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僕は昭和50年、1975年の生まれです。 昭和50年のプロ野球界を振り返ってみると、セ・リーグでは、古葉竹識監督率いる広島東洋カープが「赤ヘル旋風」を巻き起こし、球団創設26年目にして悲願の初優勝を遂げた一方で、長嶋茂雄監督が就任した読売ジャイアンツが球団史上初の最下位に転落。一方のパ・リーグでは、「指名打者制度」が導入され、ペナントレースでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスが優勝。日本シリーズでも広島を破って、初の日本一に輝きました。日本プロ野球界に「新しい風」が吹いた年であったと言えるかもしれません。 この昭和50年という年は、現在でも語り継がれる外国人選手が揃って来日した年でもありました。先ず、広島の初優勝に貢献したゲイル=ホプキンスとリッチ=シェーンブラムの2人。共にこの年就任した、日本プロ野球史上初の外国人監督・ジョー=ルーツが連れて来た選手で、シェーンブラムは呼びやすく「シェーン」としました。ホプキンスは大リーグ3球団に在籍した現役選手で、山本浩二、衣笠祥雄とクリーンアップを組んで勝負強さを発揮。特に10月15日、後楽園球場での優勝決定試合で9回に放った3ランは今でも語り草となっています。昭和51年には主に4番を打ちました。ホプキンスのもう1つの顔は「医者の卵」で、ベンチ裏ではいつも分厚い医学書を読み、広島大学医学部にも通うなど勉強を怠らず、現在ではアメリカで開業医をしているそうです。一方のシェーンは、7球団で活躍したスイッチヒッターで、5月17日の沖縄での大洋ホエールズ戦で、日本プロ野球史上初めて左右両打席でホームランを打ち、また、この年は満塁ホームランを2本も放ちました。 同じ年、阪急にはボビー=マルカーノとバーニー=ウイリアムスの2人の外国人が加入しました。メガネがトレードマークだったマルカーノは、攻走守三拍子揃った二塁手で、守備ではダイヤモンドグラブ賞に4回選出され、打撃では一発と粘り強さを併せ持ち、4番を打つこともありました。ヤクルトスワローズに移籍後も堅実なプレーを見せ、10年に渡って日本で活躍しました。先祖が日本人と伝えられ、本人も日本人のような風貌の持ち主でした。残念ながら、肺ガンのため、平成3年に39歳で亡くなっています。ウイリアムスは、特に俊足と守備範囲の広さでチームを救い、来日1年目には32盗塁を記録し、その後もマルカーノと共に上田阪急の4連覇に貢献しました。 昭和50年に来日した外国人選手で、もう1人忘れられないのが、巨人のデーブ=ジョンソン。「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄が引退して監督に就任。その後釜として入団したジョンソンは、巨人では久々の外国人選手として期待と注目を集めますが、その1年目は打率1割9分7厘、本塁打13本、38打点という成績で、球団史上初の最下位に見事に貢献(?)しました。翌昭和51年には成績が向上しますが、長嶋監督との関係が悪化したこともあってこの年限りで退団。その後、メジャーリーグのニューヨーク・メッツの監督としてワールドシリーズを制覇し、再び日本でも注目を浴びました。こちらの方が印象に残っているファンも多いことでしょう。 これらの選手たちの他にも、阪神タイガースには、ロッテオリオンズから移籍したジョージ=アルトマン、中日ドラゴンズにはジーン=マーチン、大洋ホエールズにはクリート=ボイヤーにジョン=シピン、近鉄バファローズにはクラレンス=ジョーンズ、太平洋クラブライオンズにはドン=ビュフォードなど、個性豊かな外国人選手が昭和50年には活躍していました。 外国人選手をテーマに、昭和50年のプロ野球について振り返ってみました。この頃の「助っ人」たちは、現在よりも独特の個性を持った選手が揃っていたように思います。自分が生まれた年のプロ野球のことについては興味が尽きません。
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プロ野球
