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三遊亭圓朝の功績の一つに、生涯に渡って数多くの自作の噺を世に送り出したことが挙げられます。 現在高座にかけられている古典落語には、圓朝作品、或いは「圓朝作」と伝えられる噺が多く、名作として高く評価されています。 圓朝が創作の道を歩み始めたのは、安政6年(1859年)、ある寄席でトリをとることになり、師匠の二代目三遊亭圓生に助演を頼んだ所、自分がトリで演じる予定だった得意の芝居噺を師匠が先に演じてしまったことがきっかけでした。この時圓朝が作ったのが『累ヶ淵後日怪談』(かさねがふちごじつのかいだん)。江戸初期から伝えられる説話を基にしたとも、また夜店で見つけた草双紙から発想を得たとも伝えられ、明治になって、漢学者の信夫恕軒(しのぶ・じょけん)の勧めで『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)と改題されます。「真景」は「神経」に通じ、「文明開化の世の中に怪談でもあるまい」という思いからこの言葉が付けられたといいます。 ともあれ、21歳の時に発表したこの作品を皮切りに、圓朝は次々と自作の噺を世に送り出すことになります。 圓朝作品の特徴は、芝居噺、怪談噺から人情噺、伝記物、外国の作品を翻案したもの、更には観客からもらった三つの言葉を盛り込んで一席の噺に仕立て上げる「三題噺」など、その種類が多彩で豊富なことです。 怪談噺では最初の作品である『真景累ヶ淵』の他に『牡丹灯籠』『乳房榎』などがあります。『真景累ヶ淵』は、ある旗本が金貸しを斬ったことが発端となって、一筋の因縁が異なる物語に脈々と影響するという、数多くの場面から形成される長編で、最近でも映画の題材になるなど根強い人気を誇っています。『牡丹灯籠』は中国・明を起源とする江戸時代の説話から着想を得たもので、明治17年(1884年)に刊行された我が国最初の速記本としてベストセラーになったのがこの作品でした。『乳房榎』は、江戸中期の十返舎一九の読本(よみほん)が基で、木曽や信州を舞台にしたものを、圓朝が『江戸名所図会』を持ち出して江戸の話に置き換えた作品で、近代文学の心理描写や怪奇小説の展開を先取りした作品と評価されています。 人情噺の代表作として挙げられるのが『文七元結』(ぶんしちもっとい)。以前から演じられていた噺を圓朝が現在の形にしたと伝えられています。博打で身を持ち崩した左官・長兵衛を中心に江戸の市井に生きる人々の人情と泣き笑いを描いた大作で、歌舞伎の題材としてもよく知られています。 圓朝は、文久元年(1861年)頃から当時盛んだった「三題噺」の連である「酔狂連」(すいきょうれん)に加わり、創作力に磨きをかけますが、この「三題噺」からもいくつかの名作が生まれました。例えば暮れの代表的演目である『芝浜』は、「酔っ払い」「芝浜」「革財布」の題から圓朝が即席で作ったものと伝えられています。同じ冬の噺で、甲州身延山参詣の帰りに雪道に迷った江戸の商人が、山中の一軒家に辿り着いたことがきっかけで起こる出来事を描いた『鰍沢』は、「小室山の護符」「玉子酒」「鉄砲」、或いは「遊女」「熊の膏薬」「身延詣り」から作ったなどと言われ、また『大仏餅』は、「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」から作られたとされています。即興的要素が濃い「三題噺」でこれだけの作品を残したことからも、圓朝の類稀な才能を窺い知ることが出来ます。 明治維新後、海外の文明と共に文学や音楽も日本に入ってくるようになると、圓朝はそれらを翻案した作品も発表するようになります。フランスの正史劇「ラ・トスカ」をヒントに作られた『名人くらべ』(『錦の舞衣』)や、フランスの小説を翻案したと言われる『松操美人の生埋』といった作品は、圓朝と交流のあった明治期のジャーナリストで、後に東京日日新聞の社主を勤めた福地桜痴(おうち、源一郎)から教えられたことがきっかけで生まれたと言われています。また、明治20年(1887年)に中央新聞に連載された長編『名人長二』は、フランスの作家・モーパッサンの小説『親殺し』を翻案したものだといいます。 この他、圓朝が現地取材をして創作した伝記物『塩原多助一代記』、グリム童話を翻案したイタリア歌劇「靴直しクリスピーノ」を更に翻案したと言われる『死神』、盲人の弟子・三遊亭圓丸の実話の基に、不自由だった目が見えるようになった按摩の身に巻き起こる悲喜劇を描いた『心眼』など、圓朝作品には枚挙に暇がありません。 これほどの幅広い作品を生み出し、しかもその殆どが現在まで語り継がれていること。
