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昨年にも何度か紹介しましたが、4月19日は桂枝雀さんがこの世から旅立った日にあたります。 我々が枝雀さんとお別れしたのが平成11年のことですから、今年でもう7年の歳月が流れたことになります。 本当に月日の経つのは速いものだと実感します。 落語家や芸人たちは、それぞれ楽しいエピソードが少なくとも1つは持っているものですが、枝雀さんも伝説的なエピソードを数多く残しています。 枝雀さんが落語家になった経緯として伝えられているのは、「昭和36年、神戸大学中退後、桂米朝に入門」というのが一般的ですが、少年時代から弟の武司さん(後のマジシャン・マジカルたけし)と漫才コンビを組んで素人参加のお笑い番組の常連であった前田達青年は、それ以前から米朝師匠のもとへ通っていたそうです。ある時、前田青年が「えらいことになりました」と米朝師匠のもとにやって来ます。米朝師匠が事情を尋ねると、「『シャレ』のつもりで受験した神戸大学に合格してしまいました」とのこと。「学費は自分が出してやるから、しっかり大学で勉強しろ」と師匠に言われて大学へ進学してからちょうど1年後、「大学という所がどんな所かよく分かったから辞めます」と、1年で中退。以後、落語家としてのキャリアを重ねて行くことになります。 枝雀さんは、前名の「桂小米」時代から落語の稽古に熱心なことで知られていました。というよりも、「落語を演じること」よりも、「落語を稽古をすること」の方が好きだったのではないかと思われるほどだったそうです。これも米朝師匠の家に「内弟子」として住み込んでいた頃、家の掃除をしながら落語の稽古をしているうち、それに熱中するあまりに掃除機で家中のガラスを全部割ってしまったことや、赤ん坊を乳母車に乗せて散歩をしながら稽古に没頭して、師匠の家とは全く正反対の方向へ行ってしまったこともあったそうです。「信号はどないしたんや?」と師匠に聞かれると、「信号があったんですなあ」と答えたとか。後年、自分が弟子を持つようになったある日、あるお弟子さんと稽古を終えてからしばらく後に、「退屈やなあ」「そうですねえ」「稽古でもやろか」というやり取りがあったそうです。 無類の「凝り性」でもあった枝雀さん。食べ物では、てっちり(ふぐ鍋)が好物だったそうで、一番弟子である今の桂南光さんが入門して間もない頃、よく2人で食べに行ったそうですが、カウンターで1人用の鍋で食べられる店があって、それぞれ別の鍋で食べていたそうです。他にもグラタンに凝っていた頃には毎日昼がグラタンだったり、肉を食べるように勧められると肉好きになって、毎日朝から焼肉を食べた結果痛風になってしまったこともあったりと、とにかく食べ物に関しての「凝り性」ぶりは凄まじかったそうです。 「英語落語」でも一世を風靡したことで知られていますが、それ以外ではスペイン語に凝った時期があって、「これからは英語やのうてスペイン語や」と言い出し、これも今の南光さんと共に落語の稽古以外にスペイン語の勉強に没頭するようになりました。落語の稽古の時には殆ど怒られなかった南光さんも、スペイン語を覚えていないと、「何でこれが覚えられないのですか!」と怒られ、「何でこんなのを覚えないかんのか?」と思ったそうです。 落語が好きで、落語の稽古が好きだった枝雀さんは、家では自分の落語のビデオを大笑いしながら観ていることが多かったそうです。こんな落語家は後にも先にも枝雀さんだけでしょう。
枝雀さんについてのエピソードをあれこれ書いていくうちに、また枝雀さんへの思いが強くなって行った今日のブログでございます。 |
落語
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インターネットで桜の開花情報を見てみると、今日4月13日現在で、仙台までが開花済みだそうです。まだ開花していない青森は4月25日頃、札幌は連休明けの5月6日頃が開花予定とのことです。 我が国の桜の名所の1つに挙げられる、大阪・桜ノ宮の造幣局では、昨日4月12日が「桜の通り抜け」が行なわれたそうで、今はまさに「桜の季節」と言えそうです。 ところで、桜と言えば「花見」。古典落語にも花見をテーマにした噺がいくつかあります。 先ず一番に挙げられる噺と言えば、やはり「長屋の花見」ではないでしょうか。