万年寝太郎徒然日記

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今年3月、「セ・リーグ5球団の『V9』時代」と題して、昭和40年から48年にかけての巨人「V9」時代のセ・リーグ5球団について書きました。「V9」という時代は巨人ファンにとって最も幸福な時代であった反面、他チームのファンにとっては悪夢の9年間であったと思われますが、それは、パ・リーグ6球団を応援する人々にとっても同様であったのではないでしょうか。
それでは、この時代のパ・リーグ6球団の「V9」時代はどのようなものであったのか。各球団ごとに振り返って行きたいと思います。

○南海ホークス
監督:鶴岡一人(〜40年)→蔭山和夫(40年監督就任直後に急逝)→鶴岡一人(41年〜43年)→飯田徳治(44年)→野村克也(選手兼任、45年〜)
「親分」鶴岡監督の下、パ・リーグを牽引していた南海。V9初年度の40年は、主砲・野村が戦後初の三冠王に輝く活躍を見せ、圧倒的な強さでリーグ制覇。しかし、日本シリーズで巨人に完敗後、退陣した鶴岡の後を受けた蔭山新監督が就任直後に急逝。鶴岡復帰までのこの激動期は後の南海ホークスの歴史そのものを変えてしまう。43年の鶴岡勇退後、かつての主砲・飯田を経て、45年に野村兼任監督が登場。就任4年目の48年、この年導入された「2シーズン制」に乗じて7年ぶりにリーグ制覇。これが「南海ホークス最後の優勝」となる。「V9」最後の年であったことも因縁が感じられる。

○阪急ブレーブス
監督:西本幸雄(〜48年)
パ・リーグ6球団の中で、唯一1リーグ創設時に名を連ねていた阪急だが、長らく低迷を続け、「灰色のチーム」と揶揄されるほどだった。しかし、38年に就任した「闘将」西本監督の下で徐々に力を蓄え、42年、球団創設32年目にして悲願の初優勝を果たす。以後、44年までリーグ3連覇。46年、47年にも2連覇を果たし、一躍パ・リーグの新たな「盟主」に躍り出る。日本シリーズで巨人に5度戦い全て敗れたことが、逆に強烈な印象を残したと言える。48年、通算1位ながらプレーオフで南海に敗れ、西本監督は勇退。これもまた「V9」最後の年であったことが因縁めいている。

○西鉄ライオンズ(〜47年)→太平洋クラブライオンズ(48年〜)
監督:中西太(選手兼任、〜44年)→稲尾和久(45年〜)
昭和30年代、若さと奔放さが売りの「野武士軍団」として一世を風靡したライオンズも、40年代に入ると徐々に下降線を辿って行った。それに拍車をかけたのが44年に発覚した「黒い霧事件」。当時のエース・池永正明をはじめ多くの主力選手が「永久追放」となり、現役引退直後の稲尾が監督となった45年からは3年連続最下位に転落。遂に47年、球団が譲渡される。ライオンズにとっても、地元・福岡のファンにとっても、「V9」時代は最も辛く苦しい時代だったのかもしれない。

○東京オリオンズ(〜43年)→ロッテオリオンズ(44年〜)
監督:本堂保次(〜40年)→田丸仁(41年)→戸倉勝城(42年途中まで)→濃人渉(42年途中〜46年途中)→大沢啓二(46年途中〜47年)→金田正一(48年〜)
「ラッパ」こと名物オーナー・永田雅一が心血を注いだオリオンズだったが、チームの成績は思わしくなく、また経営母体である大映の経営悪化も追い討ちをかける。44年、ロッテと業務提携を結び、翌45年、濃人監督の下で10年ぶりのリーグ優勝。この年の日本シリーズは「V9」時代唯一の「東京対決」であり、翌年ロッテに球団を譲渡する永田にとっても最後の「花道」となった。48年、「400勝男」金田が監督に就任。「光の球場」と謳われた東京スタジアムを離れ、「ジプシー生活」を送ることになる。

