万年寝太郎徒然日記

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落語

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東横落語会の歳月

今年の4月、『東横落語会〜ホール落語のすべて〜』というCDブックが小学館から発売されました。
昭和31年から60年にかけて開催されたホール落語「東横落語会」の歴史を、当時の高座を収録したCDと196ページにまとめられた本で振り返るもので、全20組のCDでは六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵(彦六)、五代目柳家小さん、十代目金原亭馬生、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝の噺を聴くことが出来ます。


戦後の昭和20年代後半から30年代にかけて、東京落語が黄金時代を迎えた原動力となったのは、一つは昭和20年代後半に続々と開局した民間放送の存在であり、もう一つは時を同じくして登場したホール落語でした。
東横落語会は、昭和28年4月に始まった「三越落語会」に続く二番目のホール落語として、昭和31年5月30日、東京・渋谷の東横百貨店(現在の東急百貨店東横店)内の東横ホール(後に東横劇場と改称)で幕を開けました。会の創始者・湯浅喜久治は、これに先立つ昭和30年秋、当時嘱望されていた若手落語家数人にメンバーを限定した「若手落語会」を発足させ、後にバラエティーショー「東横寄席」の企画・演出も手がけ、4年連続で芸術祭奨励賞を受賞したことから「芸術祭男」の異名を取った名プロデューサーですが、絶頂期にあった昭和34年1月26日、睡眠薬の大量服用が原因で29歳の若さで亡くなってしまいます。没後半世紀が過ぎた現在では、その記録が殆ど残っていない「伝説の人」となっています。

東横落語会を始めるにあたって、湯浅は出演者をレギュラー制にして限定します。「現在の落語家の芸で鑑賞に耐えるのは、この五人だけ」という主張の下に選ばれたのは、当時60代の五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、50代の六代目三遊亭圓生、三代目桂三木助、それにまだ40代になったばかりの五代目柳家小さん。これに「若手落語会」のメンバーを前座として加えるというものでした。「若手落語会」のパンフレットの題字を武者小路実篤、原稿を志賀直哉や小泉信三などに依頼したほど並外れた一流趣味の持ち主だった湯浅は、東横落語会のポスター、パンフレットの文字を画家の木村荘八に書かせて話題を呼びます。演目を記した「めくり」が寄席文字ではなく前衛書道で書かれ、高座の脇に鉄瓶を載せた火鉢が置かれているのも大きな特徴でした。
第一回の出演者と演目は、柳家小ゑん「蜘蛛駕籠」、古今亭志ん生「粗忽長屋」、三代目三遊亭金馬「転宅」、桂三木助「へっつい幽霊」、柳家小さん「提灯屋」、そしてトリが三遊亭圓生「品川心中」。レギュラーのうち、文楽が出演出来なかったため、金馬が代わりを務めています。最初に登場した柳家小ゑんは、当時二つ目でまだ二十歳。それから7年後の昭和38年に真打ちに昇進し、「立川談志」と名を改めます。

当初は年6回、奇数月のみの開催だった東横落語会も、昭和32年からは、毎年8月11日の三遊亭圓朝の命日に合わせてこの月に「圓朝祭」が行なわれるようになり、昭和40年1月からは毎月開催されるようになります。芸術祭にも度々参加し、昭和35年11月30日の第28回では、三木助の「三井の大黒」の上演時間が長くなったため、次に上がった圓生がやむなく「首提灯」を短く演じた所、これが評価されて芸術祭賞を受賞する結果となりました。レギュラーの一人であった三木助はこの日が最後の高座となり、翌昭和36年1月16日、59歳で亡くなっています。
三木助の没後間もなく開催された昭和36年1月31日の第29回で、彼が演じる予定だった「芝浜」とトリの「抜け雀」の二席を演じるサービスを見せた志ん生も、この年の秋に脳卒中で倒れてしまいます。
昭和40年代になると、志ん生が昭和43年に事実上高座から引退、文楽も芸に衰えを見せ始め、圓生、小さん、それに新たにレギュラーとなった十代目金原亭馬生などが中心となり、更に昭和50年代に入ると立川談志、三遊亭圓楽、それに古今亭志ん朝などが主要メンバーとなり、一時は「若い東横落語会」と題した若手中心の会も不定期で開催されました。
第一回のトリを務め、長年会を支えてきた六代目圓生は、昭和54年8月27日の第224回を最後に、それからわずか1週間後の9月3日、79歳で世を去ります。最後の「ネタおろし」となった三遊亭圓朝作「福禄寿」の初演も、この年7月30日の第223回(「圓朝祭」)でのものでした。十代目馬生の最後の高座も昭和57年8月30日の第260回で演じた「船徳」で、それからわずか半月後の9月13日、54歳の若さで亡くなります。この日の様子については、立川志らく著『全身落語家読本』(新潮選書)の中に綴られています。