貧乏長屋の住人達が、大家の呼びかけに応じて花見に行くことになります。しかし持って行く物と言えば、食べ物では玉子焼の代わりの沢庵、蒲鉾の代わりの大根、そして一番の楽しみである酒の代わりが「お茶け」という始末。「大家さん、玉子焼を下さい。尻尾でない方」「蒲鉾は練馬が本場」(練馬は大根の産地で有名)「この酒は灘の生一本かい?」「いや、宇治だろう」「大家さん、近々長屋に良いことがありますよ。『酒柱』が立ちました」といった珍問答が繰り広げられる、古典落語の中でもポピュラーな作品の1つです。元来は上方落語の「貧乏花見」を、明治・大正期に活躍した三代目蝶花楼馬楽が東京に移植したと言われています。上方落語の「貧乏花見」は、大家の呼びかけで花見へ行くのではなく、長屋の住人達が自発的に花見に出かけるのが「長屋の花見」との大きな違いです。 「花見の仇討」は、江戸後期の戯作者で、自らも落語家として高座に上がった経験があるという滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう)の『花暦八笑人』という書物の中の「春の巻」にある「飛鳥山巡礼の仇討」という話をそのまま落語にしたものだそうです。仲の良い長屋の4人組が「変わった趣向を」と、仮装による仇討の茶番(即興による寸劇)を思い付きます。仇の浪人者に兄弟の巡礼、そして仲裁役の六部(66ヶ所の霊場に法華経を納める巡礼者のこと)と役割分担までしますが、当日六部役が来ない上に、本物の侍が絡んで収拾がつかなくなってしまいます。とうとう逃げてしまう3人。「これこれ、逃げるには及ばぬ。この勝負は五分だ」「いえ、肝心の六部が参りません」。上方落語では「桜の宮」という題名で、題名通り桜の宮が趣向の舞台となりますが、「長屋の花見」とは逆に、江戸から上方へ移植されたものと考えられます。 花見の雑踏で酒を売って一儲けしようと企む2人組が主人公の「花見酒」。酒屋を口説いて樽に3升の酒と釣銭用に10銭を借り、天秤に担いで出かけたのまでは良かったが、2人で代わる代わる飲んでいるうちに、肝心の花見客から注文を受けた時には既に酒樽の中は空っぽ。売り切れとあって売り溜めを見ると10銭玉が1つ。「初めお前がそれを持ってて一杯買ったろ。だからその10銭が俺の所へ来て、俺が買ったからお前の所へ行って、売ったり買ったりしているうちに、お酒は全部飲んじゃった」「ああ、そうか。してみりゃ無駄はない」。昭和37年、ジャーナリストの笠信太郎が書いた『花見酒の経済』は、この噺を例にして、土地の高騰を中心に高度経済成長のからくりを分析し、その破綻を予見した本で、当時のベストセラーとなりました。 改めて言うまでもなく、桜は日本を代表する花。そして花見は日本人にとって春の風物詩。四季の変化や季節感とそこに息づく庶民の生活を生き生きと描いた古典落語でも、桜や花見の情景はしっかりと描写されています。
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落語を大まかに分けると、「古典落語」と「新作落語」、または「創作落語」とに分けられます。 通常、「古典落語」は明治以前から演じられているもので、「新作落語」や「創作落語」は、明治・大正、それに昭和にかけて作られたものとされています。しかし、明治以降に作られた落語の中にも、今でも完全に「古典落語」として認知されている作品もあります。 そんな噺として、上方落語の「代書屋」があります。 「代書屋」は別名「代書」といい、人間国宝である桂米朝師の師匠である四代目桂米團治が、自らの経験を基にして作った噺です。「代書屋」とは現在で言う司法書士のことで、今よりも文字を書けない人が沢山いた時代には多かったそうです。この噺の作者である米團治も、現在のように資格というものが必要でなかった時代に代書屋を営んでいたことがあるそうです。 噺の内容は、就職をすることになり「ギレキショ」(履歴書)を書いてもらうために代書屋を訪れた男と代書屋とのやり取りを笑いたっぷりに描いています。元々の型では、この後に朝鮮人が登場し、その後にある店のませた子供がやって来るという展開だったそうですが、現在ではこの部分は省略されています。 この噺を十八番にしている落語家といえば、作者である米團治の高弟である米朝師と、その米朝師から教わったという三代目桂春團治師が先ず挙げられます。