万年寝太郎徒然日記

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プロ野球

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現在の12球団のユニフォームのうち、個人的に見て最もカッコ悪いと思うのは、読売ジャイアンツのユニフォームです。
デザインもいただけないし、「GIANTS」のロゴも変。いたずらに斬新さや目新しさを求めたことが、かえって逆効果となってしまったような気がしてなりません。「史上最悪」と言っても過言ではないでしょう。

ジャイアンツの歴代ユニフォームの中で代表的なものと言えば、あの「V9」時代を通じて使用されていた「Wライン」ユニフォームを思い浮かべる野球ファンの方も多いことでしょう。
「Wライン」は、昭和11年に初めて採用されて以来、戦前・戦後を通じて何度か採用されたことがありますが、本格的に定着したのは、川上哲治監督が就任した昭和36年からのことです。ジャイアンツのチームカラーとして、大リーグのニューヨーク・ジャイアンツを基に黒とオレンジが採用されたのは、前任の水原茂監督時代の昭和28年からですが、水原監督の時代はシャツの襟・袖、そしてパンツのサイドラインはシングルでした。しかし、川上監督就任と同時にWラインに改められたのでした。
川上監督が「Wライン」に採用した背景には、自身のこだわりが大きく関わっていたようです。旧制中学時代は投手だった川上哲治選手が熊本工業から巨人に入団したのが昭和13年。この頃の巨人はシャツの袖とパンツのサイドラインが「Wライン」でした。プロの世界に入って最初に身に付けたユニフォームやそのデザインへの格別の思い入れと、新体制を形からアピールしたいという意図が、「Wライン」復活のきっかけとなったのでした。

このユニフォームは、昭和49年までの延べ14年間に渡って採用されましたが、川上監督就任1年目にリーグ制覇を果たし、日本一の座についたのを手始めに、5年目の昭和40年からは「V9」を成し遂げ、まさに「史上最強軍団」のユニフォームとして定着したのでした。
「Wライン」ユニフォームは、その後のユニフォームのカラー化などと相まって、他球団にも多大な影響を与えたようです。例えば、中日ドラゴンズは配色は異なるものの、昭和30年代後半から40年代にかけて見た目はそっくりなユニフォームを採用しており、また、ロゴやラインをオレンジが挟むというスタイルは、西鉄ライオンズや広島カープでも採用された他、阪急ブレーブスでも、昭和40年代中盤、当時の黒のストライプのユニフォームに黒でオレンジを挟んだラインを入れたものが採用され、プロ野球ファンの間では「どこのユニフォームもジャイアンツみたいだ」という声が上がるほどだったそうです。

ジャイアンツと「Wライン」の関係を別の視点から見てみると、昭和50年に長嶋茂雄監督が就任すると、それまでの花文字に代わって、大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツ風に「GIANTS」のロゴが変更され、ラインも太いシングルとなったユニフォームが新たに採用されます。しかし、長嶋監督が解任され、昭和56年から藤田元司監督が指揮を執ることになると、同時に以前の「Wライン」ユニフォームが復活します。その後王貞治監督から再び藤田監督の時代にかけて「Wライン」ユニフォームが採用されますが、平成5年に長嶋監督が復帰すると、今度はシャツの前立てと袖口、それにパンツのサイドにそれぞれ細いシングルラインが入ったユニフォームが採用されます。言ってみれば、「Wライン」の歴史は、「V9」時代以降の「巨人軍風雲録」を形の上で表わしていると言うことも出来るのです。

「Wライン」復活の年にプロ入りした原辰徳監督が、自らが監督に就任するにあたり「Wライン」を復活せず、「ミスター」路線を踏襲したというのは面白いですが、ではそれに勝るような洗練されたユニフォームが生まれたのかと言えば、その答えは最初に書いた通りです。いずれにしても、「Wライン」が巨人軍の歴史の一端を示していることは間違いありません。
70年余りに及ぶ日本プロ野球の歴史をデザインの面から振り返った時、印象に残る物として先ず挙がるのが、近鉄バファローズの「猛牛マーク」でしょう。
あの「猛牛マーク」はどのようにして生まれたのか。近鉄球団の歴史を振り返りながら、その経緯について書いて行こうと思います。

