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「座布団一枚のまっさらな舞台に、たったひとりで上がり、語りと仕種で観客をどっと沸かせる。こんな芸は、世界にも例がない。噺家自身や落語好きの証言を交え、江戸時代以来、庶民に愛され続けてきた大衆芸能、落語の魅力を今一度繙く(ひもとく)」―。 こんな一文から始まるのが、現在発売中の雑誌「サライ」(小学館)2月15日号の「大型特集・落語再入門」です。 「サライ」は、毎月第1・第3木曜日に発売されている主に中高年の男性をターゲットにしている雑誌で、毎号バラエティー豊かなテーマが取り上げられています。 今回は落語の特集ということで、表紙は五代目古今亭志ん生。「没後30余年を経て、なお愛され続ける噺家・古今亭志ん生。貧乏、借金、酒。その全てを芸の肥やしとした」と紹介されています。いつ撮影されたものかは分かりませんが、顔に刻まれた皺が、この稀代の噺家の人生そのものを物語っているかのようでインパクトがあります(昨夜放送された、広島・RCCラジオの番組でこの雑誌の紹介をされた際にも、表紙のインパクトについて語られていました)。 その志ん生の「芸」と「人となり」を追った「古今亭志ん生、落語を生きる」を中心に、落語の歴史を落語史上に残る落語家たち、それに東西現役の落語家たちを紹介した「古今東西、噺家列伝」。落語を演じる際の衣裳や、扇子と手拭いを使った様々な仕種を十代目金原亭馬生門下の五街道雲助師の実演写真で紹介し、また名作と呼ばれる古典落語をピックアップ。更に寄席や落語会などでお馴染みの「寄席文字」も取り上げた「落語鑑賞のツボ」、江戸の蕎麦や鰻、上方のうどんなど、落語ゆかりの食べ物とその老舗の名店を紹介した「落語を彩る『老舗の味』」、それに定席や地域寄席、テレビ・ラジオにCDからインターネットまで、今日の様々な落語の楽しみ方に迫った「全国『落語処』案内」と、落語ファンにとっても、落語を知らない人にとっても、十分楽しめる内容となっています。「全国『落語処』案内」では、東京や大阪といった落語の「メッカ」だけでなく、北海道から九州の福岡、大分に至るまで、意外と思える土地でもホール落語や地域寄席が盛んに行なわれていることや、有料とはいえインターネットでも気軽に落語を楽しめることを知り、正直驚きました。 この特集の「まくら」として柳家小三治師の、そして本誌巻頭には現役最高齢の落語家である桂米丸師のインタビューがそれぞれ掲載されています。僕が米丸師を初めて知ったのは、テレビの『お笑いスター誕生』の審査員としてでしたが、現在81歳とは思えないほど若々しい雰囲気を保っているのには頭が下がる思いがしました。小三治師の、師匠である五代目柳家小さん師とのエピソードや、独自の視点による落語論も一読の価値があります。落語好きの代表としては、解剖学者・養老孟司、活動弁士・澤登翠、ジャズピアニスト・山下洋輔の3人が登場。それぞれの落語への思いを語っていますが、山下さんの「僕のフリー・ジャズの根底には落語の笑いがある」という記述が特に印象的でした。落語とジャズは相通ずるものがあるとよく言われ、落語好きにはジャズファンが多いとも言われますが、それが立証されたかのような印象を受けました。 特別付録として、三代目三遊亭金馬「やかん」、五代目小さん「長屋の花見」、六代目笑福亭松鶴「ひとり酒盛」の3席が、「般若心経」読経とセットで収録されたオリジナルCDが付いております。 「落語再入門」ということですが、落語とは何度「入門」しても、常に新しい発見がある奥の深い芸能ではないかと思います。最近は「落語ブーム」と言われていますが、このようにスポットライトが当たっている限り、落語という芸は安泰であり、不滅ではないかと感じた次第です。
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落語