米朝師の「代書」は、大阪で大学生活を送っていた頃、深夜のテレビ番組で演じていたのを見たことがあります。履歴書を書いてもらうために代書屋を訪ねる男の名前は「田中彦次郎」といって、サゲも元来の型である大食いの話になるものでした。余談ですが、この時の米朝師は足を怪我したとのことで、正座をすることが出来ず、椅子に座った上で前に上方落語では定番の「見台」を置いての高座でした。 春團治師の「代書屋」は、代書屋を訪ねる男の名前を「河合浅次郎」として演じています。この名前は、三代目の実父である二代目春團治の本名であることは、落語ファンにとって周知の事実です。舞の名手としても知られる三代目だけに、代書屋が筆を走らせる仕草は端正そのもので、そのまま噺全体の見所もなっています。 この2人の高座をはるかに凌ぎ、さらに原型を何倍にもパワーアップさせた爆笑落語に仕上げていたのが桂枝雀師。枝雀版「代書屋」(枝雀師は「代書」の題名で演じていました)の面白さは、何と言っても代書屋を訪れる「トメ」こと「松本留五郎」のキャラクターが大きく貢献しています。松本留五郎という人物は、他の枝雀師の落語でもお馴染みのキャラクターですが、強烈な存在感の点ではこの「代書」が随一でしょう。父親の死に際まで自分の名前を「トメ」だと信じて疑わず、代書屋から「生年月日、仰って下さい」と言われれば「せ〜いねん、がっぴっ!」と大声で答える。「太閤さん」と同じ「いちげつのついいたち」(一月一日)の生まれで、尋常小学校は2年で中途退学。職歴は、「巴焼き」(=太鼓饅頭)、「へりどめ」(=履物付属品)、「ガタロ」(川の中に沈む廃品の回収業)を営もうとして、いずれも思い付いただけでやめたり、数時間しかやらなかったりというものばかり。最後はポン菓子を売っていたという話になるのですが、「私の商売はポンで〜す!」と言った後、「ホ〜ラ、大きな音がするぞ。耳を塞げよ。ポ〜ン!」と、独特のオーバーアクションを交えて演じる場面が、この噺の最大の見所となっていました。原作とはかなり雰囲気が変わっていましたが、落語の面白さが十分に伝わる一編です。 「代書屋」は現在でも演者が多く、まさに「昭和の古典落語」として定着した観があります。最近では上方だけでなく東京の落語家も多く演じており、東西でポピュラーな噺となっています。
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今、60代から70代にあたる落語ファンの人に、「最初に聴いた落語家は?」「最初に面白いと思った落語家は?」と尋ねると、一番多く返って来る答えは、「三代目三遊亭金馬」という名前だそうです。 三代目金馬ほど、大衆といわゆる批評家たちとの間でその評価が大きく分かれていた落語家はいなかったそうです。つまり、大衆からは絶大な支持を得ていたにもかかわらず、批評家たちの間ではあまり高く評価されていなかったのです。 金馬の落語は口調がはっきりしており、登場人物の演じ分けも明瞭で、非常に分かり易いものでした。戦前、金馬の落語を収録したレコードが売れ、また戦後、ラジオで金馬の落語が頻繁に流れて人気を得たのはその賜物でした。しかし、これが批評家たちから見れば、先ず「分かり易さ」については、それを評価するとプロの専門家の沽券に関わるものとされ、また、登場人物の演じ分けについては、人物ごとに声の質を変え、時にはオーバーに演じていた所から、「くさい芸だ」「落語の『美学』に反する」ということになり、これも批評家から高く評価されない原因となったそうです。 金馬は博学でも知られた人でした。『浮世断語』(うきよだんご)という著書を読むと、その博学振りを窺い知ることが出来ると言われています。また高座でもふんだんに披露され、現存する金馬の落語の音源を聴くとそれがよく分かります。ところがそれを説明するのが偉そうに見えるとのことで、これも批評家たちのプライドを傷つけ、嫌われる一因となったそうです。しかし、大衆が金馬の噺をより分かり易く、より面白く楽しむことが出来たのは、その「物知り博士」的な一面も絶大な効果があったのでしょう。 じゃがいもに目鼻を付けたかのような顔に見事なまでに飛び出した前歯と、一度見たら忘れられない独特の風貌の持ち主であった金馬は、初めは講釈師のもとに弟子入りしたのが、客が笑ってしまうので噺家になれと勧められて転向したのが落語の世界に入ったきっかけだったそうです。