これだけでも三遊亭圓朝という噺家の偉大さの証であると言えます。 |
落語
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江戸時代から21世紀の現在まで脈々と続く落語の世界。 その中で、今日まで最も大きな影響力を持っているのが、「近代落語中興の祖」と謳われ、その偉大さ故にあらゆる落語家達から「大師匠」の尊称で呼ばれる、幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝です。 このブログでは、以前に彼の命日である8月11日頃に毎年行なわれる「圓朝まつり」について紹介しましたが、圓朝その人について書いたことは今まで殆どありませんでした。 そこで今回、この不世出の落語家の生涯や作品、そして今日の落語界に与えている影響について書いてみたいと思います。 三遊亭圓朝、本名・出淵次郎吉(いずぶち・じろきち)は、天保10年(1839年)、江戸・湯島に生まれます。父・出淵長蔵は、二代目三遊亭圓生門下で、初代の橘家圓太郎という音曲師でした。 弘化2年(1845年)3月、橘家小圓太の芸名で初高座を務め、父の師匠である二代目圓生に入門。嘉永2年(1849年)に二つ目に昇進するも、一時廃業。商家奉公や歌川国芳の下で絵を学んだ後、噺家に復帰。安政2年(1855年)、当時人気絶頂だった新内(浄瑠璃の流派の一つ)の名人・富士松紫朝(ふじまつしちょう)の「朝」の字を取って、自ら「三遊亭圓朝」を名乗り、生涯この芸名を通します。 安政5年(1858年)、二十歳の頃、大道具を用いて鳴り物入りで演じる「道具入り芝居噺」を高座にかけるようになり、徐々に人気を得て行きます。 噺家として順風満帆だった圓朝にとって人生最初の転機が訪れるのが、安政6年(1859年)。ある寄席でトリをとることになった圓朝は、師匠の二代目圓生に助演を頼みますが、この時師匠は自分がトリで演じる予定だった得意の芝居噺を先に演じてしまいます。これについては、前途有望な弟子に対する嫉妬心から生じた嫌がらせという説が今日では定説となっており、師弟間の確執は、二代目圓生が文久2年(1862年)に亡くなる直前まで続いたと伝えられています。 この一件をきっかけに、「既存の噺を演じるだけでは道は開けない」と悟った圓朝は、創作活動に意欲を示し始めます。元々創作の才もあった圓朝は、怪談噺の『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)や『牡丹灯籠』を発表して評価を高め、また文久元年(1861年)頃には、当時盛んだった「三題噺」の連である「酔狂連」(すいきょうれん)に加わり、創作力に磨きをかけながら、文化人たちとの交流も深めます。この頃の寄席は一月を上下に分けて、月2回の興行が決まりになっていて、真打が15日間トリで続きものの人情噺を演じていましたが、圓朝はそこで常に新しい噺を演じたことで、評判を上げて行ったのでした。 自らの創作による「道具入り芝居噺」で落語界の第一人者となった圓朝にとって、明治維新は第二の転機となりました。この時、それまで用いていた道具一式を弟子の三代目圓生に譲った圓朝は、自身は素噺(すばなし)、つまり話術と扇子一本による芸に転向します。そして、ここで時代の「新しい風」が彼に味方します。 明治14年(1881年)10月12日、所謂「国会開設の詔(みことのり)」が明治天皇より出されたのを機に、国会議事録記録の必要から多くの速記法が考案されます。