東横落語会は、昭和60年6月28日の294回を最後にその歴史に幕を閉じます。レギュラーが次々と亡くなり人気が下降線を辿ったことと、会場の東横劇場が老朽化により閉鎖されることが理由でした。
最終回の出演者と演目は、春風亭小朝「紀州」、立川談志「山号寺号」、三遊亭圓楽「紺屋高尾」、古今亭志ん朝「火焔太鼓」、そしてトリは柳家小さん「笠碁」。第一回の出演者の中で名を連ねているのは当時小ゑんだった談志と小さんの2人だけで、まだ落語家になっていなかった志ん朝やわずか1歳だった小朝の名前が見られることに、戦後の落語界と共に歩んだ東横落語会の歳月の長さが感じられ、更にそれから四半世紀が経った今、この最終回の出演者の中で健在なのが小朝と談志の2人だけであることに、人気と格調を誇ったこの会が姿を消してからの歳月の長さと、落語界が失ったものの大きさを感じる落語ファンは多いことでしょう。
かつて、落語がお寺に葬られた時代がありました。

日中戦争が始まって4年。太平洋戦争開戦も目前に迫っていた昭和16年(1941年)、軍国一色に塗り潰され我が国では、あらゆる分野で戦争への協力が求められ、芸能の世界も例外ではなく、落語界・演芸界も演目の自粛を強いられます。
落語の演目は「甲乙丙丁」に分類され、このうち廓噺や花柳界、妾、それに「間男」に関わる題材など53演目が、時局に合わない「丁」と見なされ、この年の10月20日、落語界の先輩たちの霊と共に東京・浅草にある日蓮宗の寺・本法寺(ほんぽうじ)に建立された「はなし塚」に葬られます。
これが所謂「禁演落語」です。


やがて終戦を迎え、それから約1年が過ぎた昭和21年9月30日、「はなし塚」に集まった噺家たちによって「禁演落語復活祭」が行なわれ、禁演落語はめでたく「解禁」。「はなし塚」には今まで納められていた53席の噺に替わって、戦時中の落語の台本が納められます。
長い戦争が終わり、落語界にも漸く自由で平和な時代が戻って来た…と思ったら、これがとんだ大間違い。
「禁演落語」解禁からまだ半年余りしか経っていない昭和22年5月30日、今度はこの月の3日に施行されたばかりの日本国憲法の線に沿い、連合国軍最高司令官総司令部民間情報部、即ちGHQの検閲機関の指示に応じる形で、落語協会と日本芸術協会(現在の落語芸術協会)によって、新たに20演目が「禁演落語」に指定され、前回と同じく浅草・本法寺の「はなし塚」に葬られたのです。
この背景にあったのは、当時GHQが推し進めていた日本の民主化と非軍事化。
小島貞二編著『禁演落語』(ちくま文庫)によれば、これに先立つ昭和20年12月の日付で、「上演不可能歌舞伎之部」72演目と「上演不可能新時代劇之部」260演目がリストアップされ、これらを含めた約500本に上る脚本のうち、上演が許されたのは約3分の1の174演目だったそうです。また、映画界では「戦闘心を煽る」との理由から、チャンバラ映画が禁止されるという事態が起こります。「禁演落語」もこれらの事情と決して無関係ではなかったと考えられます。