頑固一徹な人だったそうで、昭和の初めに東宝が「東宝名人会」を発足させた際、芸人や寄席関係者の反対によって東宝と契約した芸人を除名するということになった時、ただ一人頑としてそれに応じなかったのが金馬だったそうです。「一度交わした契約を簡単に取り消すことは出来ない」というのが金馬の言い分で、以後、亡くなるまで金馬は特定の協会に所属せず、寄席にも出演しないフリーの芸人としての立場を貫きました。一方、落語家の中でも屈指の釣り好きとしても有名で、昭和29年、その最中に鉄道事故に巻き込まれて足が不自由となり、それからの高座は体を支える釈台を前にして演じるようになりました。これは現存する映像で確認することが出来ます。 三代目三遊亭金馬が亡くなったのは昭和39年11月8日のことでしたが、それから間もなくして、生前親交のあった人々の元に一通の封書が届きました。開けてみると、「私事この度無事死去つかまつり候…、普断の頑固をお許し下さい…」といった内容の、金馬の死亡告知だったそうです。噺家らしい洒落た精神と、マイペースを貫き通した金馬の生き様とが両方垣間見えるエピソードだと言えます。
落語の面白さを大衆に伝え、ファン層を開拓して行った金馬は、間違いなく落語界の功労者であり、また昭和を代表する噺家の1人でした。 |
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戦後の東京落語は、昭和20年代後半から30年代にかけて黄金時代を迎えたと言われています。 その落語の黄金期の到来に貢献したものとして、時を同じくして続々と開局したラジオの民間放送の存在がありました。 それまでNHK1局だったラジオ放送に民間放送が加わったのが、昭和26年のこと。東京ではその年の12月24日、現在のTBSの前身であるラジオ東京が開局。これによって、落語の放送は今までの3倍以上に増えました。演芸番組は手っ取り早く放送出来るため、落語家は引っ張りだことなり、家庭でも落語を聴く機会が増え、落語の人気も上昇して行きました。 そんな中で、ラジオ東京は人気落語家を揃って専属にすることを思い付き、昭和28年7月、五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生、五代目柳家小さん、それに「兵隊落語」で一世を風靡し、戦前・戦後を通じてタレントとしても活躍した柳家金語楼の実弟・昔々亭桃太郎と専属契約を結び、他局へ出演出来ないようにしてしまいます。この後、ラジオ東京は「ラクゴ東京」の異名を取るほど、落語番組を量産して行きました。 ラジオ東京が落語家の専属制を導入してちょうど1年後の昭和29年7月14日、新たにニッポン放送が放送を開始します。その「目玉」として、ラジオ東京から志ん生の引き抜きに成功。早速同日志ん生の落語がニッポン放送の電波から流れました。昭和30年度になると落語家の専属制度は他局にも波及して、ラジオ東京は文楽、圓生、小さんに加えて八代目林家正蔵(彦六)、四代目三遊亭圓遊、ニッポン放送は志ん生と八代目春風亭柳枝、文化放送は「お婆さん落語」を売り物とした五代目古今亭今輔に玄人好みの芸風で支持された八代目三笑亭可楽、上方落語の東京への普及に貢献した三遊亭百生、そしてNHKは、戦前からの人気者だった六代目春風亭柳橋に三代目桂三木助といった面々が、それぞれ専属契約を結んでいました。 そんな中で、ラジオ局の専属にならず各局に出演していたのが三代目三遊亭金馬。金馬は落語家としてもフリーで、いわゆる「定席」には出演せず、東宝名人会を中心に活動していました。 この頃電波を通して茶の間に流れた名人や人気者たちの落語の多くは、今日でもその音が残されています。ニッポン放送の専属となった志ん生の高座は、現在でもポニーキャニオンでCDとなっており、また、文楽、圓生、小さんがラジオ東京から改称したTBSで演じた落語もそれぞれCDやビデオに収録され、現在でも楽しむことが出来ます。NHKに残っている落語の音源の多くも、かつてはレコードやカセットテープとして発売され、現在ではCDなどで市販されています。 昭和20年代後半から30年代は落語にとって最良の時代であったと言われていますが、その背景には、多くの名人や人気者が揃っていただけでなく、民間放送という新しいメディアの登場も大きかったと言えます。
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