○東映フライヤーズ(〜47年)→日拓ホームフライヤーズ(48年)
監督:水原茂(〜42年)→大下弘(43年)→松木謙治郎(44年〜45年)→田宮謙次郎(46年〜48年前期)→土橋正幸(48年後期)
名将・水原監督就任2年目の37年にリーグ優勝、日本一を果たした「暴れん坊」東映。その後もAクラスは維持したものの、優勝争いに加わることはなかった。43年、「青バット」で一世を風靡した大下監督が「三無主義」を引っ提げて登場するが一気に最下位に転落。以後、松木・田宮の「元タイガース・ケンジローコンビ」が監督を務めるが、Bクラスが「指定席」となってしまう。48年、映画産業の不振に伴い、大映に次いで不動産会社・日拓ホームに球団譲渡するが、わずか1年で球団を売却。「日本ハムファイターズ」が誕生する。

○近鉄バファローズ
監督:岩本義行(40年〜41年)→小玉明利(選手兼任、42年)→三原脩(43年〜45年)→岩本堯(46年〜48年)
「地下鉄球団」を揶揄されるなどパ・リーグのお荷物球団だった時代の近鉄。しかし、43年、名将・三原が監督に就任すると、翌44年には阪急と最後まで優勝争いを繰り広げる。それから監督が三原から岩本へバトンタッチされた時期を挟む45年から47年までの3年間、Aクラスを維持する健闘を見せるが、48年には再び最下位に転落。この間ドラフトなどで獲得した若手選手たちが、翌年就任した西本幸雄監督の下で鍛え上げられ、悲願の初優勝を遂げるまでにはまだ6年の歳月を要することとなる。

「V9」時代のパ・リーグ6球団を見てみると、阪急のように常勝チームへと成長したチームがあるかと思えば、ライオンズ、オリオンズ、そしてフライヤーズのように、時代の波に流されて「身売り」の憂き目を見るチームもあったりして、それぞれ「波瀾万丈」の9年間であったことが分かります。

監督の背中(その4)

サッカー・Jリーグが開幕した平成5年。「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄が、巨人監督として13年ぶりに日本プロ野球界に復帰します。
2度目の監督就任に当たって、長嶋が着けた背番号は「33」。前回の「90」も「3」に因んだ番号で、いかに長嶋という人が「3」という数字に拘りを持っているかがよく分かります。監督復帰8年目の平成12年、長嶋は現役時代の「3」に番号を変更。翌平成13年までの2年間、この番号で采配を振るいました。しかし、個人的な意見を言わせて貰えれば、やはり「監督・長嶋茂雄」としては「33」を貫いて欲しかったと思っています。

長嶋復帰から2年後の平成7年、福岡ダイエーホークス監督に王貞治が就任します。巨人では、選手から監督を通じての30年間、一貫して「1」という背番号に拘り続けた王でしたが、ホークス監督就任にあたって着けた番号は、一気に大きくなって「89」。「89」は語呂合わせで「やきゅう」と読めますが、「1」を“捨てる”ことで、古巣・巨人と訣別するという思いも強かったのではないでしょうか。就任当初は何となくカッコ悪く見えた背番号「89」も、ホークスがパ・リーグの新たな「盟主」にのし上がる頃から漸く慣れてきて、就任から10年以上経った今では完全に定着。WBC日本代表監督としてもこの番号で指揮を執って世界一の座に就き、「世界の王」と「89」はもはや一体化したと言えるでしょう。

時代は少し遡りますが、監督の背番号として忘れ難いのが「75」と「78」。この2つの背番号で指揮を執った監督は意外と少なく、「75」は、昭和61年から63年まで広島東洋カープ監督を務めた阿南準郎が最初で、他に、オリックスブルーウェーブ・土井正三(平成3年〜5年)、ヤクルトスワローズ・若松勉(平成11年〜17年)の3人しかいません。この3人に共通するのは、古葉竹識、上田利治、野村克也といったそれぞれの前任者が長期政権だったということで、その影響もあって印象もやや薄いのかもしれません。「78」は、昭和54年から2年間、阪急ブレーブスの指揮を執った梶本隆夫が最初で、他には広島東洋カープ・三村敏之(平成6年〜10年)、西武ライオンズ・東尾修(平成7年〜13年)と、これまた3人しかいません。やはり上田、山本浩二、森祗晶という前任者の存在の影に隠れがちな印象がありました。