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このブログの「プロ野球」のコーナーの記事を御覧になればお分かりになると思いますが、僕はプロ野球のユニフォームのデザインについてはかなりこだわりを持っている人間です。その僕から見て、最近の12球団のユニフォームを見渡してみると、「なんだかなあ…」と思ってしまうものが多いように感じてしまいます。 最近では日本人メジャーリーガーが次々と登場したこともあって、アメリカのメジャーリーグも以前よりも身近なものになってきましたが、日本のプロ野球が、どうしても「本場」には叶わないと思うものの1つにユニフォームがあります。1970年代から80年代にかけてはシカゴ・ホワイトソックスやヒューストン・アストロズに代表されるように、「アバンギャルド」を極め尽くした感じのユニフォームもありましたが、行き着く所まで行ってしまったのか、最近ではどのチームも伝統のスタイルを復活させたり、シンプルなデザインを採用しています。そしてそれぞれが洗練されている。日本のプロ球団が、向こうのユニフォームを参考にするのも当然だと思うし、大袈裟な言い方をすれば、それらを通じて「歴史やレベルの差」というものまで感じてしまいます。 それに比べると、日本のプロ野球のユニフォームを見ていると、何となく野暮ったい印象を持ってしまいます。試みに、現行12球団のユニフォームを「独断」と「偏見」で分析した場合、次のようになります。 ○セ・リーグ 読売ジャイアンツ:×、「新しさ」をアピールしているつもりが、前立てラインを残すなど、いまだに「ミスター」を引き摺っているのがいただけない。スマートさと重厚さを兼ね備えた、かつての「Wライン」ユニフォームの復活を期待している巨人ファンは案外多いのではないか。 阪神タイガース:○、現在の「タテジマ」は洗練されていると思う。但し、来年から岡田監督の意向で黄色を取り入れるというのが気になる。ビジター用の帽子の「HT」マークなどのさりげない所で使ってみるというのはどうだろう。 中日ドラゴンズ:×、「オレ竜」の人気が今一つである最大の要因はこのユニフォームにあると思っている。個人的には以前の「ドジャース風」の復活を願う。ただ、帽子の「CD」マークを復活させたことは評価したい。 広島東洋カープ:△、ファンの間では賛否があるが、個人的には筆記体の「Carp」ロゴはスマートで気に入っている。ただ、ストライプとビジターの色違いはどうしても馴染めない。前々から言っているのだが、ホーム・ビジター共にストライプを廃止して、襟・袖・脚に赤いラインを入れたユニフォームを取り入れるべきだと考えている。 東京ヤクルトスワローズ:×、カープと逆で、ホーム用ユニフォームのストライプを廃止してしまったのが今となっては惜しいと思うので、是非復活して欲しい。また、ビジター用ユニフォームも、グレーにストライプを入れたものが良いと思っている。 横浜ベイスターズ:○、ホーム・ビジター共に気に入っているが、やはりビジター用はグレーのものにリニューアルして欲しいと思う。 ○パ・リーグ 福岡ソフトバンクホークス:×、「強いホークス」の唯一最大の欠点はユニフォームだと思っているのは自分だけだろうか。南海ホークスの「緑」とダイエーホークスの「オレンジ」を融合したユニフォームが見たいと思う。 西武ライオンズ:×、個人的には「初代」のユニフォームがホーム・ビジター共に好きだったので、変遷を重ねていくごとに段々「カッコ悪い」印象のものになっているのが見ていて辛い。斬新さよりもシンプルさをアピールしたものにリニューアルして欲しい。 千葉ロッテマリーンズ:○、バレンタイン監督の功績の一つは、現在のユニフォームを採用したことだと思う。何種類ものユニフォームを試合ごとに採用しているのも「ファンサービス」として好ましい。しかし、以前のグレーのビジターユニフォームを廃止してしまったのは勿体無い。 北海道日本ハムファイターズ:○、「ストライプ」と「アバンギャルド」が交互に登場している感のあるファイターズのユニフォーム。現在のものは「アバンギャルド」に見えて、甲冑をモチーフにするなど、独特のオリジナリティーが感じられ、しかも洗練されているのが良い。 オリックスバファローズ:×、「バファローズ」でありながら、完全に「オリックスブルーウェーブ」のユニフォームを継承している。袖の「近鉄」のワッペンが痛々しい。旧「近鉄」組は、「罪悪感」や「良心の呵責」に苦しみながらこのユニフォームに袖を通しているに違いない。 東北楽天ゴールデンイーグルス:△、チームカラーに「臙脂色」を採用したことは評価しているが、デザインがJリーグのヴィッセル神戸と同じというのが何となく気になる。ビジターのロゴが「RAKUTEN」なのもどうかと思う。ホームと同様「EAGLES」にするか、「SENDAI」にすべきである。 以上、12球団のユニフォームを分析してみましたが、やはり「良い」と思うものは少ないです。ユニフォームはそのチームの「顔」であり、「看板」でもあると思います。だから、全てのチームのユニフォームが誰からも馴染んでもらえるもの(それが一番難しいのですが…)であって欲しいです。
