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今年も各界の著名人たちの訃報に多く接し、長年プロ野球を支えてきた人たちの中からも遠くへ旅立って行った人がいました。 その中で、「野武士軍団」として一世を風靡した西鉄ライオンズを支えた人たちの訃報が、特に目立ちました。 先ず6月9日、関口清治さんが81歳で亡くなりました。 大正14年生まれの関口さんがプロ野球の世界に入ったのは昭和23年。社会人野球を経て巨人に入団しますが、すぐに肩の故障に見舞われ、当時の監督・三原脩の助言で、翌年、社会人野球の別府星野組に入団。温泉での療養を配慮して入団したとされる別府星野組で、四番打者として都市対抗野球全国優勝に貢献します。プロ野球が「2リーグ」に分立した昭和25年、セ・リーグの西日本パイレーツに入団しプロ野球に復帰しますが、チームはわずか1年でパ・リーグの西鉄クリッパースと合併。昭和26年から新たに誕生した「西鉄ライオンズ」の一員となり、更に巨人時代に世話になった三原が監督に就任したことで、再び三原の下でプレーすることになります。ライオンズ黄金時代には主に5番打者として活躍し、昭和29年のリーグ初優勝、31年からのリーグ3連覇、3年連続日本一に貢献。日本シリーズでは、31年にはシリーズ史上初の4本塁打、33年には1勝3敗で迎えた第5戦の9回裏2アウトから「起死回生」となる同点タイムリーを放ち、「奇跡の大逆転」に繋げる活躍を見せました。西鉄ライオンズ黄金時代の「名脇役」だった関口さんは、阪急ブレーブスに移籍して昭和38年に引退してからは、阪急、そして近鉄バファローズで、かつて別府星野組で共にプレーした西本幸雄監督の下で長年コーチを務め、近鉄ではライオンズで僚友だった仰木彬と共に西本監督を支えた後、昭和57年から2年間、西本監督の後を受けて近鉄監督も務めました。コーチ・監督としては西本監督の側近としての印象が強い関口さんでしたが、昭和45年、かつてのエース・稲尾和久監督の就任に伴い、コーチとしてライオンズに復帰。チームが「太平洋クラブライオンズ」となった昭和48年までコーチを務めました。近鉄の監督を退いてからは第一線からも身を引いていたこともあって、その訃報もひっそりとした観がありました。 稲尾和久さんが70歳で世を去ったのは、11月13日のことでした。今年の10月2日、故郷の大分県別府市に完成した市民球場に「稲尾記念館」が開館し、その落成式に出席してわずか1ヶ月あまりの訃報だっただけに、その衝撃は大きなものでした。稲尾さんについてはこのブログでも既に書いたので改めて多くは触れませんが、現役時代の数々の「伝説」や「神話」は勿論、かつての「野武士軍団」の僚友たちが次々と福岡を去って行く中で最後までチームに残り、西鉄ライオンズの「終焉」を直に見届けたことや、ライオンズを去った後も一貫して「福岡のプロ野球人」であり続けたことは、決して忘れてはならないと思います。 12月14日には、花井悠さんが75歳で亡くなりました。花井悠さんと言えば、我々にとっては大阪・朝日放送の野球解説者として馴染みが深く、若いファンからは阪神タイガースのOBと間違われたこともあったと言いますが、この人も西鉄ライオンズ黄金時代を支えた1人でした。慶応大学から日本石油を経て昭和32年に西鉄に入団。大学、社会人を通じて後に巨人のエースとなり、監督も務めた藤田元司とチームメイトでした。左打ちのしぶとい打者だった花井さんの選手時代のエピソードとして、昭和33年の日本シリーズ第6戦、当時行なわれていた「予告先発メンバー」に入っていたある選手が第5戦で痛めた指が完治しなかったため、三原脩監督がその選手を花井さんに変更した所、巨人・水原茂監督がクレームをつけたことから試合開始が40分遅れ、シリーズの流れが西鉄に傾く遠因となったことが知られています。つまり、あの「奇跡の大逆転」には花井さんも「一役買った」と言える訳です。昭和39年に引退後、コーチも務めましたが、投手として在籍していた尾崎正司、後の尾崎将司にプロゴルファーへの転向を勧めたのがコーチ時代の花井さんだったそうです。 稲尾和久さんが亡くなった時にも書きましたが、「西鉄ライオンズの男たち」が次々と世を去ることでその「魂」までも1つずつ消えて行くことには寂しさを禁じ得ず、それはそのまま日本のプロ野球の「財産」が失われて行くことも意味していると言えます。
