万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

落語

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
実業之日本社という出版社は、経済や経営に関する本や、旅行ガイドブックの代表的存在である「ブルーガイド」シリーズから、「週刊漫画サンデー」などの雑誌、それに児童書や教育図書に至るまで、幅広い分野の本を手がけている所で、東西の歴史をテーマにした「知れば知るほど」シリーズという物も出しています。
これまで、日本史では歴代天皇や戦国武将、世界史では三国志やギリシア神話をテーマにしたこのシリーズが、落語をテーマにしたということで、早速その本「落語 知れば知るほど」を購入しました。

著者の橘左近さんは、先日も紹介した「橘流寄席文字家元」の橘右近さんの一番弟子。長野県飯田市に生まれた左近さんは、小学生の頃から落語全集を愛読し、大学時代は寄席三昧。社会人になってからも寄席通いを続けているうちに「寄席文字」に興味を抱き、昭和36年、その第一人者である橘右近さんに入門。昭和39年に「左近」の名を許されたそうです。東京・新宿の末広亭を中心に活動しながら、毎年出されている『笑点』のカレンダーの企画や執筆も手がけておられます。
本の帯にある立川談志師の推薦文に曰く、「こんなに多くの寄席噺を知っている人もそうはいない。高座の噺も、楽屋噂も。何でも識っている」。つまり、このような落語のガイドブックの著者にはうってつけの人物ということでしょう。因みに表紙の五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生、三代目三遊亭金馬のイラストは絶品。

落語のガイドブックらしく、「第一章」は「落語の歴史」。戦国時代末期の「落語の発生から完成まで」から「江戸から明治へ」、「大正落語戦国時代へ」、「戦後・昭和落語の黄金期」までが分かりやすく、しかも克明に綴られています。特に「戦後・昭和落語の黄金期」では、身近に寄席や落語の世界と関わりを持ち続けてきた人間でしか知り得ない落語界の内幕や「裏面史」まで触れられていて、読み応えも十分です。「第二章」の「古典落語傑作選」は、「あくび指南」から「悋気の火の玉」まで五十音順で選ばれた古典落語50席のレビューに加えて、「名作は宝の山」と題して寄席やホール落語でお馴染みの演目百席が紹介されています。後者では、「この噺が演目だけの紹介なのか?」と思う噺が多く掲載されていますが、古典落語の代表的な演目は大方紹介されています。

「第三章」の「落語名人列伝」は、戦後の落語界を彩ってきた名人から人気者までが紹介されており、これも長年落語と慣れ親しんできた人ならではの視点や批評がそれぞれ為されています。この後の「忘れ得ぬ人々」と題したコラムでは、この章の選から外れた落語家たちに加えて、戦後の混乱期から落語界を支えてきた寄席の席亭たちや、落語協会・芸術協会の運営に従事した歴代の事務長も紹介され、「手前味噌ながら」と断った上で、師匠である橘右近さんも加えられています。このような「縁の下の力持ち」にも目を配った辺りが、他の落語を紹介した書物と一線を画した部分にもなっていて、これは他ならぬ著者の左近さん自身が長年「縁の下の力持ち」であったことの表われであるとも言えます。

「あまり専門的でなく気楽な落語入門編を……という当初の企画から逸れて、いつの間にやらかなりマニアックな内容に変わっていく事を気遣いながらも、あれもこれもと間口ばかり広くするだけで結局は入門書らしからぬものになってしまった」「昭和黄金期を彩った幾多の懐かしの芸人たちの裏と表を観ながら調べ、記録しながらの、つまるところ“自分史”のような身勝手な代物」と、巻頭の「はじめに」の中に「反省の弁」が書かれていますが、「マニアック」で「自分史」的なものならでは面白さを秘めているのがこの本の特徴であることも確かだと思います。
著者の立場上、上方落語については全く触れられていないきらいもありますが、巻末の「戦後落語史略年表」も合わせて、落語の歴史や内幕を知るには格好の本と言えるでしょう。
五代目古今亭志ん生が83年の生涯を終えたのは、今から34年前の今日、つまり昭和48年9月21日のことでした。
このブログでは、毎年この時期になると志ん生についての記事を掲載し、またそれ以外でもこれまで志ん生の様々なエピソードを紹介してきましたが、志ん生の破天荒な生き様を象徴するエピソードの1つとして、落語家になってから「五代目古今亭志ん生」を襲名するまでの間、延べ16回に渡って芸名を変えたことが挙げられます。