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僕がプロ野球中継を観るようになり、プロ野球というものに興味を持ち始めたのは、小学校へ入学する前後だったと記憶しています。 初めのうちは家族と共にテレビの中継を観るのが主でしたが、それからラジオの中継も聴くようになり、当時、試合開始から放送することが殆どなかったテレビよりも、ラジオの中継を熱心に聴いていた時期もありました。 この頃は、野球解説者の人たちも現在よりも強い個性があり、また今でも忘れ難い人たちが多くいます。 僕の場合、どうしても広島の野球解説者が中心となってしまいますが、先ず、ラジオ・テレビ兼営局であるRCC中国放送(TBS系)には、金山次郎・長谷川良平という2人の「名物解説者」がいました。金山さんは、昭和50年10月15日のカープ初優勝決定試合の解説も務めた方で、昭和50年代の「赤ヘル黄金時代」を解説の立場から見守ってきたと言える人です。「スポーツ放送は明るく」が口癖だったそうで、語り口には独特のユーモアがありました。昭和59年のシーズン開幕直前に亡くなられましたが、まだ61歳だったそうで、まだまだこの人の解説が聴きたかったです。今年7月29日に亡くなった長谷川さんは「辛口解説」が売りでしたが、今となってはむしろ晩年の「好々爺」然とした雰囲気がより印象深く残っています。RCCの解説者には、他に大石清、池田英俊、高橋里志といった人たちがいました。 広島の野球解説者で思い出に残る人たちを挙げていくと、昭和50年代には、広島テレビ(日本テレビ系)は濃人渉(のうにん・わたる)、テレビ新広島(フジテレビ系)は森永勝也、広島ホームテレビ(テレビ朝日系)は国貞泰汎(くにさだ・やすひろ)という面々がいました。濃人さんは、戦後間もなく発足した「国民リーグ」に所属した経験を持ち、中日ドラゴンズとロッテオリオンズの監督を務めた他、社会人野球の日鉄二瀬監督時代には、後のカープ監督・古葉竹識の「恩師」であったことでも知られています。全国中継には登場することはあまりなかったようですが、広島ローカルのテレビ中継ではお馴染みの人でした。森永さんは、昭和30年代のカープの主力打者の1人で、「プロ野球ニュース」の解説を20年近く担当していました。広島・呉出身の国貞さんは、南海ホークスから地元球団・カープに移籍した経歴の持ち主で、現役引退後、広島で居酒屋を経営しながら解説者として活動していました。平成6年に解説者を退きましたが、現在でも居酒屋経営を続けながら、少年野球チームを指導しているそうです。 広島以外の野球解説者では、NHKは、「東西のドン」であった鶴岡一人・川上哲治の2人に、藤田元司、広瀬叔功、それに加藤進といった顔触れが記憶に残っています。加藤進さんという人は、中日OBで現役時代の実績は乏しかったそうですが、解説者としては馴染みの深い人でした。広瀬さんは現在でも広島で評論家として活動されています。日本テレビは青田昇、金田正一、村山実、山内一弘などこれまた錚々たる顔触れ。村山さんは、広島市民球場でのカープ―タイガース戦でも解説をしていました。この他、TBSには松木謙治郎、田宮謙次郎、フジテレビには別所毅彦、荒川博、豊田泰光、土井淳、土橋正幸、テレビ朝日には野村克也、秋山登といった人たちが解説者として活躍していました。 関西の野球解説者で特に今でも印象深いのは、阪神タイガースなどでキャッチャーとして活躍した「ヒゲ辻」こと辻佳紀。「ズームイン!朝」にもレギュラー出演していて、昭和60年に阪神タイガースが21年ぶりに優勝を果たした時も元気だったのに、それからわずか数年で40代で世を去ってしまったのは残念でした。 考えてみると、僕がテレビやラジオのプロ野球中継に親しみ始めた頃、ここに挙げた人たちの選手としてのキャリアを殆ど知らずに解説を聴いていた訳です。それが今では選手としてのキャリアを知っている上に、解説者としては「…」という人が多いようにも感じます。だからこそ、この人たちのことを余計に懐かしく思ってしまうのです。
