万年寝太郎徒然日記

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『野良犬』とその時代

黒澤明監督が、平成10年9月6日に亡くなって12年。
今年は明治43年3月23日に生まれた黒澤監督の生誕百年でもあり、二つの意味で節目の年になります。

一般的に「黒澤映画」と言えば、『七人の侍』(昭和29年)や『用心棒』(昭和36年)に代表されるダイナミックな時代劇のイメージが強いと思われます。
しかし、終戦直後から『羅生門』(昭和25年)で国際的名声を得るまでの黒澤は、様々なテーマやジャンルに取り組みながら、当時の世相や人々の姿をリアルに映し出した映画監督でした。
日本映画に「刑事もの」というジャンルを確立し、その後のテレビの刑事ドラマにも多大な影響を与えた昭和24年公開の『野良犬』も、その中の1本です。

恐ろしいほど暑い夏のある日、警視庁捜査一課の新人刑事・村上(三船敏郎)は、射撃訓練の帰りのバスの中で弾丸7発が入ったコルトを盗まれます。スリ係の刑事の協力を得て、盗みに手を貸した女スリから「ピストル屋」の存在を聞き出した村上は、淀橋署のベテラン刑事・佐藤(志村喬)と組んで野球好きのピストル屋を後楽園球場で張り込みの末、逮捕。コルトが遊佐新二郎(木村功)という男の手に渡っているという供述を得ます。復員兵の遊佐は数日前に実家から姿を消しており、幼馴染のレビューの踊り子・並木ハルミ(淡路恵子)からは最近金回りが良く、彼女に言い寄っていたことを聞き出します。しかしこの間、村上のコルトを使った強盗傷害事件、続いて強盗殺人事件が発生。2人はハルミのアパートを訪ね、遊佐の居場所を尋ねますがなかなか口を開こうとしません。遊佐が殺人犯であり、兇器が自分のコルトであること、そして自らも遊佐と同じ復員兵であることをハルミに明かす村上。一方、ハルミの部屋にあったマッチを頼りに神田の簡易ホテルに向かった佐藤は、遊佐を突き止めて警察と村上に電話で連絡しますが、捜査の手が及んでいることを知った遊佐に撃たれてしまいます。病院で佐藤の容態を案ずる村上の前にハルミが訪れ、遊佐から朝6時に待っていると連絡があったことを告げます。事件解決とコルトを取り戻すため、村上は一人で待ち合わせの場所へと向かいます―。

サスペンス映画として評価が高く、今日のように冷房が発達していない時代の文字通りの「恐ろしい暑さ」が画面全体から伝わってくるこの作品は、戦争が終わってやっと4年が経ち、街や人々の間に漸く活気が戻って来た様子と、戦争が終わってまだ4年しか経っておらず、人々の生活も貧しく先も見えないという現実の、いわばこの時代の「明」と「暗」が明確に描き出された作品でもあります。事件を追う側である村上刑事と追われる側である犯人の遊佐が共に復員兵であり、また復員途中で同じ経験をした共通点を持っているという設定が、当時の時代背景を如実に示している上、そのまま2人の男の明暗が分かれたその後の生き方を際立たせているように思います。『野良犬』とは、事件とピストルを執念深く追う村上は勿論、世間からドロップアウトしてしまった遊佐のことも指しているのでしょう。
この映画で圧巻なのが、村上がピストルを捜し求めて東京の盛り場を歩き回るシーンと、最初の山場である後楽園球場のシーン。前者は本作の監督助手で、後に『ゴジラ』(昭和29年)を手がける本多猪四郎が担当したもので、黒澤も後にこのシーンの出来栄えを大いに認めたそうです。後者では、後楽園球場で実際に行なわれた巨人―南海戦が登場。『野良犬』が公開された昭和24年は、日本のプロ野球が1リーグだった最後の年で、特にこの年の巨人―南海戦は、最も注目を集め人気を呼んだカードでした。川上哲治、千葉茂、青田昇などの当時の人気選手の映像が見られる点でも貴重な作品です。