最近の監督の背番号の中で特筆すべきは、やはり中日ドラゴンズ・落合博満の「66」でしょう。現役時代の背番号「6」を重ねて「66」としたところに「オレ流」の片鱗が感じられ、この番号を着けた監督は後にも先にも出てこないでしょう。一方、最近監督人事の変動が激しい巨人では、堀内恒夫(平成16年〜17年)、そして「人事異動」明けで今年監督に復帰した原辰徳と、2人続けて「88」を着けていますが、その由来は全く異なり、堀内は母校・甲府商業の恩師・菅沼八十八郎氏にあやかったもので、原は現役時代の「8」を重ねて「88」にしたのだそうです。いずれにせよ、監督の番号が段々大きくなっていることも、昨今の「巨人凋落」の一因だと思うのは穿った見方でしょうか。

監督の背番号について書いてきましたが、プロ野球ファンにはそれぞれ印象に残る監督の背番号があるのではないかと思います。皆さんにとって「監督の背番号」と言えば、誰のどんな番号が思い浮かぶでしょうか。

監督の背中(その3)

1980年代、つまり昭和50年代後半から60年代、さらに平成と年号が代わるまでの間のプロ野球の監督の背番号として、特に目立つ番号として「73」と「81」があります。

背番号「73」の監督で先ず思い出すのは、「長嶋解任」の後を受けて、昭和56年に巨人監督に就任した藤田元司。就任1年目にして、4年ぶりのリーグ優勝と8年ぶりの日本一を果たすと、以後、昭和58年までの3年間と、平成元年に監督復帰後4年間の延べ7年間で、リーグ優勝4回、日本一2回という堂々たる成果を収め、80年代〜90年代を代表する「名監督」の仲間入りを果たしました。藤田が監督に復帰し、2度目の日本一に輝いた翌年の平成2年からヤクルトスワローズの監督を務めたのが野村克也。昭和52年に南海ホークスのプレーイングマネージャーの座を追われて以来、13年ぶりの監督復帰となった野村が着けた背番号が「73」。選手時代からのライバル・巨人の監督と同じ背番号だったと言うことは、巨人への対抗心の表れだったのか、それとも単なる偶然だったのか。ともあれ、野村によって「ID野球」が浸透したヤクルトは、平成4年から4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝きます。「73」の監督で、もう一人忘れられないのが、「近鉄バファローズ最後の監督」となった梨田昌孝。就任2年目の平成13年には、前年最下位から一気にリーグ優勝へと導き、図らずも「バファローズ最後の優勝監督」となりました。

一方、「81」の監督の代表と言えば、昭和60年に阪神タイガースを日本一に導いた吉田義男と、昭和61年から西武ライオンズ監督を務めた森祗晶(昌彦)。吉田は2度目の監督でしたが、就任1年目にチームが21年ぶりのリーグ優勝、初の日本一となったことで、「伝説のチームの監督」としてその名が刻まれました。森は監督在任9年間でリーグ優勝8回、日本一6回と「西武黄金時代」の指揮官となりました。この2人の影響が大きかったのかどうかは定かではありませんが、「81」という番号が監督の背番号として一種の「ブーム」となった時期もありました。

昭和60年代に入ると、いわゆる「ドラフト世代」の人たちが次々に監督の座に就きました。その先陣を切ったと言えるのが、昭和62年に中日監督となった「燃える男」星野仙一。2度の中日監督時代、そしてチームを18年ぶりにリーグ優勝へと導いた平成14年から2年間の阪神監督時代と、一貫して背番号「77」で采配を振るいました。平成元年には、星野の親友である「ミスター赤ヘル」山本浩二が古巣・広島の監督に就任。山本もカープの監督を2度務めましたが、最初は「88」、2度目は「8」と背番号は変わりました。「8」という番号へのこだわりも感じますが、最初の「88」は親友星野の「77」、2度目の「8」は、復帰前年の平成12年から背番号を現役時代のそれに戻した巨人・長嶋茂雄監督の「3」の、それぞれ「向こうを張った」という見方も出来ます。因みに、背番号「88」の監督もその後多く登場しますが、今年、チームを25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一に導いた北海道日本ハムファイターズ・トレイ=ヒルマンを除いては、あまり芳しい成績を収めたとは言えません。