元は旗本であったという家に生まれ育った美濃部孝蔵、後の志ん生が、放蕩無頼の生活を経て、本格的に落語家の道を歩み始めたのは、明治43年、20歳の時に二代目三遊亭小圓朝に入門してからでした。最初に付けられた芸名は三遊亭朝太。落語家となった翌年に母を、それから更に3年後に父を相次いで亡くした後、大正5年、26歳で二つ目に昇進し、三遊亭圓菊と改名します。当時の志ん生は、明治38年に発足した第一次「落語研究会」の発起人の1人として三遊亭系の継承に大きな役割を果たしながら、芸風は地味だったという師匠の小圓朝以上に、同時代に「名人」の名を恣にしていた四代目橘家圓喬に私淑しており、後年「自分は圓喬の弟子だった」と公言するほど、その芸風に影響を受けたと伝えられています。

二つ目になって2年後の大正7年、志ん生は六代目金原亭馬生の門へと移ります。これは志ん生が元の師匠の小圓朝の羽織を勝手に質屋へ入れてしまい、それが師匠の逆鱗に触れてしまったからだそうです。六代目馬生門下となって、芸名も金原亭馬太郎と改名。以後、遊廓の吉原から遊びの代金を取り立てるために客に付いていく者を「付き馬」と呼んだことに因む吉原朝馬(よしわら・ちょうば)、「全体無精」(ぜんたいぶしょう)を洒落た全亭武生(ぜんてい・ぶしょう)、金原亭馬きんと毎年芸名を変え、6番目の芸名である金原亭馬きんで、大正10年、31歳の時に真打ちに昇進します。翌年、終生志ん生を支えることになる清水りんと結婚。更に翌大正12年、七代目古今亭志ん馬に改名し、同じ年の9月1日に「関東大震災」に遭遇します。2番目の師匠である六代目馬生は、大正13年に四代目古今亭志ん生を襲名。本名を「鶴本勝太郎」という所から「鶴本の志ん生」と呼ばれ、大正15年1月29日に50歳で亡くなるまで、美声の持ち主で江戸前の粋な噺家として高い評価を受けていました。
六代目馬生が四代目志ん生を襲名した同じ年、志ん生は約8年間いたその門下を離れた上に落語家を廃業。小金井芦州の門に入り、小金井芦風と改名して講釈師に転向します。後年、志ん生が人情噺を演じるにあたっては、この講釈師だった時期と経験が生きたとも伝えられています。

大正15年、約2年ぶりに落語界に復帰。古今亭馬生、古今亭ぎん馬と改名した後、初代柳家三語楼の一門となり、柳家東三楼(とうざぶろう)を名乗ります。この初代三語楼という人は横浜の生まれで、当時の落語家としては珍しいセント・ジョセフ・カレッヂ卒業というインテリ。少年時代に外人商社で働いていた経験もあるという異色の経歴を生かして、噺の中に片言程度の英語や新語を取り入れることで、落語の伝統に風穴を開ける役割を果たしました。年号が「昭和」に変わって、翌昭和2年、柳家甚語楼と改名。翌年、年明け早々の1月5日、長男・清が誕生。4月には本所の「なめくじ長屋」へ転居します。昭和5年、隅田川馬石(すみだがわ・ばせき)と改名しますが、すぐに元の柳家甚語楼に芸名を戻します。昭和7年、再び古今亭志ん馬と改名。昭和9年には、七代目金原亭馬生を襲名。昭和13年、3月10日に次男が誕生。当時その日が「陸軍記念日」だったことにあやかって、師匠の三語楼が名付け親となり「強次」と命名。これを「置き土産」にする形で、それから約3ヶ月後の6月29日、初代柳家三語楼は64歳で世を去ります。
そして、それからちょうど1年後の昭和14年3月、通算では17番目の芸名となる「五代目古今亭志ん生」を襲名。落語家になって29年、49歳のことでした。
…因みに、ここまでの志ん生の「芸名遍歴」を書いた人は全てを書き終わった時点で皆くたびれるそうです。現に今書いている私もくたびれました。

