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東京ヤクルトスワローズ・古田敦也兼任監督の今シーズン限りの現役引退、監督辞任が正式に発表され、その記者会見が行なわれたのは、9月19日のことでした。 かねてから話題に上っていたこともあり、「遂にこの時が来たか」という感慨を持った反面、「まさかこんなにも早くこの時を迎えるとは…」という思いも同時に感じたのが、ニュースで会見の模様を見た時の正直な感想です。 兵庫県の川西明峰高校から立命館大学、トヨタ自動車を経て、平成2年、ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。同じ年に就任した捕手出身の野村克也監督の薫陶の下、セ・リーグだけでなく日本を代表する名捕手にまで上りつめた古田は、これまでグラウンドの内外で多くの功績を残してきました。 捕手としては巧みなインサイドワークと強肩を武器に、入団1年目に早速年間盗塁阻止率1位となって以来、通算9回。そのうち平成5年に6割4分4厘の日本記録を樹立するなど、2度の6割を記録。ベストナインに9回、ゴールデングラブ賞に10回選出。打者としては入団2年目の平成3年、当時の中日ドラゴンズ・落合博満との熾烈な争いを制して首位打者を獲得。翌年にはオールスターゲーム史上初のサイクルヒットを記録し、プロ16年目の平成17年には、大学から社会人を経てプロ入りした選手としては初の2,000本安打を達成するなど、広角なバッティングでクリーンアップの一角を占め、この間、平成5年と9年にはMVP、平成9年には日本シリーズMVPと正力松太郎賞にも選ばれ、「野村ID野球の申し子」の名に相応しい活躍を見せ、攻守の要として君臨します。 そして選手以上の功績として、平成16年に起こった「球界再編問題」の際、プロ野球選手会会長としてこの問題に正面から立ち向かい、ファンと一丸となってプロ野球全体を危機から救ったことを忘れることは出来ません。この一事だけでも、古田敦也の名は永久に球史に刻まれるといっても決して過言ではないと思います。 選手としてのキャリアと人気、そしてその行動力を引っ提げて、去年、恩師である野村克也以来、29年ぶりとなるプレーイングマネージャーとして、ヤクルト監督に就任。地域密着型球団を目指してチーム名の頭に「東京」を冠し、また「F―プロジェクト」を立ち上げて「これからのプロ野球チームのあり方」を示すために奔走します。しかし、チーム自体は「ID野球」の下での全盛期が過ぎ、野村―若松勉と監督の座が継承される中で、平成13年にリーグ優勝、日本一を果たしたのを最後に徐々に下降線を辿っており、古田兼任監督はその「抜け殻」同然のチームを引き継ぐことになりました。恐らく本人は「兼任監督」の間にチームを立て直し、「監督専任」となって再びスワローズに「黄金時代」を招来したいという思いを抱いていたのかもしれませんが、監督1年目の去年こそ勝率5割を切りながら3位を確保したものの、今年は開幕当初から成績不振が続き、このことが現役引退だけでなく、あまりにも早過ぎる監督辞任へと繋がる結果となってしまったのは本当に残念で仕方がありません。 この2年間、確かに「ファンの期待に応えられなかったこと」も否定出来ません。しかし、監督としては「何か」をやる前に退陣を余儀なくされたとしか言いようがありません。ここで考えたいのは、スワローズのフロントが古田兼任監督のために一体何をしたのか。そして、今回のような結果になってしまって何か責任を取ったのかということです。恐らく古田は、人気や知名度を利用するだけ利用しておきながら、チームのためには何もせず、また何の責任も取らないやる気のないフロントに絶望してしまったのでしょう。記者会見で流した涙には、他ならぬ「新橋ヤクルト」に敗れてしまった無念さと、それらに対する「怒り」や「悔しさ」が込められていたのかもしれません。チームを強くするには、いたずらに監督のすげ替えをする以上に、フロントの努力や熱意も必要不可欠であることを改めて認識しました。 個人的な印象ですが、「プレーイングマネージャー」という言葉にはカッコ良さを感じますが、「兼任監督」という言葉からは、その職務の過酷さや悲哀が漂ってくるように感じます。
