万年寝太郎徒然日記

世のため人のためになることは一切書きません。

映画

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森田芳光監督、織田裕二主演で現在公開中の『椿三十郎』。
この映画の中で、出番は少ないながらも重要な役割を果たしているのが、藤田まこと扮する藩の城代家老・睦田という人物です。
自分が乗る馬が「丸顔」に見えるというほどの顔がトレードマークのこの人物を、昭和37年に公開された黒澤明監督、三船敏郎主演のオリジナル版で演じたのは、当時、日本映画を代表する「怪優」としてその名を知られた伊藤雄之助でした。

伊藤雄之助は、大正8年、帝国劇場の専属だった歌舞伎役者の初代澤村宗之助の次男として、東京・浅草に生まれました。兄の二代目澤村宗之助も映画俳優として活躍し、特に戦後、東映や大映の時代劇映画での名悪役として鳴らしました。関東大震災直後の大正12年、「澤村雄之助」の芸名で4歳8ヶ月で初舞台を踏みますが、その6日目に父が急逝。苦労の多い幼年期を過ごすことになります。教育熱心な母の意向で慶応義塾幼稚舎に入れられ、そのまま普通部へと進学しますが、1年の夏に母の病死により学業中断を余儀なくされ、「澤村兄弟プロダクション」を組織して芸能活動を再開。昭和9年の東京宝塚劇場開場をきっかけで創立した東宝劇団の一員となり、芸熱心さが次第に認められるようになります。昭和15年から18年まで兵役生活を送り、除隊後、第2次東宝劇団や移動演劇隊に参加するうちに終戦を迎えます。

子役時代にもいくつかの映画に出演していますが、伊藤雄之助が本格的に映画出演するようになるのは、戦後、昭和21年に東宝へ入社してからのことです。先ず市川崑監督に見い出され、中でも、新聞の4コマ風刺漫画を映画化した昭和28年公開の『プーサン』では主人公の気弱な教師を演じ、代表作の1つとなりました。この前年に公開された黒澤明監督の『生きる』では、胃ガンで余命わずかと宣告された志村喬演じる主人公と関わりを持つ小説家の役で出演。この2本の映画によって、伊藤雄之助の名は広く知られることになります。
この他の代表作には、渋谷実監督の『気違い部落』(昭和32年)、増村保造監督の『巨人と玩具』(昭和33年)、伊賀忍者の2大頭領・百地三太夫と藤林長門守を正真正銘「一人二役」で演じた山本薩夫監督、市川雷蔵主演の『忍びの者』、川島雄三監督の『しとやかな獣』(共に昭和37年)、自分の組を乗っ取った者たちに復讐を図るヤクザの親分役で主演した岡本喜八監督の『ああ爆弾』(昭和39年)、同じく岡本喜八監督で、「桜田門外の変」を題材にした『侍』(昭和40年)などがあり、現代劇・時代劇を問わず、アクの強い存在感を持つ個性派のバイプレーヤーとしての地位を築きます。とにかくこの人の場合、一度見たら忘れられない「馬面」だけでも十分インパクトがあったのに加えて、台詞回しやギョロリとした眼なども独特のもので、どんな役を演じても「怪演」という呼び方が相応しかったと言えます。