志ん生がこれほど芸名を変えたのは、師匠を度々しくじって何度も代えたことや、借金取りから逃れるためであったと伝えられていますが、そんな中でも落語の稽古だけは片時も忘れることなく(もっとも金がなかったためにそうするより他になかったとも言われていますが)、師匠たちの芸風を吸収して独自の芸風へと昇華させたことが、志ん生を襲名して戦後の大成へと繋がって行ったことは間違いありません。
そして、彼が名乗ってきた芸名のうち、圓菊、志ん馬などは彼の弟子や孫弟子たちへと継承され、長男・清は十代目金原亭馬生となり、落語家となって最初の芸名である「朝太」の名は、後に古今亭志ん朝となる次男・強次の最初の芸名(古今亭朝太)にもなりました。今年3月には、「隅田川馬石」の名が彼の曾孫弟子が真打ちに昇進するにあたり復活を果たしています。
没後30年以上経った今でも根強い人気を得ている志ん生の芸と同様に、彼が「志ん生」になるまでに名乗った芸名も今日の落語界で立派に生き続けています。

「寄席文字」への招待

この「万年寝太郎徒然日記」の書き込みも含めて、パソコンで文章を書いたり、文字や数字を打ち込んだりすることが日々の大半を占めるようになった反面、「自分の手で書く」ということが、昔(と言っても、数年前のことですが)と比べると段々少なくなってきました。

同じ「字を書く」と言っても、例えば鉛筆やボールペンで書く文字と、筆で書く文字との間にも大きな違いがあって、筆で書く文字は書き手のセンスによって独特の味わいが出て、上質な芸術としても通用するという特性を持っています。
余談ですが、僕のネットを通じての知人の1人に、グラフィック・デザイナーとして活躍されている方がいて、この方が本業とは別に「デザイン書道」というものにも取り組んでいらっしゃいます。所謂「ロゴ・デザイン」に毛筆体を取り入れることで、文字の感覚に「魅せる」というデザインの感覚を加えたもので、「伝統」と書き手自身の「センス」との融合が素晴らしいです。興味のある方は、こちらのアドレスから一度御覧になって下さい。

          http://www.wonder-works.ne.jp/fudemoji.html

さて、筆から生み出された独自のスタイルを持つ文字として、江戸時代に広告などで使用された図案文字、通称「江戸文字」と呼ばれるものがあり、歌舞伎の看板で使われている「勘亭流」や相撲文字、「篭文字」「髭文字」など様々な種類がありますが、落語の世界と切っても切れない関係にあるのが「寄席文字」と呼ばれるものです。寄席や落語会の看板や縁者を紹介する「めくり」、それにテレビの『笑点』のテロップなどで使われている一種独特の書体として御存知の方も多いことでしょう。
寄席文字は、元々寄席に人を集めるため、江戸の町の辻や、人々の集まる湯屋や髪結床に貼られていた「ビラ」に書かれた文字である所から「ビラ字」と呼ばれ、天保7〜8年(1836〜37)頃、神田に住む栄次郎という紺屋職人が寄席の看板、ビラを書いているうちに書体の工夫を凝らして確立したと言われています。幕末から昭和初期にかけての寄席のビラは「ビラ清」「ビラ辰」という2つの家が中心となって制作されますが、大正12年(1923年)9月1日の「関東大震災」を境に、それまでの版木彫りの手法から石版刷りへと変わり、版木師達も散り散りになって衰退して行きました。