「プレーイングマネージャー」として颯爽と登場した古田が、「兼任監督」の過酷さに苦しんだ末にグラウンドを去ってしまうことは、改めて言いますが本当に残念です。 仮に彼が将来球界に戻ったとしても、ヤクルトスワローズというチームに復帰することはないでしょう。 古田敦也という逸材が、果たしてどのような形で球界に帰って来るのかにも興味がありますが、とりあえずは、今後も外から絶えずプロ野球を見守ってくれることを願っています。 |
プロ野球
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1980年代から90年代半ばにかけて、パ・リーグのペナントレースは殆どパターン化されていました。 昭和54年、福岡から埼玉・所沢にフランチャイズを移した西武ライオンズが、豊富な資金力と管理部長・根本陸夫の辣腕によって戦力を充実させ、共に巨人出身の広岡達朗、森祗晶の2人の監督の下で「パ・リーグ最強軍団」へとのし上がって行きます。広岡・森時代の13年間でリーグ優勝11回、日本一8回。シーズンによっては9月の声を聞いた時点で「胴上げ」を待つばかり、ということもありました。90年代後半に入り、監督が東尾修から伊原春樹へと代わってからも、「最強軍団」のイメージは薄れたとはいえAクラスを維持し、パ・リーグを代表するチームであることには変わりがありませんでした。 その「獅子の時代」が本格的に始まった昭和57年は、熊本工業高校卒業後西武ライオンズの「球団職員」となり、昼間は練習生、夜は所沢高校定時制の学生であった伊東勤が、ドラフト1位で入団した年でもありました。 「西武黄金時代の司令塔」としてチームを支えた伊東が監督と就任したのが、兼任コーチ時代を含めて22年間の現役生活を終えた翌年の平成16年。過去、現役引退後即就任した監督はいずれも1年目は苦戦を強いられており、伊東監督1年目の西武も苦戦が予想された中、ペナントレースは通算2位ながら、この年から導入されたプレーオフを制してリーグ優勝。日本シリーズでも落合博満監督率いる中日ドラゴンズを破り、就任1年目でチームを12年ぶりの日本一へと導くという上々のスタート。この時、再び西武の黄金時代がやって来ることを、ファンは確信したはずでした。 それから3年、西武ライオンズが誕生して29年目の今年、パ・リーグ屈指の強豪であったはずのチームは、チーム誕生以来の「危機的状況」に置かれています。特に5月から6月にかけての「12球団交流戦」では、球団初年度の昭和54年以来28年ぶりの10連敗。その後一時は盛り返したものの、再び負けが込み、今日9月8日の時点で、56勝65敗2引分け。3位の千葉ロッテマリーンズからも10ゲーム差を付けられ、東北楽天ゴールデンイーグルスと並んで4位。最下位のオリックスバファローズともわずか2ゲーム差。25年間維持し続けてきたAクラスも絶望的となり、かつての面影が全く感じられない惨状にあります。 去年まで毎年のように優勝を争っていたチームの突然の凋落。その理由として、エースとして君臨していた松坂大輔のメジャーリーグ移籍による戦力的なダメージ、長年に渡る「裏金」問題発覚の影響、伊東監督の采配など、様々なことが言われていますが、どれも当たっているようで、しかしそれだけではない気もします。 ここで最近の日本プロ野球の風潮に目を移すと、西武が前回日本一になった平成16年に巻き起こった「球界再編問題」と前後して顕著に見られるようになったのが、所謂「地域密着」の動きです。特にパ・リーグでは、ホークスが福岡、マリーンズが千葉、ファイターズが北海道、そしてイーグルスが仙台と、それぞれのフランチャイズやファンと一体化するように努め、それぞれ一定の成果を収めてプロ野球全体を盛り上げる役割を果たしています。これとは別に、同じ埼玉県にフランチャイズを置くサッカー・Jリーグの浦和レッズが、チームとサポーターが一体となって発展を遂げているという現実もあります。これに対して、西武は「埼玉ライオンズ」に球団名を変更する動きが最近になって出て来ており、「地域密着」の流れからは乗り遅れている感があります。球団のホームページを見ても、様々なファンサービスを行なっているようですが、どれだけの成果があったのかは分かりません。かつては球界の最先端を歩んでいたはずが、いつの間にか「時代」に取り残される立場に置かれつつある。これも今年の西武の低迷に大きな影響を与えているのではないかと見ています。 西武ライオンズの前身・西鉄ライオンズは、かつてパ・リーグで一時代を築いたものの、昭和44年に発覚した「黒い霧事件」によってチームは壊滅状態に陥り、遂には球団の身売りを余儀なくされました。