映画『野良犬』は、公開から60年以上経った今、歴史資料的価値の高い作品となっています。
黒澤明の時代と人間を見る眼の確かさの証と言えるでしょう。

昭和48年から49年にかけて、全5作品が作られた深作欣二監督の『仁義なき戦い』。
その第1作(昭和48年1月13日公開)のオープニングタイトルは、東映お馴染みの「三角マーク」に続いて、昭和20年8月6日、広島に投下された原爆による忌まわしいキノコ雲のモノクロ写真をバックに、殴り書きのようなタイトル文字が表われるというものです。

          http://www.youtube.com/watch?v=nb8VXy4Takc

この第1作のオープニングタイトルにも象徴されているように、『仁義なき戦い』という映画では、戦争が投げかけた暗い影も重要な要素となっています。
『仁義なき戦い』の物語は、終戦から1年後の昭和21年、「戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼る他はなかった」(オープニングナレーションより)頃の、広島県呉市から始まります。終戦後、復員兵である主人公・広能昌三(菅原文太)は、闇市で殺人事件を起こして服役。出所後、その度胸を見込んだ山守義雄(金子信雄)率いる山守組の子分となり、暴力の世界に身を投じることで自らの思いをぶつけようとするも、やがて20年以上に及ぶ「広島ヤクザ戦争」の渦中に飛び込むことになってしまいます。
ここで描かれているのは、戦争が終わって己の行き場を失った広能という男が、一つの大きな流れに流されるまま抜け出せず、もがき苦しむ姿であり、また舞台である呉という町が終戦までは海軍の一大拠点であり、それが戦後になると、今度は新しい「戦争」の舞台になるという点に、歴史の皮肉さを感じます。

第1作でも随所で見られた「戦争の影」が、物語の背景として更に色濃く描かれたと言えるのが、シリーズの中では「番外編」でありながら、「最高傑作」の呼び声も高い次作の『広島死闘篇』(昭和48年4月28日公開)。
この作品では、広島でのヤクザ抗争が激化する中、名うての「ヒットマン」として恐れられた山中正治(北大路欣也)という男が事実上の主人公として登場します。予科練志願の学徒だったが終戦で心のやり場を失ったこの男は、「国のために戦う」という思いを果たせなかった無念さを、「国」を「親分」や「組」に置き換えて晴らそうとしますが、結局利用された挙句、「国のために死ぬ」以上に無様な最期を遂げてしまいます。山中と恋仲になる組長の姪・靖子(梶芽衣子)は戦争未亡人で、その夫の遺影が映るシーンは、「国のために死んだ者」とそれが出来なかった山中との対照的な関係が象徴されているように思います。
シリーズ第4作まで手がけた脚本家の笠原和夫は、『広島死闘篇』の製作にあたり、自らと同世代で「戦争に行き遅れた青年」である山上光治という実在の人物に注目し、彼をモデルに山中正治というキャラクターを生み出します。一方、笠原とは3歳年下で昭和5年生まれの深作は、山中の宿敵となる武闘派ヤクザの大友勝利(千葉真一)に共鳴し、その捉え方の違いに「時代感覚のギャップ」を痛感したといいます。

『仁義なき戦い』では、『広島死闘篇』以降、原爆ドームが映って物語が終わるというスタイルが定着します。これは、以前から「ヤクザ映画には社会性が足りない」と考えていた撮影担当の吉田貞次カメラマンが、戦争の犠牲者とヤクザの犠牲者とを重ねる形で原爆ドームを撮ることを決めたそうです。
事実、広島の象徴であり、戦争の悲惨さの象徴でもある原爆ドームを映画の最後に出すことで、『仁義なき戦い』が何を訴えようとしているのかを表わすのに効果的な役割を果たしています。

『仁義なき戦い』と戦争との関係について書いてみましたが、ここまで書いて気付いたことは、国同士の戦争も、ヤクザ同士の争いも、「形」や「規模」は変わってもその実態には変わりはなく、また、巨大な力によって若者たちが操られ、その尊い命が犠牲になるという構図も全く同じであるということです。
シリーズ最終作となった『完結篇』(昭和49年6月29日公開)は、「人間の社会から弱肉強食の戦いが絶えるのは、果たしていつのことだろうか」というナレーションで締め括られ、全5作に渡った『仁義なき戦い』は幕を降ろします。
『仁義なき戦い』という映画は、単なるヤクザの争いを描いた作品に留まらず、戦争の悲惨さ、愚かさや平和の尊さを考えさせてくれる映画でもあると思います。