関東大震災以降衰退の一途を辿っていた「ビラ字」が、戦後復活した上に今日の「寄席文字」として確立するまでの歴史を語る上で、「寄席文字」の創始者である橘右近さんを抜きにすることは出来ません。
18歳で落語家になった右近さんが「ビラ字」を書くことになったのは、戦後の昭和22年に新宿末広亭の看板を書き始めるようになったのが最初で、昭和24年4月、神田立花演芸場の再開と共に、落語家を廃業して本格的に寄席の看板を書くようになります。昭和29年11月に神田立花演芸場が廃業した後、翌昭和30年8月から再開された東宝名人会に勤めながら、「ビラ字」に新たな工夫を重ねて「寄席文字」と命名。昭和40年11月には、八代目桂文楽の薦めで「橘流寄席文字家元」を名乗ります。昭和44年からは「寄席文字」の勉強会を定期的に開くようになり、平成7年7月3日に92歳に亡くなるまで、「寄席文字」の第一人者として活動しながら多くの弟子を育てました。
「寄席文字」の大きな特徴は、「縁起文字」であるということです。橘右近さんも、「寄席にお客様が沢山来て下さり、興行が次第に良くなるように、との願いを込めて書く文字であることも大事な心得」と、自らの著書の中で書いておられます。「だるま筆」と呼ばれる筆を使って根元までたっぷりと墨を含ませ、太字で黒々と書きます。筆太で余白が少ないのは、「お客様がぎっしりと大入りになるように」という「縁起担ぎ」で、またどの文字も「右肩上がり」なのは、「興行が評判を呼んで次第に良くなるように」という願いを表わし、これもまた縁起を担いでいるのです。

          http://www.h7.dion.ne.jp/~hanmokku/yose.htm

橘右近さんの13回忌にあたる今年、右近さんが初めて「寄席文字」に携わった新宿末広亭で、その「追善興行」が6月21日から10日間行なわれました。現在、「寄席文字」は一番弟子の橘左近さんや、上方落語で活動している橘右佐喜(うさぎ)さんなど多くの弟子達に継承されていて、古今亭志ん朝門下の落語家として活躍し、平成13年に若くして亡くなった古今亭右朝さんも、元は右近さんの弟子の1人でした。
落語や寄席が日本独特の文化であり空間であるように、「寄席文字」もまた、そこから生み出された立派な「伝統」であり、「芸術」でもあると言えます。

『圓生百席』の時代

9月3日は、明治33年のこの日、昭和を代表する落語家の1人である六代目三遊亭圓生が生まれた日にあたります。
そして、同じく昭和54年のこの日、79年の生涯を終えた日でもあります。

芸歴の長さと噺のレパートリーが豊富なことにおいて、六代目圓生の右に出る人はいませんでした。
5歳の頃から「豊竹豆仮名太夫」という芸名の義太夫語りとして高座に上がり、明治40年頃に伊香保温泉の石段で転び心臓を強打したのが原因で落語家に転向した圓生は、邦楽全般から日本舞踊、それに歌舞伎など落語家として必要不可欠な素養を完璧なまでに身に付け、それが豊富なレパートリーへと繋がって行きました。子供の頃から培ってきた素養に裏打ちされた圓生の落語は演劇的要素が強く、持ちネタの多さでも群を抜き、そのジャンルも、滑稽噺、人情噺から怪談噺、音曲噺、芝居噺に至るまで幅広く、しかもその殆どが水準以上の出来で、本人曰く「1年365日、毎日ネタを変えることが出来る」と豪語していたと伝えられています。
その圓生の芸域の幅広さと膨大な数の持ちネタを今日まで伝えているのが、昭和48年から54年にかけて収録が行なわれ、発売されたレコード『圓生百席』(ソニー)です。