その啓蒙活動として速記本の発行が企画され、我が国の速記の草分けである若林坩蔵(かんぞう)が、圓朝の高座を書き留めた『怪談牡丹灯籠』がベストセラーとなり、落語が全国に普及する結果を生みました。 この速記本の効果は文学界にも波及します。明治中期、新しいタイプの文章を書こうと悩んでいた作家・二葉亭四迷は、先輩の坪内逍遥から圓朝の速記本を読むことをアドバイスされ、その結果、彼の代表作『浮雲』(明治20年発表)が生まれます。明治の文学者による一大改革運動である「言文一致運動」は圓朝がきっかけを作ったと言え、近代の文学界においても圓朝は「大功労者」となったのでした。 多くの創作を発表し、また多くの優れた門弟を輩出した圓朝は、一方で山岡鉄舟の弟子として禅を学び、名士高官との交流によって落語の地位を向上させ、落語界に大きく貢献します。明治24年(1891年)、席亭との意見の違いから寄席の出演を退き、その後は特別な会の出演や速記発表に専念します。 数々の功績を残した圓朝ですが、惜しむらくはその「声」が現在に残されていないこと。日本で初めて落語のレコードへの吹き込みが行なわれたのは、圓朝が没して3年後の明治36年(1903年)5月。圓朝の声が永久に聴けないことは、落語ファンにとって残念でなりません。 明治33年(1900年)8月11日、進行性麻痺と続発性脳髄炎のため永眠。三遊亭圓朝、時に62歳。
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1月に、昭和の落語家たちを取り上げた本として、『談志絶倒昭和落語家伝』(大和書房)とCD付きの隔週刊雑誌『落語 昭和の名人たち』(小学館)の2冊をこのブログで紹介しました。 このうち、『談志絶倒昭和落語家伝』を読みながら、ある1冊の本のことを思い出しました。 その本とは、『昭和 高座の名人たち』(三一書房)。 平成9年頃に発売されたこの本は、写真家の金子桂三さんが、昭和35年頃から撮り続けてきた落語家やその他の芸人たち、更に当時の寄席の風景の写真までを1冊にまとめたもので、この本が発売された当時、まだ大学生で大阪で下宿生活を送っていた僕は、大阪市内の書店で先ずこの本を見かけ、その後最寄りの図書館で何度か借りて、夢中になって読んだものでした。大学生活を終えて故郷尾道に帰った後、「また読みたい」と思ったものの、地元の図書館にはなく、また尾道近郊の図書館にもないようで、なかなかその機会に恵まれませんでした。 「もう再び読むことは叶わないのか…」と半ば諦めかけていた時、某インターネットの通販サイトで偶然この本を発見。早速大枚はたいて購入しました。 『談志絶倒昭和落語家伝』が、昭和20年代から30年代初めにかけての落語家たちが紹介されているのに対して、この本は主に昭和35年以降の写真が中心。紹介されているのが、落語家が三代目桂三木助、(俗に)九代目鈴々舎馬風、三遊亭百生、八代目三笑亭可楽、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬、(初代)桂小文治、二代目古今亭甚語楼、八代目桂文楽、六代目三升家小勝、三代目三遊亭小圓朝、五代目古今亭志ん生、(先代)金原亭馬の助、五代目古今亭今輔、二代目桂枝太郎、九代目桂文治、六代目春風亭柳橋、六代目三遊亭圓生、七代目橘家圓蔵、林家三平、八代目林家正蔵、十代目金原亭馬生、四代目三遊亭圓遊、四代目三遊亭圓馬、それに真打ちに昇進して間もなく落語家を廃業し、落語協会の事務員に転じた三遊亭市馬。色物では紙切りの先々代林家正楽、三味線漫談の柳家三亀松(みきまつ)、日本手品の一徳斎美蝶、音曲師の春風亭枝雀、女流三味線漫談の都家かつ江、漫才のリーガル千太・万吉、それに上方の下座囃子の第一人者・林家トミ。また、桃川燕雄、七代目一龍齋貞山、五代目一龍齋貞丈、服部伸、五代目宝井馬琴の講談師、更に昭和45年1月に廃業した人形町末広、現在のビルになる前の上野鈴本、今も殆ど変わらない外観の新宿末広亭、平成2年に幕を降ろした上野本牧亭といった寄席の風景まで収録されています。