万年寝太郎徒然日記

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小津安二郎と「秋」

没後40年以上が経つ現在でも、日本は勿論、世界的にも名声を得る映画監督・小津安二郎。
最近でも彼に関する数々の評伝が出版されている他、昭和29年から脚本執筆のために毎年長期滞在していた長野県蓼科高原では、平成10年から「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」が開催されているなど、現在でも高い支持を誇っています。

日本映画がまだ「サイレント」の時代にあった昭和2年、時代劇映画『懺悔の刃』で監督デビューを果たして以来、54本の映画を世に送り出した小津ですが、彼の後期の作品を見ていくと、『麦秋』(昭和26年)、初のカラー作品『彼岸花』(昭和33年)、『秋日和』(昭和35年)、東宝で撮影した『小早川家の秋』(昭和36年)、そして遺作となった『秋刀魚の味』(昭和37年)と、作品のタイトルに「秋」という言葉が入っていたり、また秋を想起させる言葉が頻繁に使われていることに気付きます。このうち『麦秋』は、「初夏」を指す言葉を題名にしていますが、仮に『初夏』というタイトルだったら、作品の持つ雰囲気なども全く違うものとなっていたでしょう。

後期の小津作品のタイトルに「秋」という言葉が目立つ理由としては、先ず、各々の作品の上映当時の公開時期と関係していることが考えられます。『麦秋』は昭和26年10月3日、『彼岸花』は昭和33年9月7日、『秋日和』は昭和35年11月13日、『小早川家の秋』は昭和36年10月29日、『秋刀魚の味』は昭和37年11月18日と、いずれも9月から11月にかけての、いわば「秋」の季節に公開されています。また、戦後の小津映画の方向性を決定付けた『晩春』が昭和24年9月19日、戦時中却下されたシナリオを戦後改めて映画化した『お茶漬の味』が昭和27年10月1日、小津作品の最高傑作『東京物語』が昭和28年11月3日と、いずれも秋に公開されています。実際、小津独自のスタイルである、ローアングルで人物を見据える構図による映像やゆったりとした作風は、秋の雰囲気にピッタリと合うような気がしないでもありません。

しかし、それ以上に小津が自らの映画のタイトルを付ける上で「秋」という言葉に拘ったと思われる背景には、小津自身が人生の「秋」、つまりその後半から終わりへと差し掛かったことを意識し、「老い」や「死」というものをリアル且つ身近に感じるようになったことがあるのではないでしょうか。それを裏付けるように、後期の小津作品では「老い」や「死」というテーマが色濃く描かれています。いずれも娘の婚期を巡る人間模様を描いた『晩春』『麦秋』『秋日和』『秋刀魚の味』では、娘を嫁がせた後の父や母の姿を通して、「老い」と共に訪れる「寂しさ」や「孤独」といったものが表現されています。また、『東京物語』では、尾道から上京した老夫婦(笠智衆・東山千栄子)が帰郷して間もなく老妻が亡くなり、葬式で集まった子供たちが東京へ舞い戻った後、老父が寂しさを悟るラストシーンが印象的で、『小早川家の秋』では、老いても尚道楽が止められない造り酒屋の隠居(二代目中村鴈治郎)が、偶然再会した昔の愛人の家で呆気なく亡くなってしまいます。この他、『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』では、社会的地位のある初老の紳士達の交流が描かれ、これも自らが人生の「秋」に入ったことを自覚した小津の「老い」に対する意識の反映だったのではないでしょうか。

「家族」という極めて普遍的なテーマを描き続けた小津作品の中でも、特に後期の作品からユーモアと共に独特の「無常観」が感じられるように思うのは、他ならぬ小津自身の人生の「秋」に対する心情が、登場人物やテーマを通じて投影されているからかもしれません。
小津安二郎が亡くなったのは、『秋刀魚の味』が公開されて1年余りが過ぎ、ちょうど60歳を迎えた日でもある昭和38年12月12日のことでした。