『圓生百席』は、寄席や落語会などのライブ録音ではなく、延べ100余りの演目全てを観客なしのスタジオで録音した落語全集です。つまり、圓生個人の芸を後世に残すことに主眼を置いて作られたといっても過言ではなく、それはそのまま六代目圓生という1人の落語家の芸の集大成ともなりました。
録音が始まった昭和48年、圓生は3月に昭和天皇・皇后はじめ皇族、皇室一家の前で「御前落語」を口演。9月21日には、既に引退状態にあったものの絶大な人気を保っていた五代目古今亭志ん生が83歳で亡くなり、名実共に圓生が落語界の第一人者となります。70歳を超え、落語家として最も充実した時期を迎えたこともあって、録音も順調に進み、多い時には1週間に3日も録音することもありました。しかし、録音に意欲満々でありながら、そこは「人力車のむかしに青春を送った人」だけあって、常に悠然と構えていたそうです。元・ソニーミュージックのプロデューサーで、『圓生百席』の収録と編集作業にも終始携わってきた京須偕充(きょうす・ともみつ)さんによれば、昭和50年頃、午後1時から録音がスタートする予定が、当時アイドルとして人気絶頂の郷ひろみの録音が午前中から押して一向に終わる気配を見せなかった際、当時75歳の圓生は、「あぁあぁ、郷さんでげすか」と言っていつも通り泰然としており、予定より30分余り遅れて始まったその日の録音も淡々とこなしたといいます。55歳も年上の大先輩を待たせてしまった郷ひろみは、録音終了後真っ先に圓生の元に駆けつけて、丁寧に詫びたそうです。

幼い頃から芸の世界に身を置いた圓生も若い頃は売れない時代が長く、彼の噺を楽屋で聴いていた八代目桂文楽が、「この人は何をやらしてもまずいものがない。だけど、これがいいというものがない」と言っていたという逸話が残されています。その文楽、そして古今亭志ん生と、戦後落語界の「2大巨頭」が相次いで世を去り、圓生がトップの座についた頃、彼と同世代の落語家では八代目林家正蔵(彦六)、五代目柳家小さんが健在で、評価を高めていた志ん生の長男・十代目金原亭馬生、相変らず爆笑を呼んでいた林家三平などがこれに続き、更に志ん生の次男・古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝、それに月の家圓鏡(現在の八代目橘家圓蔵)といった「戦後入門組」が台頭し、特に志ん朝と談志の人気、実力は大先輩に肩を並べる勢いでした。圓生もこの新しい世代に対して「脅威」を感じており、「正蔵、小さんは怖いとは思いません。怖いのは志ん朝、圓楽、談志」、(相撲に例えて)「志ん朝、圓楽、談志に負ければ、負かした方は金星でしょうがあたくしにとっては恥辱」などと発言していたそうです。
落語家としての意地とプライド、芸に対する厳しさや執念と、いずれも人一倍であった圓生。それらが思わぬ形で「爆発」したのが、『圓生百席』の録音も後半に差しかかった昭和53年。かねてから不満を抱いていた「真打ち昇進制度」を巡って当時の柳家小さん会長らと対立した末、自らも会長も務めた落語協会を一門を引き連れて脱退。「落語三遊協会」を設立します。所謂「落語協会分裂騒動」。この騒動によって寄席を運営する席亭の反感を買った圓生は、以後寄席への出演が閉ざされ、各地での落語会を行なうことで、超過密スケジュールを余儀なくされます。しかし、主に70代になって以降のこれらの言動も、圓生という人が心身共に「若さ」を維持し続けていたことの表われであり、『圓生百席』に取り組む意欲と根底では繋がっていたのではないかと見ています。

『圓生百席』の録音と編集が完結したのは、昭和54年8月のことでした。
それから間もない9月3日。圓生は体調不良をおして千葉県習志野市での後援会発足記念行事に出席し、「桜鯛」という小噺程度のものを一席演じた後、心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となります。因みにこの日は、上野動物園のジャイアントパンダ・ランランが亡くなった日でもありました。
六代目三遊亭圓生が、落語家としての集大成として『圓生百席』に取り組んだ時代は、彼が落語家として最も充実した時期であったと同時に、波瀾万丈の晩年でもあったのでした。

開く トラックバック(1)

落語国の相撲事情

近頃、テレビのニュースやワイドショーは相撲の話題で賑わっています。
と言っても、土俵の上での話ではなく、やれ横綱が腰の具合が悪いはずなのにサッカーに興じて、次とその次の場所に出られなくなったとか、やれ「病気」で家の中に閉じこもった上に、「国」へ帰るだの帰らないだの、いつ帰るかなどと大騒ぎになっているとか、やれ脱税をやっていたとか、もう大変な騒ぎになっています。