今年逝った「野武士」たちのことを書きながら、改めてこの「野武士軍団」が遺した「伝説」を後世まで語り継がなければならないと思いました。 |
プロ野球
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昭和48年から57年までの10年間、「2シーズン制」が採用された頃のパ・リーグは、阪急ブレーブスが「黄金時代」を築き、リーグ初優勝、そして連覇を果たした近鉄バファローズが発展を遂げた一方で、かつての名門・南海ホークスが「2シーズン制・初代優勝」を果たした後没落の道を辿り、良くも悪くもこの関西の3チームが特に目立ったと言えます。 今回は、残る3チームの「2シーズン制」時代を振り返ります。 ○ロッテオリオンズ 監督:金田正一(49年〜53年)→山内一弘(54年〜56年)→山本一義(57年〜) 優勝回数:リーグ優勝1回(49年)、前期優勝2回(55年、56年)、後期優勝2回(49年、52年) 「2シーズン制」が導入された48年、ロッテは「400勝男」金田が監督に就任する一方、「光の球場」と謳われた東京スタジアムを離れ、仙台を「仮住まい」としながら「ジプシー生活」を送ることになる。過酷なスケジュールの中で、しかしチームは健闘。48年は前・後期共に2位(通算3位)。49年、後期優勝を果たすと、プレーオフも制してリーグ制覇。更に日本シリーズも勝ち、10年ぶりでパ・リーグに「日本一」をもたらす。52年、再び後期優勝を果たすが、プレーオフで敗れる。53年、本拠地を川崎球場に移し、54年には監督が金田から「打撃の職人」山内に交代。55年、56年と2年連続で前期優勝を果たすものの、いずれもプレーオフで敗れ、結局その後も川崎球場時代にリーグ優勝を果たすことはなかった。選手も個性豊かな顔触れが揃っていたが、それ以上に監督が目立っていたのが「2シーズン制」時代のロッテだったと言えよう。 ○日拓ホームフライヤーズ(48年)→日本ハムファイターズ(49年〜) 監督:田宮謙次郎(48年前期)→土橋正幸(48年後期)→中西太(49年〜50年)→大沢啓二(51年〜) 優勝回数:リーグ優勝1回(56年)、後期優勝2回(56年、57年) 東映が映画産業の不振に伴い、不動産会社・日拓ホームにフライヤーズ球団を譲渡したのは48年。しかも、キャンプインした後のことだった。だが日拓はわずか1年で球団を売却。「日本ハムファイターズ」が誕生する。球団社長に名将・三原脩を迎えるが、中西監督時代の2年間は連続最下位。51年、三原の要請を受けて「親分」大沢監督が就任。当初下位に低迷していたチームも徐々に力をつけ、55年、後期優勝へ「あと一歩」まで漕ぎ付けるが、近鉄に逆転を許す。翌56年、後期優勝を果たし、「2シーズン制」初の東のチーム同士の対戦となったロッテとのプレーオフも制し、待望のリーグ制覇。「2シーズン制」最後の年となった57年にも後期優勝、シーズン通算1位の成績を収めるが、プレーオフで敗れリーグ連覇を逃す。ファイターズが次にリーグ制覇を果たすのは、本拠地を北海道に移した、それから約四半世紀後のことである。 ○太平洋クラブライオンズ(48年〜51年)→クラウンライターライオンズ(52年〜53年)→西武ライオンズ(54年〜) 監督:稲尾和久(〜49年)→江藤慎一(選手兼任、50年)→鬼頭政一(51年〜52年)→根本陸夫(53年〜56年)→広岡達朗(57年〜) 優勝回数:リーグ優勝1回(57年)、前期優勝1回(57年) 「野武士軍団」として一時代を築いたライオンズも、その後徐々に下降線を辿り、「黒い霧事件」がそれに追い打ちをかける。「2シーズン制」が導入された48年は、ライオンズが「西鉄」ではなくなった最初の年でもあった。新たに設立された「福岡野球株式会社」の下、太平洋クラブからクラウンライターへとスポンサーを変えながら再起を図るものの、成績、人気共に低迷から抜け出せないまま、53年オフ、遂に球団は西武鉄道へ譲渡。長年住み慣れた福岡を去り、埼玉・所沢に本拠地を移す。