『釣りバカ日』史

『男はつらいよ』の後の「国民的映画」として、今やすっかり定着した『釣りバカ日誌』。
ハマちゃんとスーさんのコンビがスクリーンに初めて登場して以来、20年近くが経っていると聞くと、正直「もうそんなになるのか!?」という驚きも隠せません。

『釣りバカ日誌』は、やまさき十三・作、北見けんいち・画による釣り漫画で、昭和54年に「ビッグコミックオリジナル」(小学館)で連載がスタート。映画としては、昭和63年12月24日、松竹系でシリーズ第1作(脚本・山田洋次・桃井章、監督・栗山富夫)が公開されました。この時の同時上映作品は、『男はつらいよ』シリーズ第40作『寅次郎サラダ記念日』。上映当時の世相を振り返ってみると、最大の出来事と言えば、何といってもこの作品が上映されていた最中に年号が「昭和」から「平成」に改元されたこと。映画『釣りバカ日誌』の歴史そのものが、時代の大きな転換期の中で始まったと言っても過言ではありません。
ストーリーを改めて書くと、万年ヒラのサラリーマン・浜崎伝助、通称「ハマちゃん」は、上司の佐々木課長に教わった釣りにすっかりハマり、今や自他共に認める「釣りバカ」に。ある日、ひょんなことから知り合った初老の男性「スーさん」を釣りに誘うが、このスーさんこそ誰あろう、ハマちゃんが勤める「鈴木建設」の社長・鈴木一之助だった―。こうして始まった2人の奇妙な友情を中心に、ハマちゃんと妻のみち子さんや息子の鯉太郎との家族愛や毎回巻き起こる珍騒動を、笑いと涙、それに全国各地の風景などを織り交ぜながら描くというのが、シリーズを通しての基本的なパターンです。

第1作が当時の「国民的映画」であり、また松竹にとっても「看板作品」であった『男はつらいよ』の同時上映作品だったため、それなりに力を入れた作品だったのかと言えば寧ろその逆で、あくまで「寅さんの“B面”」程度にしか扱われていませんでした。しかし、公開直後から評判を呼び、たちまち『男はつらいよ』と並ぶ人気作品となります。そして、『男はつらいよ』シリーズが、平成7年公開の第48作『寅次郎紅の花』を最後に、主演の渥美清の死去に伴って終了した後、平成8年8月公開の『釣りバカ日誌8』からは、それまでの「お正月映画」から夏公開の単独上映作品となり、松竹の新たな看板作品へと出世し、「国民的映画」としての地位も確立します。コミックを原作とした映画やテレビドラマは以前からも多くあり、現在では特にテレビドラマの分野で「主流」と化した感もありますが、『釣りバカ日誌』のヒットとシリーズ化も、そうした流れに多大な影響を与えているのかもしれません。

昭和63年の第1作公開以来、平成6年7月公開の第7作『釣りバカ日誌スペシャル』と、平成10年12月公開の『花のお江戸の釣りバカ日誌』の「番外編」2作を含めて、これまで19作が公開されましたが、同じ松竹作品で「国民的映画」でもある『男はつらいよ』シリーズとは異なり、レギュラー出演者の入れ替わりが意外と激しく、また監督、音楽も何度か交代しながら現在に至っています。
先ず、出演者ですが、ハマちゃん・西田敏行とスーさん・三國連太郎のコンビ以外で第1作から変わっていないのは、佐々木課長役の谷啓と前原運転手役の笹野高史くらいで、例えば、みち子さん役が第1作から第7作までが石田えり、第8作『釣りバカ日誌7』(平成6年)から現在の浅田美代子と代わっている他、「鈴木建設」の人々も同じ登場人物をそれぞれ別の役者が演じたり、また新たな人物が登場するなど、四半世紀余りに渡る歴史の中で殆ど不変だった「寅さん一家」とは対照的に、レギュラー陣があまり固定されていないのが大きな特徴です。監督も第1作から『花のお江戸の釣りバカ日誌』までは栗山富夫、第7作『釣りバカ日誌スペシャル』では森崎東、第13作『釣りバカ日誌イレブン』(平成12年)から第15作『ハマちゃん危機一髪!』(平成14年)までが本木克英、第16作『お遍路大パニック!』(平成15年)から現在まで朝原雄三がそれぞれ務め、音楽も特定の作曲家ではなく、久石譲、佐藤勝、かしぶち哲郎、岩代太郎、周防義和などの錚々たる人たちが手がけてきました。第14作『史上最大の有給休暇』(平成13年)からは、この作品にゲスト出演した青島幸男が作詞・作曲し、西田敏行が歌う「とりあえずは元気で行こうぜ」が主題歌として使用されています。