そもそも、相撲とは一体何なのか。
「相撲は日本の国技といわれているのだが、さてスポーツなのか、芸能なのかと改まって問われると、これでなかなかむずかしい」と述べているのは、演芸評論家の矢野誠一さんですが、全くその通りで、これも矢野さんが指摘していますが、他のスポーツが訓練を「練習」と呼ぶのに対して、相撲は「稽古」と芸事と同じ言い方をしているところに、相撲が持つ「芸能性」が強く反映していると言えます。更に付け加えると、親方と力士を「師匠」と「弟子」と言ったり、新しい力士が部屋に入ることを「入門」と呼ぶ辺りにも、それがよく表われています。
もっとも、今回の横綱の一件を見ていると、横綱とその師匠たる親方の関係は、さしずめわがまま放題でスキャンダルを連発するタレントと、それを制御出来ない所属プロダクションの社長の関係に例えられるのではないかと見ていますが、如何でしょうか。

さて、今回の記事の主旨は、決して今回の問題を通じて相撲界を取り巻く現状について論じようというのではなく、落語と相撲との関係について書いて行こうというものです。演芸評論家である矢野誠一さんの文章を取り上げたのもそのためで、随分長い「マクラ」を振ってしまったものだと反省しております。
古典落語には相撲を題材にした噺がいくつかあります。
先ずは「花筏」(はないかだ)。「花筏」とは大関の四股名ですが、元は水面に散った花びらが連なって流れているのを筏に見立てた言葉だそうで、なかなか風雅な名前です。しかし、この噺には「大関花筏」その人は登場せず、急病で倒れた大関に顔立ちが似ていたため、その代わりに巡業に出ることになった提灯屋の徳さんが主人公。まだテレビも新聞もなかった時代、偽者とは知らず土地の人たちは大喜び。ところがあまりにもハメを外し過ぎたことで「仮病疑惑」が浮上。「大関花筏」こと徳さんは、千秋楽に土地一番の強力力士・千鳥ヶ浜と相撲を取る破目になるという噺。東京では六代目三遊亭圓生、大阪では桂枝雀といった人たちが演じていました。一時期、「花筏」を名乗る力士が実際にいましたが、大成することなく廃業したそうです。

「鍬潟」(くわがた)は、身の丈二尺二寸(約60センチ)の小男が、三尺二寸(約90センチ)の鍬潟という力士が七尺余り(約210センチ)の大関・雷電為右衛門を負かした話を聞かされ、自分も二代目鍬潟を目指そうと相撲部屋に入門する噺。関取の女房が、亭主から謙虚であることの大切さを説かれ、逆に失敗してしまう噺が「半分垢」。「大安売り」は、何番相撲を取っても「相手が勝ったりこっちが負けたり」の力士の噺。「相撲場風景」は、別名「相撲風景」といい、相撲を観戦する様々な客の様子を描いた噺で、上方の六代目笑福亭松鶴が寄席で持ち時間の少ない時によく演じていました。
この他にも、大食漢であることが原因である部屋を追われた主人公が、別の親方に拾われて六代目横綱に出世するまでを描いた「阿武松」(おうのまつ)や、横綱谷風が、親孝行で評判の、全敗中の十両佐野山を助けるためにわざと負ける「佐野山」など、実在の力士が登場する(内容は架空)噺もあります。
力士が出てくる噺でもう一つ、忘れてはならないのが「千早振る」。「百人一首」のうち、在原業平の詠んだ「千早振る 神代もきかず竜田川 からくれないに 水くぐるとは」の「竜田川」は、ここでは千早という花魁に振られた力士として登場します。

落語の世界では、強い力士も弱い力士も噺の題材に取り上げられ、人情噺や滑稽噺の主人公となりました。相撲というものが、「芸能」として庶民の間で愛されていた表れであり、また落語国の力士たちはいずれも愛すべき人物ばかりのようです。

.
mannennetaro2005
mannennetaro2005
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事