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五代目古今亭志ん生ほど、破天荒な生き方を貫き、多くの逸話を今日に残している落語家は他にはおらず、また今後も出てこないだろうと思われます。 落語の登場人物も太刀打ち出来ないような生き方がいつしか自分の芸と一体となり、その人間的な面白さが志ん生の芸そのもの面白さとなって、落語ファンの共感を得る理由にもなったと思うのですが、彼の芸や人生を語る上で外すことの出来ない重要な出来事が戦時中にありました。 かつては旗本だった家に生まれ育ち、放蕩生活を経て落語の世界に入った志ん生が、壮絶な貧乏生活の中で16回も芸名を変えた末に「五代目古今亭志ん生」を襲名したのが、昭和14年3月。時に志ん生、49歳。落語家になってから30年近い歳月が過ぎていました。 昭和16年、この年2月から神田花月で毎月独演会を開くようになり、落語家としていよいよこれからという同じ年の12月8日、真珠湾攻撃。太平洋戦争へと突入します。 戦争の暗い影は落語界・演芸界にも及び、これに先立つ昭和16年10月30日、当時の落語協会、日本芸術協会の幹部や席亭(寄席の主人)が相談の上で演目を「甲乙丙丁」に分類し、廓噺や花柳界に関する噺など、時局に合わない「丁」と判断された53演目が、「禁演落語」として、東京・浅草の本法寺に建立された「はなし塚」に落語家の先輩たちの霊と共に葬られます。 落語家にとっては誠に住みにくい嫌な御時世。これまで天衣無縫、はっきり言えばわがままで自分勝手に生きてきた志ん生にとっても勿論例外ではありませんでした。 戦争が激しくなるにつれて、落語家に限らず人々の生活は窮屈なものに行きます。志ん生にとって一番辛かったことは、大好きな酒が思うように飲めなくなったことでした。昭和20年4月には、本郷区駒込神明町(現在の文京区本駒込)の自宅が戦災に遭い、同じ本郷区駒込の動坂町(現在の文京区千駄木)への転居を余儀なくされます。 それから1ヶ月後の昭和20年5月、志ん生は六代目三遊亭圓生らと共に突然満州へ慰問に渡ります。理由は「酒がたっぷりと飲めるから」。酒飲みたさに家族を放ったらかし同然で見知らぬ土地へ行ってしまう辺りが、志ん生の「志ん生たる所以」なのでしょう。 初めのうちは順調に見えた満州慰問ですが、3ヶ月が過ぎた8月15日、事態は一変します。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」という玉音放送と共に終戦。日本は昨日までの「統治国」から「敗戦国」になったのです。 それからの志ん生が目の当たりにしたのは、落語の世界とは似ても似つかぬまさに「この世の地獄」でした。 ソ連軍が進駐して治安が乱れる。各地で行なわれる殺人、強姦。止めようとすれば自分が殺されるから、見て見ぬ振りをするより他にない。中国人や朝鮮人の掌を返すような態度。日本人だということで住む所を追われ、食べる物もない。寒さに震え感染症に怯える。「引き揚げ」の情報に喜んだ途端にデマと分かって落胆することの繰り返し…。 日本へ帰る目処も付かず、今後を悲観した志ん生は、「強い酒だから一気に飲むと死んでしまう」と注意されたウォッカを「末期の酒」として6本飲み干しますが、数日間意識不明になった後、意識が回復します。意識が戻った志ん生は一言。「死なねえのなら少しずつ飲めば良かった」。志ん生は、人気絶頂の昭和36年に脳溢血に倒れ、「再起不能」と言われながら後に復活を果たしますが、この満州での逸話は後の病からの生還と共に、志ん生という人が類稀な強運と生命力の持ち主だったことを物語っています。 志ん生が満州でウォッカを全部飲んでしまったことを後悔していた頃、日本では「志ん生は満州で死んだらしい」という噂が流れていました。そんな噂を知ってか知らずか、昭和22年1月、志ん生は無事日本への帰国を果たします。帰国を前に家族に宛てて打った電報は「サケタノム」。昭和20年5月に旅立ってから、実に1年9ヶ月ぶりの帰郷でした。 戦前までは面白くなかったという志ん生の芸が一変したのは、戦後満州から帰国してからだと言われ、共に満州へ渡った六代目圓生も同じことが言われています。それは恐らく、満州で「天国」と「地獄」を垣間見た上、人間の赤裸々な姿や世の無常といったものを思い知ったからであろうと考えられます。