シリーズとしては丁度20作目、レギュラーとしては第18作となる『ハマちゃんスーさん瀬戸の約束』がこの9月8日から公開されています。今回の舞台は岡山県。本作でスーさんは代表取締役会長に就任します。
近年の「ゲストのエピソードにハマちゃんとスーさんが絡む」というスタイルから、「ハマちゃんとスーさんの活躍を中心に描く」というシリーズ当初のスタイルへの原点回帰がなされたという本作は、これまでにない強敵と言える国民的「HERO」を相手にする形での公開となりましたが、その「『HERO』の奥さん」が登場しているのも、この作品の見所の1つとなっています。
20年近くになる映画『釣りバカ日誌』の歴史。「いつまで続くのか?」などと余計なことは考えず、ハマちゃんとスーさんには、これからも「とりあえずは元気で」我々を楽しませて欲しいと思います。

映画監督・新藤兼人

映画監督・新藤兼人。
明治45年4月22日生まれ。95歳。
現役最年長にして、唯一の明治生まれの映画監督であり(新藤監督に次ぐ現役最年長の市川崑監督は大正4年生まれ)、現在でも脚本・監督の両面で精力的に活動する姿には、ただただ脱帽するばかりです。

広島県佐伯郡石内村、現在の広島市佐伯区五日市町の裕福な農家に生まれた新藤監督が、映画の世界に入ったのは、多額の借金が原因で一家が離散した後、尾道で警察官を務めていた兄の家に居候していた頃に見た山中貞雄監督の『盤嶽の一生』(昭和8年、サイレント作品)に感激したのがきっかけでした。1年半の臨時雇いで金を貯めた後、何の当てもないまま昭和9年に京都に出ます。新興キネマ現像部でのフィルム乾燥の雑役から映画人生をスタートさせた新藤監督は、目標とは遠い辛い水仕事を1年ほどしていた間、撮影所の便所の落とし紙から、映画がシナリオというものから出来ていることを初めて知ります。
新興キネマ現像部の東京移転に同行して美術部門に入り、美術助手をしながらシナリオを書き続け、昭和16年、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の「建築監督」として1年間京都に出向したのを機に溝口に師事。戦後の昭和22年、終生の盟友となる吉村公三郎監督と組んだ『安城家の舞踏会』(松竹)が大ヒットした上、キネマ旬報ベストテンでも1位を獲得、シナリオライターとしての地位を確立します。昭和26年には『愛妻物語』(大映)で監督デビュー。この年のキネマ旬報ベストテンで10位に入り、映画監督としての地位も築きます。