黒澤明と戦争

黒澤明の監督第1作『姿三四郎』が公開されたのは、昭和18年3月25日のことでした。
当時は既に戦争の真っ只中。黒澤もまた、この時代の荒波とは無縁ではありませんでした。

昭和11年、26歳という当時としては遅い年齢で映画界に入った黒澤は、助監督として日々撮影に追われながら、その合間を縫って脚本を書き続けて頭角を現わし、31歳の時、漸く監督昇進のチャンスが巡ってきます。
しかし、黒澤が監督デビューを果たすまでには紆余曲折がありました。最初の脚本は、当時のフィルムの配給制限で映画化を断念。続いて書いた2つの脚本も「米英的である」との理由で検閲で却下。更に日露戦争を舞台にした小説を脚色した所、「新人監督にはスケールが大き過ぎる」と映画化を見送られてしまいます。つまり、映画監督として出発する時点で、黒澤は戦時下という時代背景に泣かされたのです。
相次ぐ企画中止に気力を失いかけていた黒澤が目にしたのが、富田常雄の小説『姿三四郎』出版の広告。タイトルに惹かれた黒澤は、まだ世に出ていないこの本を「絶対に素敵な映画になる」と直感し、早速所属する東宝の幹部に映画化権を獲得するよう進言。その勘は当たり、映画『姿三四郎』は、娯楽に飢えていた観客や批評家達から熱狂的な支持を受け、大ヒットを記録します。

デビュー作で早くも才能を世に知らしめた黒澤。しかし、戦局が悪化の一途を辿る中で、当時映画フィルムを軍事物資として統制する権限を持っていた軍部は、映画会社に「戦意高揚」を前面に押し出す映画を作ることを要求し、黒澤も、海軍の情報部からゼロ戦を使った活劇映画を撮るようにと相談を受けたことがありました。海軍の戦力が衰え、ゼロ戦を映画で使う余裕がなくなったためにこの企画が立ち消えとなった後、黒澤が手がけた監督第2作が、昭和19年4月に公開された『一番美しく』。工場で軍事用レンズを作る勤労動員の女子挺身隊を描いた作品で、ダイナミックで男性的な作風が身上の黒澤にとっては珍しい女性映画です。撮影にあたって「その工場で実際に働いている少女の集団をドキュメントのように撮ってみたい」と考えた黒澤は、21人の若い女優達を実際に工場の寮に住まわせて作業を体験させるという、当時としては画期的な演出を試みます。「滅私奉公をテーマにしたこの作品は、こうでもしなければ、全くリアリティのない紙芝居になってしまうと考えてやっただけである」という黒澤の意図が実を結び、作業に勤しむ女子工員を演じる女優達のひたむきな表情は、時代を超えた現実感に溢れるものとしてスクリーンに映し出されました。
この映画には「後日談」があります。主役を演じた矢口陽子は、映画での役柄同様、若い女優達のリーダー的存在でしたが、『一番美しく』が公開された翌年に引退します。理由は、黒澤明と結婚するためでした。

昭和20年、デビュー作『姿三四郎』の好評を受けて撮影された『続・姿三四郎』を経て、黒澤は時代劇のスター・大河内傳次郎と、当時人気絶頂だった喜劇俳優の「エノケン」こと榎本健一主演で時代劇に取り組みます。当初「桶狭間の合戦」を舞台にした作品を作ろうとした所、ラストシーンで必要な馬が足りないという理由で断念。その代わりとして、当時能など日本の古典芸能に熱中していた黒澤が歌舞伎の『勧進帳』を基に一晩で脚本を書き上げたのが、大河内が弁慶、エノケンが独自のキャラクター・強力を演じたミュージカル・コメディ仕立ての『虎の尾を踏む男達』。戦争も末期となり、物資の不足など困難を極める中で撮影が続けられるうち、8月15日を迎え撮影は中断。しかし、数日で再開され、映画は無事完成します。
時代の激動を掻い潜り、黒澤が苦心の末に完成させたこの映画は、しかし、彼が最も嫌悪する内務省の検閲官との間で押し問答となった末に占領軍に提出する報告書から故意に除外され、所謂「非合法作品」となってしまいます。
映画『虎の尾を踏む男達』が漸く陽の目を見るのは、完成から7年後、GHQによる占領政策が終わった昭和27年4月のことでした。