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十代目金原亭馬生。五代目古今亭志ん生の長男にして、古今亭志ん朝の兄でもあります。 「不世出」の落語家として今日でも絶大な人気を誇る父や、若い頃から華やかさを持っていた弟に比べると地味な存在であり、昭和57年9月13日に54歳の若さで亡くなったこの人は、僕にとって「間に合わなかった落語家」の1人です。 志ん生の長男であった馬生は、その父に対して、息子としても落語家としても複雑な思いを抱き続けていたようです。演芸評論家の矢野誠一さんによると、ある酒の席で、コップ酒を一気に飲み干した馬生は、「はっきり言いますが、私は親父が好きじゃない。人の親としては駄目ですよ。皆さん方は他人だから、自由で面白いなんておっしゃいますが、あの物のない時代、一家を放り出して満州に行かれちゃって、残された者はどれだけ苦労したか」と、戦時中に父が満州へ慰問に行った時のことに触れ、批判的な意見を述べたそうです。また、今では「伝説」と化している感のある貧乏暮らしについても、「面白おかしく語られるのは、家族としては迷惑な話です」と語っていたといいます。 家庭を顧みない父を「反面教師」とした馬生は、家庭人としては頗る健全であったという反面、酒を愛したことは父譲りで、専ら酒だけを飲み、肴には手を付けない飲み方だったそうです。 馬生の父に対する「反発」は、芸の上にも表われていました。戦時中落語家となり、若手落語家の数が少なかったことから、前座を経験することなくいきなり二つ目から出発した馬生は、「親の七光り」と周囲から冷たい目で見られ、昭和24年に21歳の若さで真打ちに昇進した後も、評価は芳しくありませんでした。しかし、季節感を前面に出し、独自の視点や解釈で噺を演じる芸風を次第に確立して、観客だけでなく落語家仲間からも高い評価を得るまでになります。その反面、父・志ん生の天衣無縫さや「ぞろっぺえ」な魅力が欠けていたとも言われています。例えば、志ん生十八番の「火焔太鼓」を演じた時、甚兵衛さんが太鼓を背負って大名屋敷へ行く場面を、「実物は背負って運ぶことは出来ない」という理由から大八車で運ぶ演出に変えて演じ、馬生は父から「だからおめえは駄目だってんだ」と叱られたという、2人の落語観の違いを象徴するエピソードが残されています。このように父とは対照的な芸風だった馬生も、志ん生を踏襲した演出を六代目三遊亭圓生から批判された時、「そう言われても、父の言われた通りにやります」と泣きながら答えたことがあったそうです。 画家になりたいと思っていたこともあり、日本画の腕前は玄人はだしだったそうです。俳句や日本舞踊も得意としていた他、家でも和服姿を通すなど、趣味も生活も一貫して「純日本風」を貫いた辺りに、この人の「美学」が感じられます。 昭和57年9月13日に54歳で亡くなった時、訃報と年齢を聞いて驚いた落語ファンは多かったといいます。それだけ老成した風貌の持ち主でしたが、芸風とよく似合っていたと、この人の落語を聴きながら感じました。弟の古今亭志ん朝も、平成13年10月1日に63歳で亡くなっており、志ん生の血を受け継いだ2人の落語家が共に早死にしてしまったことは悔やまれます。
父・志ん生との葛藤の中で落語家としての地位を確立した十代目金原亭馬生。今頃は彼岸で父や弟と酒を酌み交わしながら、最近の「落語ブーム」を見守っていることでしょう。 |
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八代目林家正蔵の名前は知らなくても、「林家彦六」という名前は、落語を聞いたことのない人でも1度は聞いたことがあるかもしれません。 晩年のちょうど1年間、この隠居名と言うべき「彦六」を名乗った八代目正蔵が、昭和57年1月29日に86歳でこの世を去って以来、もう四半世紀が過ぎました。 人物事典を引くと、大体が「八代目林家正蔵(彦六)」、または「林家彦六」として紹介されることが多いのですが、なぜ、最晩年「彦六」を名乗ったかについては次のような事情がありました。 元々「林家正蔵」の名跡は七代目正蔵の海老名家が預かっていましたが、昭和25年、五代目柳家小さんを継げなかった当時の五代目蝶花楼馬楽が、それに代わる名跡として八代目林家正蔵を襲名することになり、「一代限り」の約束で海老名家から借り出します。自分の死後、直ちに七代目の子である林家三平に返上することになっていましたが、その三平が昭和55年9月20日、自分よりも先に54歳で亡くなってしまいます。三平の供養のため、八代目は名前を海老名家に返還し、自身は「彦六」という名前を新たに名乗ることになったのでした。尚、亡くなった後、献体をしたことも話題となりました。 かつては「稲荷町」と言った、現在の東京都台東区東上野の四軒長屋を終生住まいとしていたことから、「稲荷町の師匠」と呼ばれた正蔵は、頑固一徹、曲がったことが大嫌いな性格で、理不尽なことにはすぐに怒ることから、「とんがり」とあだ名されていました。