五代目古今亭志ん生にとって、満州での1年9ヶ月は重要な意味を持っていました。そしてそれは、戦後の落語界にも絶大な影響を与えたと言えるでしょう。 |
落語
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上方落語界にまた1つ、歴史のある大名跡が復活します。 「五代目桂米團治」。 桂米朝師の師匠であった先代米團治が、昭和26年に亡くなってから58年目にあたる来年10月、その米朝師の長男である桂小米朝さんがこの名跡を襲名することになりました。 先代である四代目桂米團治は、五代目笑福亭松鶴、二代目桂春團治らと共に戦前から戦後にかけての上方落語を支えた人で、その芸は、米朝師と同門だった桂米之助師(故人)の文を借りると、「地味で陰気な高座だったが堅実で格調の高い芸風」だったそうです。珍しい噺を多く持ちネタにしていた一方で、漫才の台頭によって危機的状況に瀕した上方落語を守るため、五代目松鶴が主宰する「楽語荘」に参加し、雑誌『上方はなし』の編集、執筆に携わり、また、副業として行政書士の資格を取って代書屋を営んだ経験を基にして作った落語「代書屋」は、現在では上方だけでなく東京でもポピュラーな噺として演じられています。 学生時代から、作家で演芸評論家の正岡容(まさおか・いるる)の下で落語研究家を目指していた中川清青年(本名)が、四代目米團治に入門して落語家になったのは昭和22年9月。米團治を師匠に選んだ理由は、五代目松鶴と二代目春團治がそれぞれ自分の息子を後継者に考えているのに対して、米團治は珍しいネタを沢山持っているのに弟子らしい弟子がいなかったからだそうで、先程登場した米之助師は年齢は米朝師より3つ年下ですが、入門は1ヶ月早かったそうです。余談ですが、この桂米之助という人は、大阪市交通局へ定年退職するまで勤務しながら落語家としての活動を続け、若手落語家の育成にも尽力し、本名の「矢倉悦夫」から「悦ちゃん師匠」と呼ばれ慕われた、上方落語界の「陰の功労者」と言うべき人でした。 米團治門下となった米朝師が、師匠から「桂米朝」という芸名を貰ったいきさつと逸話について、自叙伝の『桂米朝 私の履歴書』(日本経済新聞社)の中で面白いことが書かれています。入門して間もないある日、中川青年は師匠から「あんたには米朝の名前をあげよう」と言われます。いずれ時期を見てというつもりだったそうですが、米朝師自身はその場で頂いたものと思い込んでしまい、早速最初の師匠である正岡容に報告したところ、折り返し正岡から米團治へ「早速中川が結構な名前を頂戴したようで」と礼状が届き、そうなると「先の話」とは行かなくなり、米團治から正岡へ「中川は正岡先生のお弟子でもありますから、この際、特に三代目米朝とします」と返事を書いたことで、ここに「三代目桂米朝」が正式に誕生したのだそうです。 「桂米朝」をいう名跡は、四代目米團治の師匠であった三代目桂米團治の前名で、四代目は米之助から米朝を継ぐことなく米團治を襲名したそうです。そして、「三代目」となった米朝師は、師匠の名跡を継がなかった代わりに、「桂米朝」という名跡をより高めながら今日まで至ってきました。 「五代目桂米團治」に関しては、一時は米朝門下で知名度はやや低いものの、早くからその実力が認められてファンも多かった桂吉朝さんが襲名すると言われていました。しかし、落語家としてまさにこれからという時に病に倒れた吉朝さんは、平成17年11月8日、50歳の若さで亡くなってしまいます。最後の高座となった、この年10月27日に行なわれた国立文楽劇場での「米朝・吉朝の会」で、吉朝さんは「弱法師」という噺を演じましたが、この噺が大師匠にあたる四代目桂米團治の作であったということに、何とも皮肉なものを感じてしまいます。 このように「紆余曲折」もあった「五代目桂米團治」の名跡ですが、この度いよいよ復活という運びとなりました。