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横浜高校のエース・松坂大輔が、「超高校級」と評されるピッチングで甲子園を沸かせ、「平成の怪物」と称されたのは平成10年夏のことでした。 この年は、松坂以外にも多くの優秀な高校生選手を輩出し、その後ドラフトで西武ライオンズに入団した松坂を筆頭に、プロ・大学・社会人でそれぞれ目覚しい活躍を見せるようになります。そして、昭和55年4月2日から翌年4月1日生まれの彼らを、マスコミはいつしか「松坂世代」と呼ぶようになりました。 「松坂世代」という言葉がもはや忘れられつつあった今年、彼らと同級にあたる1人の選手が、駒沢大学から社会人の日産自動車を経て、広島東洋カープに入団しました。 彼がプロ入りするにあたって、先ず世間から注目されたのがその名前。実家が広島県三次市で江戸初期から続く浄土真宗本願寺派のお寺という彼の名前は「梵英心」(そよぎ・えいしん)。この姓は、仏教用語から由来しており、真宗僧侶が明治初期に名字を公称する際に命名したのだそうです。読み方については、「『梵』の字の“梵”を“風”にとらえ、“林”に“風”が吹いて“そよぐ”としたのでは」と、梵の父・照英氏は語っているそうです。次に驚かされたのは、新入団選手会見での発言でした。「1番・ショートの定位置を奪い、1年間守る。新人王も狙う」。 監督が「ミスター赤ヘル」山本浩二から、チームでは31年ぶり、2人目の外国人であるマーティー=ブラウンへと交代。長年ショートの定位置を守り、チームの精神的支柱でもあった野村謙二郎が引退し、その後継者の育成も課題の1つであった今年のカープ。そうした状況の中で、この昭和55年10月11日生まれ、開幕時点で25歳のルーキーは、3月31日の中日ドラゴンズとの開幕戦(ナゴヤドーム)で「6番・セカンド」でスタメンに抜擢。早速プロ初安打を放ち、華々しいデビューを果たします。シーズン当初は低迷していた打率が上昇し始めたのが、4月27日の地元・広島市民球場での巨人戦。プロ21年目の桑田真澄からプロ初本塁打を放ったことがきっかけとなり、最終的には2割8分9厘まで打率を上げます(因みに、この日は大好きだったという祖父の告別式と重なっていたそうです)。打撃・走塁の面で注目すべき点は、それまでのチームの新人最多安打記録112本を大幅に超える130本のヒットを放ったこと、そして両リーグ最多の8本の三塁打にチームトップの13盗塁を記録したのに加え、得点圏打率も3割5分を超える働きを見せたことです。一方、守備の面では、序盤は土のホームグラウンドの影響もあってエラーが多かったものの、ブラウン監督が辛抱強く起用し続けた効果もあって徐々に安定し、ファインプレーも連発。いつの間にかショートの定位置を確保します。 「攻・走・守」以外でもルーキーらしからぬ一面を見せたのが、7月13日、甲子園での阪神タイガース戦でのこと。この日先発したエース・黒田博樹がピンチに陥ると、すかさずマウンドに歩み寄り黒田に声を掛けます。この日、先制本塁打を放つなど攻守で活躍を見せた梵は、ヒーローインタビューでの発言でまたしても周囲の度胆を抜きます。「黒田さんがワンパターンなリズムで投げていたので間を置きたかった」。 「ルーキーらしからぬ」と言えば、今では珍しくなったストッキングを捲し上げたスタイルや、バットのグリップを極端に短く握った独特のフォームからもそんな一面が感じられました。シーズン終盤には目の負傷というアクシデントもありましたが、プロ1年目から堂々たる成績を収めたことが評価されて、チームでは9年ぶり7人目となるセ・リーグ新人王に選出され、入団発表時の「公約」を見事に果たしました。 「ルーキーらしからぬルーキー」として、カープに新風を吹き込んだ「松坂世代」最後の男・梵英心。
「新生カープの申し子」として、そして「ポスト野村謙二郎」の穴を一気に埋めた働きが認められ、来年からは背番号が「32」から「6」に変更することが決まりました。 それにしても、「松坂世代」という言葉を生み出した張本人が日本での最後のシーズンとなるであろう年に、大学・社会人と「回り道」をしてプロに入ってきた同級生が新人王に輝いたということに、不思議な巡り会わせを感じずにはいられません。 |