芝居に対する執念の凄まじさから「ゴテ雄」の異名を持ち、また気骨のある言動でも知られ、昭和43年に映画界の因習を批判したエッセイ「大根役者・初代文句ゆうの助」を発表。暫くの間映画界から干されたこともありました。同じ年、脳溢血で倒れ半身不随となりますが、懸命なリハビリの結果、奇跡的にカムバック。その後は、昭和47年公開の『子連れ狼・子貸し腕貸しつかまつる』(三隅研次監督)では柳生烈堂役で出演。昭和54年公開の『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督)では、皇居への突撃を企てるバスジャック犯を演じ、ここでも強烈な存在感を放っています。
テレビでは、映画でも『椿三十郎』などで共演の多かった三船敏郎主演の『大忠臣蔵』(昭和46年)の大野九郎兵衛、大河ドラマ『国盗り物語』(昭和48年)での、『忍びの者』を髣髴とさせた伊賀忍者・下柘植次郎左衛門、池波正太郎原作、高橋英樹主演の『編笠十兵衛』(昭和49年〜50年)の吉良上野介など、映画に劣らぬ存在感を見せ、また、昭和54年に始まった『西部警察』の第1・2話「無防備都市」(前・後編)では、東京の中心部を我がもの顔で走る装甲車を操る黒幕役で出演。「日本よ、目覚めよ!」と絶叫しながら装甲車もろとも爆死するという壮絶な最期を遂げ、これまた強烈な印象を残しました。

伊藤雄之助は昭和55年3月11日、心筋梗塞で亡くなります。享年61歳。最後の映画は、この年に公開された山下耕作監督の『戒厳令の夜』。因みに、『椿三十郎』で馬面の城代家老を演じた時はまだ42歳でした。
その強烈な個性と風貌で日本映画界に大きな足跡を残した、日本映画史上最強の「馬面」役者でした。

小津の言葉から

このブログでは、開設当初から小津安二郎監督と彼の作品について不定期に取り上げています。
小津映画の中でも最高傑作と言われる『東京物語』(昭和28年)の舞台が我が町尾道であること、そしてこの作品を通じて尾道という町を全国に知らしめ、また映画と尾道との関係を結び付けるきっかけを作ったことにおいて、小津監督の名前と功績は、決して忘れてはならないと思っています。

そんな小津監督は、生前映画に関して数々の味わい深い言葉を遺しています。それらの中からいくつかを拾ってみたいと思います。

「映画には文法がないのだと思う。これでなければならないという型はない。優れた映画が出てくれば、それが独特の文法を作ることになるのだから、映画は思いのままに撮ればいいのだ」
小津映画の特徴としてよく挙げられる、ローアングルで人物を見据える構図やゆったりとしたテンポで物語が進められて行くスタイルは、小津が映画監督としての歳月の中で作り上げていった、彼にとっての独特の「文法」であり、「型」であったのでしょう。助監督時代に小津の下に付いた経験のある今村昌平監督は、『小津安二郎新発見』(講談社)でのインタビューの中で、「小津映画の世界はあくまでも小津さんのもの」と語っていますが、ここで言う「世界」を「文法」と言い換えることも出来るかもしれません。今村監督自身も、小津の「文法」とは対極に位置する彼独自の「文法」や「型」を作り上げたことで、映画監督の地位を確立したと言えます。

「社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急過ぎるんじゃないか。僕のテーマは“ものの哀れ”という極めて日本的なもので、日本人を描いているからにはこれでいいと思う」
何をもってして映画で「社会性」というものが描かれていると言えるのかは、正直言って難しい問題ですが、これを「現実」や「世間」という意味で捉えるとしたら、小津の映画は彼の言葉通り人間や家族を通して「社会性」が描かれていて、年代順に観ていくと「社会」の移り変わりもよく分かります。勿論、小津がテーマとして掲げる「ものの哀れ」もきちんと描かれています。

「私は小道具や衣装にうるさいと言われる。しかし例えば、床の間の軸や置物が筋の通った品物と、所謂小道具のまがい物を持ち出したのとでは、私の気持ちが変わってくる。出演する俳優もそうだろう。また、人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」
小津に限らず、昔の監督は小道具や衣装などにもうるさく、また「ホンモノ」にこだわる人が多かったと聞きます。小津も戦後の作品では、専属の美術考証担当者(小津が「美術考選」という名称を考え、クレジットされた)を置いていました。小津の「うるささ」や「ホンモノ」に対するこだわりは、常に新しいものに対しては人一倍興味を持っていたにもかかわらず、戦前、映画が「サイレント」から「トーキー」へと移行する中で、コンビを組んでいた茂原英雄が独自のトーキーシステムを完成させるまでトーキー映画を撮らなかったことや、初のカラー作品『彼岸花』(昭和33年)を手掛けるにあたって、大好きだった赤い色を際立たせるため、赤の発色が綺麗なドイツのアグファ社のフィルムを採用したエピソードからも垣間見ることが出来ます。