五代目を襲名する小米朝さんは、クラシック音楽に造詣が深く「モーツァルトの生まれ変わり」を自称したり、オペラと落語を融合した「オペらくご」を披露する一方で、役者としても活躍しています。因みに、「先代桂小米朝」が現在の月亭可朝であることは、上方落語ファンの間ではよく知られています。 ともあれ、「米朝」を飛び越える形で襲名する「五代目桂米團治」が、「三代目桂米朝」という偉大な父であり師匠を超えることが出来るのか、そして、「米團治」という名跡がより大きなものになるのか、大いに注目して行きたいと思います。 |
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ここ数日、落語関係の記事が続きます。 NHK−BS2で毎週月曜日から水曜日まで夜7時45分から放送されている「蔵出しエンターテインメント」。 水曜日は「名人劇場」と題して、NHKの過去の番組から月ごとにテーマを決めて放送していて、これまで渥美清や吉永小百合などが出演した番組や、漫才をテーマにした番組が放送されました。 そして、今月7月は落語ファンお待ちかね、私も待ちに待った「落語特集」です。 第1週目の明日4日は、五代目古今亭志ん生の「風呂敷」と「巌流島」。 「昭和の名人」の1人に讃えられ、エピソードも枚挙に暇がなく「伝説」と化したものも少なくない志ん生。ラジオの録音などの音源の多くは現在でもCDで聴くことは出来ますが、その映像はNHKでも4本しか現存していないそうです。今回放送される2席はいずれも昭和30年の放送で、ちょうど落語界が戦後の黄金期を迎え、また志ん生自身も人気、実力共に絶頂期を迎えようとしていた時期の映像だけに、まさに「お宝映像」と言えそうです。 続く11日は、八代目林家正蔵(彦六)が登場。かつては「稲荷町」と言った、現在の東京都台東区東上野の四軒長屋を終生住まいとしたことから「稲荷町の師匠」と呼ばれ、頑固一徹、曲がったことが大嫌いで理不尽なことにはすぐ怒ることから「とんがり」ともあだ名されたこの人は、背景や小道具、鳴り物などを使って演じる「正本芝居噺」を継承した他、怪談噺、人情噺で名を高める一方、新作人情噺やエッセイ風落語と言うべき「随談」でも高い評価を得ました。今回は、十八番の人情噺の1つ「中村仲蔵」と、古典でも珍しい噺である「紫檀楼(したんろう)古木」を放送するそうです。 18日放送の第3週目に登場するのは、平成14年5月16日に亡くなった五代目柳家小さん。昭和47年から平成8年までの25年間に渡って落語協会会長を務め、弟子・孫弟子を合わせて落語界きっての大所帯を築き、平成7年には落語界初の人間国宝に指定されました。長屋噺や滑稽噺の演目が圧倒的に多く、落語の中でも最もポピュラーな長屋の人たちを生き生きと演じ、その人物描写力は桁違いであったと伝えられています。その長屋噺、滑稽噺の中から、顔の表情も見所の「強情灸」と「与太郎もの」の「道具屋」が放送予定とのことです。 最後に登場するのは、上方落語から今回唯一登場する二代目桂枝雀。「枝雀落語」はいつも面白く、常に変化し続けました。英語落語にSR(ショート・ラクゴ)、それに「オチ」の分類など、次々と新しい笑いに挑戦し、「究極」を追求し続けました。誰よりも落語を愛し、何よりも落語が全ての人で、誰からも愛された人でもありました。今回は、数多く遺されている映像の中から「壺算」が放送されるそうですが、今でも錆びることのない「枝雀落語」の世界を堪能したいと思っています。 以上のプログラムで、いずれも故人となった人たちが次々と登場することになっていますが、出来ればこの中に、六代目三遊亭圓生や古今亭志ん朝、上方からは六代目笑福亭松鶴といった人たちも加えて欲しかったと、個人的には思います。 ともあれ今月は、毎週水曜日の夜、往年の名人上手の高座がテレビでたっぷりと楽しめる1ヶ月間となりますので、落語ファンの皆様は決してお見逃しなく。