八代目文楽の項の「文楽崇拝の序」(小沢昭一)、人形町末広の項の「のどかな佳き思い出」(興津要)など、それぞれに味わいのあるエッセイが添えられています。 撮影した金子桂三さんは、前書きの「撮影当時の思い出」の最後に、「今あの頃の写真を見ていると志ん生がいて、文楽がいた昭和三十年頃の寄席はまさに黄金時代だったに違いありません。そんな中で数多くの芸人達に触れ、その姿を撮ることができたことは、この上のない幸せだったと思います」と書いています。久しぶりに一読して、金子さんが体感した「この上のない幸せ」を、改めて写真を通して実感したのと同時に、最初にこの本を手にして読んだ、今から12年程前の自分のことにも、ふと思いを馳せました。 尚、金子さんの貴重な写真は、『寄席はるあき』(安藤鶴夫・著、河出文庫)でも見ることが出来ますので、興味のある方は是非お手にとって御覧下さい。 もののついでに、「昭和の落語家たち」を取り上げた本をもう1冊紹介したいと思います。 といっても、こちらは昭和59年頃に出版された『座・噺家』という写真集。写真家の星野小麿さんが昭和50年頃に活躍していた落語家たちの写真を収録したもので、当時大御所的存在だった六代目圓生、八代目正蔵(彦六)、五代目小さんから、まだ30〜40代だった古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭圓楽、柳家小三治といった面々が登場する他、高座以外の落語家たちの姿も紹介されています。また、鈴本演芸場でお囃子の稽古に励む前座さんたちの中には、現在真打ちとして活躍している人の姿も見られ、これまた貴重な1冊と言えますが、現在では一般の書店で手に入れることは困難なようです。 昭和から平成になって20年余りが過ぎた今、「落語ブーム」が巻き起こって久しいですが、本当の意味で落語の世界や寄席が輝きを見せていたのは、やはり昭和の時代だったと思っています。
自分はリアルタイムで接することは出来ませんでしたが、今回紹介した本や、現在立て続けに発売されているCDやDVDでその時代に触れることが出来る訳で、その点では落語ファンにとって今は「いい時代」ではないかとも思うのですが、如何でしょうか。 |
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皆様、新年明けましておめでとうございます。 たとえ世の中がおめでたくなくても、こう言わなければ新しい年は始まらないのでございます。 世間と同様、当「万年寝太郎徒然日記」は今日が平成21年の「仕事始め」。本年も御贔屓・御愛顧の程、何卒宜しくお願い致します。 ところで、この年末年始もテレビでは色々な番組が放送され、中でも「お笑い」関係の番組が多く放送されていました。皆さんも御覧になったことでしょう。 最近では、年末年始に限らずテレビで様々な「お笑い番組」が放送され、また多くのお笑い芸人が次から次へと登場しています。しかし、日本で「お笑い」の原点と言えば、何といっても落語です。 ここ数年、落語がブームであるとよく言われます。このブログでも、以前「落語ブーム」について書いたことがあり(※1)、またそれ以前には、現代は落語が昔よりもっと身近になっているということについて書いたこともあります(※2)。最近の「落語ブーム」は、落語という芸能そのものが注目されているのが特徴ですが、演じる落語家たちの個性がそれぞれ際立っていたのは、やはり昭和、それも戦後の昭和20年代から30年代にかけてだったのかもしれません。 年末から年始にかけて、その「昭和の落語と落語家たち」にスポットを当てた2つの本に接しました。 1つ目は、『談志絶倒昭和落語家伝』(大和書房)。タイトル通り、自らも落語家でありながら、「寄席ファン」であり、「誰よりもファンで、マニア」であることを自認する立川談志師が、昭和20年代後半から30年代初めにかけて多くの落語家の写真を撮りまくった写真家・田島謹之助さんの所蔵フィルムを元に、それぞれの落語家についての思い出や芸の批評を語るという、落語ファンにとってはたまらない1冊です。 