豊富な資金力と、福岡時代最後の年に監督に就任し、後にチームの管理部長となった根本の人脈を駆使した大がかりな補強とチーム改造が行なわれ、広岡監督就任1年目の57年に前期優勝、プレーオフも制して「2シーズン制」最後のリーグ優勝チームとなる。福岡時代とは全く別のチームに生まれ変わったライオンズは、この優勝を機にパ・リーグの新たな「盟主」に躍り出ることになる。 わずか10年で幕を下ろしたパ・リーグの「2シーズン制」ですが、それぞれ「浮き沈み」があったとはいえ、この10年の間に6球団全てがリーグ優勝を果たしたことを考えると、この制度を取り入れた意義は十分にあったと思われます。
パ・リーグでは、現在「クライマックスシリーズ」が行なわれ、今年からセ・リーグでも行なわれるようになりました。しかし、不公平感が解消されないままのこの方式よりも、「2シーズン制」を復活させた方が寧ろ良いのではないかと以前から思っているのですが、如何でしょうか。 |
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観客動員に苦しんでいたパ・リーグが、その人気回復を目指して年間130試合を前期と後期の65試合ずつに分け、それぞれの優勝チームが「プレーオフ」で戦ってその年の優勝を決める、所謂「2シーズン制」を導入したのは、昭和48年のことでした。 当時の近鉄バファローズ・佐伯勇オーナー曰く、「お祭りは多い方がいい」という理由で採用されたこの制度も、前期と後期の間が空き過ぎることや前期優勝チームの後期の「無気力」ぶりなどが問題となり、昭和57年を最後に10年で廃止されてしまいましたが、この10年間は、パ・リーグ6球団それぞれに「栄光」と「挫折」が代わる代わる訪れました。 そこで、この「2シーズン制」時代のパ・リーグ6球団を、前期と後期ならぬ、前編と後編に分けて振り返って行きたいと思います。 先ず今回は、同じ関西の私鉄会社を親会社に持ち、共に関西を本拠地として犇めき合っていた3チームを取り上げます。 ○阪急ブレーブス 監督:西本幸雄(〜48年)→上田利治(49年〜53年)→梶本隆夫(54年〜55年)→上田利治(56年〜) 優勝回数:リーグ優勝4回(50年〜53年)、前期優勝5回(49年〜53年)、後期優勝4回(48年、51年、53年、54年)、前・後期優勝2回(51年、53年) 「2シーズン制」が導入された当時、パ・リーグの「盟主」の座にあった阪急。48年も「闘将」西本監督の下で圧倒的な戦力を誇り、「優勝候補筆頭」と見られていた。ペナントレースでは後期優勝、シーズン通算1位の成績を収めるが、プレーオフに敗れて西本監督は勇退。後を引き継いだ上田監督の下、更に「最強軍団」へと進化を遂げ、50年、3年ぶりにリーグ優勝を果たし、初の日本一。51年には「2シーズン制」初の「前・後期完全制覇」を達成。「V9」時代に1度も勝てなかった巨人を倒して連続日本一。翌52年はチーム2度目のリーグ3連覇、2年連続で巨人を下して3年連続日本一。53年には2度目の完全制覇、パ・リーグ史上初の4連覇を果たすが、日本シリーズで敗れ、上田は一旦監督を辞任。これが「2シーズン制」時代最後のリーグ優勝でもあった。「2シーズン制」時代前半はまさしく「勇者黄金時代」であったが、特に2度の「前・後期完全制覇」が光る。 ○近鉄バファローズ 監督:岩本堯(〜48年)→西本幸雄(49年〜56年)→関口清治(57年〜) 優勝回数:リーグ優勝2回(54年、55年)、前期優勝1回(54年)、後期優勝2回(50年、55年) 球団創設以来、「地下鉄球団」と揶揄されるほど長い低迷時代を送っていた近鉄。昭和40年代に入るとチーム力は徐々に向上していったが、48年は元の「地下鉄球団」に逆戻りしてダントツの最下位。しかし翌年、阪急監督を退いた西本監督が就任。「地下鉄」から「猛牛」へと変貌する。西本監督就任2年目の50年、後期を制して「初優勝」。通算成績もリーグトップであったが、プレーオフで阪急に敗れる。53年も後期に阪急を最後まで追い詰めるが及ばず。そして54年に前期優勝、プレーオフでも宿敵・阪急を破り、球団創設30年目にして悲願の初優勝。翌55年は、終盤までの「大混戦」を勝ち抜いて後期優勝、その勢いでプレーオフも制してリーグ連覇を果たす。