さて、「禁演落語」となった20演目は以下のものです。
 お七 景清 巌流島(岸柳島) 胆つぶし くしゃみ講釈 袈裟御前 後生鰻 写真の仇討
 宗論 将棋の殿様 城木屋 高尾 ちきり伊勢屋 寝床 花見の仇討 毛氈芝居
 桃太郎 宿屋の仇討 山岡角兵衛 四段目

戦時中の「禁演落語」が、廓噺などのいわば「柔らかい」噺が中心だったのに対して、ここでは「仇討ちもの」「婦女子虐待もの」など軍国主義的、暴力的、荒唐無稽に過ぎると見なされたものが選ばれ、中には「後生鰻」「城木屋」「高尾」のように、前回に続いて「2度目のお勤め」となったものもありました。
しかし、「宿屋の仇討」「花見の仇討」「写真の仇討」のように、題名に「仇討」と付いているだけで「禁演」となったものや、見当違いの理由で選ばれたと思われるものが殆どで、新しい政策や体制に過剰に反応した結果、そうなってしまったことは否定出来ません。
実際、この2度目の「禁演落語」が登場してから半年足らずの昭和22年11月には、それまで上演禁止となっていた歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の上演が許可されており、「禁演落語」の存在自体が全く無意味なものであったことは明らかなようです。
結局、新体制の「御機嫌を伺う」という意味で生まれたであろう戦後の「禁演落語」は、昭和27年の占領体制終了に伴い自動的に解除されますが、実際にはそれよりずっと以前の昭和24年4月頃に「禁演落語復活祭」が本法寺で行なわれたそうで、更に言えば、今も書いたように存在自体が「有名無実」であったと言えます。

長くて暗い戦争の時代が終わり、日本が平和への道を進んで行く中で、落語の世界にも「紆余曲折」があったことを証明するものが、このもう一つの「禁演落語」であったということでしょう。

黒門町・夏の噺

五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生と並んで「昭和の名人」と謳われ、その住まいから「黒門町」の通称でも知られた八代目桂文楽。
志ん生や圓生などと比べて噺のレパートリーが少なく、持ちネタの数は30前後であったと言われていますが、その一つ一つが長年研鑚を積み重ねた末に、寸分の狂いもない「完成品」として仕上がっていました。

文楽の十八番の中には、夏を舞台にした噺がいくつかあります。
先ずは「船徳」。「道楽とは『道を楽しむ』と書くそうですが、中には『道に落ちる』と書く“道落”がある…」というマクラから始まるこの噺は、「道楽」の果てに「道落」をして実家から勘当され、柳橋の馴染みの船宿に居候する若旦那の徳さんが主人公。ある日突然「船頭になりたい」と言い出して親方を驚かせますが、「ここでなれなきゃ、他所へ行ってなる」の一言で親方も渋々承知します。暑い盛りの七月十日、浅草観音の縁日、所謂「四万六千日」の日。男2人連れの客が船宿にやって来ますが、あいにく船頭が出払って、残っているのは徳さん一人。断ろうとする女将を振り切って大張り切りで仕事を引き受け、柳橋から大川へ舟を漕ぎ出す徳さんでしたが…。
「にわか船頭」の身でありながら、一年の内で一番の書入れ時に舟を漕ぐ破目になった徳さんの悪戦苦闘ぶりもさることながら、親方に呼び出された船頭たちが「藪をつついて蛇を出す」ことになる件や、思いがけない「修羅場」を体験する2人の客、そして聴き手を一気に夏の盛りへといざなう「四万六千日、お暑い盛りでございます」など、聞き所満載の一席です。

「半可通」や知ったかぶりを指す言葉のもとになった「酢豆腐」も、また夏の代表的な演目。
夏の暑い盛り、町内の若い衆が寄り集まって酒を呑む相談をしています。酒はあるが肴はない。糠味噌があるが、誰も糠味噌樽に手を突っ込みたがらない。昨夜買った豆腐は、与太郎がうっかり釜の中に閉まったために、腐ってカビが生えている始末。どうしたものかと困っている所へ通りがかったのがキザで何でも知ったかぶりをする若旦那。日頃から若旦那のことをよく思っていない連中は一計を案じて…。
江戸時代中期の宝暦13年(1763年)に書かれた『軽口太平楽』が原話とされるこの噺、特別にこれといった筋はないのですが、前半のとりとめのない若い衆の会話からは、原題の通り「太平楽」な雰囲気が感じられ、噺の「核」である豆腐を巡る場面と合わせて、全編が聞き所と言うべき噺と言えるかもしれません。