登場する落語家を目次に沿って列挙すると、六代目三遊亭圓生、三代目春風亭柳好、三代目桂三木助(四代目三木助の父)、八代目桂文楽、六代目春風亭柳橋、(初代)桂小文治、五代目古今亭今輔、八代目三笑亭可楽、四代目三遊亭圓馬、四代目三遊亭圓遊、二代目桂枝太郎、七代目春風亭小柳枝、(先代)昔々亭桃太郎(柳家金語楼の実弟)、林家三平、十代目金原亭馬生、三代目柳家小せん(後の二代目古今亭甚語楼)、七代目橘家圓蔵、九代目翁家さん馬(後の九代目桂文治)、三遊亭百生、二代目桂右女助(うめすけ、後の六代目三升家小勝)、八代目春風亭柳枝、八代目林家正蔵(彦六)、二代目三遊亭円歌、八代目桂文治、五代目古今亭志ん生、そして「トリ」が談志師の師匠である五代目柳家小さんという顔触れ。 「昭和の名人」から人気者、更に今では忘れられてしまった人まで様々な落語家たちが登場していて、しかも、まだ真打ちに昇進する前の三平や十代目馬生の20代の頃の写真が見られるのも貴重です。 談志さんは「まえがき」で、「ここに写っている人たち、つまり噺家、これが東京の噺家の全て、といっていい。つまり、この通り少なかったのだ」と書き出した上、「この当時と比べ、現在の噺家どもの多さ。内容はともかく、その数において隔世の感がある。桁違いの多さだ。その理由は一つ、“誰でもなれるから”…」と述べています。 因みに、談志さんはこの当時の落語家の名前と本名は全部言えるそうです。落語家の数は少なくても、当時の世の中と同様、落語や寄席の世界が生き生きと輝いていた時代の空気が伝わってくる本とも言えます。 もう1つは、今日創刊号が発売された『落語 昭和の名人決定版』(小学館)。1年間に渡って隔週火曜日に発売されるCD付きの雑誌で、これまた「昭和の名人」から埋もれた落語家まで総勢26人が登場することになっています。昭和を代表する落語家が数多いる中で、創刊号で紹介されているのは、平成13年に亡くなった後も、昨年はDVDで「復活」を果たすなど、現在でも絶大な人気を誇る古今亭志ん朝。「志ん朝は決して昭和“だけ”の名人ではない!」と思っているのは、決して僕だけではないでしょう。更に言えば、「昭和の名人」と題した本の中に「古今亭志ん朝」という名前があるのは、落語ファンにとってはあまりにも悲しい現実と言わなければなりません。 ともあれ、これからの1年間がとても楽しみなのは言うまでもありません。 最近は、「落語ブーム」であると同時に「昭和ブーム」でもあります。 僕も今年は「昭和の落語家たちの芸」をこれまで以上にじっくりと楽しみたいと、この2冊の本に目を通しながら思った次第です。 |
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今年もまた4月19日がやって来ました。桂枝雀さんがこの世から旅立った日です。 我々が枝雀さんとお別れしたのが平成11年のこの日。あれから早いものでもう9年が経った訳で、月日の流れの速さというものを改めて思い知らされると共に、いまだに根強い人気を誇る枝雀さんの凄さを再認識する、今日この頃でございます。 「宿替え」「代書」に代表される十八番ネタ、「貧乏神」「幽霊の辻」などの新作落語、SFと落語を融合した「SR」(ショート・ラクゴ)など、枝雀さんの築いた笑いの世界は多彩であり、また枝雀さんほど落語の持つ様々な可能性を追求し続けた落語家は古今東西を通じていませんでした。そんな「枝雀落語」の中でも一際異彩を放ち、また忘れてはならない代表作が「英語落語」です。 少年時代から語学、特に英語に高い関心を持っていたという枝雀さんは、いくつかの英語学校に通いますが、自分の思いとは合わず、何度か出席した後、月謝の振込みだけで終わってしまうという繰り返しだったそうです。そんな枝雀さんが英語で落語を演じることになったのは、昭和58年、大阪・平野町の英語学校「HOEインターナショナル」に通い始めたことがきっかけでした。「言葉は頭だけでは駄目。気が入らないと上手く伝わらない」という同校の山本正昭校長の言葉に、「落語と一緒」と共感した枝雀さんは、これまでと違い、殆ど欠席することなく授業に打ち込みます。