最近の西武の「てんやわんや」ぶりを見るにつけ一番恐れることは、一連の騒動や問題をきっかけに「先祖」の「二の舞」を踏みはしないだろうかということです。 スポーツ紙などで騒がれている「監督人事」だけで、西武ライオンズを巡る全ての問題が解決するとは到底思えません。 |
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それは、誰もが待ちに待った瞬間でした。 そしてまた、その瞬間が現実となったことは「奇跡」とも思えるものでした。 平成19年9月1日、広島市民球場。 広島東洋カープ・前田智徳、2,000本安打達成―。 前田智徳のこれまでの野球人生は、「打撃」というものを一途に追求し続けてきた一打者としての歩みであると同時に、幾多の困難に立ち向かい続けた壮絶な闘いの日々でもありました。 熊本工業高校時代から凄味のある打撃で注目を集めていた前田は、平成2年、ドラフト4位でカープに入団。背番号は「51」。入団1年目、ウエスタン・リーグでの46試合で打率3割1厘を叩き出し、6月には一軍昇格。2年目の平成3年、開幕戦でのプロ入り初本塁打はプロ野球史上初の「開幕戦先頭打者本塁打」。背番号が「31」となった3年目には全試合に出場して、打率3割8厘、19本塁打、89打点。翌年も2年連続全試合出場、シーズン最後まで首位打者を争い、打率3割1分7厘、27本塁打、70打点を挙げ、球界を代表する打者として着実に成長します。 独自のスタンスと類稀な打撃センスから、いつしか「侍」「天才」のイメージが定着した前田ですが、彼が自らそのイメージを確立した上に、「実像」をも垣間見せたと言うべき忘れられない場面があります。プロ3年目の平成4年9月13日、東京ドームでの巨人戦。自らのプレーが原因で、先発のベテラン・北別府学の勝利をフイにしてしまった前田は、8回表、決勝打となる2ランを放ち、ガッツポーズを見せた後、涙を流しながらダイヤモンドを一周。ヒーローインタビューも拒否します。本人曰く「自分のミスで同点にされ、その後にいくら決勝本塁打を放ったからといって、その男がヒーローになるのはおかしい」。それから10年後、度重なる故障を乗り越えた前田は、平成14年4月5日、地元・広島で2年ぶりの本塁打を放った時にも人目を憚らず泣きました。 「プロとしての意地とプライドの持ち主」にして、涙もろい男。それが前田智徳という男なのです。 プロ5年目には背番号が「1」となり、誰の目にも「順風満帆」と思われた前田の野球人生に最大の危機、そして転機が訪れたのが、平成7年5月23日。神宮球場でのヤクルトスワローズ戦でアキレス腱を断裂し、その年のシーズンを棒に振った前田は、以後、慢性的な脚のケガや故障と戦いながらプレーすることを余儀なくされます。彼自身、この神宮での出来事にはこだわりを持ち続けているようで、「2,000本安打は神宮で達成したい」と考えていたといいます。守備や走塁が以前ほどの精彩がなくなったことは完璧主義者である本人にとっては不本意で、その思いは「前田智徳は死にました」「ワシは終わった選手」といった発言に表われ、また一時は「指名打者制」のあるパ・リーグへの移籍も考えたこともあったと伝えられています。 しかし、前田智徳は決して「死ぬ」ことも「終わる」こともありませんでした。タイトルには恵まれないものの、昨年まで打率3割台を記録したシーズンが11回というのは現役では最多。平成17年には、ケガに見舞われてからの念願だった全試合出場を12年ぶりに達成します。 前田がそれまでのイメージから一変したと感じるようになったのは、久々に全試合出場を果たした平成17年頃からです。平成13年に結婚し、家庭を持ったことが最大の要因であると思います。 昨年、マーティー=ブラウン監督就任に伴い、前田は野手のキャプテンに指名されます。因みに、前田は高校3年の時、「責任感を持たせなければいけない」という当時の監督の意向で主将に指名された経験があります。キャプテンに就任してからの前田は、それまで遠慮がちだった「お立ち台」にも積極的に上がるようになり、また、チームの勝利にも人一倍意欲を見せるようになりました。カープは、前田がプロ入りして2年目の平成3年にリーグ優勝して以来、セ・リーグでは最も長く優勝から遠ざかっている上、低迷を続けています。選手としてだけでなく「優勝の味」を知っている点でも、前田は今やチームにとって貴重な存在です。 ここ何年も見られなかった、「優勝決定試合」と見紛うばかりの広島市民球場の盛況の中で、誰もが諦めかけていた「第5打席」での快挙達成。これほど「劇的」で「奇跡的」とも言える「2,000本安打達成の瞬間」をこれまで見たことがありません。
