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2年連続で中日ドラゴンズと北海道日本ハムファイターズの対決となった、プロ野球日本シリーズ。 本来ならこの舞台でファイターズと対戦するはずだった読売ジャイアンツの監督・原辰徳は、今、どんな思いでこの対決を見ているのでしょうか…。 「巨人軍第48代4番打者」にして「巨人軍第14代監督」という、日本のプロ野球の中でも屈指の「エリートコース」とされる道を歩んでいるように見えながら、この人ほど、華やかな栄光以上に「負」のイメージを背負い続けている人物は、巨人の歴史の中で、また日本プロ野球においても他にいないのではないでしょうか。 選手としては、昭和56年、ドラフト1位で入団し、22本塁打を放ち新人王を獲得。2年目の昭和57年には勝利打点王、3年目の昭和58年には103打点で打点王、2年連続の勝利打点王を獲得し、MVPにも選ばれ、チームも入団以来3年間でリーグ優勝2回、日本一1回。巨人も原自身も「順風満帆」のように思われました。 しかし、原が選手として輝きを見せたのはここまでで、その後は「4番打者」として物足りないイメージが定着したのに加え、ケガや故障も相次ぎ、三塁手から外野手、そして再び三塁手へとポジションを転々とする中で、その輝きが徐々に失われて行きます。これが「負」のイメージを背負うことになるきっかけでした。個人的に、原という選手で印象的な場面として先ず思い出すのは、勝負を決める一打ではなく、昭和61年9月24日の後楽園球場での広島戦、9回裏2死1塁の場面で、広島東洋カープ・津田恒実の投げたストレートをフルスイングして左手首を骨折した場面です。ここにもやはり「負」のイメージを感じてしまいます。 平成7年、現役引退。「引退試合」となった10月8日の東京ドームでの広島戦で打った現役生活最後の本塁打は、15年間、批判を浴び続けながらもチームを支え続けてきた男の「意地の一発」だったのでしょう。しかし、それ以上に心に残ったのが、試合後に行なわれた記念セレモニーでの挨拶でした。 「巨人軍には、巨人軍独特の何人も侵すことの出来ない聖域があります。私はこの15年間、それを肌で感じ、守って参りました。…小さい頃、野球選手になりたい、ジャイアンツに入りたい、その夢を持って頑張りました。そして今日、その夢は終わります。しかし、私の夢には続きがあります。その言葉を約束して、今日、引退します……」。 恐らく殆どの巨人ファンは、この言葉を聞いて、原が「聖域」から解放されたことを喜び、将来の「夢の続き」に思いを馳せたことでしょう。そして、それが「儚い夢」になろうとは、想像すらしていなかったのではないでしょうか。 平成14年、長嶋茂雄監督の後を継いで監督就任。この時、巨人ファンの誰もが「『夢の続き』の始まり」を期待し、胸を膨らませたことでしょう。事実、「ジャイアンツ愛」をキャッチフレーズに、就任1年目でセ・リーグ制覇。日本シリーズも4連勝で制し、早々に「夢の実現」を果たしたことで、監督・原辰徳、そして巨人の前途は洋々であるかに見えました。 しかし、その先に待ち構えていたのは選手時代とは別の、そしてそれ以上に過酷な「聖域」との戦いでした。翌平成15年、リーグ優勝を逃した途端、監督就任わずか2年で「人事異動」。昨年、平成18年に「人事異動」が明けて復帰するものの、1年目はチームとしては2年連続のBクラス。そして今年は、5年ぶりのリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズに出場出来ないという屈辱を味わうシーズンとなりました。華々しいスタートを切りながら、その後は苦闘を強いられているのは選手時代と全く変わらず、「負」のイメージから逃れられない様子が窺えます。 元々、「巨人軍の『聖域』」なるものは、「球界の盟主」という地位に胡坐をかき、いまだにその力を信じ続ける人たちが作り出した、一種の「妄想」に過ぎないものであると言えます。
「夢」に向かって前進しながら、「聖域」という実体のないものに選手時代から一貫して苦しめられている感のある原辰徳という人を見ていると、つくづく「気の毒」に思えてなりません。 これからも続く「聖域」との戦いの後に待っている「夢の結末」は、果たしてどのようなものなんでしょうか。 |
プロ野球
