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平成10年、春夏の甲子園を制し、全国にその名を轟かせた横浜高校の「怪物」・松坂大輔。 その年のドラフトで西武ライオンズに入団した彼を筆頭に、昭和55年4月2日から翌年4月1日生まれの同年代より優れた選手が多く輩出したことから、世間やマスコミはいつしか彼らのことを尊敬と親しみを込めて「松坂世代」と呼ぶようになりました。 現在の日本プロ野球界には、「松坂世代」に属する日本人選手が68人おり、12球団別に分けると、以下の選手たちがそれぞれのチームにいます。 ○パ・リーグ 北海道日本ハムファイターズ:星野八千穂、小山桂司、森本稀哲、小谷野栄一、紺田敏正、工藤隆人 西武ライオンズ:小野寺力、長田秀一郎、吉見太一、上本達之、後藤武敏、水田圭介、赤田将吾 福岡ソフトバンクホークス:小椋真介、新垣渚、和田毅、杉内俊哉、大野隆治、吉本亮、稲嶺誉 千葉ロッテマリーンズ:久保康友、松本幸大、龍太郎(土居龍太郎)、竹原直隆 オリックスバファローズ:軒作(妹尾軒作)、加藤大輔、光原逸裕、大西宏明 東北楽天ゴールデンイーグルス:木谷寿巳、藤崎紘範、渡辺直人、平石洋介、中島俊哉、金森久朋(育成) ○セ・リーグ 中日ドラゴンズ:川井進、小林正人、小山良男 阪神タイガース:杉山直久、藤川球児、江草仁貴、久保田智之、橋本健太郎、伊代野貴照 東京ヤクルトスワローズ:館山昌平、石堂克利、衣川篤史、牧谷宇佐美、ユウイチ(松元ユウイチ) 読売ジャイアンツ:久保裕也、木佐貫洋、酒井順也、實松一成、加藤健、矢野謙次 広島東洋カープ:永川勝浩、山崎浩司、東出輝裕、梵英心、井生崇光、鞘師智也、飯田宏行(育成) 横浜ベイスターズ:三橋直樹、堤内健、村田修一、木村昇吾、河野友軌、古木克明、小池正晃 ※日本テレビ:上重聡(アナウンサー) 同年代と言っても、大学・社会人を経てプロ入りした選手も多く、プロとしての年数にはそれぞれ差があります。また、松坂と共に高校からプロ入りした選手たちの多くは、松坂に比べるとプロで開花するまでにはかなりの時間を要しました。例えば、東京・帝京高校出身の日本ハム・森本は、チーム44年ぶり日本一に貢献したプロ入り8年目の昨年、漸く不動のリードオフマンに定着することが出来ました。高知商業出身の阪神・藤川が一気にブレイクしたのは、背番号を「22」番に変えたプロ入り7年目の一昨年のことでした。福井・敦賀気比高校出身で長年伸び悩んでいた広島・東出も、同年代のルーキー・梵英心の入団が刺激となったのか、昨年漸くセカンドのレギュラーに定着しました。松坂の横浜高校でのチームメイトでは、法政大学を経て同じ西武に入団した後藤と、亜細亜大学からJR東日本を経て中日入りした小山がいますが、2人ともプロで本格的に活躍するまでには至っていません。 「松坂世代」の中でも異色の存在なのが、日本テレビの上重聡アナ。実はこの人、高校時代はPL学園の投手で、平成10年夏の甲子園の準々決勝で、横浜高校の松坂と7回から延長17回まで投げ合い敗れたことで有名となりました。立教大学に進学後、東京六大学野球で36年ぶり、史上2人目の完全試合を達成するなどプロからも注目されますが、肘を壊して断念しアナウンサーへと方向転換。昨年のWBC決勝戦ではリポーターとして日本の勝利を伝えましたが、そのままシャンパンファイトまで中継することとなり、松坂をはじめとする「松坂世代」の代表選手たちから、折角この試合のために用意した自身最高のスーツをシャンパンまみれにされたそうです。 松坂が海を渡り、同世代の選手たちはその代表である「DICE−K」に熱いエールを送りながら、日本で彼に負けない活躍を見せようと決意を新たにしていることでしょう。そして、こう言いたいのではないでしょうか。
「もう、ボクたちを『松坂世代』と呼ばないで」…。 |
プロ野球