長い映画人生の中で、新藤監督は日本映画において異色の、そして特筆すべき功績を残しています。
真っ先に挙げられるのは、新藤監督は日本のいわゆる「インディペンデント映画」、つまり「自主制作映画」の先駆者であり第一人者であるということ。昭和25年、「新藤のシナリオは暗い」と映画会社からクレームをつけられたことをきっかけに、自らの作家性を貫くため新藤監督は松竹を退社し、吉村公三郎監督や俳優の殿山泰司らと独立プロダクション「近代映画協会」を設立。翌年には『愛妻物語』に主演し、後に妻となる乙羽信子が大映を退社して参加。日本映画の衰退で大手映画会社の経営が困難になる中、少ない製作費で自由な映画表現による優れた作品を次々と世に送り出します。戦後初めて原爆を直接取り上げた映画『原爆の子』(昭和27年)は、昭和28年のカンヌ映画祭に出品され、欧米では作品の内容や公開を巡って物議を醸しました。莫大な借金苦に陥った近代映画協会の「解散記念映画」として作られた『裸の島』(昭和35年)は、瀬戸内海の小さな島を舞台にそこに生きる一家の姿を全編セリフなしで描いた作品で、モスクワ国際映画祭でグランプリを獲得。新藤兼人の名が世界的に認められ、世界62ヶ国に作品の上映権を売ったことでそれまでの借金も完済しました。

人間の「生」や「性」をテーマにしたものや社会派作品、恩師・溝口健二の生涯に迫った作品などを監督として次々と発表しながら、自らの映画製作と並行して、「頼まれた仕事は断らない」を信条に、盟友の吉村公三郎をはじめ、木下惠介、川島雄三、増村保造、鈴木清順、深作欣二といった監督たちによる作品の脚本を多く手がけ、テレビドラマや舞台作品を含めてこれまで手がけた脚本は370本に及び、多くの賞を受賞しました。
そして、新藤監督を語る際に決して忘れてはならないことは、『原爆の子』以来、「原爆」や「核」というテーマに一貫して取り組んで来たことです。昭和29年、アメリカ・ビキニ環礁で行なわれた水爆実験の犠牲となった「第五福竜丸」とその船員たちの悲劇をドキュメンタリータッチで描いた『第五福竜丸』(昭和34年)や、昭和20年8月6日の広島への原爆投下の犠牲となった移動演劇隊「さくら隊」の人々が死に至るまでの経緯を描いた『さくら隊散る』(昭和63年)は、いずれもキネマ旬報ベストテンに入賞し、また、広島に原爆が投下された瞬間を描いた『ヒロシマ』という映画を作ることに、現在でも意欲を燃やしているそうです。

長年の映画製作での功績が認められた新藤兼人監督は、平成9年に文化功労者、平成12年には文化勲章を授与され、平成17年には、映画を通じて平和を訴え続けたことが認められ「谷本清平和賞」を受賞しました。平成8年には、日本の独立プロ50社によって組織された日本映画製作者協会が、その年度で最も優れた新人監督を協会所属のプロデューサーが選出する「新藤兼人賞」が創設され、現在まで続いています。
新藤監督が設立した近代映画協会は、一時は百近くあった独立プロのうち唯一成功して現在も存続しており、息子の新藤次郎氏は近代映画協会社長兼プロデューサーを務め、孫の新藤風さんは女流映画監督として活躍しています。
この秋から新作映画の撮影に入るという新藤兼人監督。映画への情熱はまだ衰えないようです。

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永遠の「若大将」

先日、石原裕次郎について書きましたが、裕次郎の次の世代の「慶応ボーイ」から、映画スターへと登りつめたのが加山雄三です。

父が戦前からの二枚目スター・上原謙、母が女優で後年美容体操の第一人者となった小桜葉子、母方の先祖が「五百円札」の顔でもあった、かの岩倉具視という、まさに「超サラブレッド」だった加山雄三は、昭和35年、慶応大学法学部を卒業後、東宝に入社。「加山雄三」という芸名の由来は、「加賀(百万石)・(富士)山・英雄・小林一三(東宝映画の設立者)」から一文字ずつ拝借したものだそうで、デビュー時点からスターとして期待されていたことが分かります。東宝入社の年、『男対男』(谷口千吉監督)でデビュー。『独立愚連隊西へ』(昭和35年)『暗黒街の弾痕』(昭和36年)などの岡本喜八作品で頭角を現しますが、加山雄三の名を知らしめたと同時に、彼にとって最大のヒット作となったのは、やはり昭和36年から始まった「若大将」シリーズでしょう。