桂文楽は、「富久」「愛宕山」「つるつる」など幇間(たいこもち)の出てくる噺も多く演じました。「鰻の幇間(たいこ)」はその中の一つ。
夏の炎天下、しがない幇間の一八は顔に見覚えのある浴衣姿の男と出会い、適当に話を合わせながら上手く取り入って鰻屋に案内してもらいます。この鰻屋というのが汚い店で、二階へ上がると子供が勉強机を持って出て行くという有様。それでもお世辞を並べた一八は酒と鰻にありつくことに成功します。ところが、男が小用に立ったのを境に、事態は思わぬ展開に…。
客を「釣ろう」と考えた一八が逆に「踏んだり蹴ったり」の目に遭う顛末を描いた一席。元々この噺には、一八が男と出会う場面の前に馴染みの芸者屋を訪ねる件があるのですが、文楽はいつしかこの場面をカットして、鰻屋での騒動に内容を絞り込んで演じるようになりました。一八が連れて来られた鰻屋の凄まじさが笑える一方で、男が席を外した後の一八の独り言や「十円札」の件には、明日の見えない芸人稼業に身を置く一八の悲哀がよく表われています。

ところで、文楽の落語の特徴として、それぞれの噺ごとに一度耳にしたら忘れられないフレーズがあることが挙げられますが、ここに挙げた3席も例外ではありません。
「船徳」では、今も書いた「四万六千日、お暑い盛りでございます」。
「酢豆腐」では、「金がないが刺身は食う」に「さすがはスンちゃん」。
そして「鰻の幇間」では、「先のとこ」に「見ろ、この十円の影の薄いこと」―。
どんな場面でこれらのフレーズが出てくるのかは、聞いてのお楽しみということで…。

僕にとっての桂枝雀

「十年一昔」と言いますが、落語家・桂枝雀が平成11年4月19日に亡くなって今年でもう10年。そして、今年は生誕70年と、二重で記念の年にあたります。
枝雀さんの誕生日である8月13日には、大阪で「生誕70周年記念落語会」が開催されて大盛況だったそうです。

僕が初めて桂枝雀という人を知ったのは、小学校1年生だった昭和56年頃、NHKで水曜夜8時から放送されていた『なにわの源蔵事件帳』という時代劇でした。時代劇といっても、明治維新直後の大阪が舞台で、奉行所ではなく「梅田警察署」が登場します。主人公の源蔵親分は通称「海坊主の親方」と呼ばれ、これを枝雀さんが演じていました。つまり、僕にとっての枝雀さんとの「出会い」は、落語家としてではなく「役者」としてだったのです。
その後、昭和58年頃に、『笑いころげてたっぷり枝雀』(毎日放送)という番組が日曜日の午後に放送され、この番組で初めて「枝雀落語」を本格的に楽しみました。因みに、この番組に引き続いて放送されていたのが『超時空要塞マクロス』。日曜の昼間にテレビで落語とアニメの「2本立て」が組まれていたとは、今思えば凄いことだったと思います。

小学校から中学校、高校と進んで行く中で、テレビ・ラジオで枝雀さんの落語を楽しむようになり、中学3年生だった平成元年秋から、『特選米朝落語全集』(毎日放送)というラジオ番組が始まって、そこでも時折枝雀さんの落語が放送された他、平成2年のお正月の放送では桂米朝師匠との「師弟対談」があったりと、枝雀ファンにとっても聴き応えのある番組でした。
そんな中で、高校2年生の夏、枝雀さんが尾道の隣町である福山市で落語会をやるというので、両親と共に初めて生で枝雀さんの落語を聴くことが出来ました。実は落語会が行なわれる数日前から風邪を引いて高熱を出した上にお腹も壊してしまって、その両方が治りきらないまま当日を迎えたことを今でも覚えています。その日の枝雀さんは、「おかしいから笑うのではなく、笑うからおかしくなる」という独自の「枝雀理論」を展開したマクラに始まって、「人間は怖がることも楽しむ」という話から本題の『饅頭こわい』へと入り、満場を笑いの渦に巻き込みました。落語会が終わった後、いつの間にか体調が元に戻ったように感じました。