「僕は『豆腐屋』だから豆腐しか作らない。同じ人間が、そんなに色々な映画を作れるものではない。何でも揃っているデパートの食堂で上手い料理が食べられないようなものだ。人には同じように見えても、僕自身は一つ一つに新しいものを表現して、新しい興味で作品に取りかかっている」
小津にとって晩年にあたる昭和30年代半ばになると、日本映画界では新進監督が続々と現われ、小津が所属する松竹大船撮影所からも、「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれる大島渚、吉田喜重、篠田正浩が台頭する一方で、小津の映画は「古臭い」と批判されるようになります。現在でも「小津安二郎の映画は内容が同じ」という意見を見聞きします。しかし今日、小津映画が国内だけでなく海外でも高い評価を得ているのは、家族や人生という、いつの世も変わらない普遍的なテーマを描き続けてきたからで、小津安二郎という人が、見た目は皆同じでもいつも上質の「豆腐」を一貫して作ってきた証と言えるのではないでしょうか。

小津安二郎監督が遺した言葉はこの他にも沢山ありますが、ここに挙げたものだけを見ても、彼の言葉がそのまま作品の中に反映されているように思います。

三島由紀夫と映画

作家・三島由紀夫が亡くなったのは、昭和45年11月25日のことでした。
東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地に立て籠もった末に自決するという、古今東西の文学者の死の中でも極めてセンセーショナルと言えるものでした。

三島由紀夫、本名・平岡公威(ひらおか・きみたけ)。
大正14年、高級官僚の家に生まれ、学習院高等科を首席で卒業後、東京帝国大学法学部に進学。昭和21年、21歳の時に小説『煙草』が川端康成に認められたのがきっかけで文壇に登場します。「三島由紀夫」というペンネームは、学習院中等科在学中の昭和16年に発表した小説『花ざかりの森』で初めて用いたそうです。大学卒業後、一旦は大蔵省銀行局に勤めるもののわずか9ヶ月で退職。以後、作家活動に専念し、『仮面の告白』『禁色』『金閣寺』『潮騒』、そして「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の4部作からなる『豊饒の海』などの作品を世に送り出し、世界的にも名声を得る一方、劇作家としても数々の戯曲を発表、そして民兵組織「楯の会」を結成するなど、その行動は多岐に渡り、常に世間の注目を浴び続けます。

若くして文学者としての地位を確立した三島は、映画とも深い関わりを持っていました。
先ず本業の作家としては、昭和28年の『夏子の冒険』(中村登監督)を皮切りに、小説・戯曲の多くが映画の原作となっています。代表的なものでは、『潮騒』が発表された直後の昭和29年に映画化された後、昭和39年、昭和46年、昭和50年、昭和61年と都合5回映画化されています。このうち、昭和39年の日活作品は吉永小百合・浜田光夫(森永健次郎監督)、昭和50年の東宝・ホリプロ作品は山口百恵・三浦友和(西河克己監督)のコンビによるものでした。『金閣寺』は、昭和33年、『炎上』のタイトルで市川崑監督、市川雷蔵主演で映画化。この作品が初めての現代劇だった雷蔵にとって、俳優としての転機となった作品でした。昭和51年にも高林陽一監督によって映画化されています。最近では、平成17年に『春の雪』が、行定勲監督、妻夫木聡・竹内結子主演で映画化されたのが記憶に新しい所です。戯曲では、江戸川乱歩の小説を劇化した『黒蜥蜴(くろとかげ)』が、昭和37年に京マチ子主演、昭和43年に丸山(美輪)明宏主演、深作欣二監督でそれぞれ映画化され、『鹿鳴館』も昭和61年、市川崑監督によって映画化されています。