西本幸雄監督の下でパ・リーグ初優勝を果たした昭和54年以降、「いてまえ打線」のイメージが定着したバファローズですが、球団が創設された昭和25年当時のチーム名は「近鉄パールス」。とても強いチームのニックネームではなく、実際、パ・リーグのお荷物球団となったこのチームは、いつも下位に低迷している所から「地下鉄球団」と揶揄され、「近鉄パールス」最後の年となった昭和33年には、その年の最多勝となった西鉄ライオンズ・稲尾和久投手の勝利数・33勝にも及ばぬ29勝しか出来ない有様でした。
そんな弱小球団がチーム名を改名することになったのは、昭和34年、プロ野球草創期からのスター選手で、当時巨人の二軍監督だった千葉茂を監督に迎えたことがきっかけでした。これを機に、球団はパールスに変わる新しいニックネームを公募。2万通近い応募総数の中から、千葉監督のニックネーム「猛牛」にあやかった「バファロー」と決定します。因みに、チーム名が「バファローズ」となるのは、千葉監督退団後の昭和37年からのことです。

新しいチーム名「バファロー」と同時に「猛牛マーク」が登場します。このマークが誕生した経緯については、『プロ野球ユニフォーム物語』(ベースボール・マガジン社)の中で、著者の綱島理友さんが、千葉茂さんご本人から聞いた話として紹介されています。
当時、毎晩銀座のバーで芸術家・岡本太郎や作曲家・浜口庫之助と酒を飲んでいた千葉さんは、監督就任にあたり、岡本さんに球団旗のデザインを考案してもらおうと、南青山の自宅まで依頼に行ったそうです。いくつかのアイデアを出した後、最終的に決まったのが、「猛牛が目玉を見開いて角を立てている姿」をモチーフにしたあのマークでした。めでたくマークが決まったものの、千葉さんが困ったのは、当時既に世界的芸術家であった岡本太郎にいくら払えば良いかが分からなかったことで、結局、当時のお金にして10万円で描いてもらったそうです。
千葉さんは、ついでに浜口庫之助さんに球団歌の作曲を依頼しようと考えたそうですが、「球団歌には向かないだろう」という理由でそれは取り止めたそうです。

「猛牛マーク」は、「近鉄バファロー」1年目の昭和34年には帽子のデザインとして採用され、その後、昭和41年からはユニフォームの左袖とヘルメットに採用されます。昭和49年に西本監督が就任し、袖の赤色がトレードマークの、あのラグランスリーブのユニフォームが登場すると、炎の中で雄牛と「猛牛マーク」が合体したデザインが採用されますが、数年で元の「猛牛マーク」に戻り、平成8年まで使用されます。それよりも「猛牛マーク」を更に有名にしたのは、昭和53年から採用されたトリコロールカラーの帽子においてでしょう。平成9年、本拠地が大阪ドームに移転したのを機にユニフォームがリニューアルされた後も、帽子のデザインに採用され、平成16年、55年の歴史に幕を閉じるまで使用されたのでした。

岡本太郎と言えば、CMで「芸術は爆発だ!」の名言を残したことでも知られていますが、我が国屈指の芸術家であったこの人が作ったマークが日本プロ野球界に存在していたという事実は、美術史においても重要な意味を持つと思われると同時に、それほどのデザインがあっけなく姿を消してしまったことは返す返すも残念です。
「猛牛マーク」は、紛れもない「芸術」でした。
僕が生まれた年、昭和50年のプロ野球については、これまでにも様々なテーマから触れてきました。
プロ野球ファンの中には、自分の生まれた年はプロ野球界にとってどのような年だったのか、どんな出来事があったのかについて興味を持っている方が多いのではないでしょうか。

さて、昭和50年のプロ野球は、「新時代到来」と「世代交代」の年でした。
この年、シーズン開幕前に最も注目を浴びたのは、現役を引退し、背番号から「3」から「90」へと変わった巨人・長嶋茂雄新監督。「クリーン・ベースボール」を掲げ、表面的には華々しいスタートを切りましたが、その実態は「長嶋率いる長嶋のいないジャイアンツ」。「V9」戦士たちは軒並み衰えが見られ、若手選手はまだ成長過程というチーム状態の中、巨人は開幕から低迷。全球団に負け越しの上、球団史上初の最下位に転落します。しかし、後楽園球場の観客動員数は過去最高を記録しました。
「長嶋監督誕生」に触発されたのか、この年は新監督ラッシュに「青年監督」ブーム。セ・リーグでは阪神タイガース・吉田義男、大洋ホエールズ・秋山登、パ・リーグでは太平洋クラブライオンズ・江藤慎一(選手兼任)と、30代から40代前半の新監督が3人登場。最年少の阪急ブレーブス・上田利治が38歳、最年長の近鉄バファローズ・西本幸雄も55歳と、監督の平均年齢が一気に若返った年でした。
パ・リーグで、「前・後期2シーズン制」に続き「指名打者制」が導入されたのも、この年のことでした。