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今日は、ボストンレッドソックス・松坂大輔のメジャーリーグ・デビュー戦の話題で持ちきりだったのではないでしょうか。 カンザスシティーロイヤルズを相手に7回まで投げて6安打1失点、しかし10奪三振は見事でした。次回はイチロー、城島健司のいるシアトルマリナーズ戦に登板予定だそうで、今から楽しみです。 さて、今回は「伝説のペナントレース」の3回目。今年の干支に因んで、「猪年」の中から、昭和46年のペナントレースを取り上げます。 この年のペナントレースは、セ・リーグは川上哲治監督率いる読売ジャイアンツ、パ・リーグは西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが優勝という、当時の「定番」の展開となりました。巨人は開幕2戦目から12連勝、前半戦終了時点で2位に11・5ゲーム差、最終的にも6・5ゲーム差をつけて「V7」を果たします。もっとも後半は負けが込み、通算70勝、貯金18はいずれも過去7年間で最低。「マンネリ」が囁かれ始めたのもこの頃からでした。6度目の首位打者を獲得し、2000本安打も達成した長嶋茂雄がMVPを受賞しましたが、この年はミスターがタイトルを獲得した最後の年でもありました。一方、前年パ・リーグ4連覇を逃した阪急は、いずれも昭和44年入団の山田久志、福本豊、加藤秀司の3選手の台頭もあって、前半戦50勝、貯金32のハイペースがものを言い、ペナントを奪還します。圧倒的強さを見せ付けた阪急とは対照的に、かつて隆盛を誇った西鉄ライオンズの「凋落」も目を引きました。 ペナント争いは盛り上がらなかったこの年最大の話題となったのは、7月17日に西宮球場で行なわれたオールスターゲーム第1戦での阪神・江夏豊の9連続奪三振でしょう。この年は心臓病に悩まされ、シーズン中は不調だった江夏でしたが、オールスターファン投票で投手部門1位に選ばれ、強打者揃いのパ・リーグを相手にファンの声に応える快(怪)投を披露しました。因みにこの試合で、セ・リーグはオールスター史上初のノーヒット・ノーランを達成しています。記録では、阪急・長池徳二が32試合連続安打の日本新記録(当時)を樹立。巨人・広野功の代打逆転満塁サヨナラホームランや、東映フライヤーズの「1イニング5者連続ホームラン」という、いずれもユニークなホームラン記録も生まれました。 一方、7月13日の阪急―ロッテオリオンズ戦で、ハーフスイングの判定を巡りロッテが試合続行を拒否。そのまま没収試合となるトラブルもあり、これが日本プロ野球史上「最後」の没収試合となっています。 昭和46年という年は、いわゆる「団塊の世代」のプロ野球での活躍がいよいよ本格化した年だったと言えます。前記の山田、福本、加藤の阪急勢に加えて、プロ入り2年目の南海ホークス・門田博光が打点王を獲得。後の「ミスター赤ヘル」山本浩二(当時は浩司)が「8」番、「燃える男」星野仙一が「20」番になったのもこの年からで、同年代のヤクルトアトムズ・若松勉の「ルーキーイヤー」でもありました。 こうした新しい世代が台頭する一方、中日ドラゴンズ・水原茂、ヤクルト・三原脩という、かつて「宿命のライバル」と持て囃された2人の名将が久々に同じリーグで対戦しましたが、殆ど話題にはならず、この年限りで水原は球界を退きます。「ラッパ」こと名物オーナー・永田雅一が、社長を務める大映の経営建て直しのためその職を退いたロッテは、没収試合の責任を取る形で濃人渉(のうにん・わたる)監督がシーズン途中で解任され、大沢啓二監督が二軍から昇格。大沢親分の監督デビューもこの昭和46年のことでした。 「阪急有利」という周囲の声の中で行なわれた巨人と阪急の日本シリーズ。第3戦、王貞治が山田から逆転サヨナラ3ランを放ったことで完全に流れは巨人へと傾き、4勝1敗でシリーズ7連覇を果たし、ペナントレース同様、「定番」のパターンとなりました。