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「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」…。 平安時代の延長8年(930年)から承平4年(934年)、土佐の国司だった紀貫之が、その任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の出来事を綴り、承平5年(935年)頃に成立したと伝えられる「土佐日記」は、この書き出しから始まります。 男性の日記は漢文で書くのが当たり前だった当時、貫之に従った女性という設定を装い平仮名で書かれ、日本文学史上最初の日記文学と伝えられるこの作品が、その後の平仮名による表現や女流文学の発達に大きな影響を与えたことは、日本史や古文の授業で聞いたという方が多いかと思います。 落語という芸も、長らく「男の芸」でした。寄席や演芸にも造詣が深かった作家の色川武大は、「名人文楽」という文の中で、八代目桂文楽の演じる落語を「いつも(女性が大役で出てきても)男の(彼自身の)呟きだ」と指摘した上で、文楽の良きライバルだった五代目古今亭志ん生の落語も「男の語り」と述べています。これは、文楽、志ん生という2人の名人の芸風だけでなく、落語という芸そのものの本質を考える上でも興味深い指摘だと考えられます。つまり、落語の題材や設定といったものは、元来男の視点によるものであり、したがって落語に登場する女性像もそこから描かれているものだからです。 しかし、たとえ落語が「男の芸」であり、落語家の世界が「男社会」であるとしても、決して「女人禁制」と決まっていた訳ではありません。それを認識させてくれたのが、「女流落語家」という存在でしょう。 落語史上初の女流落語家が誕生したのは、昭和49年。二代目露乃(露の)五郎(現在の露の五郎兵衛)に入門した露の都がその人。18歳で「男社会」である落語界へ飛び込んで以来、想像を絶する苦労があったものと思われますが、それを苦にせず落語に打ち込み、平成3年からは史上初の「東西女流落語会」を主宰。また、平成13年8月からは、大阪・東大阪市で「露の都の古典落語百選」と題した落語会を毎月1〜3回のペースで行ない、平成17年10月13日、大阪・難波の「ワッハ上方」での119回目で百席目を達成して完結させました。私生活では6人の子供のお母さんだそうで、落語家としての活動とは別に、落語への思いや家事、子育ての体験などを語る講演活動も精力的に行なっているそうです。 落語界全体に及ぼした影響力という面においては、露の都以上と言っても過言ではないと言えるのが、五代目桂文枝門下の桂あやめ。中学生時代から芸人に憧れ、当時は「桂小文枝」を名乗っていた文枝の「追っかけ」をやっていたという彼女。入門を志願した所、女性の弟子を取るつもりのなかった師匠は、「うちの弟子は車の運転ができなあかんねん」と言って断ろうとしたのですが、それを「憧れの師匠のありがたいお言葉」として受け取ったのか、断られたその足で2週間の合宿へ行き免許を取得。無事入門が叶い、「桂花枝(はなし)」という芸名でデビュー、平成6年に現在の芸名を襲名します。この「桂あやめ」という芸名は師匠の最初の芸名であり、彼女は3代目に当たるそうです。指名手配中の殺人犯の犠牲になりかけたり、「SM大喜利」というイベントを行なったり、「姉様キングス」という音曲漫才で脚光を浴びたり、落語以外での活躍や話題にも事欠かない人ですが、この人の落語界での一番の功績は、それまでの男主体の古典落語では皆無だった女の視点を創作落語に取り入れ、まさに「女性の落語」を開拓したことです。平成14年には芸術祭優秀賞を受賞。落語家生活25周年の節目の年に当たり今年は、今月3日から7日までの5日間、それを記念した落語会を開催した他、昨年9月に開催された上方落語協会主催の第16回「彦八まつり」では、「丁稚カフェ」を称した屋台(丁稚に扮した高校生が「旦さん、お帰りやす!」と言って客を出迎える趣向だったとか)を出店したりと、精力的に活動を続けています。 現在は上方だけでなく、東京でも女流落語家が増え、続々と真打ちに昇進しています。
更に、この秋から放送の朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』は、福井・小浜出身のヒロインが大阪に出て落語家になるというストーリーだそうです。 「男もすなる落語といふもの」も、今や「女もするもの」としてその地位が確立されたと言っても良いでしょう。 |
