの人と「食」との関わり。池波さんはいわゆる「食通」としても知られ、1日のうちにどんなものを食べたのかを日記にこまめに書き記していたことでも有名な人ですが、特別贅沢なものばかりを食べていたという訳ではなくて、例えば馴染みの店に立ち寄って、いつも注文するものを食べたり、遠方から取り寄せたり送られてきたりした食材を夕食のおかずや酒の肴にしたり、深夜、執筆の合間にありあわせのものを材料にして夜食を造ったりと、そんな様子が日記には記されています。「食」以外にも、池波さんは映画にも造詣が深く、また旅や散歩も好きだったそうで、「趣味人」としても一流だったことが伺えます。

と、ここまで、池波正太郎の「凄さ」と「近さ」というものを書いてみましたが、非常に中途半端な内容で、これだけではとても伝えきれないものと反省しています。また日を改めて、それぞれについてこのブログで書きたいと思っています。

私的司馬遼太郎論

大阪府の東部、河内平野のほぼ中央に位置する東大阪市は、僕が大学生活を過ごした町です。
大阪市、堺市に次いで府内で3番目の人口を誇り、日本有数の「町工場」の町としても知られるこの地は、新聞記者から作家に転じた福田定一氏が、その作家生活の大半を過ごしたことでも知られています。
福田定一。作家名を「司馬遼太郎」と言います。

司馬遼太郎の作品を読み始めたのは、ちょうど中学校を卒業した頃のことでした。無論その頃は、後に司馬さんが暮らす町の大学へ進学することなど夢にも思っていなかった、と言うよりも、司馬さんの自宅が東大阪市であることもまだ知りませんでした。
僕が読んだのは主に戦国時代を舞台にした作品で、順不同で挙げると、『国盗り物語』(斉藤道三・織田信長・明智光秀)『新史太閤記』(豊臣秀吉)『関ヶ原』(石田三成・徳川家康)『城塞』『尻啖(くら)え孫市』(雑賀孫市)『功名が辻』(山内千代)『豊臣家の人々』『覇王の家』(徳川家康)、それに『箱根の坂』(北条早雲)『播磨灘物語』(黒田如水)『夏草の賦』(長宗我部元親)などは、図書館で借りて読みました。『国盗り物語』や『関ヶ原』などは3回以上は読んでいます。幕末ものの代表作である『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』なども含めて、歴史を俯瞰して一つの物語と見る独自の歴史観は「司馬史観」と呼ばれていますが、僕は寧ろ肯定的な言い方で、「司馬主観」と言うのがより正しいと思っています。また、「余談だが」という書き出しから物語とは直接関係ないエピソードや司馬さん自身の体験談が綴られるのも司馬作品の特徴ですが、この「余談」の部分が頗る読み応えがあり、これがそのまま司馬作品の魅力の一部にもなったと同時に、後年小説から遠ざかり、エッセイによる文明・社会批評に専念する契機にもなったのでしょう。

歴史小説界の第一人者だけあって、NHKの大河ドラマや時代劇でも司馬作品は頻繁に取り上げられていますが、小説の枠を超えて、歴史書・エッセイの要素も色濃く感じられるだけに、作る側としては「作り甲斐」がある反面、手に余る面も多かったのではないかと推察します。個人的には、大河ドラマ『国盗り物語』(昭和48年)『翔ぶが如く』(平成2年)、それにTBSで放送された『関ヶ原』(昭和56年)がテレビドラマ化された司馬作品の「ベスト3」で、映画では、幕末の人物・清河八郎(丹波哲郎)を主人公にした『暗殺』(篠田正浩監督・昭和39年)という作品もありましたが、後の作品はいずれも原作には及ばなかったように思います。

平成8年2月13日、司馬遼太郎は72歳で世を去りますが、最期の場所となった国立大阪病院は、代表作の1つである『花神』の主人公・大村益次郎(村田蔵六)の亡くなった場所でもあったということで、偶然とはいえ、いかにも司馬さんらしい最期だったと言えるのではないでしょうか。
亡くなる前年には阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が発生し、司馬さんの晩年の代表的仕事であった「この国のかたち」というものがまさに崩れ始めた頃でした。この国の将来を担う子供達に向けて、ズバリ「21世紀に生きる君たちへ」と題した一文を書くなど、日本や日本人の将来を案じていた司馬さんが仮に健在であったら、今日のこの国の姿をどのように見ていたのか。とても興味深いです。

司馬遼太郎の命日は「菜の花忌」と言われています。生前の司馬さんが、菜の花やタンポポのような野に咲く黄色い花が大好きだったことや、江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛を主人公にした『菜の花の沖』という長編小説があることに由来しているそうです。
僕もしばらく東大阪へは行っていないのですが、いつか「菜の花忌」の頃に、東大阪市下小阪にある「司馬遼太郎記念館」を訪ねてみたいと思っています。

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