かつての阪急同様、西本が選手を鍛え上げ、コツコツと勝つチームへと育て上げたことが実を結んだ。2年連続で「あと一歩」のところで日本一を逃したことが心残りであったろう。 ○南海ホークス 監督:野村克也(選手兼任、〜52年)→広瀬叔功(53年〜55年)→ドン=ブレイザー(56年〜57年) 優勝回数:リーグ優勝1回(48年)、前期優勝1回(48年) 昭和20年代後半から40年代にかけて「親分」鶴岡一人監督の下、パ・リーグを牽引した南海。野村兼任監督の就任4年目であった48年、前期優勝を果たし、プレーオフでは、後期12敗1分けと圧倒された阪急に勝ち、「2シーズン制」になって最初のリーグ優勝チームとなる。「1、3、5戦を全力で行く」という野村監督の作戦が的中した結果であった。しかし、「2シーズン制」時代に南海が優勝はおろか、優勝争いに加わったのはこの年が最初で最後。その後、辛うじてAクラスは確保するものの、チームは緩やかに下降線を辿り、52年、諸々の事情によって野村が監督の座を追われたことが、それに拍車をかける結果となる。現役引退直後の広瀬が監督となった53年、チームは一気に最下位に転落。以後、広瀬からブレイザーへと監督は変わるが、5〜6位が「指定席」となり、「2シーズン制」の10年間の間に「斜陽の球団」へと転落して行った。 「2シーズン制」時代の阪急、近鉄、そして南海を振り返ると、阪急の圧倒的な強さと、かつては「お荷物球団」だった近鉄と、リーグの「盟主」であった南海が、この時代になると立場が逆転する構図がよく分かります。
次回は、残る3チームの10年間を振り返ります。 |
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東京ヤクルトスワローズ・高田繁は「88」。北海道日本ハムファイターズ・梨田昌孝も同じく「88」。そして、西武ライオンズ・渡辺久信が「99」。 来年から指揮を執ることになった3人の新監督の背番号は、いずれも「ぞろ目」。 更に、今年2年連続で日本シリーズで対決した中日ドラゴンズと北海道日本ハムの落合博満、トレイ=ヒルマン両監督が、それぞれ「66」に「88」と、これまた「ぞろ目」。 最近の日本プロ野球では、「ぞろ目監督」が流行っているようです。 「2個のサイコロを振って同じ目が出ること」から転じて、2ケタ以上の数字が全て同じ数字であることを意味する「ぞろ目」。日本プロ野球の歴史の中で、その「ぞろ目」を背番号にした監督は今までに多く登場していますが、その第一号は、戦前の東京巨人軍を率いた藤本定義。昭和12年、13年の2年間、背番号「22」で采配を振るい、その後は当時の監督の背番号の定番だった「30」に変更しています。 「ぞろ目監督」中でも「2大巨頭」と言えるのが、共に背番号「77」を着けていた川上哲治、星野仙一の2人でしょう。昭和36年から14年間巨人監督を務めた川上が、現役時代から着けていた背番号「16」から「77」に変更したのは、就任5年目の昭和40年。当時の監督の背番号としては珍しく大きな番号でした。監督就任以来4年間、成績の浮き沈みが激しかった川上が背番号を変えたこの年こそ、巨人の「V9」スタートの年。「77」は、まさに幸運を呼ぶ背番号となりました。川上が監督を退いた昭和49年、巨人の「V10」を阻止して20年ぶりのリーグ優勝を果たしたのは中日ドラゴンズ。その原動力となった「燃える男」星野仙一が監督に就任するのが、それから13年後の昭和62年。この時星野が着けた「77」も、当時、監督の背番号は「60」番台が多かった中日では珍しく大きな番号でした。昭和62年からの5年間、平成8年からの6年間の計11年間の中日監督時代、平成14年から2年間の阪神タイガース監督時代と、一貫して「77」を着け、チームを3度リーグ制覇に導きました。勿論、今回の北京オリンピック日本代表チームでも、背番号は「77」で指揮を執ります。背番号「77」の監督は、他にロッテオリオンズ・山本一義(昭和57年〜58年)、日本ハムファイターズ・大島康徳(平成12年〜14年)がいます。 「77」の次は「88」。