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南海ホークス。阪急ブレーブス。近鉄バファローズ。 同じ関西の私鉄会社を親会社に持ち、共に関西を本拠地としていたこの3球団がパ・リーグで犇めき合っていた時代が終わってから、もう20年近くが経とうとしています。 しかし、この3チームの興亡は、そのままパ・リーグの歴史そのものと言えるのかもしれません。 この3チームは、各年代ごとに代わる代わる「栄光」と「挫折」が訪れました。 先ず、2リーグ制となった昭和20年代後半から40年代前半にかけてパ・リーグを牽引したのが南海ホークスでした。「親分」と呼ばれた鶴岡(昭和21年から33年までは山本)一人監督の下、昭和26年から28年までリーグ3連覇を果たしたのを皮切りに、昭和30年、34年、36年とペナントを制した後、昭和39年から41年まで再びリーグ3連覇を果たし、34年と39年には日本一の座に就き、パ・リーグの盟主として君臨します。特に、昭和30年代前半、知将・三原脩監督の下、若さと奔放さを売りに一世を風靡した「野武士軍団」西鉄ライオンズとの熾烈な優勝争いはファンを沸かせました。鶴岡の偉大さは球史に残る名選手を多く輩出したことにも表れており、テスト生として入団した岡本伊三美、野村克也、広瀬叔功、無名だった飯田徳治、皆川睦雄などの選手を育て、また大学のスター選手だった蔭山和夫、大沢昌芳(後の啓二)、杉浦忠、更にジョー=スタンカなどの外国人選手を入団させて、卓越した統率力と結束力で常勝南海を築きました。「百万ドルの内野陣」「400フィート打線」など、時代ごとに新しい戦力や戦略を形成したことも南海の強さを支えました。 昭和40年代に入り、南海の栄光に翳りが見え始めた頃、それに代わる形で台頭していったのが阪急ブレーブスでした。パ・リーグの球団の中で唯一1リーグ創設時から名を連ねる老舗であり、同時に「灰色のチーム」と揶揄されるほどの「お荷物球団」だった阪急は、昭和38年に就任した「闘将」西本幸雄監督の下、徐々に力を蓄え、球団創設32年目の昭和42年、悲願の初優勝を果たします。以後、44年までリーグ3連覇。46年、47年にも2連覇を果たし、一躍パ・リーグの新たな盟主に躍り出ますが、この時代の阪急は、寧ろ「V9」へと邁進していた巨人の「引き立て役」としてのイメージが強烈でした。西本監督から上田利治監督へとバトンタッチされた阪急は、さらに最強軍団へと進化を遂げ、昭和50年、初の日本一の座に就くと、翌51年、52年と2年連続で巨人を倒して3年連続日本一。53年にもペナントを制し、パ・リーグ史上初の4連覇を果たします。投手では30年代からのエースだった米田哲也、梶本隆夫、足立光宏に山田久志、山口高志、打者では長池徳二(徳士)、大熊忠義、森本潔、そして山田と同期の加藤秀司(英司)に福本豊、外国人ではダリル=スペンサー、ボビー=マルカーノ、バーニー=ウイリアムスといったメンバーが、阪急の黄金時代を支えました。 昭和25年の球団創設以来、「地下鉄球団」と揶揄されるほど長い低迷時代を送っていた近鉄バファローズ。しかし、昭和50年代に入ると徐々に強いチームへと成長して行きます。阪急から転じた西本幸雄監督が、阪急もそうしたように近鉄もこつこつと勝つチームへと育て上げ、昭和54年に初優勝を果たすと、翌年もリーグ連覇を果たします。昭和63年、仰木彬監督が就任。あの「10・19」のドラマが生まれます。この年は、昭和50年代以降「斜陽の球団」となってしまった南海と、かつての黄金時代が過ぎ去って行った阪急が共に球団を譲渡した年でもあり、それが結果的に近鉄優勝の夢が破れる遠因となってしまったことは皮肉であったと言えます。翌平成元年、近鉄は壮絶なデットヒートの末に9年ぶりにリーグ制覇を果たしますが、今思えば、この時の優勝は、パ・リーグが西武ライオンズの台頭で「獅子の時代」に突入する中、「リーグ最古参球団」となった近鉄の「意地」と「プライド」の表われだったのかもしれません。近鉄のリーグ優勝はいずれも劇的な要素が濃く、梨田昌孝監督就任2年目の平成13年の「最後の優勝」も、前年最下位から一気に成し遂げたものでした。また、昭和54年、55年はチャーリー=マニエル、平成元年はラルフ=ブライアント、平成13年はタフィ=ローズと、いずれの優勝にも「記憶に残る」外国人打者が貢献したことも共通しています。 長年パ・リーグを支え、多くの名勝負を繰り広げてきた「鷹」と「勇者」と「猛牛」。
しかし、今や3チーム全てが遠い過去の存在となり、そして、それぞれのホームグラウンドであった大阪球場、西宮球場、そして日生球場に藤井寺球場も、「つわものどもの夢の跡」となってしまいました。 |