さて、「新時代到来」を最も象徴する出来事となったのが、広島東洋カープのセ・リーグ初優勝でした。球界初の外国人監督・ジョー=ルーツの下、燃える色、闘争心のシンボルとして「赤ヘル」を採用した広島は、開幕わずか1ヶ月でルーツが退団した後、古葉竹識コーチが昇格。「赤ヘル旋風」と呼ばれる快進撃を見せ、与那嶺要監督率いる中日ドラゴンズ、そして阪神との優勝争いを制し、10月15日、後楽園球場で巨人を破り、悲願の初優勝を果たします。長年「リーグのお荷物」と言われた広島が、最下位に転落した球界の盟主・巨人を破って優勝を決めたことは、そのまま「新時代到来」を象徴するシーンとなりました。
「赤ヘル旋風」の影に隠れる形となりましたが、パ・リーグでも、西本監督就任2年目の近鉄が「初優勝」を果たします。前・後期のうちの後期を制したものでしたが、年間を通しての通算成績はリーグトップでした。しかし、プレーオフでは前期を制した上田監督率いる阪急に敗れ、真の「リーグ制覇」まではこれから4年後の昭和54年まで持ち越されることになります。

昭和50年に活躍した選手を挙げると、セ・リーグでは、MVPを受賞した山本浩二、この年三塁にコンバートされた衣笠祥雄らの広島勢に、巨人・王貞治が13年間君臨してきたホームランキングの座に就いた阪神・田淵幸一、他にも、最優秀防御率投手となった阪神・安仁屋宗八や、山本と最後まで首位打者を争った中日・井上弘昭の「元・カープ」選手の活躍が目立った一方、プロ入り9年目の阪神・江夏豊にとっては、タテジマのユニフォームを着た最後のシーズンとなりました。パ・リーグでは、エース・山田久志、5年連続盗塁王の福本豊、それに首位打者、打点王の2冠に輝き、MVPも受賞した加藤秀司(英司)の阪急勢に、23勝で最多勝を獲得した一方で、15敗がリーグ最多敗戦となった太平洋・東尾修、近鉄から移籍した途端にホームランキングとなった同じく太平洋・土井正博、また、剛速球を武器に新人王に輝いた阪急・山口高志などが目立ちました。いわゆる「ドラフト・花の44年組」を中心にした「団塊世代」が多く、この年から、彼らの世代がプロ野球界を本格的に牽引するようになります。

広島と阪急の対決となった日本シリーズ。広島・古葉監督は勿論、阪急・上田監督も現役時代は広島でプレーしたことから「因縁の対決」とも、また「山陽シリーズ」とも言われたこのシリーズは、阪急が4勝2引分けで初の日本一に輝き、この後昭和52年まで3年連続で日本一の座に就きます。
70年以上に渡る日本プロ野球の歴史の中でも、この昭和50年は、まさに歴史の一大転換期と呼ぶに相応しい年でした。
西武ライオンズに球団名を変更する動きがあるそうです。
新名称は「埼玉ライオンズ」が有力で、他には「所沢ライオンズ」なども候補に挙がっているとのこと。球団名に親会社の「西武」を入れるかどうかを含めて、これから本格的な議論を重ねた上で、今年11月には実行委員会、オーナー会議で承認を得たい意向のようです。

ライオンズの球団名変更については、一昨年にも、「所沢ライオンズ」への変更を求める請願書が、地元・所沢の商工会議所や商店街などの代表たちの連名で市議会に提出され、また、親会社の西武グループのトップである西武ホールディングス・後藤高志社長も「地元にチームをアピールして行きたい考えはある」と前向きな姿勢を示したという経緯があります。今回は、球団の太田秀和社長が上田清司・埼玉県知事との会談で、「もっと埼玉県の球団ということをアピールしたい」と強調し、上田知事も「是非“埼玉”でお願いしたい」と答えたそうで、かねてからの動きがいよいよ本格化してきたと言えます。

球団名に地域名を入れようとする背景としては、今も書いたように、やはり地域密着の方針があり、地元にライオンズというチームをよりアピールしたいという強い意思が感じられます。特にパ・リーグでは、ホークスが福岡、マリーンズが千葉、ファイターズが北海道、そしてイーグルスが仙台と、地域密着を強化する動きが「球界再編問題」と前後する形で顕著に見られ、それぞれ一定の成果を収め、日本プロ野球全体を盛り上げる役割も果たしています。ライオンズもこれらの動きに刺激を受け、この流れに乗り遅れまいと考えたのは、当然のことと言えるかもしれません。