暗い時代の中で映画監督としてのキャリアをスタートさせた黒澤明は、生前「戦争は嫌いだ!」と常々言い切り、また、戦時中厳しい検閲に晒されていたことを振り返る度に「怒りで身が震えた」といいます。
しかし、限られた状況下での映画作りの中で、「巨匠」としての片鱗を見せていたこともまた事実です。
昭和18年の監督デビューから終戦までの時期は、様々な点で「世界のクロサワ」の原点であったと言えるのかもしれません。

映画職人・田中徳三

僕が田中徳三という映画監督の名前を知ったのは、テレビでした。
まだテレビで時代劇が盛んに放送されていた昭和50年代、高橋英樹主演の『桃太郎侍』や「必殺」シリーズ、或いは朝や昼間に再放送されていた時代劇で、「監督・田中徳三」というテロップを頻繁に目にしました。
「徳三」という名前が何とも古風な感じで、またいかにも時代劇の監督という印象も持ち、いつの間にかその名前を覚えましたが、この人が往年の大映時代劇を代表する監督の1人であることを知ったのは、それからずっと後のことでした。

大正9年9月15日、大阪・船場の帯問屋の家に生まれた田中徳三は、関西学院大学文学部に進学しますが、戦争による繰り上げ卒業後、大阪の歩兵連隊に入隊し、スマトラ島で終戦を迎えます。終戦後、1年半の捕虜生活を経験して帰国。実家の帯問屋は既に倒産しており、仕事もせず無為な日々を送っていた時、大映京都撮影所で助監督を募集していることを知り、「冷やかし」のつもりで試験を受けたところが合格。こうして昭和23年、大映京都撮影所に入社し、映画人生のスタートを切ります。
大映京都撮影所に入社後、11年間の助監督生活を送りますが、実はその頃から映画界ではちょっとした「有名人」として名を馳せます。というのは、この人が助監督を務めた作品の中で、黒澤明監督の『羅生門』(昭和25年)、溝口健二監督の『雨月物語』(昭和28年)『山椒太夫』『近松物語』(共に昭和29年)、衣笠貞之助監督の『地獄門』(昭和28年)と、立て続けにベネチア・カンヌの映画祭でグランプリを受賞したことから、いつしか「グランプリ助監督」の異名を取ります。この他、市川崑、伊藤大輔、吉村公三郎などに助監督として付いた後、昭和33年、59分の中編時代劇映画『化け猫御用だ』で監督デビュー。当時既に大スターだった市川雷蔵がたまたま撮影現場を訪れ、「出るから、ワンシーン作ってくれ」とノーギャラで「内緒」で出演したところ、後日会社の試写会で撮影所長から「えらいことをやってくれたな」と怒られたといいます。もっとも、このデビュー作は結局そのままで上映されたそうです。