大学に進学して大阪で下宿生活を始めると、枝雀さんの落語に接する機会が益々増えて行きます。毎月第2金曜日の深夜に放送されていた『枝雀寄席』(朝日放送)をほぼ毎回録画していたのに加え、落語のカセット(この頃はまだCDではなかったのです)も少しずつ買い集めて、時には落語会へも足を運んで枝雀さんの生の高座に触れました。
大学卒業を目前に控えた平成9年1月17日、枝雀さんが新しい自分の会を始めると聞いて、大阪・都島の辻久子記念弦楽アンサンブルホールへ行きました。会が終わった後、枝雀さんに軽く会釈をして「ありがとうございます」と言われたことは、僕の人生の中でも忘れられない思い出の一つです。それからちょうど1週間後の1月24日、北浜のコスモ証券ホールで開かれた「桂枝雀 写真と落語の寄席」で、立て続けに枝雀さんの高座を見たのですが、ここであるアクシデントに遭遇します。枝雀さんがマクラを喋り続けて行くうちに突然絶句して、涙ぐんでしまったのです。今までの高座では見たことのない姿でした。
3月に2回目の都島での会を見て間もなく、枝雀さんが体調を崩して入院、休養に入ったというニュースを知りました。その後、一時は高座へ復帰し舞台へも出演したものの、再び休業状態に入ったまま、平成11年4月19日、我々はあまりにも早く枝雀さんとお別れすることになってしまいました。

枝雀さんとお別れして10年。その人気は未だに衰えることを知らず、全国各地で開催される生前の高座をビデオで上映する落語会は軒並み盛況で、またCD・DVDも好調な売れ行きを維持しているそうです。
今年の4月には、「生誕70周年」を記念した「枝雀十八番(おはこ)」(東芝EMI)と題したCD・DVDの全集が発売され、こちらも好評を博しているそうです。

古希を迎えた枝雀さんが、どのような形の「枝雀落語」を見せてくれたのか。
そんなことに興味を抱きながら、それが現実には永遠に叶わないことを寂しく、また哀しく思う…、今日この頃でございます。
幕末から明治にかけて落語界の第一人者として君臨し、今日も演じられている多くの噺を世に送り出した三遊亭圓朝は、また、優秀な弟子たちに恵まれた人でもありました。
そして、その弟子たちから更に後の世代へ圓朝の「遺産」が継承されたことも忘れてはなりません。

圓朝は、直弟子だけでも20人を超えていたと伝えられています。
明治維新後、素噺に転向した圓朝が、それまで用いていた「道具入り芝居噺」の道具一式を譲った三代目三遊亭圓生は、通称「のしんの圓生」と呼ばれ、役者から落語家に転向したと伝えられています。この「のしん」については、本名の「野本新兵衛」に因んだものと言われる一方で、元々天狗連(所謂セミプロの落語家の集まり)の真打格であったことから、「○○連の真打(しん)」と言われ、その「の真打」が「のしん」に転じたという説もあります。三代目圓生を襲名した時期も、明治5年(1872年)とする説とそれより少し早い明治2〜3年(1869〜70)頃とする説があって明確ではありませんが、明治初期の芝居噺の第一人者であったことは確かです。養母の死後神経を病み、明治14年(1881年)、43歳で亡くなっています。
四代目三遊亭圓生は、背負いの小間物屋から圓朝の弟子となり、一時廃業して芝居茶屋の主人となるも上手く行かず落語界へ復帰。明治15年(1882年)、四代目圓生を襲名します。師匠圓朝の私信に「圓生は生来名人なり」とあり、落とし噺では圓生に適わないと言わしめた程だったといい、廓噺を得意とした他、人情噺にも優れ、更には自らも噺を創作して、明治中期を代表する名人の一人として活躍しました。
この二代の圓生と並んで、晩年の住まいから「駒止の圓馬」と呼ばれた初代三遊亭圓馬、律義な人柄で一門に重きをなした二代目三遊亭圓橘が、「圓朝門下四天王」と謳われたといいます。