しかし、その翌日の試合で一気に3本のヒットを量産したことこそ、前田智徳の真骨頂であると思います。 そして、「2,000本安打達成」よりも、そこに到達するまでプレーを続けることが出来たことを何よりも讃えるべきであり、また、本人にとってもそれは単なる「通過点」に過ぎません。 前田智徳は、これからもプレーを通じて「前田智徳という生き様」を見せ続けて行くことでしょう。 |
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日本のプロ野球で、ダブルヘッダーというものが最後に行なわれたのは平成10年のことで、以来、10年近く行なわれていないそうです。 かつてはシーズンを通じて常時開催されていたダブルヘッダーも、80年代中盤以降、ドーム球場が次々と登場したことで雨天中止が減少したことなどによって今や「忘れられた存在」となり、また言葉そのものも「死語」と化した感があります。 ダブルヘッダーと聞くと、昼と夜とで同一カードを開催するというイメージを思い浮かべますが、今のようにフランチャイズ制度が確立されていなかったプロ野球草創期から昭和30年代にかけては、同じ球場で違うカードを行なう「変則ダブルヘッダー」が盛んに行なわれていました。関東では後楽園球場、川崎球場、駒沢球場でプロ野球の試合が開催され、セ・リーグの読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、パ・リーグの大毎オリオンズの3チームが後楽園を本拠地とするチームが多かった時代には、巨人の試合を夜7時以後開始のナイターで開催し、それ以外のチームの試合は午後4時開始の所謂「薄暮試合」として変則的に開催することが多くありました。大毎が昭和37年のシーズン途中まで後楽園を本拠地にした後、昭和39年からは東映フライヤーズが、日本ハムファイターズとなった以後も平成15年まで本拠地としますが、巨人と共に開幕権を獲得した年には、日程の都合で変則ダブルヘッダーを行なうこともありました。 昭和48年から57年までパ・リーグでは「2シーズン制」が導入されましたが、日程調整や、1カードが13試合になり4連戦が多く組まれたことから、この時にもダブルヘッダーが多く開催されました。 時期に関係なく見られたダブルヘッダーも、時代が下るにつれて、先ほども書いた通りシーズン終盤の10月頃に行なわれる程度となって行きました。しかし、ペナントレースの決着が最後まで分からないシーズンには、ダブルヘッダーから記憶に残る試合や名勝負が生まれることもありました。 昭和38年、西鉄ライオンズは一時は南海ホークスに14・5ゲーム差まで離されますが、その後追い上げ、10月19、20日の平和台球場での近鉄バファローズとの2日連続のダブルヘッダーのうち、1つでも負けか引き分けると南海の優勝が決まる所を全勝。奇跡の大逆転優勝を果たしました。昭和49年の中日ドラゴンズは、10月12日、中日球場での大洋ホエールズとのダブルヘッダーを連勝。20年ぶりのリーグ優勝を果たし、巨人の「V10」を阻止します。平成3年、広島東洋カープは5年ぶりのリーグ優勝を、10月13日の広島市民球場での阪神タイガースとのダブルヘッダー第2試合で決め、そのままグラウンドでの「祝勝会」が開かれました。 しかし、優勝争いが絡んだダブルヘッダーと言えば、何といっても昭和63年10月19日、川崎球場でのロッテオリオンズ対近鉄戦を忘れるわけには行きません。先に全日程を終えていた西武ライオンズを追う近鉄は、このダブルヘッダーに連勝すれば逆転優勝の可能性がありました。第1試合は逆転勝ちした近鉄でしたが、第2試合は4―4のまま延長に入り、「試合時間が4時間を超えたら新しいイニングに入らない」とする当時のパ・リーグのルールによって、延長10回時間切れ引き分け。「あと一歩」というところで涙を飲みます。翌平成元年のパ・リーグは、近鉄、西武、それにオリックス・ブレーブスが、終盤でも1ゲーム以内に犇く前年以上の大混戦。そんな中で、10月12日に西武ライオンズ球場で行なわれた西武―近鉄戦と、川崎球場でのロッテ―オリックス戦はいずれもダブルヘッダー。