三島由紀夫はまた、「映画俳優」としての足跡も残しています。
昭和35年、三島は、増村保造監督の大映映画『からっ風野郎』で、チンピラやくざに扮して主演した上、主題歌まで歌っています。実はこの作品自体は未見なのですが、主題歌は一度ラジオで耳にしたことがあって、その歌い方は明らかに石原裕次郎を意識している印象でした。因みにこの曲は作詞が三島、作曲は『楢山節考』の原作者で知られる深沢七郎だそうです。昭和43年には、先ほど紹介した丸山明宏主演の『黒蜥蜴』で剥製の役で特別出演。昭和44年の五社英雄監督『人斬り』では、幕末の薩摩藩士・田中新兵衛に扮し、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢と共演。この作品では、壮絶な切腹シーンも演じています。
三島の映画に対する並々ならぬ熱意の表われとも言える作品が、自らの短編小説を原作に、製作・監督・脚本・美術、そして主演を務めた『憂国』(昭和41年)。三島演じる主人公の青年将校が切腹するまでの過程を描いたこの映画は、三島の死後、夫人によってフィルムが焼却されたため、その映像は現存しないと長らく言われていましたが、平成17年8月、秘かに保存されていたネガフィルムが発見されたことで話題になりました。三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地で本当に割腹するのは、『憂国』を作ってから4年後のことです。

三島由紀夫と映画との関わりを振り返ってみると、この人の作家としての偉大さは勿論、その稀代の天才ぶりやパフォーマーとしての一面までが浮き彫りになるようで、非常に興味深いものがあります。三島にとって、映画とは小説以上に自己表現が出来た場だったのかもしれません。

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映画俳優・東野英治郎

平日夕方のテレビの再放送の「定番」と言えば、何といっても『水戸黄門』でしょう。
現在、広島では昭和50年3月から11月にかけて放送された「第6部」が再放送されています。当時の黄門様は東野英治郎。何といっても独特の笑い声が今でも忘れることが出来ません。

我々の世代にとって、東野英治郎と言えばやはり「黄門様」のイメージが強烈な印象として残っていますが、演劇人、そしてそれ以上に映画俳優としても超一流の人でした。
明治40年、現在の群馬県富岡市に生まれた東野英治郎は、明治大学卒業後、昭和6年に新築地劇団に入団し、俳優としての道を歩み始めます。戦前は、新築地劇団が昭和15年に解散するまで所属した後、戦争も佳境に入った昭和19年、小沢栄太郎、千田是也らと共に劇団俳優座の結成に参加。以後、俳優座の幹部俳優として劇団を引っ張り、新劇界の第一人者として活躍します。

新劇活動と並行する形で、昭和11年、PCL作品『兄いもうと』(木村荘十二監督)で映画初出演。当時は「本庄克二」という芸名を名乗っていました。戦前から戦時中にかけては、木下惠介監督のデビュー作『花咲く港』(昭和18年)、同じく木下監督の『陸軍』(昭和19年)などの映画に出演します。しかし、東野英治郎の映画出演が本格的になるのは、戦後になってからのこと。舞台で培われた演技力を買われたのは勿論ですが、それ以上に、「劇団の枠を越えて自由に芝居が出来る場」である俳優座劇場の建設資金作りや劇団運営を支えるため、映画に出演する必要に迫られたという事情もあったからで、「俳優座劇場の半分位は、東野英治郎と小沢栄太郎が建てたようなもの」と言われる程、無数の映画に出演しました。
東野英治郎が出演した映画のリストを観てみると、先に挙げた木下惠介をはじめ、黒澤明、小津安二郎、豊田四郎、内田吐夢(とむ)、山本薩夫、今井正、山田洋次…と、日本映画を代表する名匠たちを総なめにしており、特に昭和20年代後半から30年代にかけての映画俳優としての歩みは、そのまま日本映画の全盛時代と重ね合わせることが出来ます。