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昭和25年以来、半世紀以上の歴史を持つプロ野球日本シリーズ。 これまで様々な名勝負が繰り広げられ、様々な名場面が生まれたその歴史の中でも、「ただ一度」しかない出来事とその「主役」となった人物について書きたいと思います。 その出来事が起こったのは、昭和44年10月30日。舞台は後楽園球場。 この年のペナントレースは、セ・リーグは川上哲治監督率いる読売ジャイアンツが圧倒的な強さでリーグ5連覇。一方のパ・リーグは、西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが、三原脩監督率いる近鉄バファローズとのマッチレースを制してリーグ3連覇を果たし、日本シリーズは3年連続でこの両チームの対決となりました。 巨人の2勝1敗で迎えた第4戦。阪急が4番・長池徳二のホームランなどで、4回表まで3―0とリードして迎えた4回裏、巨人は先頭の2番・土井正三、3番・王貞治の連続ヒットでノーアウト1・3塁のチャンス。続く4番・長嶋茂雄が空振り三振に倒れた直後、問題のシーンが起こります。 一塁走者の王が二塁へ盗塁。実はこれは「サイン違い」だったそうで、慌てた阪急の捕手・岡村浩二が二塁へ送球。これを見た三塁走者の土井はホームスチールを敢行。完璧なブロックで「アウト」と確信していた岡村でしたが、岡田功主審の判定は「セーフ」。この判定に激怒した岡村は岡田主審を突き飛ばし、日本シリーズ史上初、そして現在まで唯一の退場処分を受けてしまいます。 岡村浩二。香川県丸亀市出身。高松商業高校から立教大学を経て、昭和36年、阪急に入団。プロ入り3年目の昭和38年にレギュラーに定着し、翌昭和39年にはオールスターゲーム初出場。球団創設32年目で初優勝を果たした昭和42年から44年までのリーグ3連覇に攻守で貢献するなど、南海ホークス・野村克也が圧倒的な存在感を誇っていた当時にあって、パ・リーグを代表する捕手の1人となり、特にブロックには定評がありました。つまり、岡村のブロックは正真正銘の「必殺技」であり、昭和44年の日本シリーズ第4戦前日の巨人のミーティングでも、岡村のブロックへの対策が指示されたそうです。ブロックに対する岡村の完全な自信が「否定」されたことが、審判への暴力行為やそれに伴う退場へと繋がったと言えます。 岡村の退場後も阪急ナインの怒りは収まらず、代わってマスクを被った捕手が投球をわざと捕らず、直接岡田主審にぶつけるという暴挙に出たほどでした。逆にこのプレーをきっかけに流れを引き寄せ、第4戦を逆転勝ちした巨人は、史上初の日本シリーズ5連覇へと突き進んで行きました。 誰もが「アウト」と思った問題のシーン。しかし翌日、スポーツ紙の一面を飾ったのは、岡村の鉄壁のブロックを掻い潜って本塁を踏んだ土井の左足を捉えた写真でした。 数年前、このシーンを取り上げたテレビ番組に出演した岡村浩二さんは、当時を振り返ってこう語っています。 「土井は立教の2つ後輩で、あの細い身体でしょ。本当のことを言うと、僕が甘かったんです。違う選手なら足が折れてたでしょうね。土井だけに、『これくらいで良いだろう』という気持ちがあった」。 「僕はプロで1,370試合ほど出場したのに、『退場事件』しかないように言われる。あのクロスプレーは自信を持ってやった。今でもあれはアウトだと思っている」―。 阪急の「第一次黄金時代」の要であり、西本監督はじめナインからの信頼も厚かった岡村でしたが、チームが4度目のリーグ優勝を果たした昭和46年、種茂雅之捕手、大橋穣内野手との交換トレードで阪本敏三内野手と共に東映フライヤーズへ移籍。以後、チーム名が日拓ホームフライヤーズから日本ハムファイターズへと次々と変わる中で出場回数が減り、昭和49年に現役を引退します。 現役引退後、郷里の高松へ帰った岡村さんは、祖母の居酒屋を引き継いだ「野球鳥おかむら」や現役時代の背番号「29」に因んだパブ「PUB TO―NIGHT」を経営しながら、地元のリトルリーグの指導や高松でのプロ野球OB戦を主催するなど、野球との関わりを持ち続けました。「野球鳥おかむら」は、現在では息子さんが切り盛りしているそうです。 図らずも日本シリーズで「ただ一度」の男となった岡村浩二。しかし、「記憶に残る名選手」であったことも決して忘れてはなりません。