時代が遡りますが、80年代から90年代を代表する監督として忘れてはならないのが、ヤクルト(昭和52年〜54年)・西武(昭和57年〜60年)を率いた広岡達朗と、近鉄(昭和63年〜平成4年)・オリックスブルーウェーブ(平成6年〜13年)、そして昨年、合併球団・オリックスバファローズの監督を務めた仰木彬。広岡はヤクルトでは「71」、西武では「80」→「91」、仰木は近鉄では「71」、オリックスでは「72」、そして昨年は「70」と、それぞれ背番号に関しては格別なこだわりを持っていなかったようです。
監督の背番号が70〜80番台が主流になる一方で、「60」番台の監督は少なくなって行きましたが、それでも絶えた訳ではなく、中日(昭和56年〜58年)・大洋(昭和60年〜61年)・日本ハム(平成元年〜3年)で監督を務めた近藤貞雄は、中日では「61」、日本ハムでは「63」を着けました(大洋では「81」)。平成5年、「横浜ベイスターズ・初代監督」に就任した近藤昭仁は、恩師・三原脩にあやかって「60」、平成8年に近鉄バファローズ監督となった佐々木恭介は、これも恩師・西本幸雄の背番号「68」を着けて采配を振るいましたが、いずれも恩師を超えることは出来ませんでした。

今回は、主に1980年代から90年代にかけての監督たちにスポットを当ててみました。次回は、今回書けなかった「ON」を中心に取り上げてみようと思います。

監督の背中(その2)

プロ野球草創期から昭和30年代にかけては主に「30」番が定番でだった、監督の背番号。昭和40年、巨人監督・川上哲治が「77」に背番号を変更して以降、次第に大きくなって行きましたが、昭和40年代後半、つまり1970年代に入ってからは、更に様々な番号を身に付けた監督が登場します。

昭和45年、世間を騒然とさせた「黒い霧事件」で球界全体が揺れ動いた同じ年、阪神タイガース・村山実、南海ホークス・野村克也、西鉄ライオンズ・稲尾和久の3人の「青年監督」が登場します。村山、野村は選手兼任で背番号はそのまま「11」「19」、稲尾は現役を引退して即監督に就任しましたが、選手時代に引き続き「24」を着けて采配を振るいました。村山は3年で監督の座を降りると同時に現役を引退。同じ昭和47年、「黒い霧事件」の甚大な影響を受けた西鉄ライオンズは球団を身売りし、翌昭和48年、「太平洋クラブライオンズ」になると同時に、引き続き監督となった稲尾は背番号を変更しました。この年、「2シーズン制」がスタートしたパ・リーグの覇者となったのは、プレーイングマネージャー・野村率いる南海でした。尚、村山は昭和63年から2年間、再び阪神を指揮しましたが、この時も背番号は「11」。この番号に対する村山の愛着とこだわりが伺えます。

昭和48年は巨人が野村南海を日本シリーズで降し「V9」を達成した年ですが、この年、「400勝男」金田正一が、現役時代と同じ背番号「34」を着けてロッテオリオンズ監督として球界に復帰。就任2年目の昭和49年、パ・リーグを制します。一方、セ・リーグは、与那嶺要監督率いる中日ドラゴンズが、巨人の「V10」を阻止して20年ぶりにリーグ優勝を果たします。当時の与那嶺の背番号「37」は、ハワイでフットボールの花形選手だった頃に着けていた番号だそうで、この番号への思い入れが深かったのでしょう。この年、前任の西本幸雄監督の後を受けて、36歳の若さで阪急ブレーブス監督に就任したのが上田利治。この時、しばらく「消滅」していた背番号「30」の監督が「復活」します。就任1年目で早速パ・リーグ前期優勝を果たした上田は、翌年からチームをパ・リーグ史上初の4連覇、3年連続日本一に導き、「名将」の仲間入りをします。

「V10」を逃した巨人は、「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄が現役引退を表明。翌昭和50年から、川上監督の後を受けて監督に就任します。監督就任と同時に長嶋が着けたのが「90」。「パパは背番号『3』でサード。プロに入った時は3番打者で。3・3・3で9。それにゼロをつけて『90』がいい」というアイデアを出したのは、まだ幼かった長男・一茂だったことはファンの間では有名な話です。同じ年に監督としてデビューしたのが阪神・吉田義男。この時の背番号は現役時代の「23」ではなく、なぜか「1」でした。更に同じ年、「赤ヘル元年」の広島東洋カープでは、球界初の外国人監督・ジョー=ルーツが登場しますが、ペナントレース開幕後からわずか1ヶ月足らずで辞任。しかし、後任となった古葉竹識の下、球団創設26年目にして悲願の初優勝を果たします。その後、「赤ヘル黄金時代」を築いたことで、背番号「72」=古葉というイメージが定着しました。背番号と完全に一体化した監督と言えば、昭和51年から日本ハムファイターズ監督となった「親分」大沢啓二。背番号「86」、つまり「ハム」で、延べ11年に及ぶ監督生活において一貫してこの番号で采配を振るいました。
ほぼ同時期の監督の背番号を振り返る上で、意外と知られていないのが、昭和54年から3年間、ロッテオリオンズ監督を務めた山内一弘。当初は「68」だった背番号が、就任2年目からは「33」となって2年間指揮を執りました。長嶋が球界に復帰する以前に背番号「33」の監督がいたことは、もっと知られても良いのではないでしょうか。