今日では、ペナントレースそのものは話題に上ることは少ないようですが、それでもいまだに語り継がれる名場面や、新しい世代の台頭とそれを含めた「世代交代」など、印象に残る出来事の多い年であったと言えます。 |
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本日のテーマは、「プロ野球占い」。 私、万年寝太郎が、今年2007年のプロ野球を占います。 …と言うのではなく、正真正銘「プロ野球占い」という占いがあるとのことで、それを紹介したいと思います。 「プロ野球占い」なるものがあることを知ったのは、共にブログを通してお世話になっている、赤ヘル軍曹さんと甲府さんの御二方が、偶然にも同じ時期にこれについて自身のブログで紹介したことがきっかけでした。「自分の名前」「生年月日」「血液型」、それに「好きな野手」「好きな投手」を入力すると、「自分のタイプと性格」「恋愛について」「ラッキーアイテム」が診断されます。 これまでにも本やネットなどであらゆる占いに挑戦してきた人間としては、これを見逃さない手はありません。早速、挑戦致しました。 「あなたのお名前を入力して下さい」→「万年寝太郎」 「生年月日を入力して下さい」→「○年○月○日」 「あなたの血液型を選んで下さい」→「O型」 「あなたの好きな野手」→「前田智徳」 「あなたの好きな投手」→「黒田博樹」 そして、「占う」ボタンをクリックして出た結果は…、「万年寝太郎さんは、牛島和彦タイプです」。 診断結果を要約すると、「とても真面目なタイプ」「責任感が強く、一度信頼されるとそれを裏切らないよう全力を尽くす」「マイペースで打ち解けるまで時間がかかりますが、信頼している人は多いはず」「頑固なところがある」「体は硬い」。恋愛については、「駆け引きが苦手で、相手に振り回される」「警戒心が強くアタックされても簡単に乗らない」「ライバルがいると猛烈に燃え上がる」「一時の感情で別れた後で後悔することが多い」。ラッキーアイテムは「瓦」でした。 診断結果を自己分析してみると、当たっていると思う部分と的外れな部分とに分かれます。ラッキーアイテムが「瓦」というのは、「瓦のある家に住みなさい」という意味なのか。因みに我が家の屋根には瓦はありません。 ところで、ここに名前の出てきた牛島和彦ですが、「とても真面目」で「責任感が強かった」ことが、逆にベイスターズの監督としては上手く行かなかったのか…と、余計なことを考えてしまいました。 「プロ野球好きのプロ野球好きによるプロ野球好きのための占い」と銘打つ「プロ野球占い」。
「プロ野球占い」で検索すると見つかりますので、「当たるか当たらないか」は別にして、まだ挑戦していない方も、是非一度お楽しみ下さい。 因みに、2007年のプロ野球を占うことは私には出来かねますので悪しからず…。 |
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表紙が「横浜高校の松坂大輔」という、現在発売中の「ベースボールマガジン・2007年春季号」。 昨年の同誌春季号でも特集記事として掲載された「伝説の名チーム名鑑・復刻版」が、読者から好評を得たとのことで、引き続き登場しています。 今回は昨年紹介されたチーム以外から、「伝説の名チーム」が12チーム紹介されています。 昭和30年代のチームでは、昭和35年の大洋ホエールズ、昭和37年の東映フライヤーズ、昭和39年の阪神タイガースの3チームが紹介されています。昭和35年の大洋は、西鉄ライオンズを3連覇に導いた三原脩監督が就任。それまで6年連続最下位で文字通り「万年最下位」だったチームが、「三原魔術」によって球団創設以来初優勝という離れ業を見せたばかりか、日本シリーズでも、パ・リーグを制した西本幸雄監督率いる大毎オリオンズを4連勝で降して日本一に輝くという快挙を成し遂げます。その三原とは生涯のライバルであり、この年ペナントを奪われて巨人を追われた水原茂監督が、それまでパ・リーグでBクラスの常連だったチームを監督就任2年目でリーグ優勝に導いたのが昭和37年の東映。