これとは別に、同じ埼玉県にフランチャイズを置くサッカー・Jリーグの浦和レッズが、Jリーグ初優勝、天皇賞2連覇を果たしたことも大いに影響していると思われます。優勝パレードにはJリーグ史上最多の6万5千人が詰め掛けたそうで、チームと地元サポーターたちが一体となって勝利を掴んだ、まさにプロスポーツが地域に根付いた見本と言うべきものでした。
一方、ライオンズが12年ぶりに日本一の座についた平成16年、その記念パレードが予定されながら、当時の堤義明オーナーによる有価証券報告書の虚偽記載問題が発覚し、自粛に追い込まれるという経緯がありました。このことは、「西武ライオンズ」というチームが、ファンや地元のものではなく、西武鉄道という一企業の所有物であり、堤義明という一オーナーの私物であることを図らずも証明する結果となり、同時に日本プロ野球界が持つ古い体質をも明るみにしたと言えます。「所沢ライオンズ」の件についても、球団関係者から、「西武鉄道の利用客は東京の方が多い」という理由で異を唱える声が多かったことから頓挫したそうで、相変らずファンや地元よりも親会社の意向が幅を利かせている現状が伺えます。

パ・リーグに限らず、セ・リーグでもスワローズが球団名に「東京」の2文字を冠するなど、地域密着の方針を打ち出す動きを見せていますが、まだまだ完全に浸透しているとは言えません。地元やファンとのつながりを深めるのか、それとも今まで通り親会社の広告媒体に甘んじるのか。今回のライオンズの球団名変更の動きは、これからのプロ野球のあり方を考える上でも重要な意味を持っているのではないでしょうか。
土曜日や日曜日にはよく図書館を利用します。そこで読みたい本を探したり、思いがけない本を見つけたりするのですが、借りる本と言えば、どうしても自分の関心のあること、つまり日本史、落語、映画、それにプロ野球についての本になってしまいます。

去年の暮れ、以前からどうしても読んでみたいと思っていた本を最寄りの図書館で借りました。
共に広島カープを取り上げた、「V1記念・広島東洋カープ球団史」(中国新聞社・昭和51年刊)と、「カープ50年・夢を追って」(同・平成11年刊)の2冊です。いずれもカープの歴史を知るにはうってつけの本です。

「V1記念・広島東洋カープ球団史」は、まだ初優勝の余韻が冷めやらぬ時に発行された本で、先ず表紙を開くと昭和50年10月20日に広島市平和大通りで行なわれた「優勝パレード」のカラー写真が掲載されていて、当時の松田耕平オーナー、鈴木龍二セ・リーグ会長の文章、50年の主力選手たちを紹介した写真の後、ジョー=ルーツ監督就任から優勝決定までの軌跡を追った「V1・炎の球跡」、球団結成から昭和50年までの出来事を写真と文章でまとめた球団史、各年度別の試合成績に個人成績などで構成されています。山本浩二、衣笠祥雄ら当時の主力選手たちの姿やチーム、ファンが一体となった熱狂ぶりが伝わる写真もさることながら、初優勝以前の波瀾万丈の歴史や、苦難の時代を支えてきた往年の選手たちの活躍を伝える写真にも引き込まれます。編集を担当した当時の中国新聞社事業局長の津田一男さんは、長年記者としてカープを取材しながら、野球解説者としても活動し、僕が幼い頃には、「われらがカープ」(テレビ新広島)という番組にも出演されていた方で、カープファンにとっては懐かしい人です。

「カープ50年・夢を追って」は、題名通り、カープの球団創立50年を記念して発行された本で、「選手列伝」「監督列伝」、それに長年カープを応援し支えてきた人たちを紹介した「われらカープ人」、そして年表・年度別試合成績・選手名鑑の「資料編」で構成されています。「選手列伝」では、初めに平成11年当時の現役選手が紹介されていますが、既に引退した選手、現在でも主力で活躍する選手、他球団へ移籍した選手と様々で、8年前とは言っても時間の長さを実感します。この後、各年代ごとに活躍した選手が紹介されていますが、「V1」メンバーや「赤ヘル」以降に活躍した選手たちよりも、それ以前に活躍した人たちのエピソードがより興味深いです。巻頭に文章を寄せている長谷川良平さんも含めて、初優勝を遂げるまでの苦難の時代を支えてきた選手やファンがいてくれたからこそ、その後の「赤ヘル黄金時代」もあった訳で、改めてその方々の労苦や貢献を知ることが出来る1冊です。

この2冊は、カープの歴史を知る上で貴重な本ですが、現在では広島以外で読むことは困難なようです。去年、マーティー=ブラウン監督が就任して以来、カープに久々に活気が戻って来たように感じます。苦難と栄光によって積み重ねられた50年余りに及ぶカープの歴史。その歴史にまた新しい栄光の1ページが刻まれることを願ってやみません。

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