と言う訳で、今回は主に1970年代の監督たちの背番号について書いてきました。次回は、1980年代から最近の監督たちにスポットを当てて行きたいと思います。

監督の背中(その1)

プロ野球の監督を務めた人物は、今も昔もそれぞれ強烈な個性と存在感の持ち主が揃っている印象を受けますが、それは「背番号」にも表れているように見受けられます。

日本で本格的にプロ野球がスタートした昭和11年頃から昭和30年代にかけて、監督の背番号の定番といえば「30」番でした。これは、プロ野球が発足した当時はどのチームもメンバーは30人に満たず、選手の背番号は20番台までで、監督は「選手ではない人」という意味で「30」番をつける人が自然と多くなっていたという説が挙げられています。背番号「30」の監督の代表といえば、昭和21年から43年まで南海ホークスを率いた「親分」鶴岡一人と、読売ジャイアンツ(昭和25年〜35年)・東映フライヤーズ(昭和36年〜42年)・中日ドラゴンズ(昭和44年〜46年)を指揮した水原茂の2人。「2リーグ草創期」である昭和20年代後半から30年代前半にかけて、「日本一」の座をかけて何度も戦い、また、水原が東映監督としてパ・リーグに転じてからは毎年のようにペナントを争いました。
鶴岡・水原と並ぶ同時代の名将には「魔術師」と謳われた三原脩がいます。昭和24年に巨人監督の座を追われた三原は、その後、西鉄ライオンズ(昭和26年〜34年)・大洋ホエールズ(昭和35年〜42年)・近鉄バファローズ(昭和43年〜45年)・ヤクルトアトムズ(昭和46年〜48年)とチームを転々としましたが、その都度、西鉄では「50」→「60」、大洋では「60」、近鉄では「70」、ヤクルトでは「80」と、背番号を変えていました。三原自身「過ぎ去ったことには恋々としない」という考えを持っていたそうで、背番号にもこだわりを持っていなかったそうです。

監督の背番号が、次第に大きくなっていったのが昭和40年代。そのきっかけを作ったのは、水原の後を受けて昭和36年に巨人監督に就任した川上哲治でしょう。昭和40年、川上は現役時代から着けていた背番号「16」を「77」に変更。当時の監督の背番号としては珍しく大きい番号でした。それまでの4年間は成績の浮き沈みが激しかった巨人ですが、川上が背番号を変えたこの年こそ、あの「V9」スタートの年。「77」は、まさに幸運を呼ぶ背番号となり、この番号は後に「燃える男」星野仙一に受け継がれることになります。

「V9」巨人の最大のライバルとなったのが、昭和42年から44年、それに46年、47年と、日本シリーズで5回対決した西本幸雄監督率いる阪急ブレーブス。西本は、大毎オリオンズ監督時代(昭和35年)から引き続いて、阪急でも背番号「50」を着けていましたが、昭和47年に「65」に変更します。これは、「背番号が『50』のままでは巨人に5連敗するようで不吉」という一種の「ゲン担ぎ」だったそうです(それまで巨人に日本シリーズ4連敗)。しかし、ペナントレースを独走して5回目のリーグ制覇を果たしたその年も、日本シリーズではまたも巨人に敗れてしまいます。翌昭和48年に阪急監督を退いた後、昭和49年から近鉄バファローズ監督となった西本は、ここでは「68」を着けて采配を振るい、昭和54年、55年とチームを初優勝、リーグ連覇に導きます。「50」番の西本監督は知らなくても、「68」番の西本監督は記憶に残っているという野球ファンは多いのではないでしょうか。西本以前の背番号「68」の監督には、「球界の寝業師」の異名を取った広島東洋カープ監督時代の根本陸夫がいます。

監督の背番号について書いてみましたが、1回ではとても書き切れません。と言う訳で、この続きは後日改めてということにさせて頂きます。

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