          http://www.jmdb.ne.jp/person/p0305490.htm

主な出演作品と役柄を年代順に挙げていくと、先ず、昭和28年には小津安二郎監督の最高傑作『東京物語』、翌昭和29年には、これも黒澤明監督の最高傑作である『七人の侍』に出演。前者では、主人公・平山周吉(笠智衆)の知人で、元・尾道の警察署長の沼田三平、後者では、後に侍たちのリーダーとなる勘兵衛(志村喬)に斬られる盗賊を演じています。「映画俳優・東野英治郎」のピークと思われる昭和36年から38年にかけては、先ず、昭和36年の『用心棒』(黒澤明監督)では、桑畑三十郎(三船敏郎)に協力する居酒屋の亭主・権爺役で出演。昭和37年には、浦山桐郎の監督デビュー作『キューポラのある街』で、ヒロイン・ジュン(吉永小百合)の父親で飲んだくれの鋳物職人・石黒辰五郎、小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』では、主人公・平山周平(笠智衆)らの旧制中学時代の恩師である「瓢箪先生」こと佐久間清太郎をそれぞれ演じ、この2作の演技が認められ、第17回毎日映画コンクール助演男優賞を受賞しています。昭和38年の『続・忍びの者』(山本薩夫監督)『新・忍びの者』(森一生監督)では、石川五右衛門(市川雷蔵)の仇敵で、憎々しい権力者である豊臣秀吉を演じました。昭和40年代の作品では、昭和41年の『白い巨塔』(山本薩夫監督)の東貞蔵教授、昭和44年の『続・男はつらいよ』(山田洋次監督)の寅さん(渥美清)の恩師・坪内散歩先生、昭和45年公開の日米合作映画『トラ!トラ!トラ!』の南雲忠一海軍中将などが、代表的なものと言えるでしょう。
これらの他にも、日活の石原裕次郎映画や、東宝のサラリーマンもの、クレージーキャッツの映画などにも出演し、昭和40年代後半以降は『水戸黄門』へ出演した関係もあって映画出演は減りましたが、昭和53年に『水戸黄門』(山内鉄也監督)は映画化され、これが東野英治郎にとって最初で最後の「主演映画」となりました。

生涯に300本を超える映画に出演し、それぞれの作品で役の大小を問わず圧倒的な存在感を見せ付けた東野英治郎。最後の出演映画は、平成2年に公開された伊丹十三監督の『あげまん』でした。
今年は東野英治郎の生誕100年にあたります。「東野英治郎映画祭」といった催しが実現しても面白いのではないかと思うのですが、如何でしょうか。

カメラマン・宮川一夫

当たり前のことですが、映画は映像というものがあって初めて成立するものです。
日本映画の長い歴史の中で、「名匠」と謳われる映画監督が輩出したのと同じく、多くの名作映画を生み出すことに貢献した優れたカメラマンがいました。
その中でも「別格」と言っても過言ではないのが、宮川一夫です。

宮川一夫、本名は宮川一雄。明治41年2月25日、京都市生まれ。小学校の同級生には、4日遅れで生まれ、後に映画監督となるマキノ雅弘がいました。
京都商業卒業後、大正15年5月15日、日活京都撮影所現像部に見習いとして入社とした宮川は、先ず現像処理の仕事に就いて現像のノウハウを学んだ後、昭和4年に撮影部に異動します。入社当時、京都市大将軍にあった日活京都撮影所は、宮川が撮影部に異動する前年に太秦に移転しており、後に大映京都撮影所になったのを経て、昭和46年までの40年以上に渡って宮川の「ホームグラウンド」となります。撮影助手時代の宮川は、1歳年下の映画監督・山中貞雄に目をかけられていたそうですが、山中はP・C・L(現在の東宝)へ移籍した後、昭和13年、中国へ従軍中に病死してしまったため、この2人によって映画が作られることはありませんでした。昭和10年、『お千代傘』(尾崎純監督)でカメラマンに昇進。戦前、戦中、そして戦後を通じて134本の映画の撮影を手がけ、日本映画界を支え続けました。
あだ名は「カー坊」。名前の「一夫」と、撮影現場ですぐに「カーッ」となることに引っ掛けて付けられたそうです。