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平成19年10月10日、午後9時23分。 福岡ソフトバンクホークスは、千葉マリンスタジアムで今シーズンの「終戦」を迎えました。 今年のホークスにとって、ペナントレースを制することは「絶対的義務」でした。 平成7年、福岡ダイエーホークス監督に就任した王貞治の下、「生卵事件」に象徴される苦難を乗り越え、平成11年に念願のパ・リーグ制覇、日本一を果たしたホークスは、翌平成12年もリーグ連覇。平成15年には3年ぶりのリーグ制覇、4年ぶりの日本一を果たしたことで、「強いホークス」の印象が完全に定着した感がありました。 ところが、平成16年はリーグトップの成績を挙げながら、この年から導入されたプレーオフで西武ライオンズに敗退。チーム名が「福岡ソフトバンクホークス」となった翌平成17年も、2年連続でリーグトップになりながら、またもプレーオフで千葉ロッテマリーンズに敗退。更に昨年、王監督が胃ガン摘出手術のため戦線を離脱するというアクシデントに見舞われながら、チーム一丸となってプレーオフ進出を果たしたものの、プレーオフで北海道日本ハムファイターズに敗退。勝敗が決した瞬間に号泣したエース・斎藤和巳の姿に、ホークスの3年続けての無念が集約されていました。 そして、今年。王監督がグラウンドに戻り、またこの3年間「不遇」を余儀なくされていた主砲・小久保裕紀がチームに復帰したことで、4年ぶりの優勝を果たすための「お膳立て」は整ったかに見えました。 しかし、優勝候補の筆頭に挙げられ、開幕後も好調な滑り出しを見せながら、交流戦で一気にスパートをかけたファイターズに首位の座を明け渡したホークスは、その後何度か巻き返すものの、「奇跡の逆転優勝」を信じたファンの願いも空しく終盤は失速気味となり、ファイターズ、マリーンズに次いで3位に終わってしまいます。 日本シリーズ進出をかけた「クライマックスシリーズ第1ステージ」を控え、ホークスに対しては、「マリーンズに為す術もなく敗れるだろう」という思いと、「過去3年間『理不尽さ』に泣かされ続けた無念を、今度はその『理不尽さ』によって晴らして欲しい」という思いとが交錯しました。しかし、開幕前日にファンを集めて堂々と「前祝い」をしてのけるほどの余裕を見せたマリーンズに1勝2敗で敗れ、ホークスの平成19年は、過去3年間よりも早く終わってしまいました。 ホークスの敗因は色々とありますが、先ずシーズンを通じて投打共に不振や故障に見舞われ続けたことが大きかったと言えます。「総合力」では12球団随一と言える布陣を誇りながら、「完全無欠」のメンバーで試合に臨むことが出来たのは、今シーズン殆どなかったのではないでしょうか。体調不良を押して采配を振るう王監督の姿や「何としても王監督を胴上げしたい」というチーム・ファン総意の思いも、ある時は選手たちの「力み」へと繋がり、またある時は「空回り」となり、そしてチーム全体から漂う「悲壮感」をより増幅させてしまう結果をも招いてしまったことは否定出来ません。 そして、何よりもホークスナインに欠けていたと思われるのは、いみじくも、クライマックスシリーズ第1ステージを終えてのヒーローインタビューでマリーンズ・サブローの口から出た、「とにかく楽しもう」という「悲壮感」とは対極の気持ちであり、これがそのまま、終始ノビノビとプレーしていたファイターズやマリーンズとの「差」となって表われたと思います。酷な言い方をすれば、今年のホークスは「負けるべくして負けた」のかもしれません。 四たび敗れ去った福岡ソフトバンクホークスは、来年も王監督の続投が決まりました。
選手としても監督としても「世界一」に輝きながら、「日本一」の権利を獲得するなく監督の座を降りてしまうことは、チームやファンにとっても不本意であり、また本人のプライドも許さないであろうことは想像に難くありません。 しかし、来年ホークスが5年ぶりにペナントを奪回するための鍵を握るのは、他ならぬ監督・王貞治その人であろうと思っています。 |
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背番号「18」が「エースナンバー」と呼ばれるのは日本プロ野球独自の習慣であり、メジャーリーグでは特別な意味は持っていないのだそうです。 一説には「歌舞伎十八番」から来たとする説もありますが定かではありません。しかし、70年以上に渡る日本プロ野球の歴史の中で、歴代の名投手がこの番号を着け、また受け継がれて行ったことで、「18」番はエースの代名詞として定着して行きました。 日本のプロ野球で背番号「18」が「エースナンバー」となるきっかけを作ったのは、昭和11年、発足間もない大阪タイガースに入団した若林忠志。この人が「18」番を付けることになったのは、本来「4」番を着けるはずだったのが、「『4』は縁起が悪い」という極めて日本的な理由で、空き番号の中で一番若い番号の「18」番に変更したためでした。