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上方落語に「おごろもち盗人」という噺があります。東京では「もぐら泥」という題名で演じられています。 以前、テレビでこの噺が演じられた時、「『おごろもち』とは何か?」ということを、わざわざスケッチブックを用いてマクラで説明していたのを見たことがあります。東京での演題からもお察し出来るでしょうが、「おごろもち」とは上方言葉で「もぐら」のことを指すのですが、最近では、関西でもこの言葉が滅多に使われず、したがって「おごろもち」なるものが何を意味するのかも知らない人が多いということが、このエピソードから分かりました。 古典落語の中には、今では廃れてしまった「日本語」が多く残っています。それらの中からいくつか紹介してみましょう。 先ずは、これからの季節になると頻繁に演じられる「船徳」。 道楽が「道を楽しむ」だけでは納まらず「道に落ちる」所まで行ってしまった末に勘当され(この「勘当」という言葉も説明が要るのですが、今回は割愛させて頂きます)、馴染みの船宿に居候する若旦那の徳さん。粋な船頭姿に憧れて船頭になりたいと言い出します。浅草観音の四万六千日のお暑い盛り、船頭が出払っている所に馴染みの客が2人やって来ます。幸か不幸か1人残っていたのが俄か船頭の徳さん。女将が止めるのも聞かず客を乗せて、威勢よく船を出そうとしますが、いくら棹をさして力を入れても船が出ない。そこへ客が一言、 「出る訳がねえじゃねえか。まだ舫ってあるじゃねえか」 この「舫う」(もやう)とは、杭などに船が綱が繋ぎ止められている様子を表わす言葉で、この噺を十八番にしていた八代目桂文楽が活躍していた時代にはストレートに通じていたのですが、最近では簡単に通じないらしいのです。やはり「船徳」を得意としていた古今亭志ん朝は、「まだ繋いであるじゃねえか」という客の指摘に対して、徳さんが「舫ってありました」と答えるというふうに演じていました。 通常「上・中・下」と3つに分けて演じられることが多い、長編人情噺「子別れ」。その「下」の別題は「子は鎹(かすがい)」。 訳あって女房、子供と別れて暮らす大工の熊五郎が、ある日、偶然その息子の金坊と出会い、健気な母子家庭の近況を聞き、大金を与えて翌日鰻屋で再び会う約束をします。大金を握っていることに気付いた母親から、その出所を言わないと玄翁(げんのう)で叩くと言われた金坊は、父親と会ったことを明かし、翌日親子3人は再会して復縁を果たします。 「お前さんと一緒になれるのもこの子のお陰。本当に『子は鎹』ですねえ」 母親のこの言葉を聞いた金坊の「あたいが鎹かい。だからおっかさんはあたいを玄翁でぶとうとしたんだ」というのが、この噺の「落ち」になりますが、この「鎹」とは、建材の合わせ目を繋ぎ止めるために使われる「コ」の字形の大釘のことで、玄翁は金槌の大きいものです。夫婦を繋ぎ止めるから「子は鎹」という訳ですが、今では鎹がどんなものかが分からない人が多いため、この「落ち」も通じ難くなっているようです。 「竈幽霊」、それに上方落語の「竈盗人」と、題名にも使われている「竈」(へっつい)。 「竈」とは火を焚いて煮炊きをする設備のことで、つまり「かまど」と同じなのですが、最近ではその「かまど」でさえ何のことなのか分からない人も多いようです。 この「竈幽霊」に関して、落語に関する著書を多く遺したエッセイストの江國滋さんが面白いことを書いています。高校で国語教師をしていた江國さんの知人が、「竈幽霊」のテープを聞かせたところ、「竈」も「かまど」も何か分からなかったそうで、「落語も注釈付きで鑑賞する時代が来たようだな」と言ったそうです。江國さんはこれを例にとって、「わからないものはやむをえない」としながらも、「この落語のおもしろさはわかるはずである。竃という何だかわけのわからない品物をめぐる騒動記だな、とそれだけわかれば、あとは自然に笑えるように出来ているのが落語である」と述べています。これは、落語の聞き方に関しても大変興味深い意見であると思います。 たとえ分からない日本語が出てきても、「自然に笑えるように出来ている」のが落語ならば、その分からない日本語が一体何を意味するのかを知るきっかけとなるのも、また落語なのだと思います。
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