その第一号は、「ミスター赤ヘル」山本浩二、ではなく、実は昭和49年、日本ハムファイターズ監督に就任した中西太が1年間だけ「88」を着けていたそうです。日本ハムというチームは「88」という数字に余程縁があるのか、平成7年から5年間采配を振るった上田利治、昨年、今年とチームをリーグ2連覇、日本一1回に導いたヒルマン、そして来年から指揮を執る梨田と、都合4人の監督が背番号「88」を着けています。平成元年、広島東洋カープ監督に就任した山本浩二の「88」は、勿論、現役時代の背番号「8」に因んだものであり、親友星野の「77」の向こうを張ったものでもありました。東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督・田尾安志(平成17年)もこの番号でした。 「88」と言えば、巨人では堀内恒夫(平成16年〜17年)、現在の原辰徳と2人続けてこの背番号を着けていますが、その由来は全く異なり、堀内は母校・甲府商業の恩師・菅沼八十八郎氏にあやかったもので、原は現役時代の背番号「8」を重ねたものだそうです。そう言えば、山本、原に加えて、高田、梨田の2人も現役時代の背番号は「8」。「『八』は末広がりで縁起がいい」とよく言われる通り、「縁起担ぎ」の意味も込められているのでしょうが、この背番号を着けた監督は、ヒルマン以外は芳しい成績を収めているとは言えないのもまた事実です。 「77」「88」ときて、いきなり小さくなって「33」。となると、平成5年、巨人監督として13年ぶりに日本プロ野球界に復帰した「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄と行きたいところですが、この番号も長嶋より以前に、昭和54年から3年間、ロッテオリオンズ監督を務めた山内一弘が、就任2年目から2年間着けていました。長嶋の「33」も、現役時代の背番号「3」に因んだもので、いかに「3」という数字にこだわりを持っていたかがよく分かりますが、監督復帰8年目の平成12年、現役時代の「3」に背番号を戻したのは、「監督・長嶋茂雄」としては「33」を貫いた欲しかったと思う者としては正直残念でした。因みに、現役時代は一貫して背番号「33」を着けていた阪急ブレーブス・梶本隆夫は、昭和54年から2年間監督を務めましたが、この時の背番号は「78」でした。 長嶋とくれば、そのライバルだった阪神・村山実。昭和45年から3年間(選手兼任)、そして昭和63年から2年間の2度に渡って阪神監督を務めましたが、背番号は一貫して「11」。昭和11年生まれだった村山の、この番号に対する愛着とこだわりが伺えます。 最後に、背番号「55」で采配を振るったのが、中日・杉浦清(昭和38年〜39年)と阪神・後藤次男(昭和44年)。杉浦は昭和24年からこの番号を着け、「ツーファイブ」(55)という名前の喫茶店も開いていたそうです。一方の後藤は、昭和44年、53年と1年間ずつ、2度阪神監督を務めましたが、「55」を着けた昭和44年は法政大学から田淵幸一が入団した年、そして昭和53年は田淵が阪神でプレーした最後の年でした。2人とも、監督としてよりも、テレビ・ラジオの野球解説者としてのイメージが強く印象に残っています。 これまで様々な「ぞろ目監督」が登場しましたが、「44」を着けて采配を振るった監督はまだ出ていません。 因みに、来年からメジャーリーグのカンザスシティ・ロイヤルズ監督を務めるトレイ=ヒルマンの背番号は「22」だそうです。 (一部、訂正があります)
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僕が住む広島県尾道市の隣町である福山市では、今日11月17日、プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズ対東京ドリームス戦が開催されます。 日本プロ野球を支えてきた往年の名選手たちのプレーが見られるということで、地元のファンの皆さんもは楽しみにしていたと思いますが、ただ一つ残念なことは、福岡ドンタクズ監督として参加する予定だった稲尾和久さんが、これに先立つ11月13日に亡くなったことでその姿を見ることが永久に叶わなくなったことです。 