ハワイ生まれの日系2世である若林は、法政大学時代は東京六大学野球史上4位のリーグ戦43勝を挙げ、プロ入り後も「七色の魔球」と言われた多彩な変化球と制球力を武器に、戦中から戦後にかけてのタイガース投手陣を支え、シーズン20勝以上を6回記録。戦後は、昭和22年に兼任監督としてタイガースを優勝へと導き、昭和25年には2リーグ分立に伴い、パ・リーグの毎日オリオンズへ移籍。既に42歳となっていたこの年の日本シリーズ第1戦では完投勝利を挙げ、日本一に貢献しました。「18」番を着けていたのは昭和21年まででしたが、この番号の歴史を語る上で、若林の存在を抜きにすることは出来ません。 若林によって「エースナンバー」となった背番号「18」ですが、この番号を着けたエースや球史に残る投手が本格的に現われるのは、昭和25年に2リーグに分立してからのことです。昭和25年、発足したばかりの広島カープに入団した長谷川良平は、球団草創期の弱くて資金難に苦しんだ時代からチームを支え、昭和30年にはシーズン30勝を達成して最多勝を獲得。通算197勝を挙げ、「小さな大投手」と謳われました。鳥取・境高校から昭和31年に阪急ブレーブスに入団した米田哲也は、「灰色のチーム」と呼ばれていた時代には左の梶本隆夫と共にチームを支え、パ・リーグの盟主に躍り出た昭和40年代には、背番号「16」の足立光宏、「17」の山田久志とローテーションを形成。昭和50年のシーズン途中に阪神タイガースへ移籍するまでの約20年間「18」を着け、昭和52年に引退するまでの22年間で歴代2位の350勝を挙げました。昭和32年に読売ジャイアンツに入団し、その年の新人王となった藤田元司は、2年目から背番号が「18」となり、この年から2年連続でMVPを受賞。プロ入りが26歳と遅かったことや右肩痛に悩まされたことが重なり選手生活は短かったものの、昭和30年代の巨人を支えました。 昭和40年代以降では、巨人では藤田の後、昭和41年に入団した堀内恒夫が2年目から引き継ぎ、「V9」のエースとして君臨。因みに藤田も堀内も、入団1年目の背番号は「21」番でした。昭和44年、青森・三沢高校のエースとして夏の甲子園を沸かせた「コーちゃん」太田幸司は、翌昭和45年、近鉄バファローズ入団と同時に「18」番を着用。長崎海星高校からヤクルトスワローズに入団した「サッシー」酒井圭一を経て、西武ライオンズ・松坂大輔、現在の東北楽天ゴールデンイーグルスの「マーくん」田中将大と、「甲子園のエース」が「エースナンバー」を着ける伝統(?)のきっかけを作ります。ロッテオリオンズ・成田文男は、入団8年目の昭和47年にそれまでの「46」番から「18」番に変更し、昭和48年には2度目の最多勝を獲得。昭和46年に中日ドラゴンズに入団した稲葉光雄は、昭和52年に阪急へ移籍後も中日時代と同じ「18」番を着用。この年、チーム最多の17勝を挙げ、以後3年連続2ケタ勝利を挙げます。移籍したチームで「18」番を着けた投手では、昭和50年に広島東洋カープから阪神に移籍した安仁屋宗八、昭和51年に巨人から日本ハムファイターズに移籍した高橋一三、昭和52年南海ホークスから広島に移籍した福士明夫(敬章)らがおり、あの江夏豊も、日本ハムから西武ライオンズに移籍した昭和59年の1年間、背番号「18」を着けていました。 昭和の終わりから平成に入り、今日までを見て行くと、昭和61年から昨年、平成18年まで歴代最長の21年間に渡って着けた巨人・桑田真澄を筆頭に、桑田とプロ入り同期のヤクルト・伊東昭光、西武の黄金時代を支えた郭泰源、昭和60年の日本一に貢献した阪神・池田親興、同じく阪神・藪恵壹、18年間着け、今シーズン限りで引退する広島・佐々岡真司、ロッテ時代の伊良部秀輝、日本ハムの「ガンちゃん」岩本勉などが印象に残ります。 現在でも、楽天の「マーくん」をはじめ、殆どのチームでエース、または主力投手が背番号「18」を着けています。
連綿と受け継がれるエースナンバー「18」の系譜。次は一体誰がその新たな歴史を作るのでしょうか。 |