監督昇進後も助監督として契約しており、正式に監督として契約したのはオールスター作品の5作目『大江山酒天童子』(昭和35年)からでした。この頃、大映京都撮影所は時代劇映画のメッカとして最盛期を迎え、監督では田中の他に、先輩の森一生、安田公義、同世代の三隅研次、後輩の池広一夫、井上昭、カメラマンの宮川一夫、森田富士郎、美術の西岡善信など、才気溢れる優れた人材がスタッフとして揃っていました。そして、その屋台骨を支えていたのが「カツライス」と呼ばれた市川雷蔵、勝新太郎の2大スターで、2人のデビュー作『花の白虎隊』(昭和29年・田坂勝彦監督)で助監督を務めていた頃から公私共に親しい間柄だった田中は、当然ながらこの2人の主演作品の多くを手がけます。
勝新太郎作品では、先ず『悪名』(昭和36年)が挙げられます。勝新がそれまでの白塗りの二枚目のイメージから脱皮する転機となった作品であり、またコンビを組んだ田宮二郎がスターとして売り出すきっかけにもなったこの作品は以後シリーズ化され、全16作が作られ、このうち半分の8作を田中が監督しています。勝新最大の当たり役となった「座頭市」シリーズ(昭和37年〜平成元年)は、第3作『新・座頭市物語』、第4作『座頭市兇状旅』(共に昭和38年)、第13作『座頭市の歌が聞える』(昭和41年)の3作でメガホンをとり、座頭市というキャラクターの魅力をより引き出す役割を果たします。因みに、北野武作品の『座頭市』(平成15年)について、田中は「僕たちの作った座頭市はあんなものじゃなかった」と辛辣な感想を述べています。勝新・田村高廣のコンビによる「兵隊やくざ」シリーズ(昭和40年〜47年)は、第2作『続・兵隊やくざ』(昭和40年)以降、全9本のうち6本を手がけました。
一方、市川雷蔵作品では、彼の最大の当たり役となった「眠狂四郎」シリーズ(昭和38年〜44年)の第1作『眠狂四郎殺法帖』(昭和38年)を挙げなければなりません。実はこの作品は、田中が雷蔵のために自ら企画を考え映画化されたものでした。後に田中はインタビューで、「単なる『事件もの』になってしまい、失敗作だった」と語り、また雷蔵の当たり役になるとまでは思わなかったそうです。この後、田中が監督したのは第10作『眠狂四郎女地獄』(昭和43年)のみでしたが、「雷蔵の狂四郎」を世に出すきっかけを作ったことだけでも、日本映画界に大きな功績を残したと言っても過言ではないでしょう。

昭和40年代に入って日本映画界は衰退の道を歩み、大映も徐々に経営が悪化。昭和44年7月17日、市川雷蔵が37歳の若さで亡くなったことがそれに追い討ちをかけます。昭和46年11月29日、大映は従業員全員の解雇と事業整理を発表。12月21日、不渡りを出して倒産。田中をはじめとする大映京都撮影所の人たちにとっては突然の出来事で、所長は「大映はつぶれた。後はどうなるか分からん。まあ、頑張ってくれ」と言っただけでその場から去ってしまい、残った撮影所の人たちは皆怒ったそうです。
大映倒産後、田中はテレビ時代劇の世界に活動の場を移し、森一生、三隅研次、池広一夫など共に大映時代劇を支えた監督たちと共に、映画で培った手腕を存分に発揮します。
晩年は三重県名張市に移り住み、それがきっかけで映画館がなくなってしまったこの町に映画館を作ろうとする活動が始まり、田中徳三作品を紹介する映画祭も開催されました。

昨年12月20日、映画監督・田中徳三は87歳で世を去りました。吉本興業による短編映画制作プロジェクト「YOSHIMOTO DIRECTOR'S100」の1作『少年河内音頭取り物語』の中の劇中劇で、32年ぶりに映画作品を監督し、その完成披露上映会が開かれて間もなくのことでした。
決して「巨匠」ではなかったものの、日本映画黄金期を支えた、まさに「映画職人」でした。
いつも帽子を被り、2本の前歯の間にタバコを挟んでカメラのレンズに向かう。
映画ファンに留まらず、市川崑監督のイメージとして誰もが真っ先に思い浮かべるのは、撮影現場で「定番」だったこのスタイルではないでしょうか。