ペナントレースの折り返し時点で2位に16ゲーム差を付ける圧勝で、日本シリーズではセ・リーグの覇者、藤本定義監督率いる阪神タイガースに先手を取られながらも逆転で日本一の座に就きました。この年、惜しくも日本一を逃した阪神は、2年後の昭和39年、三原監督率いる大洋とのデットヒートを制して、ペナントを奪還します。史上初のナイター開催となったこの年の日本シリーズで、阪神は鶴岡一人監督率いる南海ホークスと対戦。「なにわシリーズ」と呼ばれましたが、最終戦で敗れ、またも日本一は逃しました。 「V9」時代以降に飛んで、昭和49年のロッテオリオンズ、昭和50年の広島東洋カープ、昭和53年のヤクルトスワローズ、昭和54年の近鉄バファローズ、昭和57年の中日ドラゴンズ、そして昭和58年の西武ライオンズと続きます。「ジプシー・ロッテ」と呼ばれた金田正一監督率いるロッテは、昭和49年のパ・リーグを制し、日本シリーズでは巨人の「V10」を阻止した与那嶺要監督率いる中日ドラゴンズを降して、パ・リーグに10年ぶりに日本一をもたらしました。「赤ヘル旋風」を巻き起こしてリーグ初優勝を果たした昭和50年の広島ですが、この年の名鑑にはジョー=ルーツ監督の写真は載っているものの、当時は主要コーチが何人か紹介されるだけだったため、古葉竹識コーチの写真は載っていません。昭和53年のヤクルトは、就任2年目の広岡達朗監督の下、球団創設29年目にして初のリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは当時パ・リーグ4連覇と「無敵」を誇った上田利治監督率いる阪急ブレーブスを破り日本一となります。しかし、翌昭和54年は一気に最下位に転落。広岡も退団を余儀なくされます。同じ年、阪急の牙城を崩してパ・リーグ初優勝を果たしたのが、西本監督率いる近鉄。あの「江夏の21球」もこの年のことです。昭和57年の中日は、近藤貞雄監督の下、藤田元司監督率いる巨人を抑えてリーグ最終戦で劇的な優勝を決めます。「燃える男」星野仙一の現役最後の年でもありました。この年、中日を日本シリーズで破ったのが、所沢に本拠地を移転して4年目、広岡監督就任1年目の西武。翌昭和58年は圧倒的な強さでペナントを独走し、日本シリーズでは宿願だった「巨人を破っての日本一」を果たします。 平成以降では、平成元年の巨人、平成8年のオリックス・ブルーウェーヴ、そして平成11年の福岡ダイエーホークスが登場。「長嶋解任」後に監督を務めた藤田監督が、今度は「王解任」の後を受けての再登板となった平成元年の巨人。ペナントレースで圧勝の後、日本シリーズでは仰木彬監督率いる近鉄に3連敗からの4連勝で、チームを8年ぶりの日本一に導きます。この時敗れた仰木監督は、平成6年、オリックス監督に転じると、翌平成7年、阪神大震災の余韻が冷めやらぬ中チームを初優勝に導き、平成8年にはリーグ連覇を果たし、長嶋茂雄監督率いる巨人を破って初の日本一となりました。この時、地域密着型チームとしても、また常勝チームとしても定着出来なかったことが惜しまれます。巨人監督としては屈辱を味わった王監督が平成7年に監督に就任したダイエーは、それから5年目、チームが本拠地を福岡に移転して11年目の平成11年、念願のリーグ優勝を果たし、星野仙一監督率いる中日にも圧勝して日本一にも輝き、以後、ホークスは強豪チームとして君臨することになります。 それぞれのチームの名鑑を見てみると、選手たちを見ても、「記録」でも「記憶」でも名を残す人々の写真が揃っています。読みながら、各時代を彩ってきたチームや選手たちを懐かしみながら伝えていくことも、ファンとしての「務め」ではないかと、改めて思いました。