「若大将」が初めてスクリーンに登場したのは、昭和36年7月に公開された『大学の若大将』。
若大将こと田沼雄一は、明治時代から続く老舗のすき焼き屋「田能久」の若旦那で、京南大学の学生で水泳部員。ハンサムで成績優秀、スポーツ万能。マドンナ・澄子(星由里子)をはじめ女性達からはいつも愛され、途中様々な紆余曲折を経て、最後は大学対抗戦の行なわれているプールに駆けつけて、見事優勝を飾るというのが大まかなストーリーになります。東宝のプロデューサーだった藤本真澄が、戦前の松竹蒲田作品を元に現代風にアレンジしたそうですが、「60年安保」以後、日本が高度経済成長の道を歩み始めた時代背景と、加山演じる若大将のキャラクターがマッチして、『銀座の若大将』『日本一の若大将』(昭和37年)『ハワイの若大将』(昭和38年)『海の若大将』『エレキの若大将』(昭和40年)『アルプスの若大将』(昭和41年)と続き、自らの歌謡ショーを収録した『日劇「加山雄三ショー」より・歌う若大将』(昭和41年)を加えて、昭和46年に公開された『若大将対青大将』まで、約10年間で計17作が作られました。この間、加山の実年齢が30歳を過ぎたため、『リオの若大将』(昭和43年)で若大将を卒業させることでシリーズを終了させる予定だったそうですが、「これだけのヒット作を終わらせるのは勿体無い」とのことで、東宝が得意としていた「サラリーマンもの」としてその後も続けられました。

主な登場人物は、若大将の他に、父・久太郎(有島一郎)、祖母・りき(飯田蝶子)、初代マドンナ・澄子に、2代目マドンナ・節子(酒井和歌子)、そして忘れちゃいけないのが、若大将のライバル・「青大将」こと石山新次郎(田中邦衛)。大企業の重役の息子で、毎回若大将の恋の邪魔をする彼は、最初は単なる「敵役」的存在だったのが、次第に人気を集め、シリーズに欠かせないキャラクターへと出世して行きました。
「若大将」シリーズには、荒唐無稽なシーンが多く見られました。中でも、「弾厚作」(だん・こうさく)のペンネームで作詞・作曲家としても活動する加山の代表曲である「君といつまでも」を、『エレキの若大将』の中で歌うシーンは、マドンナである澄子のために作った曲でありながら、まだ全部聴いたことがないはずの澄子が途中から一緒に歌い出し、後にギャグのネタにもなったことでも知られていますが、このシーンについては、「あり得ない展開だ」と主張する加山と「映画だからいいんだ」と言うスタッフとの間で意見が分かれ、結局加山が折れて撮影が行なわれたという経緯があったそうです。

「若大将」のキャラクターは、加山雄三にとっては大学の先輩であり、センセーショナルなデビューを果たした石原裕次郎が演じたキャラクターとも、また、同時代に一世を風靡した植木等の「無責任男」とも対照的であり、しかし高度成長という1つの時代を象徴していたと言えます。その一方で、「歌う映画スター」であった点では、加山雄三と石原裕次郎は共通しています。
加山雄三も今年で70歳。かつては実生活では波乱もあったそうですが、それでも「若大将」の頃と雰囲気が変わっていないのは凄いことで、まさに「永遠の若大将」と言うべきなんでしょう。

映画人裕次郎

昭和62年7月17日、俳優・石原裕次郎は52歳の若さで世を去りました。
今日は、それからちょうど20年という「節目」の日にあたります。
没後20年経った今でもその人気は衰えることなく、全く色褪せない存在感を保ち続けている裕次郎ですが、スターへ登りつめた時代と、本人が最も映画に情熱を燃やしていた時代とは、実は異なっていたのではないかと思われます。