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波瀾に満ちた今年のプロ野球ペナントレースもいよいよ大詰め。 両リーグ共に優勝へ向けての「最終段階」に差し掛かるこの時期は、その一方で、一時代を築いた選手たちがその役割を終える時期にもあたります。 今年2007年も、早々に現役引退と監督辞任を表明した東京ヤクルトスワローズ・古田敦也を筆頭に、次々と今シーズン限りでユニフォームを脱ぐ決意を固めた選手が出ています。 北海道日本ハムファイターズ・田中幸雄。 宮崎・都城高校から昭和61年、ドラフト3位で日本ハムファイターズに入団。プロ入り当初、同姓同名の投手がいたために「コユキ」と呼ばれたのが、今でも懐かしく思い出されます。 強打の遊撃手として頭角を現し、上田利治監督時代の90年代半ばには四番打者として球界屈指の最強打線「ビッグバン打線」の一翼を担い、そして、チームが北海道にフランチャイズを移してからは生え抜き最年長選手として、20年以上チームを支え続けてきた「ミスター・ファイターズ」。去年、初めて優勝を経験し、今年は自身の通算2,000本安打達成。更にチームの史上初の「リーグ連覇」も目前に迫っていて、最高の形で「有終の美」を飾ろうとしています。80年代に使用した「レインボー・ユニフォーム」を着てプレーした選手の中で最後の現役選手でもあり、この人の引退がファイターズにとって1つの時代が終わり、また新しい時代の始まりを意味することになると言えそうです。 東京ヤクルトスワローズ・鈴木健。 埼玉・浦和学園高校から昭和63年、ドラフト1位で西武ライオンズに入団。スラッガーとして期待されながらなかなか芽が出ず、三塁のレギュラーに定着したのはプロ8年目の平成7年頃。平成9年、FA移籍した清原和博の後を受けて四番打者となり、その年の10月3日の福岡ダイエーホークス戦でチームに3年ぶりのリーグ優勝をもたらすサヨナラホームランを放ったのが、この人のプロ野球人生最高の場面だったのかもしれません。その後も今一つ伸び切れないまま、平成15年にヤクルトスワローズへ移籍。移籍1年目にはベストナインに選ばれカムバック賞も受賞しましたが、ここでもその後が続かず、20年間プレーしながら、結局「未完」のままで選手生活を終えてしまった感があります。 広島東洋カープ・佐々岡真司。 社会人・NTT中国から平成2年、ドラフト1位で広島東洋カープに入団。因みにこの時のドラフト4位が前田智徳で、古田ともプロ同期。翌平成3年にはリーグ優勝に貢献して、MVP。先発・リリーフを往復しながら、史上2人目の通算100勝100セーブを達成。プロ入り10年目の平成11年にはノーヒット・ノーラン達成と輝かしい実績を残しているものの、個人的には何となく「頼りない」印象や、ここ数年の苦闘ぶりのイメージが強く、それがカープというチームそのものを象徴していたようにも思います。今回の引退に関しては、「遂に」という思いと「漸く」という思いの両方を感じています。願わくは、引退会見で「もう一度優勝したかった」ではなく「もう一度優勝出来て良かった」と言って欲しかったです。 東北楽天ゴールデンイーグルス・関川浩一。 駒沢大学から平成3年、ドラフト2位で阪神タイガースに入団。捕手から外野手に転向して頭角を現しましたが、この人の実力が本格的に開花したのは、平成10年、久慈照嘉と共に中日ドラゴンズへ移籍し、翌平成11年にチームのリーグ優勝に貢献した時でしょう。私事ですが、この平成11年の秋、母校の大学祭の見物目的で大阪へ行き、久々に同級生や後輩(皆タイガースファン)と会った時にドラゴンズ優勝の話題が出て、「関川と久慈が…」と言った途端に「やめてくれ!」と言われたことを今でも覚えています。その後は伸び悩み、平成17年に東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍した後も往時の輝きを取り戻すことは出来ませんでしたが、本人は17年の選手生活に悔いを残していないことでしょう。 西武ライオンズ・石井貴。 社会人・三菱重工横浜から平成6年、ドラフト1位で西武ライオンズに入団。一度見たら忘れられない独特の「強面」がトレードマーク。先発・リリーフ両方を務めたが、個人的にはリリーフのイメージが強く残っています。平成16年、右肩痛に苦しみながら、プレーオフと日本シリーズの両方で「胴上げ投手」となったことは、本人にとっては永久に心に残る場面となったでしょう。長年に渡って栄光の座にあったチームが一気に転落して行った中でユニフォームを脱ぐことになってしまったのが、一番の心残りかもしれません。 個性も実績もそれぞれ異なるものの、どの選手も一時代を築き上げ、プロ野球の歴史に名を刻みました。そして、こうした選手は、これからオフに入ると更に出てくることでしょう。
選手生活を終えてグラウンドを去って行くのは寂しいことですが、「長い間、お疲れ様でした」の言葉を贈ると同時に、これから始まる「第二の野球人生」にも期待したいと思っています。 |