例えば、寄席に通うために買った電車の定期券を、他の用事で同じ電車に乗る時には決して使いませんでした。これは、「寄席に通うために使うものは、あくまで寄席に通うためだけに使う」という、この人なりの筋の通し方と考えられています。また、ある新聞に「落語家も桂文楽(八代目)、古今亭志ん生(五代目)、三遊亭金馬(三代目)、春風亭柳橋(六代目)とここまでくると次の指が折れない」と書かれていたのに激怒して、「お前さんの小指はリウマチじゃないのか」と書いたハガキを文章の主宛てに速達で送った上、三十数年とっていたその新聞を読むのをやめてしまったというエピソードも伝えられています。 稲荷町の同じ長屋には、「留さん」の通称で親しまれた九代目桂文治も住んでおり、悪口を言い合いながらも終生友情で結ばれていたといいます。いかにも古き良き芸人の風情を漂わせる一方、普段は洋服を愛用したり、朝食はいつもジャムを塗ったトーストにコーヒーという、現代的な生活を好む一面も持っていたそうです。弟子や若い落語家に振る舞う「牛めし」も名物となっていました。 若い頃は不遇だったという正蔵は、背景や小道具、鳴り物などを使った演じる「正本芝居噺」を継承した他、人情噺、怪談噺で名を高める一方、さくらんぼの種を食べた男の頭に桜の木が生えるという「あたま山」のようなナンセンスな噺も得意としていました。また、新作人情噺に積極的に取り組んだり、エッセイ風落語と言うべき「随談」にも定評がありました。伝統を継承しながら、新しいジャンルも開拓し続けた正蔵の芸風は、長屋住まいを貫きながら現代的生活も好んでいたという素顔の部分と相通ずるものがあったと言えます。 現在では、落語界活性化を願う正蔵の意志を汲んで、若手落語家を顕彰する「林家彦六賞」が制定されています。「彦六」の名前といい、弟子の林家木久蔵の物真似などで知られる独特のスローテンポの語り口といい、最晩年のイメージが強いようですが、「彦六」よりもずっと長かった「八代目林家正蔵」も、今以上に再評価されて良いと思います。因みに、かつて正蔵たちが暮らしていた四軒長屋の後は、現在ではコインパーキングになっているそうです。
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正月ということもあってか、全くと言って良いほど話題になりませんでしたが、1月3日は、平成13年のこの日に亡くなった四代目桂三木助の7回忌でした。 健在ならば今年50歳。スキャンダルやトラブルなどを重ねた末の最期は哀れさも漂うものでしたが、今日落語ファンの間でも、「忘れられた存在」となりつつあるように感じられるのは寂しい限りです。 四代目三木助が生まれた昭和32年、父の三代目桂三木助は、ちょうど落語家として最盛期にありました。 三代目三木助は、今でこそ戦後を代表する落語家の1人として語り伝えられていますが、そこに至るまでには多くの紆余曲折がありました。 東京・湯島の床屋の子として育った三木助は、大正8年に落語家となりますが、それから4年後に関東大震災が起きたことで大阪へ逃れ、ここで二代目桂三木助の預かり弟子となります。実は三木助の生い立ちは複雑で、床屋の実子ではなく、実父は二代目三木助という説もありましたが、近年これは間違いであることが明らかにされています。大正の末に東京に戻り真打ちに昇進しますが、一時は落語家を廃業して日本舞踊の師匠となったり、また博打にのめりこむ自堕落な生活を送った時期もありました。 荒んだ日々を過ごしていた三木助が、落語家として認められるようになったのは戦後のこと。そのきっかけとなったのは、踊りの弟子で後に結婚する仲子さんとの出会いでした。25才年下の仲子さんの支えもあって、再び落語に打ち込むようになった三木助は、昭和25年、三代目三木助を襲名し、ここから名人への道を歩み始めます。襲名前年の昭和24年に始まったNHKのラジオ番組『とんち教室』にレギュラー出演したことで、落語を聴かない人たちの間にも知名度が広がりました。 「江戸前」「粋」「いなせ」という言葉を体現したような芸風だったという三木助の、十八番中の十八番が「芝浜」です。三遊亭圓朝作の「芝浜」は、飲んだくれの魚屋が芝の浜で大金の入った財布を拾うも、女房から夢と諭され、酒を止めて魚屋の仕事に打ち込みます。しかし、数年後の大晦日の晩、女房は亭主に嘘をついていたことを白状するという人情噺。