60年以上の映画人生、50年以上のカメラマン生活の中で、日本映画を代表する名監督たちとコンビを組んだ宮川一夫は、「映画監督が『夫』であるなら、カメラマンは『女房』である」という持論を持っていたといいます。
宮川がコンビを組んだ監督とその作品を挙げていくと、先ず戦前にコンビを組んだ稲垣浩とは、自ら「出世作」と語った『出世太閤記』(昭和13年)を始め、『地獄の蟲(むし)』(昭和14年)『無法松の一生』(昭和18年)、戦後の『手をつなぐ子等』(昭和23年)など17本の作品を手がけ、「映画の全てを教わった」といいます。稲垣が東宝に移った後、大映の推薦でコンビを組んだ溝口健二とは、昭和26年の『お遊さま』から、『雨月物語』(昭和28年)『近松物語』(昭和29年)、そして遺作の『赤線地帯』(昭和31年)など8作を手がけています。
また、黒澤明とは、ベネチア映画祭グランプリを受賞した『羅生門』(昭和25年)と『用心棒』(昭和36年)でコンビを組んだ他、小津安二郎の唯一の大映作品『浮草』(昭和34年)、市川崑の『炎上』(昭和33年)『おとうと』(昭和35年)『東京オリンピック』(昭和40年)、昭和46年の大映倒産後にコンビを組んだ篠田正浩の『沈黙』(昭和46年)『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』(昭和52年)『瀬戸内少年野球団』(昭和59年)、それに宮川にとって最後の映画となった『舞姫』(平成元年)などの作品を担当。更に、勝新太郎主演の「悪名」「座頭市」シリーズを始めとする大映の「プログラム・ピクチャー」でも活躍しました。勝新によると、大映京都撮影所で挨拶に行かなければならない「雲上人」は、監督の溝口健二、俳優の長谷川一夫と大河内傳次郎、そして宮川一夫だったそうです。
カメラマンとしての優れた手腕はテレビの世界でも遺憾なく発揮され、中でも、昭和56年に放送されたサントリートリスウイスキーのCM「雨と子犬」は、カンヌ国際広告映画祭金賞を受賞しています。

宮川一夫が、日本映画を代表するカメラマンとしての地位を確立する原動力となったのは、その斬新なアイデアと卓越したカメラワークでした。『無法松の一生』の終盤で、主人公・富島松五郎(阪東妻三郎)が夢うつつの中で過去を振り返るシーンでの、走行する人力車や祭りの情景などが画面上に現れては消える映像は、現在のようにフィルム合成の技術が進歩していなかった当時、カメラからフィルムを取り出さず、「撮影→巻戻し→再撮影…」を繰り返す「多重露光」によって撮影したものでした。『雨月物語』の琵琶湖の幻想的なシーンの撮影では、セットにプールを作り、舟は動かさずカメラが動くという手法を取り入れ、「カメラが芝居がしている」と評されました。『おとうと』では、物語の舞台である大正時代の雰囲気をカラー作品で出すために、フィルムの発色部分の銀を残すことで水墨画的な淡い色調を出す「銀残し」の手法を完成させました。
こうした映像に対する探究心は晩年まで衰えることはなかったそうですが、「映像表現はメカがどう変わろうが、本質的には変わらない」が口癖だったそうです。

数々の日本映画の名作を世に送り出し、自らも多くの賞を受賞した宮川一夫は、平成11年8月7日、91歳で亡くなりました。
日本映画を支え続けてきたこの不世出のカメラマンは、来年、生誕100年を迎えます。

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