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背番号「3」と言えば、「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄の「形容詞」とされています。 しかし、背番号「3」は決して長嶋一人だけのものではありません。様々な選手たちによって栄光の背番号の地位を確立して行ったのです。 12球団中、「3」番が永久欠番となっているのが読売ジャイアンツと広島東洋カープ。巨人では昭和13年、プロ野球史上初の三冠王(戦後認定)となった中島治康から、戦前から戦後にかけて川上哲治と共にチームを支えた「猛牛」こと千葉茂を経て、昭和33年に長嶋へと受け継がれ、各時代ごとの大選手たちが付けた巨人の歴史を物語る番号と言えます。カープでは、「鉄人」衣笠祥雄によって永久欠番となりましたが、彼がこの番号を着けたのは、一塁から三塁へコンバートされたプロ11年目の昭和50年から。それまでの10年間は「28」番を付けており、欠番とは違う番号をこれほど長期間付けていたのは衣笠だけだそうです。昭和50年は、カープがリーグ初優勝を果たした年でもあり、以後連続試合出場を続けたことによって、長嶋以降の「3」番のイメージが定着しました。 個人的には、背番号「3」と言えば、長嶋・衣笠も含めて「スラッガー」の番号というイメージがあり、事実、球史を代表する多くの強打者たちが「3」番を着けてきました。戦後間もなく、「青バット」でセンセーショナルなデビューを果たし、後に西鉄ライオンズ黄金時代の四番打者としても活躍した大下弘(セネタース・東急→西鉄)。長嶋より1年長い18年間に渡って「3」番を着け、「一本足打法の王貞治」の恩師である元巨人コーチ・荒川博が、「ある意味では王以上の技術の所有者」と絶賛した「安打製造機」榎本喜八(毎日・大毎・東京・ロッテ→西鉄)。阪急ブレーブス黄金時代の四番を務めた長池徳二(後に徳士)。近鉄バファローズで「19歳の四番打者」として脚光を浴び、ライオンズに移籍した昭和50年に念願の本塁打王を獲得した土井正博(近鉄→太平洋・クラウン・西武)。その土井の後を継ぎ、「元祖・いてまえ打線」の一翼を担った羽田耕一。オリックス・ブレーブス「ブルーサンダー打線」の主軸を務めた石嶺和彦。そして、西武ライオンズ時代の清原和博、近鉄バファローズ時代の石井浩郎、現役最晩年の日本ハムファイターズ時代の「オレ流」落合博満と、背番号「3」のスラッガーは枚挙に暇がありません。 「スラッガー」でない背番号「3」の選手にも、勿論球史に残る名選手が多くいます。例えば中日ドラゴンズでは中利夫、平野謙といった「職人」タイプの外野手が主に着用し、PL学園から入団した立浪和義が昭和63年から着けて以来、今年で20年目を迎えます。その他、ホークスでは南海時代の定岡智秋とダイエー時代の佐々木誠、横浜大洋ホエールズで「スーパーカートリオ」の一翼を担った高木豊、日本ハムファイターズ・白井一幸、ロッテオリオンズ時代から千葉ロッテマリーンズにかけて着け続けた西村徳文といった選手が印象に残っています。外国人選手では、阪急から移籍したボビー=マルカーノ、阪神から移籍したトーマス=オマリーが共にヤクルトスワローズで着用し、現在のアレックス=ラミレスへと繋がっています。そう言えば、あの長嶋一茂もヤクルトでは「3」番でした。 ここまで背番号「3」について書いてきましたが、意外と「3」番の印象が薄いのが阪神タイガース。昭和60年の日本シリーズで、初の日本一を呼び込む満塁ホームランを放った長崎啓二に「神様」八木裕と、寧ろ最近になってその地位が向上したように思われますが、このチームにはかつて江川卓という「幻」の、そして「いわくつき」の「3」番がおりました。 現在でも、前記の立浪、ラミレスの他、福岡ソフトバンクホークス・松中信彦をはじめとして、チームを背負って立つ選手が「3」番を着けています。
背番号「3」が、長嶋茂雄の「代名詞」であることには異論はありません。 しかし、栄光の背番号「3」は、長嶋だけでなく、この番号を着けた多くの名選手たちによってその地位が確立されたことも忘れてはなりません。 |