授業の1つにアメリカ人講師との「フリートーキング」、つまり自由に会話をする時間があり、枝雀さんの相手となったのは、二十歳過ぎの美人講師・アン=グラブさん。元々恥ずかしがり屋の上に若い女性を前にして、更に普通英会話教室のレッスンで交わされる「私の名前は○○です。趣味は…」などといった会話は白々しくて出来ないと考えていた枝雀さんが、「何か気持ちを入れて喋れることはありませんか?」という山本先生の問いかけに、「やっぱり落語ですね」と答えた所、「それなら英語で落語を喋ってみたら如何ですか?」。この山本先生の一言が、「英語落語」誕生の第一歩となったのでした。 「英語落語」の最初の題材に選ばれたのは、「SR」の中の1作「犬とおじさん」(http://blogs.yahoo.co.jp/mannennetaro2005/23440274.htmlを参照)。これを枝雀さん、山本先生、アンさんの3人で英語に変えて行きます。枝雀さんはこの噺に出てくる「陰になって寒い」という表現を、「block the sun」と言うとアンさんから聞いて大喜びしたそうです。完成した噺をアンさんたちの前で英語で喋った所、これが大受け。遂に、持ちネタの1つである古典落語「夏の医者」の英語版「Summer Doctor」を完成させます。 アンさんが故郷のペンシルバニア州スクラントンに帰った後、昭和59年夏、枝雀さんは山本先生やお弟子さんたちと共にスクラントンを訪問。数日間の滞在が終わりに近付いた頃、アンさんから「今夜、うちで落語をやってもらえないか」と頼まれます。大草原にマットレスを何段も重ねた急ごしらえの高座で「Summer Doctor」を演じ、約40人集まった観客は初めて見聞きする「RAKUGO」という芸に大爆笑。終わった後、枝雀さんに挙って握手やサインを求めてきたそうです。 昭和61年には、落語作家・小佐田定雄さんの作である「ロボットしずかちゃん」が、落語の歴史が始まって以来初めて英語で初演されます。大阪・サンケイホールや東京・歌舞伎座で英語落語の公演が行なわれる一方、昭和62年からは本格的な海外公演が始まり、アメリカ、カナダ、オーストラリアから、平成6年にはシンガポール、平成7年にはイギリスでも公演が行なわれ、平成8年まで続いた海外公演はどこも笑いと喝采に包まれました。 ところで、落語という芸が何故日本だけに生まれて、海外では生まれなかったのか? 小佐田定雄著「上方落語・米朝一門おさだまり噺」(弘文出版)によると、枝雀さんの回答は「正座」という型が大きな影響を与えたに違いないというものだったそうです。日本人特有の座り方である「正座」は、座った場所に下半身は固定されているが、上半身は自由に動き回れるという強味があり、下半身が固定されていることで観客の視線を長い時間一点に集中することが出来、腰から上が自由自在に動くという利点と組み合わさった結果、落語という座ったままで演じる芸能が発生したのではないか、というのが、枝雀さん流の「落語発生論」だそうです。非常に鋭い指摘であり、これも「英語落語」が世に出てこなければ気が付かないままだったかもしれません。 枝雀さんが平成11年に亡くなり、「英語落語」のもう1人の「生みの親」である「HOEインターナショナル」の山本正昭校長も平成17年に亡くなり、「HOEインターナショナル」は閉校となったそうです。しかし、「英語落語」は枝雀一門以外の落語家の他、枝雀さんに刺激を受けたイギリス・リバプール出身のダイアン・オレットさん(芸名・ダイアン吉日)らによって演じられ、また素人の英語落語同好会も活動しています。 http://www1.odn.ne.jp/ado-rakugo http://ofuku.wisnet.ne.jp/index.htm 桂枝雀という偉大な天才落語家が蒔いた「RAKUGO」という種は、枝雀さんのいない今日もしっかりとその実を結んでいます。
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