石原裕次郎の映画デビューは、慶応大学法学部在学中の昭和31年。兄・石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」が日活で映画化されることになり、たまたま撮影所に行ったところを認められて端役として出演したことでした。当時としては際立った長身と都会的でやや不良っぽい雰囲気が注目を集め、同じ年、大学を中退して日活へ入社し、『狂った果実』(中平康監督)で早くも主演を果たします。以後、『乳母車』『陽のあたる坂道』(田坂具隆監督)『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督)『俺は待ってるぜ』(蔵原惟繕監督)などに主演し、一気に日活の看板スターとしての地位を確立します。当時の「裕次郎人気」の凄まじさを物語るものとして、東映のオールスター時代劇を超える収益をたった1人で上げたエピソードが残されています。このようにスターへの道を歩みながら、デビュー当時の裕次郎は「映画なんて男子一生の仕事じゃない」と嘯いていたそうです。

そんな裕次郎が、昭和38年1月16日に石原プロモーションを設立。本格的な映画製作にも乗り出します。前年、同じスター俳優である東宝の三船敏郎が三船プロダクションを設立。またこの後、大映の勝新太郎が勝プロダクションを、東映を退社した中村錦之助(萬屋錦之介)が中村プロダクションをそれぞれ設立し、石原プロはこれらのいわゆる「スター・プロ」の一角を占めることになります。
石原プロの映画第1作は、『太平洋ひとりぼっち』(昭和38年)。ヨットによる太平洋単独横断航海に成功した堀江謙一氏の体験記を映画化したもので、裕次郎自ら堀江青年役を演じ、監督は市川崑、脚本はその夫人である和田夏十、音楽は芥川也寸志と武満徹などの強力なスタッフによって作られ、芸術祭大賞を受賞するなど高い評価を得ました。

昭和39年秋、裕次郎は三船敏郎との共同記者会見で、突然「映画を作る」を発表。「夢の共演が実現か」と騒がれますが、裕次郎が所属する日活が許可をしなかったとされ、実現は困難を極めます。そんな中で、昭和41年秋、裕次郎と三船はそれぞれのプロダクションの共同制作で、木本正次原作「黒部の太陽」の映画化を発表。当時の国家的大事業であった富山県・黒部峡谷のダム建設を題材にしたこのドラマは、その壮大なスケールゆえに莫大な費用が予想され、大手映画会社が組んでも手が出せないと言われた上に、当時まだ映画界を厳然と支配していた「五社協定」も大きな壁となって立ちはだかり、裕次郎も一時は撮影を断念しかけたそうです。しかし、それにめげることなく撮影を決行。掘削作業での大出水シーンはあわや大惨事になる壮絶な撮影だったそうですが、無事撮影が終わり、昭和43年2月、映画『黒部の太陽』(熊井啓監督)は公開され、興行的にも成功を収めます。後年、「人生を振り返ってみれば、どれもこれも一生の思い出だけど、その中でも(やっぱりあのときは)、と、思うのは、やはり『黒部の太陽』だな」と語っていたそうで、裕次郎にとって最も情熱を注ぎ、また特別の思い入れのあった映画であったことが分かります。
その後、アフリカ・サファリラリーをテーマにした『栄光への5000キロ』(蔵原惟繕監督・昭和44年)や、さいとうたかおの劇画を映画化した時代劇『影狩り』(舛田利雄監督・昭和47年)など、裕次郎は石原プロ社長として映画製作に取り組み続けますが、映画業界の斜陽と重なり興行成績も振るわなくなって行きます。そして、昭和47年にスタートした『太陽にほえろ!』を皮切りに、裕次郎が活動の中心をテレビに移したことで、石原プロも次第に映画の世界から離れてしまいます。

昭和51年に公開された松竹映画『凍河』(斎藤耕一監督)で、石原裕次郎は久々に映画出演を果たしますが、図らずもこれが彼にとって最後の映画出演となりました。
「映画なんて男子一生の仕事じゃない」と言っていた時代を経て、「真の映画人」となった石原裕次郎でしたが、再び映画出演も映画製作に取り組むことも叶わぬまま52歳で旅立ったしまったことは、ファンは勿論、本人にとっても残念だったことでしょう。

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