往年の西鉄ライオンズのエースであり、球史に残る名投手の1人でもあった稲尾さんも、大分の別府緑ヶ丘高校時代から昭和31年に西鉄ライオンズに入団した頃までは、殆ど無名の存在でした。しかし、少年時代に漁師だった父親を手伝うため舟の櫓を漕いだことで自然に足腰や手首が鍛えられたことや、入団の年に長崎県島原市で行なわれた西鉄の春季キャンプで打撃投手をしているうちにコントロールを身に付けていったことが、後に日本プロ野球を代表する投手への飛躍へと繋がります。 稲尾さんの日本プロ野球での功績は様々ですが、その最大のものと言えば、数々の「伝説」や「神話」を残した現役時代の活躍です。1年目は21勝6敗、防御率1.06でチームのリーグ優勝と初の日本シリーズ制覇に貢献し、新人王を受賞。2年目には20連勝のプロ野球記録を作って35勝6敗、防御率1.37で、最多勝と2年連続で最優秀防御率を獲得。一躍西鉄のエースに成長します。「神様、仏様、稲尾様」という言葉が誕生したのは、11・5ゲーム差を逆転してのパ・リーグ3連覇、日本シリーズでの3連敗からの4連勝と、西鉄ライオンズが1年で2度「奇跡」を演じた昭和33年。その最大のヒーローとなった稲尾さんを讃えたものでした。昭和36年のシーズン42勝、入団から8年連続で20勝以上を記録するなど、「鉄腕・稲尾」の偉業は今でも色褪せることはありません。昭和44年に引退するまで14年間の現役生活で、通算276勝137敗、防御率1.98。「沢村賞」を除く投手のタイトルは全て獲得しています。 稲尾和久のプロ野球人生を振り返る上で、選手時代と共に忘れてはならないのは、豊田泰光、中西太、仰木彬などといった、かつての「野武士軍団」の僚友たちが次々とチームを去って行った後も西鉄ライオンズに残り、その「終焉」を直に見届けたことです。昭和44年、現役引退と同時に32歳の若さで西鉄監督に就任しますが、この時既にかつての栄光は遠い過去のものとなっており、しかも就任1年目の昭和45年には「黒い霧事件」によって多くの主力選手が「永久追放」となり戦力は激減。昭和46年には、チームの年間勝利数が、かつて自らが記録したシーズン42勝にすら満たないという屈辱も味わいました。昭和47年のシーズン終了後、遂に西鉄は球団を譲渡。「太平洋クラブライオンズ」となってからの2年間、引き続き監督を務めた後、昭和49年、稲尾さんはライオンズを去ります。監督となってからの5年間は、稲尾さんにとって最も辛く苦しい時代だったことでしょう。 ライオンズが福岡を去ったのは、それから4年後の昭和53年のことでした。 ライオンズを去った後、昭和53年から中日ドラゴンズの投手コーチ、昭和59年からロッテオリオンズの監督をそれぞれ3年間務め、また大阪・朝日放送の野球解説者としても活躍した稲尾さんでしたが、御本人は一貫して「福岡のプロ野球人」であることを自負していたものと思われます。オリオンズの監督を引き受けた際にはチームを数年以内に福岡へ移転するという条件を提示し、結局それは叶わなかったものの、「再び福岡にプロ野球チームを…」という思いは誰よりも強かったのではないでしょうか。その福岡に、現役時代のライバルチームであった南海ホークスが「福岡ダイエーホークス」として大阪から移ってきたことに、稲尾さんは「皮肉な因縁」を感じたかもしれませんが、それでも近年福岡に戻り、「地元の球団」となったかつてのライバルに対して厳しくも温かい眼差しを注いでいたのは、「福岡のプロ野球人」として「福岡のプロ野球チーム」を見守って行きたいという気持ちの何よりの証でしょう。 今年の10月2日、故郷の大分県別府市に完成した市民球場に「稲尾記念館」が開館しました。落成式には稲尾さんも出席しましたが、まさかこれからわずか1ヶ月あまりでこの世を去ってしまうことになるとは御自身も予期していなかったようで、本当に残念でなりません。
亡くなった日のニュースで福岡市内での街頭インタビューが流されましたが、その中でも「もう、あげな人は出てこん」言葉こそ、不世出の「鉄腕」・稲尾和久に対するシンプルで、しかし最大級の賛辞であったと思います。 それにしても、「西鉄ライオンズの男たち」が次々とこの世を去り、その「魂」までもこの世から1つずつ消えていくことに一抹の寂しさを感じてしまいます。 |