三木助は、自ら博打に溺れていた時期の体験を踏まえながら、この噺を文学性の高い一席に仕上げ、落語の素晴らしさを広く一般に知らしめるきっかけにもなりました。昭和29年にはこの噺で芸術祭奨励賞を受賞しています。 演芸評論家の安藤鶴夫から「名人」と持て囃されましたが、「本人にとっては重荷だったのではないか」という説もあります。五代目柳家小さんとは、共に本名が「小林」だったことから義兄弟の盃をかわす程の大親友で、晩年に生まれた長男には、小さんの本名と同じ「盛夫」と名付けました。この長男こそ、後に「四代目三木助」を継ぐことになります。 三代目桂三木助が亡くなったのは昭和36年1月16日のことで、まだ59歳という、落語家としてまだまだこれからという若さでした。もしせめてあと10年長生きしていたら、落語家としての評価は更に高まり、真の「名人」の域に達していたことでしょう。またこの人の早過ぎた死が、後の四代目三木助の人生にも暗い影を落としてしまったような気がしてなりません。
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小さい頃から、日曜日の夕方に「笑点」をよく観ていましたが、落語という芸そのものに興味を持ち始めたのは、小学校5、6年生の頃でした。 広島県尾道市という落語や寄席とは殆ど無縁の地に住み、また家にも落語に関するレコードやテープを持っていなかった当時、落語と言えばテレビやラジオで見聞きするか、或いは「子ども落語」など、落語についての本を学校の図書館で借りて読むくらいでした。 そんな僕が初めて買った落語の本は、「落語文化史・笑いの世界に遊ぶ」(朝日新聞社)という本です。 この本を買ったのは昭和62年の1月。奥付を見ると、発行日は「昭和六十一年十二月十日」と記してあります。つまり、今からちょうど20年前に出され、手に入れた本ということになります。 この記事を書くにあたって、久しぶりにこの本に目を通してみました。 先ず、写真構成の「東京の落語家たち」「上方の落語家たち」では、東西の落語家たちが紹介されています。東京からは当時の落語協会会長・柳家小さん、同じく当時の落語芸術協会会長・桂米丸の両師匠を筆頭に、柳家小三治、古今亭志ん朝、入船亭扇橋、立川談志、三遊亭圓楽、橘家圓蔵、桂小南、上方からは桂米朝、桂小文枝(後の五代目文枝)、桂春團治、露乃五郎(現在の露の五郎兵衛)、桂枝雀、笑福亭仁鶴、桂三枝といった面々が取り上げられています。このうち、小さん、小文枝の東西の重鎮だけでなく、これからの落語界を背負って立つはずだった志ん朝、枝雀の両人も既にこの世を去っていて、巻末にある昭和61年8月現在の「落語家名鑑」と合わせて、20年という歳月が決して短くはないことを痛感させられます。 その他の記事を挙げてみると、演劇評論・作家として活躍した戸板康二氏の「落語の中の江戸」、実の兄が落語家だったという作家・都筑道夫氏の「落語育ち」、表紙の五代目古今亭志ん生と八代目桂文楽のイラストも手がけている山藤章二氏の「偉大なる無為の世界」、雑誌「上方芸能」編集長・木津川計氏の「笑いの風土―大阪」といったエッセー、江戸文学研究の大家であった暉峻(てるおか)康隆氏の「落語の歴史」に、テレビの落語番組の解説でも知られた劇作家・榎本滋民氏による「古典落語特選」と、演芸評論家・小島貞二氏による寄席や落語家についての解説で構成された「落語事典」など、落語に造詣の深い人たちの文章に加えて、三遊亭圓朝から六代目三遊亭圓生までを取り上げた「名人列伝―落語の黄金期を築いた十人」、落語とも縁の深い江戸っ子や庶民の暮らし、遊廓、職人などをテーマにしたコラムと、内容・執筆者共に充実しています。 小さん・小三治の師弟対談「噺家の世界―話芸の伝承」も、今では貴重です。「師匠の噺は高座の“ソデ”で覚えた」「人物描写がちゃんとできれば、噺はおもしろい、客は必ずついてくる」「この噺はお客様がきょうはじめて聴くんだ、そう思って喋らなきゃいけない」などといった小さん師匠の発言は、芸談としても、落語論としても重みと味わいが感じられます。 ここ何年かの落語ブームの影響もあって、多くの落語に関するガイド本が出版されていますが、それらのものと比べても、この「落語文化史」は内容が充実していて、資料的価値も十分にある一冊です。
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