撮影現場でのスタイルがほぼ一定していた観があったのと対照的に、映画監督・市川崑の世界は広範囲に渡り、各年代ごとに新しい代表作や話題作を世に送り出し、しかもその創作意欲が衰えることはありませんでした。
それまでにない斬新な映像表現で、実験的な前衛映画で評判を取っていたフランスの詩人・ジャン・コクトーに引っ掛けて「コン・コクトー」のあだ名が付いたという、新進監督だった30代の昭和20年代。東宝を飛び出し、日活や大映を拠点に傑作から異色作まで量産した40代の昭和30年代。初のドキュメンタリー作品『東京オリンピック』(昭和40年)で大ヒットを記録し、「四騎の会」を旗揚げする一方で、時代劇『木枯し紋次郎』(昭和47年)でテレビにおいてもその才能を発揮した50代の昭和40年代。『犬神家の一族』(昭和51年)に始まる石坂浩二主演の「金田一耕助シリーズ」で新たなファンを開拓した60代の昭和50年代。そしてセルフリメイクを積極的に行なうなどコンスタントに映画を撮り続け、最後まで創作意欲を燃やし続けた70代から晩年にかけての昭和の末から平成の今日までと、半世紀を超える映画監督生活の中で、絶え間なく映画を撮り続け、『おとうと』(昭和35年)『細雪』(昭和58年)などの文芸作品から『四十七人の刺客』(平成6年)などの時代劇、ミステリーにコメディー、更に『ビルマの竪琴』(昭和31年・昭和60年)『野火』(昭和34年)に代表される「戦争」と「平和」をテーマにしたものやカルト的な作品まで、手がけたジャンルも多岐に渡りました。それが「作家としての主体性のなさ」と批判される要因にもなりましたが、どのジャンルの作品も独自の手法を取り入れながらそつなくこなした点で、日本映画史上でも稀有な監督であったと言えるでしょう。

作品のジャンルの幅広さは、主演した俳優・女優からも窺い知ることが出来ます。市川雷蔵主演の『炎上』(昭和33年)『ぼんち』(昭和35年)『破戒』(昭和37年)では、時代劇スターとしての地位を確立していた雷蔵の新たな演技の一面を引き出します。石原裕次郎主演の『太平洋ひとりぼっち』(昭和38年)は、「石原プロモーション」の第1回作品。こちらも裕次郎のこれまでと違う演技を引き出し、映画への情熱に燃えていた彼の思いに応える映画となりました。高倉健は『四十七人の刺客』で大石内蔵助役で主演。女優では、吉永小百合が『細雪』で初出演した後、『おはん』(昭和59年)『映画女優』(昭和62年)『つる―鶴―』(昭和63年)で主演。山口百恵の最後の映画となった『古都』(昭和55年)では、彼女の「映画女優」としての「有終の美」を飾ることに一役買う役目を果たしました。世代も違い、キャラクターもそれぞれ異なるこの5人のスターの主演映画を全て手がけたのも、多彩な作品を撮り続けたこの人ならではではないでしょうか。

どんな作品においても常に新しい映像のスタイルに挑み続けたことで「映像の魔術師」と呼ばれ、それが晩年まで衰えることのなかった旺盛な創作意欲と、いつまでも若々しいセンスの源にもなっていました。その才能は、「記録か芸術か」と物議を醸しながらも国際的評価を得た『東京オリンピック』や「金田一耕助シリーズ」5作品でも如何なく発揮されていますが、それらが培われたのは、この人の映画界での出発点が、現在の東宝の前身である「J・Oスタジオ発声漫画部」、つまりアニメーションの分野だったという、映画監督の中でも異色の経歴を持っていることとも決して無縁ではなかったと思われます。
映画監督・市川崑を語る上で決して忘れてはならない人物が、妻であり、映画作りにおける最大のパートナーでもあった脚本家の和田夏十(わだ・なっと)。市川監督がデビューした昭和23年に結婚後、「二人三脚」で映画を作り続け、市川崑作品を支えてきました。監督自身、「私が映画人として唯一出来たことは、『和田夏十』という脚本家を生み出したことだ」と語っていたそうです。和田夏十さんは昭和58年に亡くなりますが、その後も創作意欲が衰えるどころか寧ろ高まって行ったことからも、市川崑という人の映画への愛情と、決して「若さ」を失うことのなかった一面を垣間見ることが出来ます。

今年、平成20年は、市川崑監督にとって監督生活60年の節目の年でした。
一昨年、90歳で『犬神家の一族』を30年ぶりにセルフリメイクして健在ぶりを見せ付け、最近でも20〜30本の企画が挙がっていたそうです。
この2月13日、92歳で亡くなるまで映画ファンを魅了し続けてきた市川崑監督は、本当に偉大で物凄い映画人であったと思います。

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