西武球場で飛び出した、近鉄・ラルフ=ブライアントの2試合にまたがっての4打数連続ホームランが西武のリーグ5連覇を砕き、前年の雪辱を果たす「追い風」となりました。この日はパ・リーグにとって「長い1日」となった訳ですが、ダブルヘッダーで夢が破れた近鉄が、今度はダブルヘッダーで優勝を決定的にしたことに因縁を感じます。 ここ10年近く行なわれることのなかったダブルヘッダーですが、今年は久々に「復活」する可能性が出ています。横浜ベイスターズが度重なる雨天中止によって、9月28日以降、9日間で10試合行なうことを強いられている上、主催試合の東京ヤクルトスワローズ戦がダブルヘッダーになる可能性が出ているからです。横浜サイドから見れば、シーズン終盤に過密日程を余儀なくされて困惑しているでしょうが、久々にダブルヘッダーが見られるかもしれないと思うと、不思議と興味も湧いてきます。
果たして今年、「ダブルヘッダー復活の日」が来るのでしょうか…? |
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今日8月6日、広島にとっては62回目の「原爆の日」です。 被爆者の高齢化や記憶の風化、それに原爆投下を容認するかのような発言が飛び出すなど、「ヒロシマ」と「ナガサキ」を取り巻く環境は年々厳しくなってきているように感じられます。 しかし、日本人が「ヒロシマ」と「ナガサキ」を忘れることは決して許されず、また「ヒロシマ」と「ナガサキ」を次の世代に語り継いで行くことは、現代に生きる我々の世代の義務でもあると考えています。 原爆の悲劇の象徴であり、平和のシンボルでもある原爆ドーム。 元安川沿いの道を通じて平和公園へと繋がっています。そして、この原爆ドームと市電も通る道を挟んで向かい合っているのが広島市民球場です。 広島市の中心部・基町にあり、原爆ドームや平和公園と向かい合い、後方には広島城や広島県庁が控え、広島屈指の繁華街・紙屋町にも近いという、まさに「戦争」と「平和」、「過去」と「現在」を同時に考えさせられるロケーションの中にあると言っても過言ではない広島市民球場は、先月7月22日、完成から丁度50年という大きな節目を迎えました。 戦前から野球に熱心な土地柄であり、原爆による焦土から立ち直る最中にあった広島にプロ野球チーム・広島カープが誕生したのは昭和24年のことでした。球団創設当初のカープは、広島総合球場(現在の広島総合グラウンド)を本拠地にしていましたが、照明灯がなかったため、広島市民やファンの間からはナイター設備の完備された新球場の建設を望む声が挙がります。これを受けて、地元財界10社で構成される「二葉会」が何の見返りも求めずに寄付した総額1億6千万円を元に、広島市が昭和32年1月31日、新球場の建設を決定。2月22日に起工式、5ヶ月後の7月22日には完工式と照明点灯式が行なわれました。完工式から2日後の7月24日、初のナイター試合、カープ対大阪タイガース戦が開催され、この日から広島市民球場の歴史が始まりました。 半世紀に渡る長い歴史の中で、広島市民球場はいくつかの「役割」を担って来たように思います。 先ず、今も書いた通り、原爆ドームと道を挟んで向かい合っていることは重要な意味があり、原爆ドーム共々平和のシンボルとしての役割を担っていると言えます。 次に、ここを本拠地とするカープが、セ・リーグの「お荷物」と呼ばれた時代から「赤ヘル軍団」へと変貌を遂げ、現在に至るまでの「栄枯盛衰」を見届け、数々の名勝負や名場面の舞台としての役割を果たして来ました。 そして、今。開設50年を迎え、各方面から老朽化が指摘された上に「新球場建設問題」にも悩まされている「窮状」にある市民球場は、今日のカープが慢性的に抱えるチームの衰弱ぶりと、旧態依然とした球団の「病んだ」体質を、そのまま象徴しているように思えます。 広島市民球場は来シーズン限りでその役目を終え、平成21年からは「新球場」に代わることになっています。
「最後の年」となる来年、昭和33年に一度行なわれて以来、広島市民球場で行なわれることのなかった「8月6日の公式戦開催」が計画されているそうです。 「8月6日の市民球場での公式戦」が実現することを願うと同時に、このことを通じて平和の素晴らしさを改めて感じ、「この場所に広島市民球場があること」の意味を考えることが出来たらと思います。 |