多士済々の圓朝の弟子たちの中でも一際異彩を放ち、また、落語の近代化と大衆化に絶大な功績を残したのが、本来は「三代目」でありながら、後年あまりにも有名になったことで俗に「初代」とされる三遊亭圓遊。23歳頃に圓朝門下となった圓遊は、「ステテコ踊り」という珍妙な踊りで人気を博す一方、本格芸では当時の名人たちに適わないと悟るや、当時は比較的軽視されがちだった滑稽噺に斬新なギャグや時代・風俗描写を巧みに盛り込んで、新作・改作を連発。「滑稽落語」というジャンルを確立した点で、圓朝に勝るとも劣らぬ落語界の一大功労者と言えます。「ステテコ踊り」から「ステテコの圓遊」、また鼻の大きさを売りにしたことから「鼻の圓遊」の異名を取りました。
名人の呼び声が高く、「圓朝に最もよく似ていた」と言われた四代目橘家圓喬。師匠譲りの長編人情噺から四代目圓生系の落とし噺、三題噺に上方の噺に至るまで幅広い芸域を持ち、その芸は後世に多大な影響を与えました。明治30年代から既に「二代目圓朝」に推す声があり、本人もその気持ちがあったといいますが、一方で「生意気」「高慢」など仲間内の評判が悪く、人望の点でいま一つだったことがあって、圓朝襲名は実現しないまま、大正元年(1912年)11月22日、肺病がもとで48歳で亡くなりました。
圓朝の弟子には、この他に明治から大正にかけて東西の落語界で重きをなした二代目三遊亭圓馬、その実弟の初代橘ノ圓、明治の末に「落語研究会」を起こした初代三遊亭圓左と二代目三遊亭小圓朝、それに、圓朝譲りの怪談噺や芝居噺を後世に伝え、「一朝老人」と敬われた三遊亭一朝などの人たちがいます。

圓朝は、昭和の落語家たちにも大きな影響を与えました。
例えば、五代目古今亭志ん生は、落語家として絶頂期を迎えた昭和30年代、主にラジオで圓朝作の長編人情噺を好んで演じ、晩年高座を退いてからも、常に「圓朝全集」を手放すことなく読み耽っていたといいます。八代目林家正蔵(彦六)と「お婆さん落語」で一世を風靡した五代目古今亭今輔は、前記の三遊亭一朝の晩年を交代で世話しながら、怪談噺や道具入り芝居噺を一朝から継承しました。
圓朝が明治33年8月11日に亡くなって1ヶ月足らずの同年9月3日に生まれたのが、六代目三遊亭圓生。義太夫語りから落語家に転向して内輪となった四代目橘家圓蔵は圓朝の孫弟子、圓生自身は義父である五代目三遊亭圓生と同様、圓朝の曾孫弟子に当たります。圓生は生前、「自分が聞いた噺家の中ではっきり名人と言えるのは橘家圓喬ただ一人」と言い、自らも圓喬を理想と考えていたそうです。圓喬は圓朝の弟子であり、圓生の究極の目標はやはり圓朝だったのかも知れません。持ちネタの豊富さでも知られた圓生は、無論圓朝作の長編人情噺なども多く演じており、生涯最後に「ネタおろし」した噺も、圓朝が明治19年(1886年)に発表した『福禄寿』という噺でした。

演芸評論家・安藤鶴夫は、自らのエッセイの中で、「一瞬にして消えてゆく話芸だけでは、どんなに名人であろうともう忘れられているはずなのに、円朝の名は今日ラジオやテレビに出ている落語家(はなしか)とおなじように今もなお健在である。作家・三遊亭円朝としての生命である」と書いています。
19世紀最後の年、明治33年、西暦1900年8月11日にこの世を去って、今年で111年。
三遊亭圓朝は、21世紀の今日も生きています。

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